黒い瞳

merongree

第一章


 少女の藍色のスカートの、腿と膝の中間辺りに小さなボタンが付いているせいだった。彼らは同時に声を殺して笑った。それが公衆便所のドアの隙間に挟まり、一センチほどの光の帯が、彼らの全身をずっと濡らし続けていた。もしそこに挟まっているのがボタンでなくて、誰かの目玉だったらどうしよう。それも知っている友達の目玉だったら。

「せえの、」

 とロマが声を掛けた。彼らは仲の良い遊び友達だったから、こういう一言で咄嗟に同じ動作をすることが出来た。藍色のスカートを跳ね上げた白い脛が、ロマの顔近くまで上がり、余韻を残して肩の上で揺れた。無理に曲げると悲鳴を上げるほど硬いくせに、少女の身体は時折、便所の灯りのように仄かな柔軟性を露わにした。

「そっち持って、」

 裾を抜いてドアを閉め、濃くなった暗闇のなかで、ロマは出来る限り低めた声で言った。この頃、彼らは舌打ちするような声だけで意図が通じた。彼女は従順に裾を掴んだ。

 ロマは首の後ろに少女の軽い手を回し、勢いをつけて相手の体重を自分の膝の上に移した。スカートの裾がロマの肩から膝の上に流れた。ふと近くなった顔のなかで、便所の暗闇よりも濃い暗い瞳が、彼女をそこまで持ち上げたことを褒めて膨らんでいた。



 ロマが黒い目の友達を見つけたのは、正月の公民館だった。毎年住民が集まるその場所で、見たことのない暗い模様の、綺麗な蝶々が入り込んでいるのを見て密かに捕まえていた。

 ロマの住んでいる町は、工業施設が並ぶ埋め立て地のある海辺に近く、なまじ都会に近いために発展しないまま寂れている。都会から移ってきた一部の住民は都会に通勤しているが、元からいる住民の多くは他の住民を相手に零細な自営業を営んでいる。また違う勢力として、海辺の自動車工場に勤めている人々もいる。この工場ばかりは独自のリズムで生活していて、朝起きて夜に眠る生活をしている住宅街の住民を深夜まで微かに揺らし続けた。内部で実際にどんな工程があるのかは知られないまま、身動きのパターンだけが住民の間に浸透し、いつしか彼らにとって工場はどこか馴染み深い妖怪のようなものになっていた。

 その妖怪の体内で何か変化があったものか、時代が平成になると、工場の労働者の構成が変わった。工場の真の所有者である大企業は、海の彼方から黒い目の人々を連れて来て、彼らが土地を買って建てた社宅に住まわせた。家族の多い彼らは社宅から溢れ、提供された住まいだけでは収まらず、一部がロマのいる住宅街まで溢れてくることになった。

 ロマは度々、登下校の途中で「その人たち」と遭遇した。衝突が始まった頃、大人よりも子供の方が「彼ら」との接触の方法を積極的に模索しだした。住民のなかで最も反応が鋭敏だったのは、町のなかに縄張りを持って自警団のようにもなる、十代前半の少年たちだった。

 そもそも金髪碧眼しかいなかった、ロマたちの小さな町で、黒い髪、黒い瞳、白っぽいがどことなく砂色を含んだ肌色をした彼らは、歩いているだけで烏のように目立った。彼らは揃って、身体の線を覆い隠すように、藍色の雨合羽のような衣装を纏っていた。男性の場合には下がズボンで、女性の場合には裾が広がってスカートになっているようだった。彼らは男女問わず、身体をなるべく日光に晒さないようにしているらしかったが、正体を覆い隠すようなその格好は、好奇心の強い少年たちには倒すべき暗い帳のように見えた。

 路上で少年たちが遭遇する「黒い目」の大半は男性だった。彼らが町に現れると噂になってから、ロマ自身も見物に出かけたことが数度あったが、女性を見たのは二度だけだった。一度目の遭遇には鮮烈な印象があったが、二度目はその衝撃の上書きになった。

 一度目、群れのなかに女がいると分かるや、少年たちの誰かが「しっ」と言った。緊張した彼らの前に、四十がらみの、少女よりも濃い眼差しを持った女が、赤ん坊をあやしつつ現れた。彼女の周りを四人の男が囲んで、まるで彼女の周りに壁を作るようにして歩いていた。

 ロマは直感的に、男たちが守っているのは赤ん坊であり、女ではなさそうだと感じた。黒い目の民族に女の目撃例が極端に少ないのは、彼らの男は女を群れの所有物とみなし、出歩くほどの自由を与えないせいだ、ともロマは聞いたことがあった。彼女たちは別に数が少ないのではなく、群れでの順位が低いために出られないのでなないか。それも赤ん坊のお守りをする役目を負って初めて彼らと出歩くことが許されている、とか……。

 実際、目の前を歩いている子守女には、どこか抑圧されている者らしい屈託の影が、薄く全身に貼り付いているように見えた。しかし彼女の低く歌う口元、やや酷薄そうに見える歯、伏せた暗い瞳には、その影を破ってなお油のように強い輝きがあった。男の顔にあれば石ころのようにしか見えない特徴が、抑圧されている暗い女の暗い顔に嵌めこむと、黒い太陽のような陰惨な輝きを放つということを、少年たちは女に殴られるように思い知らされた。彼らの女は確かに危険だ、とロマは思った。彼女たちを確かに、丸ごと日光の下に晒してしまえば、その顔はその光を跳ね返すほどに、まるで剣の腹のように鋭く輝くのではないか……。

