第三章
ロマの母親は何枚もの便箋に順番に目を通した。薄暗い玄関の電灯の下で、淡い花模様を透かした便箋が何度も擦り合わされる音を、ロマは自分が叱責される声のように息を詰めて聴いた。
「綺麗な字ね、」とやがて彼女は言った。「それにしても『まだお目にかからぬうちから―』って本当だわよ、見ず知らずの相手によくもまあこんな図々しい――」と言い、音を立てて便箋を二つに折り曲げた。
もう一つの封筒を破っていたリーザが歓声を上げた。
「すげえ、五万も入ってる」
「リーザ、寄越しなさい。子供がお金なんか触らなくていいの」
「ねえそれでお寿司取ろうよ」
「十日も他人ん家の子預かるのに五万じゃ割に合わないわよ」
「合わないかなあ、」とリーザが指を折った。「五万割る十って何、ニ?」
「一日五千円」と横でロマが言った。「五千円あったらいいじゃん、お年玉みたい」
「ねえだからお寿司取ろうよ」
「いいからあんたたちはもう寝なさい。――全く何考えてんのかしらねこの子の親は。こんな夜中に来られて、追い返す訳にもいかないし。親戚がいないだの何だの言うけど、赤の他人でもお金さえ渡せばいいと思われちゃたまんないわ。うちは託児所じゃないんだから」
最後の言葉はリーザに、多少の面当てのように感じられたらしかった。彼女は少しの間黙り、鋭い音を立てて階段を上がった。やがて部屋から号泣する声が響いてきた。
ロマの母親はため息を吐き、何やら呟きつつリビングの方へと行った。既に深夜零時に近かったが、彼女がどこかに電話をかける声が聴こえてきた。
玄関には、少年たち二人が取り残された。
ロマは、つくづくと少年の顔を見た。黒い豊かな髪をスカーフで覆い、藍色の衣装の上に黒い外套を重ね、人形のように精巧な顔をやや俯けている、それは紛れもなくフィービーだった。耳にはあの金色の耳飾りが、何事もなかったかのように戻っていた。服装は以前と変わらなかったが、顔に疲労の痕が痣のように浮かんでいる点が違っていた。ロマはフィービーが眠がっている以外に、何か病気に罹っているのではないか、と思った。
突然、フィービーが風呂敷包を抱えたまま、傘立ての方に倒れた。傘同士がぶつかって玄関の靴の上にたちまちに散らばった。
「お、」
ロマは反射的にフィービーを抱き抱えた後、何と言ったらいいのか分からず、彼の胴体をを抱きしめたまま口ごもった。
「おかえり」
そう口にして何やら急に恥ずかしくなったが、腕のなかに倒れている少年はまるで無反応だった。ロマはまたも、彼に言葉が通じないことを自分が忘れていたのを思い出した。寝息を立て出した彼を玄関へ引き上げようとした時、お香と煙草と灰神楽の立つ密室で発酵した、生活の匂いがロマの鼻先にむっと来た。
(こいつ家で寝る時どうしてるんだろう……)
ロマは不思議に思った。フィービーはロマの部屋で寝そべろうとせず、座り込んだまま突然倒れる、ということを数度繰り返した。ロマがちゃんと寝ろと注意して促しても、彼は倒れる前の姿勢に戻り、膝を立てて座るだけだった。
「いま布団敷いてやるから、お前そっち持て」
ロマが指図しても、彼は床に座り込んだまま動かず、目を離せばその姿勢のままで寝息を立てていた。
(もう寝てるみたいなもんじゃん。よくうちまで歩いて来たよ、外真っ暗なのに)
ロマには彼がこの調子で、零時に近い深夜の道を歩き通して来た、というのが信じられなかったが、同時に何やらフィービーにはありがちな奇跡にも思われた。
既に目を閉じている彼に向かい、ロマは箪笥から掘り起こした灰色のスウェットを投げつけた。フィービーは驚いた様子で、口をわずかに開いた。
「とりあえずそれ着とけ」とロマは言った。
「明日どうすんのか知らねえけど、今日はうちで寝るんだろ」
ロマはそう言い、フィービーのために毛布と掛布団を片側に寄せた敷布団を押し出した。フィービーは呆然としたまま、投げつけられた衣類の表面をただ撫でた。
「女の服がいいんなら明日リーザに言って貸してもらえ。今行ってもお前じゃ殺されるだけだぞ、とりあえず今日はもう寝ろ」
暗い廊下から、リーザの泣く声が響いて来た。彼はスウェットの端を掴んだまま、リーザ、という言葉が出た時だけわずかにそちらを向いた。
(こいつまだリーザとか、そのぐらいしか言葉分かってねえのかよ)
ロマはフィービーに近づき、その手を取った。かねてから決めた合図の通り、ロマは彼の親指、人差し指、と順番に握っていった。フィービーは途中から理解したしるしに、ロマの手を握り返してきた。
人差し指に来た時、フィービーはスカーフから髪を零してうなだれた。
「お母さんか」
とロマが付け足して言うと、フィービーは群れの少年に殴られた時のように涙をはらはらと零した。相変わらず嗚咽の声は細く、泣くな、と言うには余りにも微かで、掌に落ちた滴ばかりがじりじりと熱を伝えていた。彼のか細い嗚咽が途切れると、冷たい外気のようなリーザの嗚咽と、階下の母親の苛立った話し声とが吹き込んできた。
(フィービーだ、)とロマは俄かに家のなかに生じ出した混乱に、どこか彼が来た時ならではの懐かしい手触りがあるのを感じた。
(良かった、帰ってきた――)
フィービーの熱い頭を両腕で抱き抱えて、ロマは自分の所有物にするように優しく揺さぶった。
「電気一個だけ点ける?」
とロマは尋ねた。フィービーはまだ睫毛に涙の滴のかかった目をぼんやり開いて、少し先の空中を見ていた。ロマは天井から下がった紐を段階的に引いた。
真っ暗闇になって布団に横たわると、フィービーの方で激しく衣擦れの音がした。ロマは立ち上がって電灯を一つだけ点けた。仄暗い闇のなかで、フィービーがこちらを見て微かに笑みを浮かべているのが見えた。
「おやすみ」と言ってロマは目をつぶった。さっき見た彼の顔が、瞼の裏にちかちかとした光になって妙に気になった。乱暴に振る舞ってみても、ロマはやはり彼を少年として扱いきれないものを感じた。同じ作りをしていると分かっていても、彼の身体に触れるとどこか背筋に冷たいものが走った。同じ布団に入っているだけでも、氷山と接しているような怖さがあった。
衣擦れの音がした。見ると、フィービーが布団から両手を突き出して、手を開いたり閉じたりしていた。彼はまるで初めて見る物のように己の手を見つめていた。
「眠れないのか」
とロマが尋ねると、フィービーは目を上げてロマを見返した。ロマは背筋にふと冷たいものが走るのを感じ、フィービーに壁の方を向かせてその目を手で隠した。
「目えつぶってりゃすぐ朝になる、いいから寝ろ」
フィービーは一瞬身体を強張らせたようだったが、すぐに笑い声を立てた。それからロマの手を無理に剥がし、笑い、ロマが手で覆うとその手に爪を立てた。彼がそれを、一種の遊びとして認識したらしいことがロマには分かった。彼は内心、どうしたらこの小さな暴君が大人しく寝てくれるものかと思い、ふと己の見た光景のことを思い出した。
ロマは身体を起こし、さっさとパジャマを脱ぎだした。部屋のなかでもやはり裸になれば寒かった。改めてロマは、あの暖房さえなさそうだった部屋のなかで、彼らがどうして裸でいられるのかと不思議に思った。
フィービーはロマが自分の手から離れた後、不思議そうにその姿を見つめていた。そして身体を起こし、布団に座ったままロマを睨みつけた。彼はロマが脱いだパジャマを掴み、ロマの顔に向かって叩きつけた。ロマが驚いていると、彼の上半身に飛びつき、頭から強引にそれを着せた。首を抜いてロマがフィービーに「何で?」と尋ねた。
「何だよ、お前んち、寝る時みんな裸だろ」
ロマはふと鼻先に痛みを感じた。小鳥の羽搏きのような、軽い殴打が鼻をかすめた。フィービーは爪の先かどこかで、とっさに彼の顔を叩いたらしかった。
(全然痛くねえーし、……)
ロマは、フィービーが激しく怒ったらしいことを、冷たく向けられた背中から知ったが、その痛みからは彼の怒りの量を知ることは出来なかった。それほど彼の殴打は弱かった。ロマは、怒りで殴ることが出来ない少年というものを初めて見た。
布団にもぐると、フィービーの方に大幅に寄せてやっていた掛け布団が、さらに短くなった。フィービーは頭の上まですっかり布団をかぶり、今度はロマに対しても押し殺しているらしい嗚咽の気配が漏れてきた。ロマは足先や手先が出て寒かったが、彼の怒りに触らないように硬直したまま寝た。
〇
翌朝、ロマはそれまでのようにフィービーを連れて学校へ行った。彼を翌日も引き続き預かるのか、どうにかして追い返すのか、その結論はまだ女たちの間で定まっていないらしいことが、彼女たちの会話から伺えた。俯いているフィービーの顔を見て、ロマは庇おうと決めた。ロマは以前の通り学校へと連れ出し、今度は人目も憚らずに手を繋ごうとしたが、フィービーの方が俯いたままでつれなかった。
