第二章
「今後出ししただろ」
そう言った後、ロマは自分の怒ったような声音に、自分で怯んだ。彼は自分の屈託を握りしめるように、パーの掌を閉じた。
そんなに不満を露わにする気はなかった。彼はこの状況に対し、毅然としていなくてはならないように思ったが、あまり頭を上げすぎても、自分がこの先信じられなくなる気がした。
ふと、リーザに対して言う言葉が鋭くなった。彼は咄嗟にそのことを後悔した。こんな時に限って、彼の姉代わりであるリーザはいつものように叱り飛ばしてくれない。
「してないよ」
彼女は抑揚のない声でぽつりと言った。
それから彼らの前を、慌ただしく看護師が通過した。リーザは手持無沙汰に、自分が出したチョキを検分するようにひっくり返して眺めた。そのいつにない緩慢さに、彼らの共有する事態の深刻さが滲んでいるような気がして、ロマは彼女が恨めしくなった。
リーザはコートのポケットのなかの千円札を取り出した。折れたのが淡い音を立てて二枚出た。
「どのみち足りないんだからさ。会計になるまでに諦めてあんた、家から取ってきなよ。まだ相当時間かかると思う。さっき点滴の袋見たけど、全然捗ってなかった」
ロマは低く舌打ちした。その音が磨かれた廊下の上を滑った。
『二十一番の方、二十二番の方、二十三番の方どうぞ』という仏頂面の呼び出しの声が廊下に響いた。病院にいる患者、またその家族たちは、皆それぞれの事情や痛みや症状に没頭しており、小学生と中学生の少年と少女が寒そうに、保険証がない場合にかかる診察料について想像を巡らしていることに注意を払う人はいなかった。
「私ら十三番だったから、もう大分経つね」
彼女はもはや、ロマが運んできた患者のことを「あの子」とも、呼び慣れた通りに「あのお嬢さん」とも言わなかった。それが別に、この度の騒動で彼女が知った事実が原因ではないことをロマは知っていた。緊急事態の世話をし、問題としての「あの子」の手触りに精通した結果、他人が人間ではなく己の粗相のように感じられるようになっただけだ。そのことを、ロマは身内の女たちに接触した経験から知っていた。今やあの奇妙な少年はリーザにとってよその子供ではなく、己の皮膚の上の小さな腫物だった。ロマにとって何であるかはまだ分からず、その点で彼はリーザが羨ましくもなり、己のその羨望をすぐ後悔した。
二十二番の患者が、車椅子を動かせずに廊下で立ち往生しているのを、彼らは同時に見つけた。彼らの前を、看護師が慌ただしく通って高い声を上げ、彼の車輪を軋ませて連れ去った。ロマとリーザはとうとう無言のうちに眺め終えた。彼らは自分たちが軽い興奮状態にあることと、二人してなるべく音を立てずにこの状況を乗り切ろうとしていることを、訪れた沈黙のなかで確認した。取り急ぎ、会計時に請求されるであろう、彼らの見たことのないような診察料について考えを巡らすことが、彼ら二人のその場凌ぎの鎮静剤だった。
二十二番の患者の黄色いセーターの背がドアのなかに収まると、リーザが制服の裾を翻して立った。
「点滴終わったかな、見てくる」
羽搏くように彼女が去った後、ロマは、先ほど彼女から渡された薄緑色の封筒を、溜息とともに握りしめた。
〇
思えば、最初に群れから投げつけられたのは、煉瓦だった。
ばん、と鋭い音がして、それは彼らの間にある画用紙の上に降った。ガラスが割れて、辺りに悲鳴のように砕け散った。ロマが見ると、フィービーは座ったまま、微かな驚きを上半身に浮かべ、画用紙から一歩向こうへと退いていた。彼はスカーフから髪を一筋垂らし、そっと画用紙の方へと屈むと、細い指で紙の上の煉瓦を持ち上げて転がした。乾いた泥が、淡い音を立てて画用紙の上に落ちた。
ロマは足音を響かせて、階段を駆け下りた。
「てめえら動くんじゃねえぞ、今出てってやる」
四、五人の少年たちが、散り散りになって逃げ去ろうとしているところだった。彼らは卑猥な笑い声を立て、慌ただしくそれぞれの自転車に飛び乗って動いた。
ロマは小石を拾い、全身を使って彼らの背に向かって投げた。群れの一台が辛うじて避け、群れから歓声が上がった。荷台の少年が振り返り、何やら空中で踊るような手真似をした。
「フィービー、出てくんな」
少年の意地悪な合図で、ロマは窓からフィービーが自分を見下ろしていることを知った。割れた窓の隙間から、フィービーは穴が開いたような顔でこちらを見ていた。つい寒気を感じるほどに、彼の顔は窓のガラス越しに人形のように整って見えた。
フィービーは勢いをつけて、窓を引いたようだった。ガツッガツ、という鈍い衝突音がした。ロマは、窓の桟に溢れているガラスの破片の姿を目のなかに浮かべて、二階へと走った。
半分はロマが悪かった。しかし残りの半分は、誰がやっても同じことのように思われた。
フィービーには、雄の群れに入る資格が、櫛の歯が欠けているようになかった。
彼の「正体」を知ると、ロマは自分のいる少年の群れに彼を「新しい友達」として紹介した。もちろん群れの仲間に加えてもらうつもりだったのだが、少年たちは異国から来たらしい少女を仲間に入れることに反対した。ロマがいくら、これは男だと言っても、彼らは女に見えるものを信用しなかった。結局、ロマよりも年下の少年の位置に入れてもらえるようになり、ロマはそのことを喜んだが、フィービーはこの地位を好かないようだった。
また、彼らが群れでする遊びに、フィービーはついて来られなかった。物音を聞き分けることは出来ても、臆病すぎるためかその場で竦んでいるばかりだった。遊びのなかで走り回るだけの体力も、飛んできたボールに咄嗟に反応する反射神経もなかった。彼にそのあだ名を付けたリーザは、フィービーの鈍重さを知るや「本物のお人形さんだ」とからかった。実際、彼はその顔立ちがそのように見える以上に、人間と思われないほど反射神経が鈍かった。
少年たちの遊びでは、群れの呼吸を咄嗟に呑み込んで動くことが出来なければ、脱落させられてしまうものがいくつもあった。合図があっても、いつもフィービーは出遅れた。彼は鬼ごっこのルールも分からず、走り回る少年たちの動きを、魚群でも眺めるように見ていた。言葉で指示しても通じないから、ロマがいちいち手を引いた。彼の足取りはそれでも重く、また言葉を理解しようとしている、というよりは、目に焼きついてしまった運動の残像を始末しようともがいているようだった。
やがて、フィービーは他の少年たちから疎まれるようになった。ただの兵隊として群れと同時に身動きできないというのが、容姿以上に彼が雄を失格した大きな原因だった。
またロマが見たところ、フィービーは彼といる時は、多少能動的に反応するようだった。しかし彼が認めているのはロマだけで、他の少年にはロマに対する信頼の欠片ほども示さなかった。とりわけ鬼ごっこの少年たちを見つめていた眼差しから、ロマは彼が、町の少年を彼自身と同種などと全く感じていないらしいことを直感した。彼はまるで魚でも見るように町の少年たちを見ていた。それが肌の色のせいか、目の色のせいなのか、とにかく彼は群れに入れずに傍観していたのではなく、それが自分とは別の生き物の群れであると思って平然と見下ろしているような様子だった。
フィービーの認識が事実そうであるなら、ロマにとって悲劇的なことに思われた。フィービーがどこから来たにせよ、この町で生きていくには、町の少年たちの仲間の群れに入るより仕方がないのに。またロマが銭湯に連れて行くように手を引いて、群れの雄のいる水辺に引き入れても、彼自身がそこで自分を魚と思って泳がなければ、結局水辺にいないのと同じだった。群れの水から離れて、この町で彼は干からびずに生きていかれるのだろうか? ボール遊びも鬼ごっこも出来ず、独りで道を歩くことすら覚束ない彼が? ……
ロマは、自分にとって大切な群れと、新たに手に入れた大切な少年を引き合わせた結果、共存するどころか、むしろ互いに仲間でないものと認め合ってしまった結果に、彼自身の失敗と、また言いようのない運命の手触りを感じた。
他方でロマには、フィービーを拒んだ群れの少年にはない条件があるのも事実だった。