 息を詰めていた少年たちのうち、誰かが短く声を上げた。黒い目の人々が振り向くより先に彼らは散り散りになり、喚きながら逃げ出した。彼らの誰もが、自分が今感じたことを感じつつ、叫ぶことで発散して言うまいとしているのが不思議と分かった。

 逃走する群れのなかで叫びつつ、ロマは軽い嬉しさを自分が感じていることを発見した。友達と一緒に、得体の知れない獲物を虐めにかかるのは、少年でいることの楽しさのうちに常にあり、ロマ自身それを随分と享楽したものだった。しかしなぜ、虐めることの出来ない動物に出会って逃げることが嬉しいのか。分からないまま、それを見つめにかかる辺りが、ロマは他の少年と少し違っていた。


 少年たちは、黒い目の人々に度々衝突し、投石し、また小突き返され、時折少年たちの誰かが血まみれで川辺に捨てられているのが発見されたりした。黒い目の人々の反撃の方が、迫害される者の恐れを反映していつもやや大きかった。

 ロマの町の町内会の老人たちは当初、少年たちと黒い目の人々との喧嘩を、潮の満ち引きを見るように傍観していた。しかし次第に黒い目が優勢となり、それに応じて少年たちの背後の大人たちまでが加勢する気配が出てきたところで、ようやく行動を開始した。老人たちは、今さら少年たちを戒める力もなく、また黒い目の人々が持つような、厳しい戒律を作って住民たちに与える気力もなかった。しかしこの黒い目の人々を町から追放してしまえば、この貧しい町が貧血になり死んでしまうことは、町名の変更にも絡んだ過去の歴史からよく分かっていた。老人たちに限り、町に他人の血を入れることは初めての経験ではなかった。

 戒律や罰則の代わりに、無気力で薄甘い、異文化交流を謳った機会が増えた。町内会では元々あった祭礼の催しに、黒い目の人々を積極的に招くようになった。黒い目の人々は初め、罠を警戒する動物のように動かなかったが、町の老人たちが黒い目の老人たちを招き、言葉を使わずに酒の力でねじ伏せてしまった。黒い目の老人は、町の老人の友達になり、半ば捕虜にされて、次第により若い黒い目の人々が、町内会の催しに駆り集められるようになった。

 他方で、町の老人たちは、黒い目の老人を言いくるめるのに、方便でなく別の方策があることを知らせていた。黒い目の人々は確かに労働者であり、給料を得てはいたが、家族が多いために常に汗をかくように飢えていた。そこで催しに招く時には必ず、家族全員の腹を満たすほどの食料をもって歓待することを約束した。

 言わば彼らの雇い主である工場によって救われない、家族の分の食を、町内会が救うことを暗に約束したのだった。青い目の老人たちは、たまたま黒い目を持ち、己の住む土地から引き剥がされてきた彼らが関心を持つのが他所の文化などでなく、明日飢えないための方法であることを経験から知っていた。

 黒い目の人々は公民館に来れば飢えない、ということを知るようになった。彼らは屯した。彼らが来るようになってから、公民館は常に煮えている炊き出しの鍋の匂いと、彼らのつける香水の匂いと、それらを消そうとして蒔かれた消臭剤のレモンの匂いとが混ざり、漠然と白かった壁紙は、これらの取り組みが開始されて一ヵ月でみるみる黄ばんだ。

 時折、悪い子供が来て石を投げた。町の老人たちは舌打ちする程度に叱った。そして衝突が表立たないように、ただ自分たちが黒い目の飢えを慰撫しているだけで親しいわけではないことを隠すように、公民館に色紙の飾りを付けて四季折々の祭礼を行い、時には彼らにも法被を着せたり、太鼓を叩かせたりした。


 異文化交流が開始されて最初の正月に、町内会で餅つき大会が行われた。

 日頃から、公民館には彼らへの供物のように米や野菜が積まれていたが、この日は餅という特別な食べ物が出るという触れ込みで、食料供給に関しては「チョウナイカイ」を信頼しつつあった黒い目の人々は、藍色の衣装に黒い外套を重ねて続々と公民館に集まった。

 町の住民は、彼らに正月の挨拶を送ったが、彼らの大半は殆ど言葉も覚えずに生活していて、自分たちには特別でない日の挨拶になど目もくれなかった。黒い目の人々はいつも通り、食料を取りに公民館に殺到していた。彼らはもはや我が家のように公民館に押し入り、主婦たちから餅を受け取ると無言のうちに次から次へと平げた。

日頃、催しにさほどの信仰心もなく従事している住民たちも、飢えを満たされた黒い目の人々が、次は自分たちの文化に関心を向けだす頃だと信じていたから、この不変の無関心の撥ねつけに遭って閉口した。またすぐ不満を彼らの間で分かち合った。何て図々しい人たちだろう。……

 ロマはこの日、町内会の手伝いをしに来た母親について公民館に来ていた。彼自身は、毎年振る舞われる餅に飽き、昨年と変わらない目出度さに飽き、大人たちの集まった時に起こる煙たさに閉口していた。小学五年生の彼は、普段は友達と少年たちだけの群れで遊んでいたが、正月となると彼らが皆家族の埒のなかに引っ込んでしまうので不機嫌になっていた。また彼には母親しか保護者がいなかったため、彼女が忙しく立ち働いている間は、その監視下にいるように命じられていた。彼は不本意に、彼自身が享受できる楽しみを求めて公民館のなかをさまよっていた。