十字路のところに来ると、「じゃあな、」と言ってロマはいつもの三時の約束の手を握らせた。フィービーの指にはあの痛い指輪が嵌まっていた。まるで痣のようにはっきりと浮かんで見える疲労の痕跡のほか、装いに関しては、彼は以前と何も変わらないように思われた。
昼休み、ロマは窓の外を見て驚いた。彼が校門に辿りつく前に、他の少年が群れ集まっていて、イレズミ女、とか、真っ黒くろすけとか言いつつ、動かないフィービーを投石の的にして遊んでいた。
「てめえら、」とロマが叫んで駆け寄ると、彼らは卑猥に笑いながら散った。いつも三時の約束にも遅れてきた彼が、まだ正午過ぎだというのに、校門の隣の花壇の縁に座っていた。スカーフから髪が零れていて、どうやら石をぶつけられてもそこを動かずにいたらしかった。ロマが取った手は冷たかった。今朝十字路で別れてからずっと戸外にいたらしかった。
「フィービー、」とロマは手を握り締めて、相変わらず焦点がどこか見えにくい黒い瞳を見て叫んだ。
「お前どうしたんだよ、お前が行ってた――お前の学校は、どこ行っちゃったんだよ」
フィービーはロマの両手を頬に当てた。吹きつける風のなかに涙がはらはらと落ちた。戸外の光線に晒されると、涙の痕や疲労の痕跡がよりはっきりと浮かんで見えた。彼の顔は、今や美しさの釦をいくつも失くしているようだった。目の周りには暗い隈が出来、皮膚もどこか荒れていた。彼の顔は元々子供の目に異相に映るほど、嵩の高い美しさを持っていたが、今やその嵩はそのまま暗さになり、黒々とした不吉な印象ばかりが残った。
「病院、行くか」
ロマは彼が病気であると思い、宥めるように言った。彼が言うのと同時に、フィービーがロマの胴に抱きついた。ロマはフィービーが何に同意して、何をなお拒んでいるのか、強く抱きついてくるその力から必死に汲み取ろうとしたが、分からずに押し返すように抱き返した。
「お母さんが入院したらしいのよね、この子」
夕飯の席で、ロマの母親がまるでフィービーがそこにいないかのように平然と言った。どうやら女たちはロマよりも多く彼に話しかけていたらしく、フィービーにどれだけ言葉が通じないか、ロマが言わないうちからよく呑み込んで、彼女たちなりに見切りをつけているらしかった。
「そんで」とリーザが言った。彼女が身動きすると金髪が揺れるのと同時に、鍋から立ち上る湯気が揺れた。
「出てくるまでうちで面倒みろってこと」
「そう」
「凄いね、会ったこともないってのに」
そう言いつつ彼女は取り皿をフィービーの方にも分けた。フィービーは無抵抗にその薄水色の取り皿を受け取った。
「お金だけもらって面倒みろと言われてもねえ」
「返せば? はいフィービーちゃん自分で取りな」
と言い、リーザは大きなれんげをフィービーの方に向かって差し出した。フィービーはまたも無抵抗に受け取り、それをどうしたものかと持ったまま硬直していた。ロマがみかねて取り上げようとすると、
「自分でやらせなさいよ、しばらくここにいるんだから」とリーザが遮った。
「でもお金、返しちゃったら、お寿司食べられないかあ、ていうかおでんとお寿司とじゃえらい違い」
ロマは器にはんぺんとちくわぶを取り、それを鋭くフィービーの方へと押しやった。それから自分で「俺玉子もらう」と言いながらさらに自分の器へとよそった。
「文句がある人は食べなくていいのよ」
「別に文句言ってるわけじゃないです、でもおでんよりお菓子とかお寿司とかのがいいじゃん、ねえフィービーちゃんそうだよねえ」
「言うなよそういうこと、こいつ分かんねーんだから」
リーザの筋肉の張った脛が、テーブルの下でロマの脛を蹴った。ロマは彼女を蹴り返した。
「痛ったいな、何すんだよクソガキ」
「てめえが先にやったんだろババア」
「『頼みとなる親類も知人もいないこの地へ移り、働きながら女手一つで育てて参りましたが』って。お母さんはこっちの言葉が達者なようだけど、それでいてこの子だけこんなに喋れないものかしらね」
「お母さんてこっちの人?」
「さあ、何とも書いてない、頼れる親戚はいないそうだけど」
と、ロマの母親はエプロンのポケットに突っ込んでいたらしいフィービーの親かららしい手紙を、濡れた手で取り上げた。便箋の花柄の模様が食卓の蛍光灯によって透けるのを、ロマは何やら痛ましい気持ちで見た。
ロマはテーブルの下でそっとフィービーの人差し指を握った。フィービーは応じるように握り返してきた。
「でもこれだけ言葉が達者なら、外国様っていうことはなさそうねえ」
「ふうんじゃ、この子ハーフなのかな」
とリーザは新たな興味を起こした顔でフィービーの顔を見た。ロマはテーブルの下で今度は素早く親指を握った。
「ねえフィービーちゃん、あんたのお父さんの目が黒いの? お母さんはこっちの人? 私みたいに金髪で青い目をしている?」
リーザは何やら挑発するように、自分の長い髪をフィービーに向けて掴んで見せた。ロマの手を握っているフィービーの指からは、何の動揺の波紋も感じられなかった。
「分かんないか、駄目だね相変わらず、全然すっかり」
「片方がこっちの人で、こんな黒い目になるもんかしら」
「全部お父さんの方の血が行ったんじゃないの? それか黒い目の人と結婚すると、みんな黒い目に染まっちゃうとか。ありえるよ、こんだけ目が黒いんだもの。本当お人形の目みたいに、染めたみたいに真っ黒」
リーザはそう言い、自分の器から黒いこんにゃくを取り出して、ロマの卵と替えた。
「はあ、勝手に取ってくんじゃねーよ」
「あんた、こんにゃく好きでしょ、私こんにゃくってそんなに好きじゃないの」
「だからって何でやんないといけねーんだよ、返せ」
「食べないの、ほんじゃ一晩五千円の子にあげなよ、その子のお金で食べられてるんだから」
彼らは違った感情をもって共にフィービーの方を見た。彼は器に盛られたはんぺんやちくわぶも、食べ物とみなしていないかのように手を付けずにいた。
「食べるか」
ロマはどこか縋るような声で言った。単に優しく話そうとしたつもりだったが、彼自身驚くほど弱気な声になった。「私がその子虐めてるみたいじゃん」とリーザがその声の違いに反応した。
フィービーはロマの器から来た黒いこんにゃくをじっと見つめた。それから箸をまばらに掴んだ。
「フォークあげようか、お嬢さん」
「いいよ、自分でやらせてみて」
と、リーザがロマの母親を遮って言った。
フィービーは手のなかで箸を反転させ、右手に掴み直すと、器用にその先端で器のなかのこんにゃくを切った。一体どうやっているのかとロマが目を瞠るほど、フィービーは器用に箸の先に力を集中させ、切れ目も鮮やかな五つの黒い肉片を作った。
彼は微かに口を開き、それらを咀嚼する音もなく飲み下した。それから箸を揃えて皿の縁に置いた。箸のわずかな先しか濡れていないのをロマは見た。
「やっぱりさあ、」とリーザが口を切った。「お母さんがこっちの人なんじゃないの、この子」
「食べ物はこっちの物を食べさせてたのかもしれないわね、『いただきます』でも『ごちそうさま』でもないけど」
ロマは自分が目撃した、あの火の気のない灰皿のような部屋のことを思い出した。そこには見られることを構わない雄の裸体と、荒廃した生活の吸殻しかなく、女の気配がどこにもないことは、女の巣で育てられたロマにはむしろはっきりと分かった。ロマはフィービーの母親が書いたらしい手紙とも、女たちの会話とも、目の前で見たフィービーの食事の仕方とも、自分が目撃した光景が合わないことに多少の動揺を感じた。
ふとテーブルの下で、箸を手放したフィービーの手がロマの手に触れた。まるで落とした箸を拾うような手つきで、彼はロマの小指を探り当て、待ち合わせをする時の形で指を絡めて強く引いた。
「あんたたち、お風呂」とリーザがロマの部屋の入口で顔をのぞかせて言った。
「おいフィービー、風呂行くぞ」
「馬鹿、また銭湯行くことないでしょ、うちにいるんだから、うちの入ればいいじゃん」
そう言ってリーザは部屋の隅にいたフィービーの肩を掴んで揺さぶった。
「ねえフィービーちゃん、お姉ちゃんと一緒にお風呂入ろうか」
ロマはフィービーの睫毛に霜が降りるのを見た。
「リーザ、そいつ駄目なんだ」と、ロマは咄嗟に言った。「『一人で入りたい』って言うから……」
「何よ、子供三人でバラバラに入ることないでしょ。水道やガス代かかるんだから、おばさんに『協力して』って言われてんの。まとまって入ればいいじゃん、この子と私で」
「じゃ俺が行くよ」
「正気で言ってんの、あんたでいい訳ないでしょ。まさかこの子が何も分かんないからって、銭湯でも連れてってないでしょうね」