銭湯で偶然にフィービーの正体を見たせいで、ロマは他人に説得されることもなく、彼は自分たちと同種なのだと直感的に思うことが出来た。ロマは思想や思い遣り以前に、自身の体験を信じる気持ちから、この少女の首を持つ少年を自分たちと同じなのだと言い張った。しかし他の少年にしてみれば、ロマは幽霊を見たと言い張っているようなものだった。
群れの少年たちはロマが嘘をついているだけでなく、自分たちの仲間でない者の味方をしているとして、ロマに制裁を加えた。ロマ自身は反発し、反撃するだけの力があったが、フィービーはそうでなかった。彼は群れの最も年少の少年からさえ、犬を追うように露骨に虐められた。見つけられれば小石を投げられ、やがてそれは煉瓦ほどの大きさになって、ロマの家の窓にまで飛んできた。
時折ロマは、路上で、公園の近くで、彼らの共有する水飲み場の付近で、フィービーが人目に付かないように小さく蹲りながら、スカーフから髪を零して泣いているのを見つけた。ごく稀に、ロマに懐いている年下の少年が、密かに指して知らせることもあった。
大方想像はつくと思いながら、ロマは辺りを憚る声でフィービーに尋ねた。
「誰にやられた?」
そういう時、フィービーは俯いて、睫毛の影を頬に落として泣くばかりで、何も返事しなかった。この町に来て数か月が経つはずなのに、彼は理解が出来ないのか、警戒心が強いだけなのか、依然として何の言葉も口にしなかった。
「言えよ、俺がそいつ殴ってやるから」
そう言いながら、ロマは自分ではっきり得体のしれない好奇心が、少年の味方をする行為のなかへ浸透していくのを感じた。彼が守ろうとしているフィービーは、ロマの見たところ、単に弱いばかりの生き物ではなかった。近くで見ると彼の瞳は、彼の全身の反応と違う動きをすることがあった。黒い瞳は相変らず秘めやかな闇で満たされていたが、時折ロマの言葉に応じるように光る時があった。
ロマはそれを見る度、フィービーに本当は、己の話す言葉は全て通じているのではないかと感じた。彼はその光の正体として、いつしか少年の瞳の奥に、彼から見た外側の世界を正確に記録している素晴らしい機械の姿を夢見るようになった。いつか少年が自ら言葉を発した時、近くにいれば、その機械が動き出す音が聴こえるかもしれない……。
他方、ロマは警戒心の強い友達が明かそうとしないことを想像すること自体に、何となく罪を感じて恥ずかしくなりもした。ロマは「殴る」という行為を伝えるため、拳を突き出してそっと彼に握らせた。敵の名前を言え、とは言ったものの、密かに感じる罪悪感のために二度は促さなかった。
フィービーはその手をスカーフで包み込んだ。それが彼にとってどんな言語であるのか、分からないままロマは眺めた。フィービーは布の上からロマの手の甲を爪で引っ掻いた。彼の返事はそれきりだった。
それから、ロマに対しフィービーは多少方法が違っても、手を抓る程度の反応しか返さなかった。その都度、ロマは適当に目星を付けた相手を個人的に制裁した。
フィービーを目の敵にして虐めるようになった少年たちは、やがて彼らの度々行く銭湯にもついて来た。彼らは裏切り者のロマの証言より、群れで共有する想像の方を信じたから、フィービーが女湯に入ると思っていた。
彼らは道中、盛んにロマとフィービーの二人連れを囃し立てた。彼らは勿論フィービーを標的にしていたが、それは性的な関心というよりは「黒い目」であり「女」でもあるという、彼らにとっては二重の異人種に対する、より純粋で残酷な好奇心に駆られてのことだった。
「黒い目」の人々の身体については、日光を避ける雨合羽に覆われていたことが災いし、少年たちの想像から生まれた色々な伝説が流布されていた。まず、彼らは背中一面に刺青を彫っている。また身体のどこかに宝石を嵌め込む装飾をしている。これは戦闘で負った傷を塞ぐための処置であり、宝石の大きさは勲章の大きさである。また彼らの舌は幼少期に行う儀式のために、先端が蛇のように二股に分かれている……。
彼らにとっては、女の身体についても同様だった。膨らんだ乳房、男性器がない股、他方で股には男の身体にはない部品がぶら下がっている、とも噂があったが、実際に見たという者はいなかった。また少年たちは見ることで、見た物で汚れるような迷信を共有していた。女の裸体を見ることは、彼らにとって伝染病に罹ることのようなもので、見れば群れの少年にとって重要な資格である「揃いの清潔さ」を失った者として、忌み嫌われ追放される。そのことは数々の小事件を経た後、十二歳以下の少年たちの共通認識となっていた。
刺青、宝石、舌、あるんだろ、隠してないで見せろよ――黒い目の女ァ、と言ってフィービーはからかわれた。フィービーは相変わらず、小雨の降るような曖昧な表情でいたが、ロマは群れの少年たちの無知に呆れる思いがした。また見れば彼らは自分たちが死ぬと思っている。彼らは毒のある虫をつつくように、遠巻きに執拗に彼をからかうのだった。
一方、フィービーは自分が標的にされていることは分かっているらしかったが、ロマがいる手前、暴力を振るわれることがなければ、別段泣きも怒りもしなかった。彼は臆病なようでいて、危険の際を見極めると至極冷静になるところがあった。道路の向う側で囃し立てる彼らを見つめ返すフィービーの冷静さと、嘘を信じて騒ぐ少年たちとの対比は、ロマの目に痛々しく鮮やかに映った。ロマは暴力でないものが、群れ全体に漲る暴力と互角に対峙するのを初めて見た。
(馬鹿なあいつら、そんなに気になるなら見ればいいんだ)と内心ロマは思った。
(あいつらこそ、本当は怖いんだ。自分が思ってるものとフィービーが違うのを分かっちゃうことが。フィービーは弱くない。銭湯でも誰が見ようが気にしちゃいないし、別に逃げたり隠れたりしちゃいない。顔は違うけど、俺たちと同じなんだって見れば分かる。あいつらが石を投げてる相手は、フィービーじゃない、あいつらの頭のなかにしかいない化け物だ――)
実際、銭湯に来るとフィービーは最初の時と同様、浴場で他人の目をまるで気にしなかった。時折、彼を見てぎょっとする人がいたが、彼自身は何ら反応を返さなかった。異国の言葉を理解しないように、裸身になった彼は「見られる」ことを自分の側で解消してしまうことで、他人との間にも成立させなかった。その淀みのなさは他人への無関心というより、自分が誰かに「見られる」ことは起こりえないという自信の表れのようにも見えた。
愚かな少年たちの想像と違い、彼の裸は恐ろしさと無縁だった。ロマは珍しさと美しさのためにフィービーに見惚れた。黒い髪の下の白い背中、筋肉の隆起がまるでない胴、植物の茎のような細い手足。藍色の衣装の下では陶器のように白く見える皮膚は、浴場の柔らかい灯りの下では、底流に潜んでいる砂色が照らし出されて淡い黄金色のように見えた。
少年の裸身は、彼の瞳そのものに似ていた。他人の目に晒されていながら、それを見ようとする者が衝突するのは、内部に満潮している細やかな暗闇だった。またその見えない奥深くに、何か鋭い反射を秘めている気配がありつつも、その暗闇が垂幕となって外部の視線が浸透することを拒んでいた。またロマは、彼の瞳の表面に、理性の表出ではないかと疑っている一筋の輝きが表れる時、それと連動して彼の体内で別の反応が起こっているように感じることがあった。しかしいくら眺めてみても、彼がその暗い身体のなかに何を隠しているのか、正体を見分けることは出来なかった。また彼に直接尋ねてみようにも、言葉のまるで通じない友達に、言葉でも掴みかねるような幻を何と説明したらいいのか分からず、ロマは友達に見える幻の正体について時折独りで煩悶した。
(風呂にいる時、あいつは何か)と、ロマは己が内部を見通せない暗い小部屋のことを思った。
(まるで黙ってるみたいだ)
銭湯のなかでは滅多な遊びは出来なかったが、一つだけフィービーが始めた「遊び」があった。
彼は肩を越すほどの黒髪を大切そうに洗った後、いつもロマよりも先に浴場を出た。髪を乾かすためだったが、身繕いにかかるとロマを忘れるようだった。いつも忽然といなくなった後で、ロマが慌てて後を追った。
ある時、ロマが脱衣所へ行くと、フィービーが洗面台に居眠りするように俯せていた。身に着けた藍色の衣装が、水を吸って背中まで黒く染まっていた。
「何やってんだよ、フィービー、」ロマは慌てて彼を揺り起こした。「こんな所で寝るなって、うわ、背中びちゃびちゃじゃん、」