 やがてロマは、公民館のなかの「会議スペース2」と書かれた部屋のなかで、黒い目の人々が群れになっているのを見つけた。部屋の中心にいるのは中年以上の男たちだったが、食料が振る舞われるとあってか、珍しくロマよりも幼い幼児たちの歩き回る姿もあった。彼らは身内であるはずの男たちには近寄らず、部屋の隅にあるテレビに貼りつき、ちりちりと流れてくる色彩を眺めていた。床に転がったまま餅を咥えている幼児もいた。洟や涎が付着してもなお、餅は辛抱強く原型を留めて蛍光灯の下で鈍く光っていた。活発だが散漫な幼児たちをよそに、部屋の中央で車座になっている男たちは、ロマの分からない言葉で沸騰するように論じ合い、合間に餅を次々と口に運んだ。

 ロマは手前にいる男の、藍色の衣装を盛り上げている牛のような広い肩、生き物のように動く暗い口、その奥に消えていく餅の白さにふと打たれた。ロマにとってその時の興奮は、珍しい昆虫を見つけた時のものに近かった。言葉が通じないのを良いことに、ロマは男たちの肉体を昆虫の身体のように凝視し、頭のなかでその残像を千切って遊び始めた。彼が白熱した凝視に全身を浸している最中、黒い目の男たちは現れた金髪碧眼の少年を蠅でも見るようにちらと見たが、それきりだった。

 ロマはふと、視界の隅に藍色ではなく、水色の布が動くのを見た。よく見ると彼らの輪のなかに、頭に水色のスカーフを付けた子供がいた。その子供は蹲り、覚束ない手つきで大皿に盛られた餅をぺたぺたと一列に並べようとしていた。男がお構いなしに大皿から一つ餅を取る、すると水色の頭の子供がまた列に並べ直す。ロマは、この不毛な遊びをしている子供が、自分と同じ年頃の子供らしいことを感じた。ふと、男の手が子供の手から直に餅を奪った。水色の頭の子供は一瞬、抗議するように鋭く顔を上げた。ロマの視線が子供の顔にぶつかった。彼は目の奥に焼けつくような痛みを感じた。

 驚きの掛かった鋭い睫毛、黒い瞳、何か言いかけて開いた口元、酷薄そうに見える薄い頬、赤い唇……その顔は十二歳ぐらいの少女のものだったが、既に滴るような女の匂いがあった。ロマは少女の顔から、覗き見た子守女の、抑圧の影に覆われつつ陰惨に輝く目鼻の線を思い出した。

 しかし少女が違っていたのは、子守女よりやや短気そうで、額の辺りに正直に怒りの気配を浮かべていたことと、何よりも皮膚の色だった。彼女の皮膚は周りの黒い目の人々と違い、底流に砂色を含みつつ、表層に透明な水が流れているかのように、一段違って白く見えた。ロマはその不思議な白さのなかに、彼女が大人に向かって押し殺している不満が浸透してくるのに見惚れた。

 ふと、ロマの脇をすり抜ける足音がした。彼の目の前で、金髪碧眼の二人の少年たちが、笑いながら会議スペース2のなかに走り込んできた。男たちのうちの数人が顔を上げた。

 彼らは男たちの群れに殺到し、少女の後頭部を叩くと、頭から水色のスカーフを毟り取って逃げた。黒い目の青年が立ち上がりかけたが、彼らが二階へと走り去ったのを見て再び輪に沈んだ。それから議論が再び白熱しだした。彼らのお喋りが止んだのはほんの数秒の間だった。

 ロマは、殴られた後も、じっと正面を向いて蹲っている少女を見た。彼の目の前に、何かに挫かれたような少女の首があった。かろうじてスカーフを押さえようとしたらしい手が、空中で彼女の悲鳴のように静止していた。スカーフを剝ぎ取られ、黒い髪が噴水の水のように白いうなじや藍色の衣装の肩に散っていた。細い肩からは彼女の絶望らしいものが、陽炎のように立って見えた。

 彼女が殴られた後も、周囲にいる身内らしい男たちは、あたかも彼女などいないかのように何ら接触せず、相変らず餅を食い続け、喋り続けていた。車座にいて少女だけが、泣くことも喚くことも食うこともせず、出かかった悲鳴を己の存在ごと握り潰そうとするかのように輪のなかで息を殺していた。

 ロマは隣の事務室へ行き、自分で心当たりがあった物を取った。それから会議スペース2に戻り、少女の背後に行った。彼は悪戯をするような手つきで、ちょいちょい、と彼女の背をつついた。

 振り向いた少女にロマは、「これ、やるよ」と言った。「まだ奥にいっぱいあるんだ。母さんたちには内緒だけど、ちょっとぐらいなくなってもバレねえよ、やる」

 ロマが渡したのは、正月に配られる紅白の手拭のうちの赤い物だった。ロマは少女の目の前で、ぴりぴりと乾いた音を立ててセロファンを破いた。両端を掴んで広げると、白く染め抜かれた「賀正」という文字がはらりと浮かび上がった。

「ちょっとださいけど、でも、被ってみろよ、ほれ」

 少女は呆然としたまま返事をせず、声の代わりに大きな瞳に動揺を漲らせた。

その瞬間、ロマは息を呑んだ。微かに動揺の波紋を浮かべた黒い瞳には、縁まで均質な闇が満ちていて、それ以上他人の視線が浸透することを阻んでいた。動揺そのものは影絵のように鮮やかに表れているのに、それが喜びの色か悲しみの色であるのかは、その暗い小屋のなかでは判別できなかった。