「じゃ俺がリーザと入ればいいだろ」
リーザは驚き、フィービーの肩を掴んだまま俯いた。それから苦しそうに笑いながら顔を上げた。
「ロマ、あんたさあ、毛え生えた?」
「毛え?」
ロマは自分が言ったことを呑み込むのに精一杯で、リーザの示唆することまで理解しかねた。
「毛え生えたかどうか見てやるよ」
階下からロマの母親の早くして、という声が響いた。リーザの明るい「今行く」という声が響き渡った。
やがてロマの部屋に、風呂から出たフィービーが戻ってきた。彼は銭湯に行った時と同様、濡れた髪を乾かさずにバスタオルで覆っていた。彼は床に座っているロマの背に飛びつき、全身でもたれかかった。ロマのパジャマの背から、フィービーの髪の水滴が浸透してきた。
「リーザに言ってドライヤー貸してもらえよ」
彼はリーザ、という言葉は分かるはずだったが、何も言わずに背後で首を竦めた気配がした。ロマは腰にしがみついているフィービーの腕にそっと手を重ねた。
「あいつ、毛え生えてた」
実のところ、ロマは自分が目撃したものに対する衝撃を消化できず、フィービーが戻ってくるまで独りで赤い残像と戦っていた。
「なんか、母さんみたいな身体になってた。気持ち悪い、あいつも女だったんだ、こないだまで別に普通だったのに……」
気づくと、フィービーが背後から離れて目の前に座っていた。彼は何かを発見して喜んでいるような表情で、ロマの顔を覗き込んでいた。
「あ、お前絶対に言うなよ、俺が女と風呂入ったって、フォマとかセリョージャとか、他の奴らに絶対言うなよ、俺絶対変態扱いされてあいつらに殺される」
フィービーはロマの顔に触れると、唇にそっと接吻した。彼の唇が離れた後で、ロマは、フィービーが自分の言葉を理解しておらず、また他人とも話しようがないことをようやく思い出した。
「そっか、お前誰とも喋ってねえや、俺の言うことも」
通じてないもんな、と言いかけてロマは口をつぐんだ。これだけ接していて、涙を見るほどに親しく触れ合っていても、挨拶のように簡単な言葉さえ通じていないというのはどういうことだろう。ロマはふと、目の前の少年に対して自分が独りで喋っていることを思い、寂しくなった。フィービーは何か語りかけるように目を見開き、ロマの手を掴んだ。そしてロマに借りたスウェットのズボンのなかへと、その手を無理に押し込んだ。彼が下着のなかに手を引き入れようとしていることに途中でロマは気づいた。
「いいよ、いいってば、お前、もう分かったから」
ロマは、時々フィービーが過剰なほどに、ロマの言うことを理解しているふりをすることを知っていた。この時は恐らくロマの言う「毛え」の意味を分かっていて、それがあることに衝撃を受けているロマに対し、慰めるようなつもりで自分に触れさせようとしているらしかった。
やがて引き入れられた手が、フィービーの男性器に触れた。それはただの滑らかな皮膚の続きだった。そこまではロマは銭湯で見て知っていたが、目の前にある少女の顔との違いから、改めて眩暈にも似た衝撃を感じた。フィービーは微笑んでロマに対し、自分に触れさせている手をさらに奥へと引っ張った。
ロマの手に、石の表面らしい冷たい手触りが来た。
ロマはふと、彼ら黒い目の人々について言われていることどもを思い出した。イレズミ女、と言われていたこと、舌が二股に分かれていると言われていたこと。またロマの心に最も深く突き刺さり、あるいは好奇心をそそられたのは、「彼らは裂傷に宝石を埋め込んでいる」という噂だった。
『兄貴の友達が見たって言ってた』
と、ロマは何人もの少年の友達から聞いた。彼は友達が、兄の友達から聞いたという話は、ただの少年たちの共有する夢であって、現実ではないことをいくつもの例から知っていて、最初からそれを夢として聞いた。
『何でそんなことすんだよ』
『痛いじゃん』
『だからだよ』とその少年は言った。『喧嘩して傷が出来たら、血い止めるのに石入れるんだって。それもダイヤとかのきらきらしたやつ。そうやって硬い石で止めて、そのまんまほっとく。だから身体にでかい石が入ってる奴ほど喧嘩慣れしてて、強いってこと』
『じゃ石入ってるやつと喧嘩したらヤバいんだな』
『チキンかよ、上等じゃん、そういう奴ころせばいいんだ』
『やられたら、お前も石入れられるんじゃねえの、ぐりって』
『げええ、俺黒い目になんの、嫌だ』
ロマは聴きながら、彼の愛する友達にそれらが何ら当てはまらないことを楽しんでいた。彼の身体に刺青がないことは見て明らかだったし、あれほど力のない少年がそれほど野蛮な風習に関わっているとは想像できなかった。
しかし、フィービーは平気で耳飾りの針を突き刺し、当然のように血を流させた。ロマがそれを撥ねつけると、不当な扱いを受けた女のように轟々と泣いた。ロマはそれを、フィービーが勇猛な兵隊だからではなく、女のようであるせいだと考えた。女は女で、化粧をするのと同時にそれに伴う苦痛をも習慣のなかに取り込んでしまう厚い肉体を持っている。
だが、フィービーの裸体はやはり男のものだった。それも不思議なことに、同世代の少年の群れでは動物並みの低い地位しかもらえない彼が、彼らの恐れる大人の雄を相手にすると、大人の方を動物にしてしまうような逆転が起こるらしかった。あの荒涼とした部屋のなかで、確かに大人の雄が彼に縋りついているのをロマは見た。またあの雄のようになれば、あるいはフィービーを宥めうるかもしれないと思っても、同じ格好をすることもフィービーは許していないらしく、あれは彼が許可をした雄にだけ与えられた立場らしかった。
フィービーが時折発揮する、群れの上位の少年が下位の少年に立場を教える時にする鋭い目つき、彼はそれを確かに持っていたが、どのようにしてそれを会得したのか、ロマには彼が勝つ群れが見えないだけに分からなかった。ただロマ自身が、あの目に見つめられると縛られたように動けなくなることを知っているだけだった。
今、ロマの手のなかには、少年たちの噂にあった「勇猛な強い雄」だけが持つという宝石の手応えが厳然としてあった。それはロマが夢に見た、フィービーの密かな力の外殻だった。
(見つからない、はずだ)とも思った。それは位置としては男性器のさらに奥で、尻との中間ぐらいにあった。銭湯でも浴場の椅子に接していて見えないところだったから、そこに傷があったとしたら、フィービーが隠していなくともロマが見たことがないのは仕方のないことに思われた。
ロマは自分が夢見た物に触れようと、そっと手をずらした。指先にふと、違う金属の感触が来た。ロマの指先に、すぽりと何かが嵌まった。たちまちロマの想像が現実と取り換えられた。ロマの肩に手を置いていたフィービーが、ロマの理解を見下ろして微笑んだ。それはフィービーが指から外したエメラルドの指輪だった。彼はそれを下着のなかに入れ、ロマに先ほどから触れさせていただけだった。言葉の分からない彼が、自分に関する根も葉もない噂のことを知っていたのかどうか、ロマにも想像がつかなかったが、彼はロマの見たがっていたものを一瞬そこに現出させた。
「あははは」と、フィービーはロマが驚くほど、他の少年と同じ発音で笑った。その笑い声は、実際にはロマの口のなかで起こった。彼はロマの肩を掴んで接吻し、口をわずかに開けさせた後、そのなかに自分の笑いを捻じ込むようにして笑ったのだった。それからロマは、己の口のなかで、彼の舌が冷たくて少しざらざらしていること、こんにゃくよりも硬いこと、ずっと舐めていると少し苦いこと、それから二股に分かれていないことを続けて教えられた。
〇
翌日も、彼らは学校に行った。
しかしもはや、手を繋いで歩いたりしなかった。それは今や、彼らの目的にとって妨げにもなりえることだった。初め、下校の道でフィービーがわざとロマの手を取り、周りに見せつけるようにして歩いた時と違い、彼らは親しさを自分たちや他人に向かって証明する必要がなくなった。彼ら同士が親密であることは疑いようもなかったし、また他人の前では彼らに芽生えた親しさは隠しておいた方が都合が良かった。
彼らは十字路で待ち合わせる他、公園の公衆トイレでも落ち合った。
他人の目を気にしなくて済む、そこは彼らの恰好の秘密基地だった。個室のドアを叩く合図を二人で決めたのが、この遊びのなかの唯一に近い子供らしさだった。彼らは秘密を共有する楽しみと、この遊びだけがもたらす特別な昂奮とを分かち合った。
ロマはフィービーが何の遊び方も知らないと思っていたが、それは逆で、フィービーは彼の知らない遊び方を沢山知っていたのだが、ロマにはそれが出来ないと思って教えていないだけだった。生活のどこかで、彼はフィービーの試験に合格し、「彼の棲む群れ」の遊びに引き入れてもらえることになった。