彼はフィービーの濡れた髪を束で掴み上げた。白い横顔が半月のように表れた。黒い蜂蜜を含んだような片目がちらと動き、またどこか空中の一点へと戻った。
ロマは内心たじろぎつつ、「言っただろ、これ、使えってば」と言い、傍らのドライヤーを掴んだ。フィービーは息をしていないかのように動かず、仕方なしにロマは自分でスイッチを入れた。ロマは友達を促して、竹製の椅子に座り直させた。それから黒い髪を一房ずつ掬い上げて、作り物のように見える耳の後ろから熱風を当てた。黒髪の下に仄々と首筋の白さが見え、それが裸の背中に続いていると思うと、ロマは手に多少の震えが来るのを感じた。
ふと気づくと、鏡のなかの少年は掠めるようにこちらを見、また元の眠たげな表情のなかに視線の先を埋めるところだった。
ロマは自分が征服されたことを感じた。日頃、お人形さんと言われるぐらい反応の鈍い彼が、ロマが震えを感じた一瞬を見逃さず、しかもそうした己の鋭敏さを咄嗟に隠そうとしたというのは、ロマにとって予想もしない光景だった。
少年たちの世界で、恐れを感じた瞬間を捉えられるというのは、序列が決まる瞬間でもあった。それにしても彼が奇妙なのは、相手を征服した瞬間、相手にそのことを知らしめるどころか、逆に隠そうとした点だった。征服者としてのフィービーの不思議な態度は、序列を明確にしたがる少年の群れで生活してきたロマが、初めて見るものだった。
ロマはドライヤーの手を止め、彼の髪を一掴みにして力任せに引っ張った。フィービーは小さく悲鳴を上げた。そして凄まじい勢いでロマの手を髪から払い落とすと、今度は明らかに下位の少年を責める目つきで、鏡のなかからはっきりとロマを睨みつけた。ロマは内心「やっぱりそうか、」と思った。
それから、彼らの間でこの「遊び」は続けられた。
ロマが気づくと、フィービーは浴場を抜け出していて、洗面台に伏せって笑みを含んだ目でロマを見ている。先に洗面台を取られると、ロマは負けた者として着替えまでも手伝ってやらなくてはならない。ロマが先に洗面台を取った時は、立場が逆になった。しかしロマはフィービーに勝っても、ドライヤーで顔に熱風を当てられたり、ロッカーの鍵を屑籠に捨てられたりした。ロマは次第に勝つ方が嫌になり、己の抱える我儘な美しい少年を勝たせて喜ばせる方を選ぶようになった。
「遊び」での関係は、次第に日常の生活での関係にも浸透していった。ロマは負けてもいなくても、彼のちょっとした合図に応じて彼を手伝ってやることに疑問を持たなくなった。またそういう関係が出来てからも、ロマは時折、彼が最初に自分を征服した時の光景を思い浮かべた。
暴力を振るうでもなく、ただ死体のように倒れて、ちょっと目を動かしただけである。そんな仕方で、一瞬のうちに自分を捻じ伏せた少年は、彼が初めてだった。
またそのやり方は、ロマの感じる限り、他の少年には真似が出来なさそうなものだった。それには力ではなく、途方もない、縁の感じられないほどの、豊かな美しさが備わっていなくてはならないようだったが、フィービーほど美しさを湛えている少年は他に見たことがなかった。
一方、ロマはただ美しさに惹かれるのなら、いずれ少女の方に惹かれていただろうが、彼自身自覚していたこととして、少女よりもフィービーの方が遙かに好きだった。そのことは、ロマが美しさに惹かれることはあっても、本能的に強さの方を愛することに由来していた。もしフィービーがただの群れの弱者であれば、いずれ小動物を虐めることに飽きるように捨てていただろうが、ある時捻じ伏せられたことで、己の本能から来る衝動で彼を愛することが出来た。
ロマにとってこの恋は、残酷な遊びに惹かれるのと同様の衝動から来ていて、新しいものではなかった。なまじ己の愛の性格を見知っていただけに、彼は次第に愛の対象に欲を出すようになった。フィービーにこの愛らしい容貌に匹敵するだけの、残酷さが心臓から来る血のように豊かに通っていてくれたらいいのに。そうであればより一層嬉しいのに――。愚かな少年たちの噂にあった刺青や、宝石を埋めた輝かしい裂傷、痛々しく裂かれた舌。それらは残虐性の証明のようだったから、皆嘘であることがロマには残念なぐらいだった。彼が見つけたのは恐ろしいが、何の裂傷もない、ただの完璧な黒い瞳だった。
ロマは初め、フィービーを群れに加え損ねたことを残念に感じたものの、次第にこの特殊な武器を持つ愛らしい暴君を独占していることに幸福を感じるようになった。
また、ロマがフィービーに負けることに慣れてからも、ロマ自身、気づいていないことがあった。それはフィービーが彼を睨んで征服する時、大抵鏡越しであることだった。ロマが鏡を見ると、いつも彼は鏡のなかで既に怒っていた。その眦に、黒い蜜のように甘そうな彼の怒りがたっぷりと滲んでいる。ロマはそれを見るのが嬉しくて、彼がいつから自分をそうして観察していたのかという些事を考えることをいつも忘れた。
◯
冬休みが終わって三学期が始まると、ロマは次第に学校の友達と遊ぶことが多くなった。二月に入る頃には、一通りの制裁が済んだようだった。ロマの方も、フィービーを排斥したとは言え、群れが憎いわけではなく、また群れの方でも女さえいなければロマが憎いわけではないから、彼を迎え入れることに抵抗があるわけではなかった。次第に交流の脈が復活していった。
群れの友達といると、フィービーが近寄ってこないことを、ロマは次第に感じ取って知った。ロマがフィービーを見つけてすぐさま群れを抜けていっても、フィービーは慌てて逃げ出すだけだった。他方、フィービーの方でロマを捨てたわけではないらしく、ロマが学校から戻ると、リーザが薄笑いを浮かべて「来てるよ」と家の後ろを指すことがあった。
ある日、フィービーが回覧板を持ってロマの家に来た。群れの友達と遊びに出かけるところだったロマは、訪れたフィービーの視線を感じつつ、靴紐を結びながら彼に話しかけた。
「フィービー、お前、学校は」
彼はプラスチック製の回覧板を胸に抱えて軋むように黙った。
「三学期始まったじゃん、お前、学校とか行かなくていいのか」
そう尋ねつつもロマは内心、推測していることがあった。ロマが彼を見かけるのはあくまでも近所だけで、移民の生徒もいるロマの小学校の付近では、姿を全く見たことがない。また、この町へ来て数か月が経つはずだったが、フィービーは相変わらず回覧板の中身を一文字も読めなかった。
(たぶん、そういうのないんだ。……)と、ロマは群れにいる仲間との違いをまた見つけつつあった。小学校というのは要するに、群れの仲間の巣でもあった。靴を履き終わると、ロマは立ち上がってフィービーに寄った。巣がない彼は、そう言えば何の雛なのだろう。
「お前、歳いくつだっけ? 俺と同じぐらい? 五年? たぶん六年とかじゃないよな」
ロマは掌を掲げて、少年の長い睫毛が触れそうなほど顔を近づけた。目の高さは変わらず、背丈はちょうど同じぐらいらしかった。フィービーは少し後ずさりした。
彼に出会った正月の後、夢のように冬休みが終わり、日常に戻って仲間と群れるようになると、ロマはこの不思議な少年の正体のなさを一層はっきりと感じた。フィービーは笑ったり小さく叫んだりすることはあっても、言葉を話さないため、自分について説明したことがなかった。フィービーという揶揄を含んだあだ名でさえ、彼が否定しないためとうとう本名に代わって定着してしまっていた。実際のところ、彼についてロマが正確に知っているのは、背丈が変わらないことと、後は性別ぐらいだった。
ふいにごつり、と鈍い音がした。ロマは背後から押された勢いで、フィービーの額に自分が額を打ちつけたのに気がついた。後からリーザの低い笑い声が聴こえた。
「チューするかと思ったのに」
「馬鹿、痛えな何すんだよ」
「何だ、まだチューもしてないの君たち。ねえフィービーちゃん、あんた毎日暇でしょ、明日からロマに学校連れてってもらいな」
リーザはそう言うと、誰の返事も待たずにさっさと玄関から奥へと去った。やがてリビングから低くテレビの音が流れてきた。