 ロマはこんな奇妙な密室を、友達の顔の上に認めたことがなかった。これほど剥き出しでありながら正体が分からず、自分が弄ぶことが出来ない物は、ロマには初めてだった。そして容易く千切れる男たちの顎や頬の肉と違い、彼女の黒い瞳は眺められることに従順でなさそうだった。想像の手で触れようとすれば、たちまち発条が弾けるような反発の気配があった。ロマの想像のなかでその反射の輝きは、貴金属の持つひやりとする手触りを連想させた。それはまるで子供の目というより、大人の女のする金の耳飾りのようだった。ロマはそ目に見つめ返され、まるで金の縄に括られたように動けなくなった。

 ふと、彼女の瞳の芯が緩んだようだった。彼女は何か思案するような表情で、ロマが広げている手拭をぐいと引っ張った。

 そして焦点のない目で、赤い生地に白く染め抜かれた「賀正」の文字を眺めた。ただの模様だと思っているらしいことが、生地の皺を伸ばそうとする手つきからも伺えた。手拭を翻し、彼女はそれを自分の瞼の上に乗せた。ロマが引っ張ろうとすると鋭く振り払った。そして手拭の両端を持ち、耳の下までぐいぐいと引っ張って見せた。

「短かったか、それじゃ」

 そう言ってロマが手を伸ばすと、彼女は逃れ、赤い手拭の下から舌を出すように瞳を覗かせた。表れた目には笑みが滲んでいた。ロマはまた例の凝視が始まるのを恐れて、彼女の手を掴むと逃げるように立ち上がった。


「『だいにはん』て書いてあるやつ」

 と、ロマは事務室で己が手を付けた段ボール箱を開きつつ、背後にいる少女に向かって指示した。

「それじゃない、それの隣」

 ロマが顎でしゃくると、少女は示された方角に当てずっぽうのように手を伸ばした。頼りなく伸びた手に、太マジックで大きく『昨年度配布残部』と書かれた箱が当たった。

「ちげーって、それ去年の余りだから古いやつ。『今年度配布分』のなかの『第二班』て書いてあるやつから取んの」

 そう言い、ロマは盲目のような少女の手を掴んでぐいと引いた。彼女は掴まれたこと自体に驚いたらしく、悲鳴のような震えがロマの手にびりりと伝わった。

「きみ、もしかして俺の言ってること分かんない」

 ロマがそう言っても、彼女は緊張した表情を持続させて、ロマの顔のどこか一点を見つめるばかりだった。その凝視の先にあるのが、自分の舌であることにロマは薄々気づいた。

「漢字とか、読めねえか」

 少女はいきなり、上から手で押さえつけるようにロマの唇に触れた。段ボール箱に触った時と違い、それが何かを確かめようとする意志の圧力をロマは下唇に感じた。

後日、ロマは路上で、公民館で出会った少女が、他の黒い目の男たちとともに歩いているのを偶然に見かけた。晴天でも、彼らは揃いの藍色の雨合羽のような衣装を着ていたが、少女だけが頭に赤いスカーフを付けていた。道路の向う側に、白く染め抜かれた「賀正」の「賀」らしき部分が見えた。それは複数枚が繋がっているようだった。

(あの時の、……)

 ロマは自分たちがやった悪戯を思い出した。

 彼らは新品の在庫の段ボールばかりを選び、片端から開封していった。ロマが蹴って横倒しにし、手拭が淡い音を立てて零れるのを、少女はくっくと嬉し気に見つめた。

「お前オヤたちに言いつけないな、やってみろ」

 ロマは少女が、他の女の子のように大人に靡いたりせず、告げ口屋でなさそうなところと、言葉が通じないくせに反応が鋭いのが気に入った。少女はスカートの裾を持ち上げ、ロマの真似をして段ボールを蹴った。しかし上手く倒すことが出来ず、ロマが手拭を減らして箱を軽くしてやったりした。ロマが積み上げた段ボールを達磨落としのように連続して蹴落とすと、彼女は掌を打って喜びを露わにした。

 狭い事務室の床一面に、紅白の手拭が短冊のように入り乱れた。

「好きなの、好きなだけ持ってけよ」

 そうロマが言うと、少女は一瞬竦んだような表情の後、何かを調べるように手拭を片端から翻した。そしておろおろと重たげな瞳をさまよわせた。

「これ水色のはねーぞ。正月用だから、赤か白いやつしかない」

 そう言いつつ、ロマは自分でもなぜ少女の言わないことが分かるのか少し不思議だった。少女は黒い瞳を振り向け、ロマが赤い手拭のセロファンを破いているのを見て、真似して自分も毟り出した。

 それから彼女は、赤い手拭ばかりを狙って破いた。そして空き箱のなかに元の通り、セロファンを伸ばして綺麗に敷き詰め始めた。どうやら「紅白の手拭のうち赤だけは、中身が無くなっている」という悪戯を独りで始めたらしかった。

(こいつ、アホなのに、悪い) 

 ロマは男たちの輪のなかでは竦んでいるようだった少女が、独りで悪事を思いつくのを見て、惚れ惚れする気持ちで彼女に従った。

 その日、彼女が雨合羽の衣装の下に、笑いながら隠して持ち帰った手拭は今、貼り合わされるか縫い合わされるかして、彼女の髪を包んでゆらゆらと揺れていた。ロマは彼女の悪戯の工夫が、彼女の美しい髪を包んでいる光景を見て、友達の少年が素晴らしい悪事をし遂げたのを見たように嬉しくなった。