また、ロマはフィービーに友達がいないと思っていたが、これも間違いで、彼自身は遊び仲間を何人か持っていた。しかし彼の属する一族の移動ばかりの生活のためか、彼が友達とするのは同世代の他の種族の子供ではなく、一族のなかの年長の男ばかりであるらしかった。フィービーはロマに、彼が大人の友達と遊ぶ時のやり方を教えてくれた。女の巣で女の方法で育てられたロマには、雄同士で作られたらしいその遊びがとても新鮮に見え、またそれが酷い苦痛や流血を伴うものであることも気に入った。初め、女のように弱いと思われたフィービーは、実際にはかなりの苦痛に耐えられることが分かった。またそれが女のように着飾る過程で鈍感になってしまったのではなく、危険な遊びを繰り返すなかで耐える手段を模索した結果であるらしいことが、ロマには自分の勇敢さであるかのように嬉しかった。
彼はこの可愛い英雄の正式な家来にしてもらったことを光栄に感じた。そして家来になると、女の言い方で言うと――「彼を虐める」ことをしなくてはならないことに、多少の戸惑いと、目も眩むような魅力を感じた。
フィービーはトイレの個室のなかで、自分の服をまくってそれを説明した。これを分かち合うのに、彼らの間で共有する言語は要らず、ただ少年の間にある度胸試しの方法を説明する時のように、既に痛みや恐怖を克服した者が、その拷問を実演してみせるだけで事足りた。
ロマはその傷口を見た。それは確かに、彼の掴んでいる言葉が触れていない領域に所属するものだった。彼はリーザの膨らんだ、熟れかかった、毛の生えた肉体を見て戦いたが、彼自身の持つ肉体とそれが属する世界では、全ての物はまだ青い未熟さの内にあって閉じているはずだった。しかし彼が今目の前に見せられた、同じ年頃の少年の持っている裂け目は、既に未熟さを失い、女が装飾品を通す部分のように割れていて、成熟して不貞腐れてすらいるようで、閉じることを諦めた位置で小康を保っていた。
「これ、治るのか」
と、ロマは指で触れることすら躊躇って、少年に尋ねた。少年はロマの心配そうな表情から意味を察したのか、薄暗い便所のなかで、服の裾を手で掴んだまま首を左右に振った。
それからロマの肩に手を置き、彼は幼い子供がやるように手に雑に唾を吐いた。少なくともその表情が、彼の顔の作りに似合わないほどに幼く見えたことをロマは覚えている。それからロマが見て戦慄した、拷問の過程が来た。彼は肩で息を吐きながら、彼が受け入れられる速度で、その傷口に己の指先を浸透させていった。
かなりの苦痛を伴うらしいことは、彼の張りつめた表情や、衣装の上からも分かる肩の震えからも分かった。ロマは「いい、いいよもう、分かったから」と言って彼に飛びついた。ロマが強引に彼の手を奪い取ると、人差し指の第二関節までが滑らかな朱色に染まっていた。彼の指はそのように染まることに慣れているようで、付着している物は彼の指に大人しく密着していた。
フィービーはロマにしがみつかれるまま、彼の身体にしなだれかかり、しばらくロマの肩の辺りで深い息を吐いていた。それからロマの片方の手を掴み、噛みつくように自分の口へ入れると、命令する時の淀みのなさで、自分の裂け目めがけてロマの指を突っ込ませた。
最初の遊びはそのようなもので、ロマはむしろ彼に毛を毟られたように呆然となった。フィービーは激しい苦痛のために多少の涙を漏らしたものの、それを軽快に拭ってむしろロマよりも晴れ晴れとしていた。ロマが呆然としてトイレから出た後、彼は無表情に見える顔つきでロマを水道へと差し招いた。並んで手を洗った後、フィービーは一続きに見える仕草で、口のなかに残った物を吐いた。まるで燕が落ちるような淀みなさで、小さな仕草ながら一個の習慣として磨かれた光沢があった。ロマは水を含んで真似してみたが上手くいかず、小雨のようなものしか降らせられなかった。先ほど自分が抱きしめた薄い身体のどこに、あんな鋭い仕掛けが潜んでいるのかと彼は不思議に感じた。
それから、もっと濃厚に甘い味のする遊びもあった。ロマが後から思うに、フィービーはロマに苦痛の量の多い順番で遊びを教えたような節があった。段階を追うごとに、彼が与えてくれる遊びはより優しいものになっていった。人並みに走ったり跳んだりすることすら出来ない彼が、自分の身体の機能についてロマよりもはるかに精通しているということに、ロマは奇妙に思いつつも感心した。
ロマは従順な生徒になり、フィービーに自分自身の身体について教わった。彼は自分の身体の一部が、触れ方によっては弾けるような喜びを彼に与える物だったということを知った。日々当たり前に触れてきた自分の身体が、そのような不思議な性質を持っているということを、ロマは女たちに育まれる生活のなかでまるで知らなかった。また少年の群れのなかでも、それらの秘密は彼よりも少し年上の少年の間だけで分かち合われていることで、下の年齢の少年たちが興味を持てば変態扱いされ、禁忌とされていた。
少年の群れにいないフィービーは、その禁忌へとロマを楽々と導いた。そして彼自身の所有物を分けるような形で、少年にある肉体の秘密を手ずから教えてくれた。彼は一般に得られる知識のほか、ロマの身体に実際に触れてみて、普通と違う部分についてさえロマに教授してくれた。フィービーは既に自分の身体が何であるかを知っている少年だったが、ロマはフィービーによって自分の肉体の正体を教えられ、また名付けられたようなものだった。
そして彼の生まれ持ったものは、フィービーとの遊びに合うよう、多少彼の手によって歪められたことをロマは薄々感じ取った。しかしそのような微かな暴力は、ロマが人前で彼の手を引かされた時既に始まっていたものだったから、ロマは一種の愛着すら感じつつ、自分の皮膚の上でその静かな侵攻が起こるのを傍観していた。
そのうちにロマの身体のなかにある暴力の量すら、フィービーが指先で触れることによって自由に筋肉の上に引き出せるように彼は変えられた。しかしあくまで、その暴力の見た目の上の被害者はフィービーの方だった。彼は自分の気に入る鈍器や凶器を作ることに長けているらしかった。言葉も使わず、ただ眼差しと肌を触れ合わせる感触とによって、彼は他人の身体の上に渦を作り出した。そしてそれを、膿んでいる己の傷口にせっせと塗った。
銭湯もまた、以前に増して、彼らのお気に入りの遊び場になった。そこでは、一切の痕跡が洗い流せるから。
番台のおばさんが、フィービーの正体に多少感づいた様子もあった。しかしロマが見て関心するほど、フィービーは大人のあしらいに関しては女も含めて長けていた。彼が言葉をどこまで理解しているかは、相変わらず半分水に浸かったように謎だったが、少なくとも言葉で捉える以前に危険の兆候を察し、また敵の油断するものに咄嗟に擬態する術を心得ていた。
この険しい寂しい中年女性に対し、彼はことさらに低能な子供の仮面をつけて押し通る気らしく見えた。彼は女の前を通るには正当性を主張するより、弱者への憐れみを狙う方が近道であることを弁えて実践しているらしかった。彼らは、危ういところで通報されなかった。フィービーが度々彼女にバターのように柔らかい笑顔を向けているのをロマは見た。
男湯に、彼らは時間を見計らって出たり入ったりした。時には単純に、子供らしく、人のいない浴場ではしゃいで泳いだり、熱い湯のなかで我慢比べのようなこともやった。
しかし、彼らはまるで今やその遊びに捕らえられ、脅されてでもいるように、彼ら自身にさほど衝動もないのに、仕方なしにその犯罪をやった。ロマは自分の身体を変化させても、シャワーや石鹸の泡で隠す仕方を覚えたし、その巧妙さをフィービーに向かって誇ったりもした。ロマにとって快楽はまだ馴染みのない他人で、接触しようとすると常に別の動機が要った。彼はなるべく怖さを感じないよう、いつも余計なおふざけをやった。しかしフィービーは同世代の子供と違い、下手なことを競って遊ぶ楽しみを知らず、彼のそうした技巧を見ると、不安そうに実直に手を差し伸べるばかりだった。
ロマは改めて英雄らしからぬ、乱暴さと無縁の少年が、あの炉に手を入れるような苛烈な遊びに精通したことを不思議に感じた。一度あの遊びになると、彼は薄い身体に恐ろしく鋭い意志の力を閃かせ、自分が持っていない暴力をロマの身体に自在に引き出し、ロマで遊んだ。ロマはむしろ平素か弱い少年に服従する方法を模索していたぐらいだから、彼に正当に服従する手段としてこの遊びを歓迎した。
黒い瞳の少年との遊びを知った時、十一歳だったロマは決して快楽に目がくらんだのではなく、強い者に服従しようとする己の本能の充足のために、少年と少年に変えられた己の身体を必要としたのだった。少なくともロマ自身は、前者の期待のためにいつも快楽の前に自分が緊張していたことをその後も鮮明に覚えていた。