「ロマ、あんたは知らないのかもしんないけど」と、リーザの怒鳴るような声が廊下に響いた。「あんたが学校行ってていない時も、しょっちゅうウチに来てんだってよ、その子。言っても聞かないって、おばさんが嘆いてた。学校始まっても、冬休みん時と同じようにうちにいると思ってんでしょ。あんたも別に用事あるわけじゃないし、暇じゃん。その子、あんたにくっついてたいんだから、相手してあげなよ。学校行ってないんなら、あんたが連れてってあげればいいじゃん」
リーザが爆笑する声が響いた。自分の言ったことと関わりなく、テレビ番組の内容に夢中になっているらしいことは、流れて来る音の気配で知れた。
ロマは、フィービーが理解していないことを期待しつつ、彼を見た。フィービーはスカーフの先をくしゃくしゃに丸めて、ぶつかった額の真ん中に当てていた。彼がどんな表情で今の内容を聞いたのか、赤いスカーフの濃い影が重なってよく見えなかった。
翌日、ロマは頭に鈍い痛みを感じて目が覚めた。
枕元に、パジャマ姿のリーザが長い金髪を垂らして立っていた。ロマの頭を蹴飛ばしてなお怒り足りないらしく、枕を引き抜いてロマの頭めがけて振り下ろして来た。ロマは目覚まし時計を彼女めがけて投げつけたが、手応えなく床にごとりと落ちた。
「痛ってえなババア、何すんだよいきなり」
「あんたさ、」とリーザは舌打ちするように息をひそめて、顔を近づけてきて言った。
「ここへ何時に来いっつったの? ――お姫様、もう下に来ちゃってるよ」
ロマは跳ね起きた。リーザに向かって投げた時計が、倒れたまま五時前を指していた。彼は廊下に走り出て、飛ぶように階段を駆け下りた。
(フィービー、何だと思ったんだ)
ロマは、ふと自分がそういう想像に慣れていることに気づいたが、見る前から彼が水から上がったような悲惨な姿でいることを思い浮かべた。
フィービーは、ドアから少し離れた所で、風呂敷包を胸いっぱいに抱えて立っていた。ロマが駆け寄ると、安堵したらしい表情を浮かべて白い息を吐いた。彼は茶色の手袋をはめた手で、風呂敷包から零れそうになる石鹸や手桶をしきりと奥へと押し戻していた。
ロマは咄嗟に何と言ったらいいのか分からず、現れた友達をその場で握りつぶすように抱きしめた。風呂敷包の底で石鹸が少し動いた。彼らの間にどちらのものともつかない白い息が立った。
白々と夜が明けて、ロマの家のなかにも次第に平穏な朝の光が満ちて来た。
その間、フィービーは風呂敷包を抱えたまま、玄関の隅に立っていた。
ロマ、リーザ、またロマの母親が忙しく立ち働きだす間、フィービーはまたも少年の群れに入れない時のように隅で立ち尽くしていた。ロマが目の前を通ると、フィービーは何か話しかけたそうにしたが、常にリーザに遮られた。ロマはフィービーに手を伸ばしてやりたかったが、いつも習慣の少し脇に立っている少年に、女たちと揉み合いつつどう近づいていいのか分からないままに学校へ行く支度をした。
リーザの方が、支度にかかりながらもよくフィービーを見ていた。彼が外套の下で密かに靴を脱ぎ、玄関から上がり込もうとした時、リーザは廊下にあった電話帳を取って彼に投げつけた。それは彼の胸に当たって靴の上に落ちた。彼は水をかけられた犬のように怯んだ。
「そこ立ってなって言ったじゃん。勝手に入ってきたら駄目だよ。そこ玄関、ゲンカンていうの分かる? そこの家の人が入っていいって言うまで、そこから上がっちゃ駄目。あんたん家でもそうでしょ、そうじゃない?」
フィービーは挑むような目つきでリーザを見返した。リーザは目の端で、フィービーがこの時足踏みをしているのを見つけた。
ロマは二階にいて、この女たちの遣り取りの気配を聞いていた。彼は二階の手摺から「リーザ、」と彼女を呼んだ。フィービーがどこか期待に満ちた目で二階を見上げるのを、リーザはうんざりだという態度で眺めた。
「ここに置いてあった俺の体操着袋は?」
「知らないよ、おばさんに訊きな」
ロマはそれを聞くと、さっさと自室の方へと引っ込んだ。名残惜しそうに二階を見上げているフィービーに対し、リーザが吐き捨てるように言った。
「あいつまだ当分降りて来ないよ。そこで待ってな」
そう言い、リーザは彼に近づいて自分が投げた電話帳を拾った。フィービーはリーザの言葉がまるで分からないらしく、ふいに彼女が近づいたのに戦いた様子を見せた。
「それから今日は、お風呂行くんじゃないよ。学校行くんでしょガッコウ。その荷物、何だったらそこに置いていけば。学校に風呂桶持ってく人なんかいないよ。あそこが何する所だか、あいつに教えてもらいな」
何にも知らないんだね、とリーザは電話帳を弄びつつ、物でも見るように彼の顔をじろじろと眺めた。フィービーは風呂敷包を抱えたまま、呆然と見返すだけだった。リーザが立ち上がって奥に戻ろうとした時、二階から「フィービー、」と叫ぶロマの声がした。
フィービーの頬に急に明るさが漲るのを、リーザはうんざりしながら見た。
「なあーに、聴こえてるよ、ここにいる」とリーザが答えた。
「あいつ、まだそこにいるの」
フィービーの顔色が失望のために陰るのをリーザは見た。
(このお嬢さん、あいつの言うことだけは分かるんだな。……)
彼女は呆れつつ二階へと怒鳴り返した。
「待ってるよ、ずっと。あんたのこと待ってるんだからいるに決まってんじゃん。さっきから梃子でも動かないって顔してここにいるよ。支度して降りてきな、この子あんたじゃないと動かないんだから」
ロマは何か言い返したが、廊下を歩く足音と重なって階下では聞こえなかった。
しばらくして、ロマはランドセルを持って玄関に降りた。
「待っただろ、行くか」
彼が来た時、フィービーは玄関の隅に座っていた。振り向いた彼の口の周りは、バターで光って汚れていた。彼は茶色い手袋を嵌めたまま、トーストを掴んで半分まで齧っていた。外套の下の襟や、膝の上に無数のパン屑が零れていた。朝食にパンを食べるのはリーザだけであることから、彼女が彼に与えたものらしかった。フィービーはロマが来ても、なお半ば夢から覚めないように無心にパンをぐしゃりと齧った。
「ベタベタじゃん、もう、行くぞ」
そう言い、ロマはフィービーの手を取ってドアを押した。ロマはフィービーが口のなかにパンを押し込むのを立ち上がって待った。ドアの鐘が揺れた後、フィービーは一瞬遅れた。ロマが見ると、外套のポケットに入れていた残りのパンを、彼が慌てて口のなかに全部詰めようとするところだった。
登校の風景のなかで、ロマはこの少女に見える少年を日常に連れ込むことが、いかに困難なことであったかを知った。冬休みの間は、子供たちの間にも親戚の子供が訪れたりして、いつもと違う友達と遊ぶことが容認されている気配があった。その時期にフィービーと遊ぶのと、今この登校の道に連れてくるのとでは、ロマに集まる視線の量も種類も違った。
道中、ロマは自分だけが分かるからかいの言葉に耐えられなくなった。初め、フィービーがあらぬ方角に行かないように手を掴んで歩いていたのだが、恥ずかしさのために途中で振り解いた。彼は呆然とした様子で、後から黙ってついて来た。ロマは少し離れようと思い、歩く速度を速めた。フィービーは初め追いつこうとし、追いつけないと知って諦めたのか足音がみるみる遠くなった。
ロマは今度は心配で耐えられなくなり、ある所で意を決して振り向いた。フィービーは離れた所でパンを齧っていたが、ロマの剣幕を見て持っていたパンを一度差し出す真似をした。それから彼は、そうではないと気づいたらしく引っ込めて残りを口に入れた。
「いいから、さっさと飲み込んじまえって」
フィービーは最後のパンを飲み込んだ後、あたかもロマがそう言ったと思っているかのように、離れた所でさらに少し後ずさりした。
それから、まるでロマの内心の懇願を聞き分けたかのように、フィービーは少し離れた距離を保ったまま後を追ってきた。
(あいつ轢かれてたりして……)
ロマは度々振り返った。フィービーはそれに合わせて自分も後ろを振り返ったりした。彼を理解しているようでもあり、また銭湯での残酷さを思うと、ロマが慌てるのを知ってからかっているかのようでもあった。ロマは怒ったような素振りで何度も足を速めたが、ある所で車の激しいクラクションが鳴ったのを聞いて慌てて振り返った。案の定、フィービーは安全に避けておらず、車道に入り込んだ所で凍りついたように止まっていた。