「おーい、……」

 ロマはそう叫んで手を振りつつ、あの遊びの時、少女の名前を聞かなかったことを思い出した。彼は仕方なく、全身で伸び上がって彼女に向かって両手を振った。

 少女はロマの姿に気づくと、ちょっと男たちの方を顧みた。男たちは相変わらず彼ら同士で、少女の届かない頭上で会話していた。彼女は声も出さずに、彼らの顎の方をじっと見つめていた。信号が変わり、男たちが大股で進みだすと、少女だけがやや遅れた。そして何かを掠めるように、ロマに向かって胸の辺りでちょっと手を振った。それから逃げるように男たちの群れのなかへと走って戻った。男の一人が彼女の後頭部に軽く触れたが、視線さえ向けなかった。

(あの子、……)ロマはつられて手を下ろしつつ思った。

(やっぱり他の誰とも喋ってない)


 それからロマは、しばらく少女に出会わなかった。彼らの一族が住んでいる地域は分かっていたが、子供たちだけで近づいてはいけないと言われていた。

 ロマはそれでも、しばしば黒い目の彼らを見る探検隊に加わっていたが、少女を見つけることはなかった。公民館も覗いてみたが、そこは日毎に働いていない黒い目の男たちの溜まり場になっていて、少女がいるらしい気配はなかった。

 ロマが少女に再会したのは、偶然に彼の家でだった。

 ある日ロマが外から帰ると、そこに赤いスカーフの少女がいた。彼女は胸に、町内会の回覧板を抱えていた。黒い目の人々は町内会に加わり、回覧板を回すルートにも入った。親切な人が翻訳文を加えることもあったが、大半の内容を彼らは読むことが出来なかった。少女は自分が読めない回覧板を、決まりに従ってロマの家に回しに来ていた。彼女なりに自分の持ち物が理解できないことに困り、立ち往生しているらしかったが、ロマの母親と、彼の親戚で姉のように同居しているリーザは、回覧板よりも異国の少女が来たことを喜び、人形のように精巧な顔を褒めたり、通じない言葉で話しかけたりして殆ど玩具にしていた。

 少女が振り返った時、その瞳には困惑の波紋が浮かんでいた。ロマは懐かしさで「あっ」と声を上げ、少女の身体を抱きしめた。

 彼にとってそれは別に恋ではなく、珍しい蝶々が飛んでいかないように手で抑えたただけだったが、傍で見ていたリーザは歓声に近い悲鳴を上げた。

 当の少女は、黙ったままロマの腕のなかにいた。ロマの腕に、濡れた藁が折れるようなか細い抵抗が伝わったが、ロマはそれを、蝶々が羽搏く程度の微かな反発にしか感じなかった。



(全然、なんにも……)

 少女と再会し、家に来るたびにロマが部屋に上げて遊ぶようになってから、ロマは想像した通り、彼女が自分たちの言葉を欠片も理解していないらしいことを知った。

靴、やトイレ、のような言葉も分からず、彼女が困惑の表情を浮かべるのを見てロマが、

「トイレなら、あっち」

と言ってやってもなお分からず、実際に便座まで手を引いてやり確かめるしかなかった。

 言葉が分からない以上、大概の遊びのルールも説明できず、遊びといえばボール遊びだとか折り紙だとか、手触りによって遊ぶことしか出来なかった。対等な遊び相手が欲しかったロマは多少の失望を感じつつ、美しい少女に手加減しながらボールを投げてやったりした。

 ロマはまた、彼女と交流する上で、珍しい努力をした。

「ボール」のほか「バード」とか、「ブック」とか、彼女の国の言語と思われる単語を、リーザに中学校の教科書を借りて覚えて、発音してみたりした。すべては彼女と「幼稚園児みたいな遊びよりマシな」遊びをし、意思疎通をしたいがための努力だった。

「バード、」とロマが飛び立つ雀を指しても、少女はまるで無反応だった。

(スズメって鳥じゃないのか、こいつの国で……)とロマは妙なことで納得しかけた。

 その時、雀の後を追って烏が飛んだ。ロマは咄嗟に少女の手を引いて揺さぶった。

「ほら、見ろ、あれ、バードだよ」

 少女は相変わらず、風が吹き通ったような顔つきでロマを見返した。それから喋っているロマの唇をぐいと指で押さえた。うるさい、と遮るようでもあったが、微かに困惑している黒い瞳を見ると、どうやら彼女自身はロマの要求に応えたつもりらしかった。

 上下の唇を押さえられて、アヒルのような口元にされつつロマは思った。

(これじゃいつになったら、)

 バードに石を投げて撃ち落として遊ぼう、と言えるのだろうか。


 またある時、別の小事件が起こった。

 ロマが電車の模型を掲げて少女と遊んでいると、みかんを盛った笊を抱えたリーザが来た。いくつかは口に入れたらしく、部屋に来た時から酸っぱい匂いがした。

「いっぱい貰ったから食べな、その子にもって」と彼女はくぐもった声で言い、みかんの雪崩れる笊で少女の座っている方を指した。

「食べる前に二人ともちゃんと手え洗えって、おばさんが」

「おい下行くぞ、下」とロマは階下を指しつつ少女を振り返った。

 少女はロマの指を見て、自分の指先をまじまじと見つめた。

「そうじゃなくて、食べる前に水道でちゃんと手洗えってこと」

 ロマは笑って彼女の手を取った。

 彼女の爪の先には、彼女の気にする通り血液のような赤い汚れがあった。

「何か触ったか」

 ロマは鋭く言ったが、彼女はのどかにロマから手を取り返し、爪に付いた赤い汚れを再びまじまじと見つめた。実際、彼女が汚しているのは爪先だけで、掌は人形の肌のように白かった。