また、かつてロマはフィービーに耳飾りで耳を切られて、苦痛のために驚いたが、今やあの程度の苦痛は、彼らの間で何の価値もないということを実感していた。傷口を裂くような苦痛に慣れていて、涙さえ流せばそれを通過できると分かっているフィービーは、もし試みにロマがあの耳飾りを突き返したとしても、楽々と自分の耳を切るだろう。彼は強かに泣くだろうが、他のすべての痛みと同様、そうして苦痛を洗い流してしまい、数時間の後には元の人形のように精巧な顔を回復するだろう。彼の生活の履歴のなさそうな顔こそ、すべての履歴を洗い流してこなければならなかった歴史の表れだった。彼はその生活を続けていれば、もしかすると十一歳のまま歳を取らないことすらあり得そうだった。彼があの顔のまま、青年になることも、肉の豊かな成人女性になることも想像がつかないことの実証のように。
フィービーはロマにもう耳を切れとは言わなかったが、同じようなことを平気で差し向けた。彼は銭湯で、剃刀で指先を切らされたことがあった。それも度胸ためしとして実践させられているものかと思われたのだが、実際はフィービーの皮膚を切るための予行演習としてさせられたことだった。ロマは苦痛に耐えつつ、自分の指先を傷つけ、自分で指を咥えて血を止めた。それがどの程度の苦痛かを感じた後で、他人に実践するのは何も知らずに暴力を振るうよりも、やる側にはるかな恐怖と苦痛が伴う。フィービーはその効果を分かっているのか、単に好奇心でそうするのか、その方がよりロマの身体を操縦しやすくなるためか、自分に加えさせる暴力をまず自分自身でなぞらせることをよくロマに課した。
人目のない時、彼らはよくシャワーで痕跡を流しつつ抱き合った。近くで見ると、ロマの目にフィービーの肌と自分の肌との違いが浮かび上がって見えた。イレズミ女、というのは根も葉もない噂で、実際に刺青はなかったのだが、彼はフィービーの首の後ろにそれと間違えられるような模様を見た。一切の汚れや痛みを流したつもりでも、彼の目の届かないところでは、こうしてなお彼の身体に来た暴力の痕跡が残っているらしかった。ロマは彼の髪をかき分けてそれを仔細に見て、自分がその小さな傷跡を発見する目を持ったことを同時に知った。
かつて、フィービーの耳飾りすら見えなかったロマにとって、それは大きな変化だった。既にロマの青い目のなかにも、彼がフィービーに付けた暴力の渦の痕が夥しく残っており、彼はそれゆえにフィービーの肌を見ると、他人の付けたものでも自分がやった痕跡のように見つけてしまうのだった。ロマは初め白い壁のように見えていたフィービーの背中に、次第に多くの傷跡が浮かんでくるのを見た。それはロマ自身の履歴が増えるごとに増えた。それらの傷跡が出来る時にどれぐらい痛いか、ロマは常にフィービーに「予行演習」をさせられていたせいで知っていた。
彼はフィービーの背中を見て、その凄まじさを感じるごとに、それを慰める言葉が自分から遠のくのを感じた。ロマ自身はその背中から手を引きたいと感じたものの、フィービーの方が許さず、ある時にロマに噛みついて傷を付けた上で同じ傷を付けることを要求した。彼の嚙み方はいかにも巧みで、子供が物を食べるような仕方とは所作として違っていた。全然履歴のないロマは初めて彼に噛まれた時、彼が箸で巧みにこんにゃくを五等分にした、あの器用な力の篭め方を咄嗟に思い出したものだった。そのくせ彼の噛み方は箸のように露骨な切断面を皮膚に残すことはなく、痛みばかりを滑らかに残す熱い湯だった。
ロマは快楽とそれに伴う恐ろしさを知ってなお、彼に言われるままに従った。言葉を使わずに彼に仕えていたロマには、この不条理にもみえるフィービーの要求の真意が分かるような気がした。彼は他人に見つかっても自分の目で見つめることの出来ない、深い水底を己の背中に抱えており、そこに沈んだ針を浚おうとするより、水底に漂う水を汚して支配してしまおうとしている。フィービーは背中に傷を付けることの出来る雄を飼うことをずっと望んでいるようだった。恐らく最初にそこに針を落とした雄を、何らかの形で失ってからずっとそうしているように、ロマは彼の物慣れた支配の水圧を感じつつ想像した。そして彼が他人を傷つけるようには、自分は上手く出来ない、と思った。いずれこれに慣れれば、彼のように上手く出来るのかもしれない、とも。
銭湯では番台のおばさん以外に、ほかの男性客の目もあった。フィービーはそこでも巧みに視線をかわしつつ、時には脱衣所でもロマと触れ合った。利用客が籠のなかに捨てていく使い終わったバスタオルを被って、そのなかにロマを差し招いたこともある。彼らに視線を遣った男性客が通り過ぎるまで、バスタオルからわずかに目を出して見送る目つきを見た時、ロマはフィービーが少年の群れにいた時の態度、またロマの家にいる時の薄ぼんやりした態度が、彼がこの目つきを見つからないように使っている白い帳だったことを悟った。彼は女の乳房とか尻を覗いたかのように、その時垣間見た彼の裸の目を欲しいと思い、同時に己の赤裸々な欲望を恥ずかしいと感じた。
〇
家のなかにいる時、彼らは家族の目を警戒して寝る時まで触れ合わなかった。入浴については、フィービーの風呂の使い方が悪いという理由で銭湯に行くことを許可されていたし、彼らは存分にその権利を使い続けた。夕食の時、フィービーはゆっくりと箸を使った。ロマはテーブルの下で彼の足に自らの足をぶつけ、フィービーもまたぶつけ返した。その仕方が、その後でロマが許可されることの内容になった。また命令の場合もあった。
時には、彼らは家のなかで全然異なる遊びすることもあった。相変わらずロマがフィービーのためにクレヨンで絵を描いてやることもあったが、大半は彼の気に入らなかった。他方、フィービーと共有することに成功をした遊びもあった。それは全くの偶然の成功だったが、ロマのなかで彼との思い出において血の匂いのしない貴重な一部分になった。
ある時、ロマは学校の音楽の試験のために、リコーダーを吹いていた。途中でフィービーが遮った。彼はロマから笛を取り上げて床に捨てると、ロマの首にしなだれかかってきた。ロマが学校の課題というものに従事して、自分を忘れているように見えたことが気に入らなかったのだろう。
「ん、」ロマはしがみついてきたフィービーに対し、笛を拾い上げて差し出した。「お前も吹いてみろよ」
フィービーは不承不承に受け取って唇に当てると、びいいいっと強い音を出した。彼自身驚いたらしく、耳を覆いながら慌てて笛を放り捨てた。ロマが笑うと、フィービーはまるでロマが悪戯したと思っているかのように睨みつけた。ロマは自分の唇に当てて静かに音を鳴らしてみせた。
「こうやって吹けば吹けるよ、やってみ、ほれ」
フィービーはそっと笛を受け取ると、穴の開いた部分に指を当て直した。その作業の時、フィービーは本当に視覚か何かが欠落しているかのように見えた。
「そうそう、そこを押さえると、ド」
とロマは教えつつ、楽器という物を知らないらしい彼の、手探りの鋭さに感心した。触れるうちに、彼はすぐに音を出すことに慣れた。
それからフィービーはこの笛を気に入り、ロマから奪ってしまった。
「返せ」とロマが手を出しても、彼はブフーという音を出して拒んだ。イエスの返事はブーであり、ノーの返事はブフーという吹き方になる。次第に彼は己の気分に沿った音色を付けるようになった。言葉が喋れないことで白痴扱いにされたフィービーは、今や己の感情を音色にしてロマに伝える手段を得つつあった。
ある時、ロマは笛を咥えて床に寝転んでいるフィービーに話しかけた。
「夕飯食うだろ、下行くぞ」と階下を指して言うと、フィービーはブーと吹いた。
「あとで銭湯行くだろ」と言うと、少し間を開けてブフーと吹いた。
「嫌なのか」
フィービーはブフーと吹いて布団に顔を埋めた。肩の辺りが震えて笑いを堪えているのが見えた。ロマが怒ったふりをしてフィービーから笛を奪い取った。
「あんたたち、先にお風呂行ってって」
リーザが部屋に入って来て、床で掴み合いをしている彼らを見た。ロマは一瞬、彼女の視線のなかに一筋の冷たさがあるのを感じたが、リーザは「遊んでないでさっさと支度して行きな」と怒鳴って出て行った。
フィービーが鋭く身体を起こし、リーザの方に向かって何か言いかけた。
「しゃべんな」
と咄嗟にロマは叫んだ。直後、ロマは自分の言葉の棘を自分で感じた。それから、彼にただの言葉が伝わることはなかったのを思い出し、期待を込めてフィービーの黒い瞳を見た。
