「五体満足」という言葉がある。これは、「からだのどの部分にも欠け損じている部分がないこと」を意味する。
「五体」とは、主に頭・両手・両足もしくは頭・首・胸・手・足を指す。これを額面通りに受け取ってしまうと、マルヴィンは「五体」自体は失っておらず、ある意味で「五体満足」と呼べてしまう。
事実、作中でマルヴィンの家族は彼が「五体満足」で生還した、との報せを受けている。
実際には、唯一にして替えがきかない、大切なものを失っていたにもかかわらず、だ。
五体のいずれかを失い帰還した者達が英雄として扱われる一方で、マルヴィンがまるで「いないもの」であるかの如く扱われる様と併せて考えると、あまりにも皮肉がききすぎている。あまりにも残酷だ。
その残酷過ぎる仕打ちに対して、マルヴィンは恨みを募らせるでもなく、怒りをぶつけるでもなく、あるがままを受け入れた。
しかしながら、それは決して達観からくるものではない。彼が現状を受け入れるために諦めたものの大きさ、多さを考えると胸が苦しくなる。
「たった一つ」を奪われたことで、マルヴィンは実に多くのものを失ってしまった。
暗闇の中でうごめくだけの存在に自ら身を落とせざるを得なかった。
本作はそんな、あまりにも多くのものを奪われ、失ってしまった男の、人生という名の長い物語における一幕を描いた作品だ。
この短い、五千文字足らずの断片の中に、彼の失ってしまった今までと、彼がもがき苦しみ掴み取ろうとしているこれからを思わせる、実に様々なものが散りばめられている。
失い、欠けてしまったものは決して取り戻せない。
しかし、埋め合わせることは出来るかもしれない。互いに補い合うことも出来るかもしれない。
「どうか彼らの人生が、奪われるだけのものではありませんように」
そう願ってしまうほど感情移入させられてしまった。
相変わらずの筆者の力量に完敗。
第一次世界大戦が停戦にこぎつけたのが1918年11月。第二次世界大戦がドイツのポーランド侵攻で始まったのが1939年9月。これはその、たった21年しか続かなかった停戦状態の、一日に満たない時間の物語である。
だがその背景には長く苦しい時間がある。
顔を失ったマルヴィンを見守る社長のジェラルドも同僚の兵士である恋人を失っている。そしてバイオリンを弾くローラも(『ローラとバイオリン』という映画からの名前であろうか) 視力を失いつつある。
第一次世界大戦は世界で初めて化学兵器が使われた、大量虐殺の戦争でもある。開発・使用された毒ガスは塩素系で、目と喉をやられる。本作で書かれてはいないが、従軍看護婦だったローラもまた、海を渡っての看護活動の最中にガスによって目を傷めたのかもしれない。
三人とも、世界初の近代戦争によって、血肉の一部を失っている。
第一次世界大戦はそれまで騎馬隊による戦争だったものが、砲撃・銃撃戦に変った戦争である。
殺傷力の強い砲弾は、その破片で人の顔を吹っ飛ばし、四肢や体幹を破裂させる。
1995年4月に放映された「映像の世紀」第2集の『 大量殺戮の完成~塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た~ 』のラストシーンはまさに、顎から頬にかけて、顔の半分を骨ごと欠損した兵士が、職人が作った義顔を顔から外しながらカメラを見据えるカットである。
身体の一部を失った兵士のために、多くの彫刻家や技術者が駆り出されたという。
近代戦で失ったものを補うのは、ジェラルドの友情と戦場で逃げ回ったマルヴィンの健康な足と、17世紀には完成をみている古い形の楽器、ローラのバイオリンである。
束の間の、だが続いてほしかった一時の平和の、大人のスケッチ。