 彼らは階下に降り、台所で順番に水道を使った。少女は自分の番になると、いきなり頭に赤い点の付いた方の蛇口を捻った。迸り出た熱湯の柱のなかに、少女は赤い汚れの付いた手を差し出した。

「痛い」

 と、そう叫んだようにロマには聞こえた。しかし実際には、もっと言葉にならない悲鳴であったらしかった。リーザは「熱い、熱いんだよそっちは」と叫び、少女の濡れた手をタオルのなかに引き取った。

 ロマは蛇口の上に、薄いシールの文字で、HOTと、COLDと書いてあるのを今さら目撃した。彼はこれまでそんな物を意識したことはなかったのだが、自国の言葉の世界に閉ざされているはずの少女の目に、それらが全く映らなかったらしいことを何か奇妙に感じた。

 ロマは再び熱湯を勢いよく出した。そしてすぐに己の手を突っ込んだ。

「熱っつ、……」

 二人の少女が同時に見返った。青と黒のそれぞれの瞳に、揃って驚きの波紋が浮かんだ。

「なー、こっちがホット、熱い、だよ」

 ロマは薄赤くなった手を流し台のなかに垂らしたまま、黒い瞳の少女に向かって言った。

「熱い、のは、危ないから、やめとけ」


「フィービーちゃん、」

 とリーザは、家に遊びに来るようになった少女のことを言った。少女が名乗らないうちから、彼女は自分が好きな名前を付けた。彼女は語呂合わせや言葉遊びを考えるのが好きで、他人の家のペットにすら自分が感じた特徴から勝手に呼び名を付けたりした。

 リーザが黒い瞳の少女に付けたのは、かつて流行した外国の少女の着せ替え人形の名前だった。ロマにはよく分からなかったが、リーザは確かに似ていると言い、彼女の顔を見て幼稚園の時、自分がそれを買ってもらえなくて泣いたことを思い出した、と言った。

「あの子さ、クサい」

 ロマは寝転んだままリーザの話を聞いていた。

「ねえ聞いてんの」

「聞いてるよ」

「最近さ、あんたの部屋に行くと匂うもの」

 リーザは雑誌をめくっていた手を止めて、顔の前で扇ぐ素振りをした。

「何つうか、お香みたいな。公民館行くとあの人たちの匂いするでしょ、でもなんかそれだけじゃないんだよね。あの子が来ると、それに何かが混じったような、いがらっぽい匂いする。あれって何? あの子の体臭? おばさんも言ってたけど、やっぱり食べてる物が違うせいなのか。ねえ、あの子んちってお風呂とかあんの?」

「聞いたことない。……」

 それどころか、ロマは依然として少女を会話らしいものをしたことがなかった。何か言えばロマの真似をするか、黙っているかで、人形の名前で呼ばれても風が吹き通ったような顔で何も言わず、無抵抗のままだった。時折竦んだ表情を見せる以上に、意見を表明するということもないため、いくら一緒に遊んでも彼女の正体について詳しくなることはなかった。

「ねえ、ないんじゃないの。貧乏そうだし。ねえ、お風呂とかちゃんと入ってないんじゃないの。あの子女の子なのに、いっつも同じ服着せられてるし、可哀想」

 そこに銭湯あるじゃん、こっちに来たばっかで知らないんなら、あんたが連れていってあげなよ、と、床で寝返りを打ちつつリーザは言った。

「……」

 ロマは寝転んで眺めていた漫画雑誌を、放って顔の上に屋根のように伏せた。

「リーザが連れてけば」

「えー嫌だ、面倒くさい。それにあの子、あんたにしか懐いてないから。私が部屋んなかにいても、ほぼ無視だし」

 リーザはそう言って立ち上がって部屋を出て行った。ロマはその提案が彼女の性格のどのような面から出たものかを察しつつ、床の上で転がった。

(なんで女を風呂に連れていかないといけねーんだよ。……)

 ロマは自分がそれをすることになると思いつつ、近所の少年の誰かにその姿を見られるぐらいなら、死んだ方がましだと思った。

 

 後日、ロマの母親は、フィービーが持ってきた手紙を見て声を上げた。

「綺麗な字ね」と彼女は言った。「何だ、こっちの言葉分かる人、ご家族にいるんじゃないの」

 ロマの母親もまた、フィービーの独特な匂いについて気にしており、リーザの勧めどおりに銭湯というものを教えることには反対しなかった。それもまた異文化交流の一つだろうと、町内会で働く彼女は子供たちになかった発想を付け加えた。

 しかしやはり、少女を銭湯に連れて行くに当たっては、銭湯が何であるかを説明した上で、保護者に了承を得るべきだとした。女たちは一晩かかって「銭湯」を説明する手紙を書き、大きく「YES・NO」と書いた返信の手紙を付けて、フィービーに持ち帰らせた。

 翌日、相変わらずの無表情でフィービーが持ってきた手紙には、「YES」の方に万年筆のような細いペンで丸が付けられ、「宜しくお願い致します」と丁寧な文字で書き添えられていた。

「お母さんかしら。達筆ね、全然こちらの人という感じ」

 ロマの母親は、声に多少の好意をにじませた声で言った。

「それならそうとお嬢さんも言ってくれればいいのに。お家の人がこうでも言葉分かんないものかしら。全然あちらの人に向かって書くような、馬鹿なことをしちゃった」

「早速オッケー出たって、良かったねロマ、その子とお風呂行っていいって」

 当のロマは、独り事態を理解していないように見える、フィービーの漠然とした顔つきに向かっていた。彼女は密かにあくびをかみ殺したようだった。ロマは、この場で誰よりも彼自身が窮地に陥っていることを伝えたいと思い、少女の肩を強く掴んで揺さぶった。彼女は零れそうな瞳を大きく開いた。