フィービーは床の上にきちんと座り、スカーフから零れた髪を直していた。それからロマの視線に気づくと、ゆったりと目を細めて見つめ返した。手には笛を掴んでいたが、吹かなかった。
その瞬間、ロマは落雷のような直感に打たれた。フィービーが喋らないのは、言葉が分からないためでも、ロマの言葉に従ったのでさえなく――、過去に同様の場面で同じことを命じた誰かにずっと従っている結果なのだと。
フィービーは何も言わなかったが、その瞳には「喋るな」という言葉に対する、明白な理解が浮かんでいた。その上で、ロマが望んでいるのが鈍感さであることを察し、己の理解の先端をぼかすように微笑んでいた。さらにフィービーは笛を掴みながら吹かなかった。彼はロマが、明白な返事をすることを恐れていることさえ知っていた。
それらの反応は一瞬のうちに成立した。しかしフィービーの微笑を見て、ロマは咄嗟の反応というより、手拭を使って手を拭うような、習慣にある仕草らしい円滑さを感じ取った。
この時のフィービーの穏やかな沈黙は、恐らくこんな風に敵と同居してきたらしい彼が、咄嗟に己の生存を保証するために身につけた擬態で、無数の生傷と引き換えに得た知恵の結晶らしかった。彼に残酷な命令をしたはずのロマは、既にフィービーが凌いだ迫害者の写しとして、髪を梳るような仕草のうちに楽々と捨てられていた。
ロマは彼の微笑に捻じ伏せられて黙り、それから胸に来た思いを口にした。
「誰だよ、それ」
フィービーは微かに目を開いた。彼はむしろ、ロマが事情を悟って話しているらしいことに、多少驚いたような様子だった。彼はふと足を崩した。続いて横たわる所作のなかに、静電気を放つように瞳のなかに出来かかった理解の芯を崩したのが、ロマには皮膚に針を刺されたように分かった。
「そいつ、怖いのか」
ロマは嫉妬を感じつつ、妙な訊き方になって尋ねた。ロマにしてみれば、出会って以来、頑是ない子供のように、また腕力の強い雄であるかのように自分を捻じ伏せ、君臨してきた彼が、ずっと知らない他人の命令に服していたというのは悲劇というのに近かった。ロマはせめて、己の愛する少年が、誰か素晴らしい暴君を戴いていることを咄嗟に祈った。
「そいつ、お前よりずっと怖いか」
フィービーは寝そべった身体の上に、漣のような笑いを浮かべた。彼はどこかでその笑いを堰き止めようとしたようだったが、やがて全身がその透明な震えに呑まれた。彼は肉声で笑うことが出来たはずだったが、この時は足音を盗むように声を抜いて笑っていた。どうやら「喋るな」という命令に長く服していると、笑う時ですらこんな曲芸のようなことが出来るようになるらしかった。
フィービーはとうとう堪え切れないとばかりに美しい顔を伏せた。そして返事をする代わりにロマの手を掴んだ。もはや彼は、ロマの言葉を理解できないふりを一切しなかった。
かつてロマは「これがお父さん指」と言って父親のことを教え、「お母さん指」と言って母親のことを教えた。そして「お前は一番小さいからこれ」と言って小指を出した。その時フィービーは、小指が自分だと言われた意味が分からない様子で、何度もロマに指切りを繰り返したものだった。
その時とは別人の鋭さで、フィービーはロマの親指から順番に握っていった。そして小指を引っ張って己の胸の辺りを示すと、その手を離した。そして人差し指をそっと握り、大事そうに両手で包み込むと、そのまま自分の頬にぴたりと当てた。
「僕のお母さんだよ」と、彼は雨音のように籠った微かな声で言った。
「僕よりもずっと、きみが見たことがないぐらい――綺麗な人」
言い終わるのと同時に、フィービーは溶けるように寝入った。彼が禁忌を犯して喋った後、その罪の重圧から逃れようとして、魚が水面下に隠れるように夢のなかに逃れたということが、彼が敵をやり過ごす仕方を眺めてきたロマにはありありと分かった。フィービーは母親を恐れているとは言わず、その命令に服していることを夢見るような調子で言ったが、約束を破ることに恐れや震えすらも表すことが出来ないというのは、どれほどの重圧によるものだろう。
ロマは暴力が解放されている少年の群れのなかでも、恐怖すら表すことが出来ない緊密な主従関係というものを見たことがなかった。また本来、フィービーは敵をやり過ごすことに長けているはずだった。彼は弱いが、あらゆる迫害に慣れており、涙を垢のように落とし、鈍感を装って観察を蓄え、急流の底で鰭を戦がせて沈黙している、進みすぎた魚のような人種だった。ロマは彼に取られている指に微かに体温を感じつつ、フィービーは雄と雌、どちらの陣地に放たれたところで、きっと生還するだろうと思った。彼を庇護しなくてはいけないと思い込む他人を、こんな風に手籠めにして。
ロマは最後に突き当たった敵が、母親という、彼が最も警戒しない人種の人間だということに驚きつつ落胆した。ロマ自身が母親を怖いと思うのと、強い少年を恐れる感情とでは、神聖なものへの憧れが含まれる点で違っていた。フィービーは彼の落胆を見越してか、彼が服する母親について「自分よりも遙かに美しい人」と言ったが、美しいことなど少年の群れでは石ころほどの値打ちしかなかった。彼はフィービーの美しさを愛したが、それは裏に針が仕掛けられている危険な遊びの帳だったからだった。
ロマはせめて、フィービーの母親に彼よりも素晴らしい顔でなく、大きな針が備わっていることを願った。己の少年を予め刺殺し、ともに遊び暮らす間でさえ沈黙を強いた針は、耳たぶを貫く程度のものではなく、大人を串刺しに出来るほどの大きな針でなくては見合わないと、ロマは遊び疲れたようにも見える少年の寝顔を見るうちに夢想した。
〇
別れの日の前日、昼間、彼らはリーザの計らいでつまらない別れの儀式をした。彼らは今さらながら握手をし、またつまらない抱擁をした。リーザはロマに何か劇的なことを言ってほしいと所望したが、ロマはその気にはなれなかった。リーザは筋書きに没頭するあまり、フィービーが彼らの言葉を理解できない、という認識も忘れたらしかった。
他方で、リーザはもしフィービーが死んだりしたら泣くだろうな、という予感がロマにはした。彼に何度も出血させておきながら、一度も彼に対して済まなく思ったりせず、むしろその鈍感さを彼からの賜物のように感じている自分よりも、余程彼女の方が「友達の別れ」の相手に相応しいようにロマには思われた。
「別に、その辺に住んでるんだったら、また会えるんだし」
と、リーザはロマの沈鬱な表情を見て満足した。フィービーがロマに抱擁した後、胴にしがみついてなかなか離れようとしないのも彼女の気に入ったようだった。
夕食では手巻き寿司が出た。フィービーは彼らの真似をして酢飯を海苔の上によそって、器用に包んだ。彼はその作業を家事か何かのように捉えており、皿に海苔巻きを積み重ねて口にしようとしないので、リーザが笑って注意した。彼女の叱責にいちいち動物のように驚いている様子は到底演技とは思われず、ある意味で彼の本心が露出している表情のように今やロマには見えた。彼に会う前には決してなかった、己のそうした露骨な観察にロマは自分で痛みを覚えた。それは肉体の使い方と同時にフィービーが彼に移植した反射で、彼は以前の自分には二度と還れないということを、酢漬けの魚肉を味わうなかで痛烈に感じた。微かな酢の匂いが袖かどこかに付いて身動きする度に鼻につくというのは、過去に貪ったものに対する後ろめたさに纏わりつかれるのと何やら構造として近い気がした。
ロマは親しみと乱暴さとを込めて、共犯者であるフィービーの脛をテーブルの下で蹴った。別に他意を込めたつもりはなかったのだが、フィービーの方が露骨にそれを避けた。ロマは彼が誘い掛けの合図だと受け取っていることを察した。テーブルの上で、ロマはフィービーの顔を見たが、彼が一切目を合わせようとしないのがその証だった。ロマは彼がやはり己の知るような鋭敏さを、この夕食の席でも保持していることを知って嬉しくなった。ロマは続けて、合図のやり方でフィービーの膝を蹴った。彼はロマを全く無視し続けた。
夕食が終わると、フィービーはさっさとロマの部屋に上がった。ロマが部屋に入ると、彼はもう枕に頭を乗せて布団に入っていた。最後の日だというのに、フィービーはロマに対して全く冷淡だった。リーザの言う通り「それほど遠くない距離に住んでいるのだから」「遊ぼうと思えばいつでも遊べる」はずだったが、さんざん変化を与えたロマに対し、彼が何の言葉もかけずに去ろうとしていることに、彼は捨てられる恋人のような不安を感じた。また互いの間に築いた親しさからしても、自分にはその程度の不満を表明する権利があるはずだとロマは思った。