ロマが急いで駆け寄ると、フィービーの顔に薄氷のような表情が漲っているのが見えた。それは車にぶつかりそうになった恐れではなく、ロマが自分に駆け寄ってきたことに対する満足であるらしいことを、ロマは見た時に直感的に知った。まるで幼児のように頼りなく、暴力に抗う力もなく女にも捻じ伏せられ、言葉も分からないくせに、彼は身動き一つでこのようにロマを手繰り寄せ、自分の従僕として使うことが出来るのだった。そのこと確かめたことに彼は満足を感じ、また己のそうした表情を表向き隠そうと、緊張した顔つきを作っているようだった。
ロマは不承不承に、自分の掌ではなく、自分の体操着袋の紐を掴ませた。
「これ掴んどけ。それから、誰かに話しかけられたり、こっちへ来いって言われても、絶対行くなよ」
ロマは先を歩きつつ、常に自分の荷物の重心の先端に、フィービーの掌の分だけ重みがあることに注意した。
フィービーは運動神経どころか反射する神経がないわりに、この紐の使い方はすぐ呑み込み、巧みにロマの注意を引いたり、急に掴んだりした。離れて歩くための手段だったのに、ロマはむしろ彼に手綱を取られたような感じがした。最後の坂道で紐を引かれて振り向くと、フィービーが解けた靴紐を結ぼうとしているところだった。それがあんまり遅いので、坂の下から上がってくる子供たちに次々と抜かれ、ロマは多くの視線に晒された。
「おい、ロマ」と、快活に声をかける少年たちが来た。ロマには友達だが、フィービーにとっては敵に当たる少年たちだった。「またソイツ連れてんのか」と言って、彼らは揺蕩うように笑った。その笑いの意味が、ロマにはもはや痛みのように鋭く分かった。フィービーは彼らに殴られたことがあるくせに、なぜか自分が招かれたと思ったように彼らの側へと近寄ろうとした。
「馬鹿、あっち行くなって言っただろ」とロマが紐を引き、友達の前からフィービーを引ったくるようにして連れて行った。のちに学校へ着いてからも、ロマはその時の狼狽ぶりで仲間にひどくからかわれた。
彼らは学校まで行かず、校門の近くまで来て、ロマは立ち止まった。それから、約束事をする時いつもそうするように、指を三本出してフィービーの手に握らせた。彼の茶色い手袋の指が、出されたロマの指をそっと握り返した。
「いいか、三時だからな。あの時計の針が三、の所に来たらここへ戻って来るんだ。俺に会うんだぞ、他の奴に何か言われてもついてくなよ。お前、目えつけられてんだから」
約束守れるか、と言い、ロマは小指を曲げて鉤状にして、フィービーの顔の前に掲げた。フィービーの黒い瞳に、ロマが理解の閃きのように感じている、あの光が宿った。理性の芯が宿ると、彼の精巧な顔は金色の弦を弾かれたように、美しさが鳴り響くようだった。ロマは約束事の中身も忘れて、その顔を呆然と見た。
赤いスカーフから零れる豊かな黒い髪、狭い額、子供にしては鋭く尖った鼻、頬骨の高い頬、伏し目になると一層目立つ濃い睫毛、砂色を含みつつも透明に感じられる白い肌、薄紅色の形のいい唇。いずれもロマの持ち物には見当たらない美しさであり、こんな宝物をポケットに入れて学校へ持ってきた者はいなかった。ロマは初めから、フィービーの敵の多い校門の内側まで連れて行く気はなかったが、その日常にない色彩に溢れた顔を見て、やはりこれは路上で見つけて喜ぶもので、巣に持ち帰るものではないのではないか、と感じた。
ふと見ると、フィービーはロマの小指に引っかけようと、厚い手袋を剥がしたところだった。裸の指には、彼の目玉よりも大きな、ぴかぴか光る緑色の宝石の指輪が付いていた。それがエメラルドという名前であることは、ロマでも知っていた。
「宝石、これ本物かよ。凄いじゃん」
少年はその宝石が自慢であるらしく、ロマがどんなおもねりをやった時よりも明快に嬉しそうにした。彼自身その効果を知っているものか、顔の辺りにその緑色の石を翳すと、彼の黒い瞳や鼻梁の線が冴え渡るようだった。ロマがぼんやり見ていると、彼は手を翻してロマの手を握り、掌のなかに宝石を無理に押しつけた。ロマは手を引いて何とか指切りの形にし、三時に戻るという約束の手を上下に振った。
放課後、ロマはチャイムが鳴るのと同時に教室を飛び出した。朝、彼を笑った少年たちが追ってきて騒いだ。
ロマは一目散に校庭を突っ切り、約束の十字路まで来て、フィービーの姿がないのを見た。遠くの校庭の時計を見ると、三時を七分過ぎていた。彼は今まで、銭湯で目を離した七分間に起こった様々な事故を思い返した。
ふいに背後から、彼に衝突してきたものがあった。振り向くと、彼を両手で突き飛ばしたらしいフィービーが、スカーフから髪を零して立っていた。こういう快活な馴れ合い方をしてくること自体が異様で、ロマはしばらく目を瞠った。フィービーの全身には、それまでロマが見たことがないような快活さが漲っていた。ロマはそんなものを見たことがなかったのだが、髪の下の首筋にはガラス玉のように光る薄い汗すら付いていた。まるで誰か、親しい友達と遊んで別れてきた後のようだったが、どこへ行っても石を投げられる彼に、自分以外の友達がいるとは思えなかった。ロマがぼんやりとそう考えている間も、フィービーは肩で息をして半ば笑ってさえいた。
ロマはふと、フィービーが走ってきたらしい方角が、小学校とも、ロマの家とも違っているのに気づいた。また町内会の催しで知った、彼の一族のいるアパートのある方角とも違っていた。彼は十字路で別れた後、確かに好きなところへ行っていていいし、自分の家に行っていてもいいとは言ったが、フィービーに自分の知らない行き先があるとは想像していなかったから、単純に驚きを感じた。
フィービーは微かに外套の襟をくつろげた。ロマは汗の滴をつい注視したが、彼は単に自分の呼吸を楽にしただけらしかった。彼はロマの腕にしなだれかかり、浚うようにその手を取った。手袋をどうしたのか、彼の指はその時既に裸で、ロマは指に宝石の痛みを鮮やかに感じた。
すでに下校の時間で、往来には多くの生徒の姿があった。繋いだ手を振って歩く彼らを見て笑う声があちこちから響いた。ロマはすぐにでもその手を解きたかったが、手のなかで彼の瞳が睨んでいる気がして言い出せなかった。
○
それからも、フィービーはただ一緒に登校し、下校の道を歩くためだけにロマの家に来た。
朝はロマの言う通りに紐を握り、ロマを翻弄しつつ歩き、十字路に来ると指切りをして離れる。朝の登校時は、彼はいつもの通り緩慢な仕草で、どこか不機嫌そうで、ロマが機嫌を損ねるとわざと立ち止まって動かないことさえあった。
下校の時に会うと、彼はまるで別人だった。ロマはしばらく校門から見送ってみたこともあったが、フィービーの方がロマが立ち去るまで動かず、十字路で別れた後どこへ行っているのかは謎だった。いつも彼は多少遅刻して現れた。頬には薔薇色の喜色を浮かべ、感じている嬉しさの続きのようにロマの手を取った。彼は繋いだ手を他の子供に見せつけるようにして快活に歩き、ロマには至極苦痛だったが、宝石の痛みがいつも無言の圧力となった。
何度注意されても、フィービーがまだ薄暗い早朝に来ることは変わらなかった。
「他人様の家の迷惑というものを考えろ、この馬鹿」
とリーザが説教をしてもまるで浸透しないので、彼女はある時、烏除けの鐘を持ち出して脅かした。フィービーは耳を塞いで飛び上がったが、警告の意味は読み取らなかった。
「烏より馬鹿だ」
とリーザは吐き捨てるように言い、その時「耳は聞こえてるんだね」とロマに向かって呟いた。彼女は少年たちのように「黒い目の連中」とは言わず、実際に触れてみて、自分が確かめた内容でフィービーを揶揄したり、認めたりしていった。
接触が頻繁になると、彼はリーザがフィービーを虐めるのではないか、と心配した。しかしこの中学生の少女は、口で言うほどにはフィービーを虐めず、時にはロマを向こうにして少女同士の連帯などというものを持ち出して庇うことすらあった。フィービーのことは初めから少女だと誤解し、群れの少年と同様、ロマが言うことより自分が想像する方を信じていた。リーザがそう信じる根拠は、ロマがフィービーが言葉が分からないことを良いことに、恋人同士であることを周囲に隠そうとしている、という途方もない自身の妄想からだった。