「セ、ン、ト、ウ、って分かるか、フロだよ、風呂」

 とロマは大きな声で言った。

「ホット、が出るんだ、熱い、だろ。お前、熱いの嫌だろ、俺もイヤだ、分かるか」

 少女はロマに急に揺さぶられて、ブランコに乗せられたように面白そうに笑った。それから聴こえないほど微かな声で、セントウ、と繰り返した。


 ロマは不機嫌なまま、藍色の暖簾の前に立っていた。そこには「ゆ」という文字が白く染め抜かれていた。それを漠然と見つめている少女の前で、ロマは怒ったように指さした。

「これさ、これ、こないだ触ったろ。ホット、だよ。熱い水がある。危ないんだ、だから、こっから先は俺の言うこと聞いてないと」

「ロマあ、何してんの」

 道路の向う側から、ロマの遊び友達が自転車に乗ったままロマに声をかけた。

「お前、あと三秒以内にあっち行かないと、後でぶん殴るから」

 ロマはしゃべんじゃねーぞ、と彼の背後に向かって叫んだ。ロマは自分の必死さも嫌になり、呆然としている少女の手を取ってずんずんとなかに入った。少女は無抵抗でついて来た。

 少女は紫色の風呂敷包のなかから、石鹸、桶などを選り分けた。それらはロマが見ても古風で、今時見かけないような代物だった。彼女はようやくかかってビーズの付いた小銭入れを取り出すと、そのままロマに渡した。ロマは自分の小銭と合わせて「子供二人」と言って番台のおばさんに四百円を渡した。

 おばさんの視線はすぐ、ロマから、背後にいるフィービーに移った。彼女は他人の視線にあうといつもそうだったが、ロマの背に隠れようとした。ロマは他人からこういう視線を向けられると身の竦む思いがした。出来ればここで少女を放り出して帰りたいぐらいだった。

「いいか、」とロマは少女の方に向き直ると、細い肩を掴んで揺さぶりつつ言った。

「今四時すぎ、四時って分かるか、時間だよ、あの時計がそう」

 そう言い、彼はおばさんの背後にある時計を指さした。彼女は嘆息しつつ何やら番台の上の紙に目を落とした。

「あれが五、五時になったら、またここに戻って来るんだ。俺、あっちに行ってるから。お前はあっち」

と言い、彼女を別の暖簾の方に向き直らせた。

 臙脂色の暖簾に「女」という文字が白く染め抜かれていた。

「分かっただろ。お前はあっち、あっちだから女だ。五時になったら、俺とここで会うんだよ。だからいったんここで別れよう、な」

 少女はロマが「五時」と言って指を開いている手に、己の手をパンと打ち付けた。それから脇をすり抜け、歓声を上げつつ藍色に白く「男」と染め抜かれた暖簾の方に走り込んだ。

「ちょっと、あんた」

 追いかけようとしたロマに、おばさんが声をかけた。

「あれあんたの妹?」

 ロマはそんなわけがないと思いつつ咄嗟に頷いた。おばさんは引き出しを音を立てて引き、なかから虹色のヘアゴムを取り出した。

「髪、ちゃんとこれで結わくようにお兄さんから言いな。はい三十円」

 ロマは少女の足取りが遠くなるのを感じつつ、小銭入れから必死に十円玉を取り出した。


 ロマが脱衣所に入ると、少女は既に全身の衣装を脱いで脱衣籠に入れるところだった。スカーフを取り外した髪が静電気で多少広がっていた。ロマは彼女の尻まで続く裸の背を見て目を逸らした。

(見ちゃ、いけない)

 言うまでもないこととして、ロマは自分を戒めた。実際、彼は女の裸を見たいと思うよりも単純に恐れていた。身内の女も怪物らしかったが、血の繋がりのない女はもっと得体が知れず、見れば黴菌がついて自分自身、何やら怪物に近づくような恐れさえ抱いていた。

(でも変質者とか、いるかもしれないし)

 ロマは少女の裸の足裏が、ひたひたと音を立てて浴場へ進む音を聞いた。慌てて追いかけようとしたが、彼女の裸の尻があるのを見て目を逸らした。もはや出て行って女湯へ行けとも言えず、ロマは急いで自分の服を脱ぎにかかり、半ば目をつぶってその後を追った。


 まだ午後の部が始まったばかりで、浴場のなかでは、湯船のなかに老人が一人いるきりだった。ロマは客が少ないことに安堵しつ、なお自分で言葉にし難い緊張を感じた。

 フィービーの白い裸が、浴場の隅にあった。彼女は持ち込んだ桶にお湯を張り、石鹸を泡立てて既に身体じゅうを泡だらけにしていた。ロマが入って来ても気づかず、手のなかで泡を作ることに没頭していた。

 ロマは彼女から少し離れた場所に座った。必死に見るまいとしつつ桶に張ったお湯を頭から被った。ざぶり、とフィービーもお湯を被る音がし、黒いタイルの上を豊富に泡が流れて来た。