ロマは掛け布団を乱暴に剥ぐと、自分もそのなかに潜り込んだ。そしておふざけの勢いそのままに、フィービーの寝巻のスウェットのなかに手を突っ込んだ。ロマはおふざけによる明るい反発の方をむしろ期待したのだが、フィービーの氷のような無抵抗に遭った。却ってロマはどうすることも出来なくなり、まさぐる手の動きの醜さを独りで感じつつ、彼が助け舟を出してくれることを期待した。
やがてフィービーが身動きした。ロマの腕に何かがぶつかった。それはフィービーが布団のなかで持っていたらしいロマの笛だった。フィービーはゆっくりと寝返りを打つと、ロマの方をじっと見た。そして唇に笛を当ててブフーっと鋭く吹いた。
今や彼の黒い瞳には、かつてロマが夢見た、物を言わない少年が密かに目のなかに隠しているように思われた素晴らしい理性の体系のようなものが、金属製の骨組みを無残に踏み散らされた姿で映っていた。そこに踏み込んだのは確かにロマ自身であるように思われた。ロマは既に、少年の理性をどのようにすれば乱すことが出来るか、彼自身に便所で教えられて知っていた。
少年はその瞳に笛を当てるように、続けざまにブフー、ブフー、と彼に対して非難するような叫びの音を立てた。ロマは今さら、彼がその遊びに乗ったことを責めるのかと感じて背筋が冷たくなった。彼が怖くなって寝巻から手を引くと、彼は視線の先を枕の方に移した。それから呟くような微かな音を舌の先で立てた。笛を吹いているようにも、ただ舌打ちしているだけのようにも聴こえた。
「やめときゃよかったって、そう、思ってんのか」
ロマは親しくなった者同士にしかない狎れた調子で、フィービーの湿っている髪に触れた。そして引っかかりながら遊びのように指で梳いた。
フィービーは返事とも反発ともつかない、ブーという一度きりの音で応えた。
「明日、帰るんだろ。お前の母さん病院から出てくるんだよな」
フィービーは先ほどと全く同じ調子でブーと吹いた。
「そしたら、一緒に暮らせるようになるんだろ、良かったじゃん」
彼は今度はブフーと吹いた。
「何だよ、嫌なのかよ」彼はブフーと吹いた。「嬉しいならもっと嬉しそうな顔しろって」フィービーは笛を咥えたまま、枕に顔を埋めた。ロマは小さく溜息を吐いた。
「うちに戻っても、お前また遊びに来るよな」
彼は勢いよくブフーと吹いた。瞬間、ロマは自分が悲し気な表情を浮かべたのを感じたが、フィービーは全く構わずに、繰り返し、何かの警鐘のような鋭さで否定の叫びを上げ続けた。ロマが悲しくなってつい笛を奪うと、彼の唇から透明な唾液が糸を引いた。その瞬間、彼の黒い瞳に涙がどっと浮かんだ。それは縁を濡らしてすぐ潮のように引いた。つんざくような鋭さは作為とも思えず、彼の感情に由来する涙が浮かぶのをロマは初めて見た。
「じゃあ俺から行くよ、お前んちに行く。俺、嫌だもん、お前と遊べなくなるの」
フィービーはロマから強引に笛を奪い返し、また勢いよくブフーと否定の叫びを上げた。夜に笛吹かないの、とリーザが階下から怒鳴る声が仄かに響いた。
「それそんなに吹くの好きなら、お前にやるよ。お前んち行って、笛でもお絵かきでも人形遊びでもいいから、お前の好きなことして遊ぼう、な」
ロマはフィービーのまだ湿っている髪に触れつつ、ひそめたような優しい声を作った。
「お前が嫌ならもう触らない、いっぱい怪我させてごめん、痛かっただろ」
俺もお前にやられたから、分かる、と言って彼は自分の切れた耳に触れておどけてみせた。フィービーは瞳のなかにどこか凄愴に見える光を宿しつつ、空いている手でロマの耳に触れた。やがて涙が彼の睫毛を濡らし、堰き止められないものが目の縁からどっと零れた。頬から次々と滴が落ち、枕のカバーに染み通っていった。
「お前んち、何か色々あるんだろ。母さん戻ってきても、たぶん」
フィービーは虚ろに笛を取ってブフーと吹いた。ロマは彼におもねるような低声で言った。
「だから、すぐは行かないよ。来週、一週間経ったら、また遊ぼう。迎えに行く」
いっしゅうかんて、分かるか、と言いロマは人差し指を一本出した。それからふと、彼に合図などは不要であったことを思い出して笑った。フィービーは笛を手放してロマの手を取り、人差し指を口のなかに入れて噛んだ。銭湯でする遊びのなかにこういう仕草があったのでロマは身構えたが、今やフィービーの力には遊びのような抑揚がなく、ただの暴力らしい直線的な強さだけがあった。彼は奥歯でぎりぎりと骨まで達するかと思われるほどに噛みつき、黒い瞳に力を満載してロマを睨み上げていた。彼は指にかつてないほどの鋭い痛みが来るのに満足しながら、彼が微かに噛む力を緩めたのをみて、承諾の証と受け取った。
ロマが、フィービーを発見したのは六日後だった。彼は一週間後の約束を待てずに、一日早めた。
発見した瞬間、ロマは咄嗟に母親とリーザの会話を思い出した。
『あいつ母さんと一緒に帰ったんだろ』
二人は顔を見合わせた。
『発想になかった』
『そいや何だったんだろうね、こんな太った男の人二人』と言って彼女たちは笑い転げた。その男たちの奇妙な姿は、何かの失敗のように彼女たちを際限もなく笑わせるようだった。
『片っぽの人はちょっと言葉が分かるようだったわよ。一応お礼言ってた。お嬢さんの方はもうダンマリね。最後まで全然愛想なし。うちにいる時はボーッとしてるのに、おうちの人来たらすごい偉そうになっちゃって。こんなして、手を掴もうとした人のことぶっちゃってさ』
『そうそう、あれ私もびっくりした』
『おうちの人来ると変わるんだねえ、ってリーザと話したのよ。うちにいる時はね、もうロマがいないと大変よ、絶えず目で探しちゃって。その割にあんたが出ていく朝は素っ気なかったわね』
『ねえ、泣くかと思ったのに』
『一応手を振ってはいたけど』
ロマは彼を見つけた瞬間、咄嗟に自分が彼の死を受け入れていることを理解した。ロマのなかで、そのことは少年を愛することと全然矛盾がなかった。ロマは既に死体だと思っている彼に掴みかかって揺さぶった。
あれだけ物が山積していた部屋のなかには、段ボールが二つ積み上げられているほか、何も残されていなかった。ロマが行った時にはドアも、ベランダの鍵すら開いていて風が吹き通っていた。
フィービーはその部屋で靴を履いて、外套を着けて、まるで外から戻ってきた時の格好のまま倒れていた。彼の手元にはロマがやった笛が落ちていた。彼はそれを咥えずに、口のなかに己の髪を詰め込んでいた。こめかみの辺りは髪が薄くなって青白い地肌が見えていた。
彼は自分で毟り取ったらしい己の長い髪を、宝石のない手に巻きつけて、その先端を口に入れていた。彼は髪を食べていたようだった。一見狂気の振る舞いのようにも思われるが、ロマは当時彼が正気だったことを一目で見抜いた。彼の白い手には、糸巻きのように几帳面に、両端を揃えて髪が巻かれており、彼はリボンを噛むように己の髪を咥えていた。
このような几帳面さを遊びのなかですら発揮するのは、神経質な彼の癖だった。西日のなかで彼の動かない全身を、凄愴な光景として眺め終えてから、ようやくロマは何かに噛みつかれたような悲鳴を上げた。
「脱水少女だって」
と、リーザは医者に渡されたらしい薄緑色の封筒から出した手紙を、手のなかで何度もひっくり返しつつ言った。
「それに書いてあんのか」
「んーん、違う、さっき先生が言ってた。夏だったらたぶんもう駄目だったろうって。あ、少女じゃない少年だ、そのことあの先生分かってんのかな、言ってくる」
ロマは思わずリーザの袖を掴んだ。
「いつから気づいてた」
「え? さっきかな、看護婦さんがあの子裸にしたから、みんなびっくりしてた。『お嬢ちゃんじゃなかったのねえ』って。外国の子だから髪とか長いんだろうって。でも私、『あーそうか』って思った、納得がいったっていうか、的を得たというのか」
「なんで」
「あの子便座下げないんだもん、あんた割と下げるじゃんいつも」
変な子だなーってのは思ってた、でもそういうことかって何かすっきりしちゃった、と彼女は、ロマには想像のつかない晴れ晴れとした態度で言った。
「ほんで、脱水少女モドキだって。とりあえず点滴してくれてる。ていうか水道も止まってたんでしょ、それって相当だよ、電気、ガスと来て水って最後だもん。どんだけ色々払ってないんだろ」
ロマは最後に見た彼らの生活風景を思い出した。光景にあった食料らしいものはすべて菓子類の類で、水や火で加工したような物はどこにも見当たらなかった。あの時点で、彼らは手に残された物を貪り、消費して吸殻を散乱させるだけの生活をしていたのではないか。
「今日、ウチらで立て替えてあげたってさ、結局病院代とか請求できないんじゃないの。誰に請求すんの、誰も居なかったんでしょ。じゃあ、ウチが持つことになるんじゃないの。最終的にそうなりそうな予感がする。つうかもう一軒行くとか無理だろ」