実際、ロマの恋人という地位を勝手に認めている程度に、リーザはフィービーを認め、親切の対象にすることも多々あった。フィービーが時々齧っているパンは、朝から何も食べていないのに違いないという想像から、リーザが親切で与えているものらしかった。しかし多少奇妙なことに、リーザからもフィービーからも、その関係についてはっきりしたことは聞かなかった。フィービーが黙っているのはともかくとして、リーザが己の親切心を隠そうとするのには、多少別の理由がありそうだった。
リーザはフィービーを「黒い目」とは言わなかったが、代わりにわざと「お姫様」と言ったり、自分が買ってもらえなかった人形の顔に似ていると言ったりした。「木偶の坊」に近いニュアンスで呼ぶこともあり、総じて彼女の親切は、同輩を庇うというより、犬猫の頭を撫でてやるような種類のものだった。
ロマはフィービーという弱い君主を得て、人間の支配が力によってのみ築かれるものではないと知った後では、リーザの親切を見ても、一種の支配ではないかと感じるようになった。この健康で、活発で、多少不幸な生い立ちを持つ中学生の少女は、常にロマから庇護されている「お人形のような少女」に対し、時にはロマ以上の庇護者となってやることで、彼女より哀れでない、上位の地位を獲得しようともがいてるのかもしれない――。
リーザが罵りながらフィービーを庇護する構図には、そうした一定の背景が感じられないこともなかったが、ロマはかつての自分は人間の力関係にこんな観察は持たなかったと思い、リーザのためにその想像を手放した。彼自身のこの罪深い想像については、誰にも打ち明けようがなく、強いて言えば紐の引き方一つで他人を操縦できる、フィービーのみが分かりそうな内容に思われた。しかし彼は相変わらず「お人形さん」であり、依然として口を利く気配がなかった。またもし分かったとしても、彼は優れた平衡感覚を持って、自分に親切にし始めたリーザに関する残酷な観察などは口にしなさそうであった。
またフィービーを女と思い込む女であるリーザが加わったことで、ロマはフィービーについて知らなかった別の面を知った。彼は少年の世界では全くの弱者だったが、少女の世界では、年上のリーザが警戒する程度に強者になりえる素質があるようだった。他方、フィービーはリーザの性格をよく呑み込んでか、彼女に対しては何の不満も表さないでいるのが、側にいてロマにはありありと分かった。フィービーは言葉を言わなかったが、傅かれることにどこか赤ん坊のように慣れていて、ロマの世話に不満があるとすぐ目で責めた。しかしリーザに対しては緩慢な表情を保ち、彼女の意に障らないように、彼女の手に逆らわずに世話をされている様子だった。
恐らく、少女の世界でリーザの下位に置かれることが、彼にとっては別に苦痛でないためだろう、とロマはそれまでの経験から想像した。少年の世界では、彼はたとえばロマの従僕では我慢がならず、実際に群れからロマを引き抜いて自分の従僕にした。しかしリーザにはそれをやらずに、彼女の気の済むような振る舞いを許し、彼女の意向に従ってやり過ごそうとしている。外貌は少女のようであっても、他の少女を己の下位に置こうとしない当たり、彼自身は自分を少年だと思い、少女を異人種だと捉えているらしいことが、彼自身が沈黙している状況下でも、リーザの出現によって明るみに出たようだった。
しかし、フィービーはただもたれるように虐められたり、世話をされているだけでもなかった。リーザはあくまで彼の上に己の見たいものしか見なかったから、彼を最初から頭の足りない少女だと思っていた。彼もリーザの前ではお人形さんらしくしていたが、遊びの時など、ロマにしか分からない過程を経てリーザを「嵌める」場合があった。その仕方が、いかにも彼女の弱点を突いたものであったから、ロマは内心、よくこの短期間で見抜いたものだと彼の観察の鋭さに辟易する思いがした。しかも意地の悪いことに、その罠はしばしばロマとの連携を必要とするものだった。ロマはそういう場合、仕方なしに三回のうちに二度は、黙ってフィービーに従った。
「お前のせいで、負けた」
と、リーザはロマの仕打ちだと思い込んでゲームの手札を投げつけたりした。ロマは内心、フィービーのせいだと言ってやりたい気もしたが、どこにもその証拠がなかった。フィービーがリーザの性格の下で何となく上手く泳いでいることが、彼の観察の鋭さの根拠になりそうだったが、果たして直接会話すらしたことのない人間が、観察だけで他人の性格にそこまで精通できるものなのか、彼に協力させられているロマ自身、自信が持てなかった。
それこそリーザが思い込んで言う通り「お前がその子を好きだから甘やかしてる」だけの結果なのではないか。いっそそう思いたく、何かの呼応を求めてフィービーの顔を見ると、彼は大概黙って顔を伏せていた。そして床に散らばった手札を丁寧に揃えたりして、ロマには目もくれないでいるのが常だった。
〇
ある時、ロマはフィービーと部屋にいて絵を描いた。ロマは本当は外に出て遊びたかったが、フィービーにその能力がないため、遊びと言えばトランプやお絵かきなど、ままごとのようなものにならざるを得なかった。ロマは彼のためにそれらに根気よく付き合った。
お絵かきについては、初めは楽しみより必要からだった。言葉が通じない代わりに、ロマは必要に応じて靴、、時計、トイレ、風呂などを記号のように描いて、意思疎通に使った。フィービーは描かれた物をすぐに理解したが、逆に彼自身が絵を描いて己の求めるものを伝えるということはなかった。
フィービーが口を利かないのは、言葉を知らないからだけでなく、どこか発声自体を惜しんでいるかのようだったが、絵を描かないことについても同様の理由がありそうだった。そもそもフィービーは自分から、何らかの意図の形を残すこと自体に抵抗があるのではないか、とロマは想像した。
「お前も描いてみ、ほい」
と、初め、試みにロマがクレヨンを向けた時、フィービーは不承不承に受け取り、紙面を隠すように覆いかぶさった。やがて上半身を起こすと、そこに赤い太陽と青い山が現れた。
「凄え」
とロマは歓声を上げた。赤い太陽などというものを、ロマは初めて見た。彼の知る常識では、太陽というものは黄色で描くもので、赤い光線が射すというフィービーのいる世界、彼の故郷の風景らしいものを見て珍しさに感激した。
フィービーは急に不機嫌になり、持っていたクレヨンをロマに向かって投げつけた。どうやらロマが彼を騙したように思っているらしいことが、その怒りの剣幕から伝わってきた。ロマは「怒んなって、『凄い』ってさ、褒めてんの」と言い直したが、彼の怒りは解けずに外方を向いたままだった。ロマは幼児のように言葉の通じない、気難しい相手と遊ぶことの難儀さを感じつつ、小さな暴君の投げたクレヨンを仕方なく拾った。
それから、ロマが絵を描くのをフィービーが見ているだけになった。ロマは漠然と、彼の目を引きそうな、また自分の好きな物を描いた。フィービーは絵自体が嫌いなわけではないらしく、時折それは何かという目を向けたり、また構図にしてもここに線を引けとかこの色を塗れ、ということを指先で指示したりした。ロマは別にお絵かきなど好きではなく、少年に従うことの快さの方が先に立ったから、何でも彼の言う通りに描いた。
(今日は、何を描こうか。……)
もはやトイレに行くのも靴を履くのも、大体身振りで通じるようになった友達には、意思疎通のための看板は必要でなかった。ロマは何を描くべきかと悩んだ。たとえ促したとしても、フィービーが希望を示すとは思えなかった。ロマは何か珍しい物を求めて周囲を見た。
大きな瞳を伏せて、どこか眠たげにしているフィービーの顔があった。
「そうだ、お前の顔描いてやるよ」
そう言った時、彼は別にちゃんとした模写をするつもりなどなく、からかいの気分で言っただけだった。フィービーは何事が始まるのかを理解しようとしているらしく、前のめりになって紙面を覗いてきた。ロマは彼が驚くことを想像しつつ、乱雑に丸を描いた。そして大げさに誇張した目鼻を描いてやろうと、覗き込んでいる彼の顔を見た。