 ふと、お湯を流す音が途切れた。ロマが見ると、濡れた黒い髪を頬に貼り付け、蛇口の方を見て俯いたまま、何か困惑している横顔があった。

 ロマはびしゃびしゃと足音を立てて近づき「ん、」と言って虹色のヘアゴムを差し出した。なぜか頬にまで泡を付けている顔のなかで、濡れたように目立つ黒い瞳が瞬いた。

「これ、しろって、おばさんが」

 とロマが震える声で目を逸らしつつ言うと、彼女の泡のついた指先がロマの指先に来た。ぬるりと虹色のヘアゴムが外されると、ロマは逃げるように湯船のなかに飛び込んだ。

 張られた湯は、ガラスに飛び込んだように感じられるぐらい熱かった。瞼やこめかみまでがみるみる真っ赤になるのが感じられた。ロマの脳裏には先ほど見た、自分が殺されることを知らない蝸牛のような、鈍重で何の警戒心もない、フィービーの黒い瞳の残像が火のように明らかに閃いた。

(何であいつ、平気なんだよ)

 とロマは全身に針のように刺さる熱さを感じつつ思った。それから水面に頭を出した。遠くてフィービーが桶を逆さに伏せる硬い音が響いた。

 彼はふと、自分が抵抗を感じているその状況の、全てが奇妙であることに気づいた。

 ついさっき、彼はフィービーが勝手に行動して、まるで警戒心がないことを訝しんだが、普段の彼女は逆だった。フィービーは警戒心が強く、ロマが誘っても知らない場所には行きたがらなかった。人見知りも激しく、他人の視線からいつも隠れようとしていた。物音にも敏感で、ロマの家でもリーザの足音にいち早く気づいて、何かを促すような視線を向けてきたりした。いつも耳をそばだてて暮らしているかのようで、ロマは彼女のことを臆病だと思っていた。

 しかし今現実に、彼女はロマのことなど忘れたように、彼女のいるべきでない方に独りで飛び込み、ロマを置き去りにして悠々と身体を洗っていた。どんな状況にも自ら飛び込まず、ロマの背後からついていくか、彼のいる位置を確認してから歩きだしていたような慎重な彼女が、このように独りで平気で行動していること自体が見慣れないものだった。彼女が裸であること以前に、そのことがまずロマの調子を狂わせていた。

(前にも、来たことあるのかも)

 ロマはお湯に浸かりつつそんなことを思った。もしそうであれば、様々なことの説明がつくような気がした。

 フィービーはロマに手を引かれていたとは言え、何の躊躇いもなく銭湯に来た。いつも後を追ってくるのでロマは警戒して別れようとしたのに、彼女はまるで先回りするように男湯へと飛び込んでしまった。「男」という字を知らないはずの彼女が、何の迷いもなくそちらに飛び込んだのは、男は藍色の暖簾をくぐると経験から知っていたからではないか。

 またロマは、黒い目の女性は外出が滅多に許されない、という噂のことを思い出した。今度の銭湯行きについて、彼女が母親らしい女性から貰ってきた「宜しくお願い致します」という返事からも、彼女自身は家から出て来ない気配が感じられた。

しかし現実に、フィービーは公民館にもいたし、度々回覧板を持ってロマの家にも現れた。また脱衣所が服を脱ぐ場所だと分かったり、桶と石鹸を使って身体を洗えたりという、日頃の彼女にはない行動の滑らかさからも、彼女はこれまでに銭湯の男湯にも連れられて来ていたのではないか、と思われた。

(なんだあいつ、『女の人』じゃないんだ)

 ロマはそう結論づけてざぶりとお湯に頭を沈めた。また沈没しないように湯から顔を出した。

(結構外に出られてるし、風呂も平気でこっちの方に来てるし、たぶんまだ子供だからだろうな。だからまだ、男に混じってあちこち連れ出してもらえるんだ。あいつ一人だけガキだから、相手にされてないのかもしれない)

 周りがあんな大人ばっかりだったら、遊ぶ相手とかもいないかもな、とロマはそのことに同情しつつ、再び湯のなかに潜った。そして伸び上がると、遊び仲間を見るように彼女の方を見た。

 濡れた髪を揃えて肩の前に垂らし、三角に裂けたうなじと、裸の白い背中がそこにあった。何かを思案しているらしくその身体は動かず、白い肩甲骨がやや放恣に開いていた。ロマはその中間に「女」という字が真っ赤に染めだされているのを幻に見た。

(あいつ、やっぱり、こっちにいたら駄目だ――)

 ロマは自分の目を濯ぐように再び湯のなかに潜った。同じ浴槽にいた老人が迷惑そうにくしゃみをした。

 ロマは意を決して湯船から出ると、天井の一隅を見つめつつ、何の警戒心もなく座っている少女の方へと向かった。他人の来ないうちに、早く男湯から追放しないといけない。ロマが近づくと、彼女はふと思案を止めた様子で、頭に赤い印のついた蛇口に手を置いた。シャワーヘッドは彼女の顔に向けて固定されていて、細くお湯が出ており、彼女は増やした熱湯を顔にまともに浴びようとしていた。

「あっ」

 ロマは声をあげて、少女の手に自分の手を重ねた。彼女は背後から来た手に驚いて、全身で振り返った。

「駄目だ、こっちは、『熱い』から――」

 そう言ってロマは頭に青い印のある蛇口を捻った。彼の顔に殆ど冷水に近い水が来た。ロマは慌てて赤い方の、彼女が手を置いている蛇口の方へと縋るように手を遣った。

 少年は睫毛に水を滴らせつつ、黒い瞳で、まだ混乱しているロマの顔つきを面白そうに見上げた。そしてロマが重ねている手の下で、自分の手をわずかに右に向けた。ロマの顔にぶつかる水にふいに熱さが増したが、ロマは何と叫んだらいいのか一瞬忘れた。

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