「もう一軒て?」
「なんか、ここじゃ終わんないらしいよ、この子の病気。つうか怪我してるみたい。これ持って大きい病院行けって先生が紹介状くれた。なんか色々訊かれたけど適当に話しといたよ。どうせワケありでしょ、あのお嬢さん。お嬢さんじゃないや、何だろ、お人形さん。
『この子と一緒に住んでない大人に病院連れていってもらって』って看護婦さんが。ウチらはいいのかな、ちょっと一緒に住んでたんだよね、と思ったけど、訊くの忘れた。はいって言っちゃった。この町まで行くのたるいよね、おばさん車出してくれるかな……。それの中身、破いて見てみたんだけどさっぱり分からん」
ロマは丁寧に折られたその白い紙を開いた。なかにはロマが見たことがある少年の傷跡の様子が克明に記されていた。子供の噂話のように怪物を想像させる曖昧さはなく、それはロマが初めて見る大人による告発の文体だった。
ロマはしばらくの間、銭湯でただの模様のように見えていた傷跡と、その紙面にある厳めしい名称とを頭のなかで一致させる遊びに耽った。彼が少年と、暗闇のなかで曖昧に笑い、手触りで仄めかして名付けずに行っていた遊びは、その過程の全てに名称と段階があった。彼らは公衆便所で、銭湯で、また部屋の布団のなかで、誰にも見つからないように遊び、彼はそれも終えたつもりでいた。その起こりから顛末に至るまでの全てが、こんな風に白日の下に晒されるとは彼自身想像していなかった。
白眼視のように尖ったペン先で書かれたその記録の、一部分は確かに、他ならぬロマの犯罪を暴くものだった。後半のある一文に来ると、ロマは傷跡を直接に見た時以上に痛みを感じてつい目を逸らした。
ロマは少年が、なぜ電気や水もない部屋で独りでいたのかを想像した。
ロマが俯いて紙面を握り締めているのを、横合いからリーザが不思議そうに見つめた。
「あんたその漢字読めるんだ、すごいね」
と素直に感心したらしい声で彼女は言った。
〇
「フィービー、アイス食え」とロマは自分が一本を咥えつつ、布団に寝かされている彼に言った。
部屋の電気を点けると、蛍光灯の下に照らし出された顔は土気色をしており、鼻梁や喉元の線の鋭さがやけに目立った。目の周りは落ち窪み、唇には血の気がなかった。ロマは死が彼を握りつぶさずとも、唾を吐きかけていったのをまざまざと見た。
「オレンジ、アップル、グレープ……どれでもお前の好きなの選べよ」
ロマはカラフルな絵の描かれたアイスキャンディーの箱を見せた。フィービーはわずかに目を見開いてそれを眺めたが、布団から手を出そうともしなかった。
(おかしいな、)とロマは思った。確か、アイスキャンディーは彼が手にするのを拒まなかった食べ物だ。もしかしてここがどこだか分からず、どこか他人の家だと思っているのではないか。己の安全のために、また文字が読めないふりをしているのだろうか、とロマはフィービーの緩慢な仕草を見て思った。
「大丈夫だって、誰も取らないから、好きなの食えよ。食わないとお前また脱水少女になるぞ、ちゃんと水分取れってお医者さんが言ってた、ほれ」
そう言って彼は開いた箱を勧めた。
フィービーは仰向けに寝たまま、数センチ上のどこかをぼんやりと見ていた。彼は何かを見ているというより、ただその格好でくたびれているようだった。彼は寝返りを打った。そして布団から笛を取り出して口に当てた。肋骨の間を吹き通る虚ろな音がした。
彼は目覚めた時、ロマよりも彼に貰った笛の方を必死で探したものだった。『誰が助けてやったと思ってるんだ』とその様子を見ていたリーザが言った。『あんたが命の恩人だっていうのに、そのこと分からないなんて、可哀想』
「食わないんなら俺グレープ味取っちまうぞ」
そう言って、ロマは舐め終わった棒を床に置き、紫色のアイスキャンディーの包装紙を破いた。背後でフィービーの虚ろな笛の音がした。ロマは淡い酸味のあるグレープ味を咥えつつ振り返り、口からそれを取り出した。
「俺半分食うからお前も半分食え」
ロマはフィービーから笛を取り上げ、口のなかのアイスキャンディーの残りを彼の口へと押し込んだ。一瞬、フィービーの身体に微かな抵抗が漲り、薄い氷のように溶けた。ロマが舌ので氷の塊を押し込むと、彼の舌がわずかに動いて避けた。彼の暗い喉に崩れた氷が落ちる気配がした。
ロマが身体を起こして離れると、フィービーは白い喉を動かして残りの氷を呑み込んだ。それからすぐ笛を唇に当てて強く音を出した。
「ちゃんと口拭いてから、じゃないとベタベタになるだろ、ほら」
ロマはリーザのような口調になり、フィービーの濡れた口元を布巾で拭った。フィービーの首が微かに揺れた。
「明後日、また病院行くって」
ロマは彼の口元を拭き終わると、布巾を捨てて彼の濡れた頬に触れた。アイスキャンディーの滴が付いて頬に貼りついている髪を、ロマは指で剥がした。
「今度は母さんが連れてく。別に怖かねーよ、お医者さんに診てもらって、薬貰うだけだ、な。もしかしたらその時、警察の人とも話すかもって」
そう言った時、フィービーは初めて身体を起こし、何か縋るようにロマの腕を掴んだ。
「別に怖いことはねーよ。警察は普通の人の味方なんだ。お前は弱いから大丈夫だよ、守ってもらえる。人殺しとか、やばい奴を牢屋に入れるのがあいつらの仕事なんだ。お前まだ子供なんだし、オヤが居なくなったって言えば、きっと探してもらえる。お前の母さんにも、会えるかも」
ロマはそう言い、自分の言い方の弱さを内心悔やんだ。フィービーがそっと自分の手を握るのに、むしろ彼は甘えるように指を絡めた。彼の指には、ロマを脅迫し続けたエメラルドの指輪はもうなかった。ロマは己の失敗の烙印のようにそのことを見つけた。
彼らは裸の指同士を接触させ、擦り合わせ、零れそうになる感情をどうにかその結び目の内側で堰き止めようとした。ロマは彼の指にも自分と同じ力の丈の反発があることに、どこか安らぐものを感じた。
「もしだめでも、」とロマの方がふと口を切った。フィービーは少し意外そうな目を向けた。
「もしお前が、その人になかなか会えなくても、会えるまで、俺が側にいるから」
フィービーは寝返りを打った。彼は微笑を含んだ目でロマを見上げ、陽気にも聴こえる音色でブフーと否定の叫びを上げた。
「本当だよ、」とロマは言い返した。「お前放っとくとすぐ虐められるから、俺がいた方がいいんだ。俺が側にいるから、もし誰かに虐められたら俺に言え」
フィービーは目を細め、微かに歯を笛に当ててカチカチと鳴らしながらブーと吹いた。
「いいから喋んなって、それやるよ、その人に会うまで、それ大事に持っとけ」
フィービーはブーと吹いた。
「警察行っても、いいよ別に、喋らないで。俺からあのことも、全部話す」
フィービーは一度唇を離し、再び付けてブーと吹いた。ロマは彼のスカーフのない、青い地肌の見えている髪のなかに手を入れた。髪が溢れて衣擦れのような音がした。
「いいんだよお前は、無理すんなって。母さんやリーザにも、お前が言葉分かるってこと、黙っとく。その方がいいだろ。その人に会えるまでさ、そうしてようぜ、な。これからは俺がお前の代わりに、お前が言わなきゃいけないこと話すよ。そしたらお前その人にも、誰にも怒られないでいいし。俺は、お前の言いたいこと分かるだろ」
フィービーが鋭く目を開いたのをロマは見た。
「何だよ、嫌か」
フィービーは笛から口を離し、歯を見せて笑った。笑いの漣が彼の全身を覆った。彼はまた堪えきれないというように肩をすくめた。
「じゃ、嬉しいか」
ロマも、少し笑いを含んだ声で言い返した。彼はフィービーが、否定にしろ肯定にしろ、枕をぶつけてきたりして、湧き出した笑いを自分と分かち合ってくれることを期待した。
フィービーは再び笛を持った。その時彼の唇ではなく、彼の黒い瞳の奥でなにか軋むような音がした。ロマが覗き込むと、黒い瞳の奥に真っ赤な裂け目が表れ、暗い潮が噴き上がり、たちまち瞳から溢れようとするところだった。彼が瞬きするととうとう瞳からこぼれ、黒い影が、薄氷のような微笑に覆われていたフィービーの全身を一瞬のうちに覆った。
ロマは初めて見るフィービーの変化に戦き、少年がとうとう故郷の言葉で喋ったのを聞いたかのように動揺した。そして自分の好きな彼をすぐ手に取り戻したいと願った。
「なあ、フィービー、」
彼は、小さな暴君に機嫌を直してもらう時に、使い慣れた優しい声音を出した。
「やっぱり腹減らねえか、何食いたい、言えよ」
ロマは、少年が笛の下で息を殺すのを見た。
黒い瞳 merongree @merongree
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