そして、戦慄した。ロマが見慣れたはずのその顔は、こうして静物として仔細に眺めると、血と脂で捏ねられた粘土というより、彫刻した刃を感じさせる緊張した彫像だった。室内のくすんだ光線のなかでも、彼の目鼻を縁取る輪郭の線はそこだけ砂塵を払ってくっきりと表れていた。平たい頬の上に、睫毛から零れた光が小さな黄金色の渦を作っていた。ふと、西日を受けて彼は眩し気にあくびをした。睫毛が柔らかく戦ぎ、可愛い口元が結ばれて微かな線が浮かんだ。それらの素晴らしい道具は軋んで、その奥にある一本の弦が鳴るのを感じさせた。
(こいつの顔、なんか、人形みたいだって言うけど……)
ふとロマは、リーザが彼を学校に行かせたり、食事をさせたり、しきりと生活に組み入れようとしていた理由が分かった気がした。それは生活という月並みなものを持たない者への親切心と、それを免れている者に対する猛烈な妬心によるものらしかった。
あくびをしても影も出来ないその顔には、模様として刻まれた細工の輝きがあるだけで、しょっちゅう怒ったり泣いたりするくせに――経験した感情による擦過傷がまるでなかった。フィービーが無表情でいる時、しばしば白痴のように見られるのも、あるいはこのためかもしれなかった。その目鼻は何の感情も経験したことがないかのように、興奮による歪みを漂白して、無表情のなかでは調度品としての輪郭を回復していた。彼はあくび一つするだけで、どんな怒りや悲しみも小さな涙に含ませて拭ってしまうかのようだった。夥しい涙を蔵しているはずの、目の奥ばかりが暗くて見えなかった。
彼はつい目を逸らし、俯いてクレヨンの先を見た。鈍感な指のようなその道具では、靴、トイレ、犬、というような単純な記号を描くことは出来ても、どんな感情の形にも歪んでいない、この細緻な彫刻の模様を写し取ることは不可能に思われた。
ふと、ロマは彼が金色の耳飾りをしているのに気がついた。日頃、リーザの髪型の違いにも気づかない彼であるので、その耳飾りもいつからあるものか分からなかった。フィービーは何かに不審のあるときの癖で、上半身を少し傾けた。耳飾りが灰色の芯を宿して揺れた。
ロマは黄色のクレヨンを取り、彼が得られるフィービーの顔の一部として、紙面の下に稲妻のような線を引いた。それは実際には薄い幅のある輪だったのだが、ロマが正面から見ているために殆ど直線になった。
ふと、紙面の真ん中を鳥影のようなものが過ぎた。
ロマの目の前に、フィービーの金色の耳飾りがあった。それは室内の光線を凝縮し、フィービーの掌で熱そうに輝いていた。フィービーが指で弾くと、金色の針が勢いよく別の金具めがけて飛び込んだ。穴の開いた板状の金具が、間に挟んだ耳たぶを固定する仕組みらしかった。それらは噛み合った後も、歯ぎしりするように多少の摩擦音を立てた。
ロマは女の装飾品に興味はなかったが、その形状には驚かされることがあった。日頃、リーザや母親の物を目にする機会があったが、鋭い針や金具を持つそれらは一種の拷問具のようにも見えた。一体、喧嘩も力比べもしないはずの彼女たちが、何の疑いもなく、時には出血さえしながらそれらを習慣的に身につけていることが謎だった。
ふと、ロマのこめかみに鋭い痛みが走った。フィービーの着ている藍色の衣装の生地が、垂幕のように目の前を塞いでいた。フィービーは彼の膝に跨り、ロマの頭を抱えていた。彼は何かの仕草をし終えた後、それを再び繰り返そうとしていた。そして短く息を吐いた。
カチッと鋭い音が鳴った。同時にぶつっという肉の切れる音をロマは聞いた。
「痛えッ……!」
悲鳴が口から出るのと、傷口から血が噴き出るのと、ロマには自分から同じ物が漏れたように感じられた。ロマは自分の悲鳴を見るように、己の濡れた指先を見た。出たばかりの明るい血が指先をぬるりと染めていた。
「何すンだよいきなり――」
ロマは恐る恐る、自分の左耳にもう一度触れた。ぐさりとまた何かが刺さったように肉が痛んだ。ぶつっという音の後、最後に聞いたのは、フィービーが耳飾りを握りしめて、金具同士が衝突した音だった。咄嗟に彼の手を払ったことで、針は耳たぶを貫いたまま動いた。数ミリの傷ではあったが、ロマの耳たぶは縦に裂かれていた。
突き飛ばされたフィービーは、体勢を崩したまま呆然と彼を見返していたが、ふと何かを見つけたようにロマの上半身に殺到した。
今度は、ロマは微かな水音を聞いた。フィービーが彼の首に抱きつき、傷ついた耳たぶを舐めている音だった。彼はうるさそうに自分の髪を掻き上げ、時々きつくロマの皮膚を吸った。どうやら出血を抑えようとしているらしいことがロマには分かった。
「いいってば、お前、降りろよ、離せって」
ロマはフィービーを力いっぱい突き飛ばした。
すごい音した、と言い、部屋の入り口に、階下から上がって来たリーザが顔を覗かせた。
フィービーは箪笥にもたれかかり、スカーフの上から後頭部を抑えて蹲っていた。
「どうしたの、」
リーザが叫んで近寄ると、彼は肩を震わせ、全身を引き裂くような勢いで号泣しだした。白い頬の上を、涙の玉がまるで生き物のように後から後から表れて濡らした。まるで部屋に火を付けたように、彼の泣き声はたちまち部屋いっぱいに燃え広がった。こういう雷雨のような激しい嗚咽は、少年たちに虐められて泣いている時にはなかったものだった。彼は差し伸べられたリーザの手を払うと、嗚咽のなかに全身を浸すように床に倒れた。彼の手に従ってスカーフが落ち、黒い髪が床に零れ、全身に響く嗚咽を湛えて震えた。
「ロマ、」
この薄い血の繋がりのある、中学生の少女はロマを睨んだ。
「俺何にもしてねーよ」ロマは左耳の痛みを堪えつつ言った。
「してないわけないでしょ」とリーザは鋭く叫んだ。「すごい音したの、下まで聴こえたんだから。あんたねえ、あんたの方が力強いって分かってて何で手加減してやらないの。相手見なさいよ。あんたの友達にやるみたいにしたら、相手に怪我させることだってあるんだよ。この子泣いてんじゃん、謝んな」
「何でだよ、そいつが先に――、俺、そいつにやられたのに」
リーザは聞かずに、フィービーを助け起こしていた。
「病院行く? 大丈夫? 冷やそうか、そうした方がいいね」
「そいつ、さっき」とロマは言いかけた。
その時彼は、自分が何をされたのかを他人に説明できないのに気づいた。ありのままを言えば、フィービーがいきなり自分の耳飾りを付けさせようとし、彼は金具に挟まれて耳を切られただけだった。
しかしフィービーの泣き方には、単に頭を打った痛みだけでなく、己の意図したことがロマに拒絶されたことに対する嘆きが含まれていることが、彼に密かに服従してきたロマにはありありと分かった。彼はロマの耳を切ろうとしたのではなく、何かを与えようとしたのだ。しかしそれは言葉ではなく、彼の息遣いや仕草から汲み取れることで、なぜそう思われるのか、他人に見せられる証拠がなかった。
ロマはふと、フィービーが掌に入れて示した耳飾りの姿を思った。あれは彼が、ロマに与えることを示し、そして実際に与えた行為の姿だった。針が付いていて、金具のなかに通るようになっている。あれと同じ構造を持った言葉を他人に示すことが出来れば、他人は耳を切られなくても、ロマが受けた行為について理解するだろう。
しかしフィービーの行為の針は、金具のように目に見える物ではなかった。ロマは負傷し、傷跡を得ても、その行為を他人に説明する言葉まではフィービーに与えられていなかった。その針は沈黙している彼の肉のなかに、息遣いに、あの黒い目から来る眼差しのなかにある物だった。
ロマは己の左耳に手をやった。痛みはやや鎮まりつつあり、わずかな血が指先を濡らした。結局、ロマに残されたのは、フィービーが名付けてくれない限り、他人に説明のしようのない小さな肉の切れ目だった。フィービーが己の行為を金色の耳飾りの姿で取り出し、指で弾いて予行演習まで出来たのに対し、ロマは切られる肉も同然の受動的な位置に置かれていることを、彼は自分の傷を説明できないことで初めて知った。
ふと、フィービーの泣き声が油を注いだように高くなった。
「ごめんね、今の痛かったね」
とリーザの詫びる声が続いた。彼女はフィービーの背をさすり、元気のいい赤ん坊をあやすように嬉し気に宥めていた。
「どうしたの、あんたたち」
と、階下からロマの母親が大声でいう声が響いた。
「誰か今、私を呼ばなかった?」
リーザだけがくすっと肩をすくめた。彼女はチビたちの失敗を報告する、いつもの口調になって階下に向かって叫んだ。
「ロマが女を泣かせました――」
〇
翌朝から、フィービーは来なくなった。
彼が早朝から来るせいで、すっかり早く目覚める癖がついていた女たちは、早速そのことを訝しんだ。
「こないだロマが泣かせたから」
と、リーザが面白そうに言った。
「フラれちゃったんだ、お前」
「うるせえ」
冗談をはねつけても、ロマ自身、フィービーの消息が知れないことには不安があった。そもそも学校の友達でもなく、共通の友達などもいない以上、彼自身が姿を現さない限り、どうしているかなど知りようがなかった。
内心馬鹿馬鹿しく感じながら、銭湯にも行った。しかし彼の姿はなかった。まさか女湯を覗いてみるわけにもいかず、しばらく不審に見える動きをして番台のおばさんに睨まれた。
下校の時、しばらく十字路に立って待ったりもしたが、彼が姿を現すことはなかった。
(あいつ、どこ行っちゃったんだろう)
ロマは下校の時刻が近づいた時、ふと窓から十字路に続く道を眺めた。フィービーが来るのはいつも同じ道で、登校の時に通る道とは違っていた。三階建ての校舎の窓から見ると、フィービーが来る道の彼方にそびえる建物の群が見えた。それらの間を縫うように電車が通り過ぎた。
「パチンコ屋とでっかい病院と駐輪場と、あとボーリング場がある」
雑誌から目を離さずにリーザが指を折って言った。
「あと友達住んでる。私の友達だけど――あんた、踏切の向こうって行かないの?」
「行かない、別に用ないし」
実際、ロマの親しい友達は皆、線路よりも手前に住んでいた。校舎から見える範囲でも、行く場所がなければほとんど外国と変わらなかった。
「ふーん、あの子んちってあっち?」
「違う、もっと手前の方」
ロマは彼のアパートの場所は知っていた。しかし彼の来る方角は、アパートのある方とも違っていた。
「いつも駅の方から坂を上がってくるんだけど、分からん。駐輪場かあ……あいつ自転車とか乗れんのかな」
「無理そう、鈍くさいし。なんか電車とかも危なそう。行きたい方向と逆に行く電車に乗ってそう。あとあんた、小さい時あそこ行ったじゃん、覚えてないの」
「駐輪場?」
「馬鹿、びょういん」と彼女は言った。「イリーナがこの辺に住んでた頃、駅で倒れて救急車で運ばれて、あそこの病院に入院したことあったでしょ。それでお見舞いに」
ロマは手探りでその記憶を探ろうとした。確かに、彼女が言ったような事件の記憶が、おぼろげに脳裏に浮かんだ。今は高校生になっている親戚の少女が、小学生の頃に入院した時は、親戚内でちょっとした騒ぎになった。当時彼はまだ幼く、詳しい顛末は後から女たちに教えられて知った。彼のなかでその事件は、女たちの化粧品の匂いと消毒液の匂いに揉まれ、薄緑色の壁を見つめていた記憶でしかなかった。
だが、それも果たしてリーザの言うような、「イリーナが入院した時のお見舞い」の記憶であるかは不確かだった。彼には似たような思い出が数多くあったが、それがどこの壁であるか、また女たちの輪の中心にいるのが誰であるかは、彼自身は問題にしたことがなかった。
ロマにとっては、女たちが病人を囲んで密議する様は、少年たちが小動物を囲んで虐める光景と変わらなかった。彼自身は群れにそういう呼吸があることを看過していても、自分で動物を虐めることに加わったり、血を流している獣を見ることは嫌いだった。彼は女の群れでも少年の群れでも、傷ついたものが出るとそれを悼みつつ、同様にそれらのために関わるまいとしてきた。
ふと、ロマは病院の記憶の続きのように、フィービーが十字路に来るときの姿を思い出した。彼にとって、フィービーは初めから病人のようなものだった。彼は黒い目をしているために住民にも馴染まず、少年の群れに加えればたちまちに小動物に変わり、リーザには警戒されつつ怪我人になれば可愛がられた。ロマは彼に対しては例外的に、彼を虐める群れから常に庇っていた。それにも関わらず、彼はロマを大切にするどころか、度々歯形の残るような怪我を負わせてきた。
(あいつ、女だしな)
ロマはふと、十字路に来る時の快活な素振りから、直感的にフィービーのことをそう片付けた。あのいつも息せききって来る様は、決して彼に対する好意だけでなく、他の感情が滲んでいることをロマは何となく知っていた。またその快活さの匂いにも、彼には覚えがあった。それはどことなく、病人を囲んでいる時の女たちの嗜虐心と愛情の入り混じった態度に似ていた。
また記憶の続きとして、彼の掌に痛みが蘇った。フィービーは駅から続くはずの道を上がり、ロマと合流するとすぐ、約束のように自分の手を握らせた。そこにはあのぴかぴか光る宝石が嵌っていて、ロマの裸の指が触れるとひどく痛む。フィービーは恐らくそれと分かっていて、人前でロマが手を離そうとすると握りしめ、手を振って歩く。彼にとっては、自分の所有物に苦痛を与えることは、己の愛情とまるで矛盾しないどころか、その愛情のしるしであるのかもしれなかった。
あの金色の耳飾り、彼が身につけている拷問具をふと嵌めたのも、ロマにとっては事件だったが、フィービーにとってはいつもの宝石の握手と同じことだったのではないか。記憶をたどるうち、ロマにはふとそのように思われた。少年たちが他人を虐めて己の残酷さに酔うのと対照的に、女たちは怪我を負わせて労わる時に己の優しさに酔う。フィービーは指輪の手を握らせて愛し気に喜び、また耳飾りを嵌めた後に出血を労わろうとした。彼はロマが直感した通り悪意でそうしたのではなく、ただ女の作法で彼を愛しもうとしただけではないか――。
あの耳飾りに触れる手つきの平気さも、今となれば女のものらしく思えた。女の装飾品は、彼の目には拷問具と変わらない。実際、リーザや他の女たちが血を流しながら身につけていることをロマは知っている。しかし彼女たちは異常なほど――少年の場合にはそれは「度胸試し」とすら言われるのだが、勇敢であると認められないほど自然に――苦痛に適応してしまう。
彼女たちは日常的に苦痛を身につける。恐らくフィービーもその仲間であり、彼自身はもはや指輪を嵌めるのに圧迫など感じず、耳飾りの針を通すことにも慣れている。それが初めて貫通した時の痛みなど色褪せていて、多少の痛みや傷は舐めれば消えるものだと思い込んでいる。
恐らく彼は、親愛のしるしとして、自分が身につけている装飾品を貸してやろうとした。それには針の通る穴が要った。当然それも与えてやろうとした。そしてかつて自分が受けた苦痛を与え、自分の仲間にし、痛かっただろうと慰めを与えてやることで、ロマを己の手で愛しもうとした。しかし彼の手は跳ねつけられ、ただの暴力によって弾き飛ばされた。彼はロマを虜にすることに失敗した。残酷な、しかし少女には自然な遣り口で。……
(あいつ何にも喋んないから、何考えてるのか分からないけど)とロマは、もうフィービーのことなど忘れたように雑誌を眺めているリーザの横顔を見つつ思った。
(虐めて、優しくしたいって、リーザとかに近いのかもな。あいつ女みたいな顔してるし、女の格好してるし、女みたいにすぐ泣くし)
ふと彼は、雑誌に目を落としていたリーザが銀色の耳飾りをしているのを見つけた。彼女自身はそんな物の存在など忘れているらしいことが、ページをめくる手つきからも伺えた。まるで女という種族全体が、彼の注視を笑っているかのようだった。
(あんなに痛い物を平気でつけてるくせに)
ロマは自分の左耳の絆創膏に触れた。もしフィービーが本物の男みたいであったら、自分の耳を切る勇気を持っているというだけでも、少年の群れで尊敬を得たかもしれなかった。これほど勇敢で、苦痛をものともしない少年に対し、リーザが言うような手加減が必要であるというのは、ロマが慣れた少年の理屈には合わなかった。
どうして少年に与えられた程度の苦痛を、自分も与え返してはいけないのか。どうして少し押し返しただけで、彼は泣き出してしまうのだろうか。
(女みたいだけど)と、ロマは己の愛する少年の忌まわしい欠点のことを思った。彼は叶うものなら、他の少年とするのと同様に、フィービーと同じ程度の暴力を交換して遊びたかった。
(女みたいじゃなきゃいいのに)
しかしあの外見である限り、彼はちょっと押し返しても泣くだろう。ロマには少年の筆頭の魅力である残酷さが、美貌というそれ以下の魅力に鎖で繋がれているということが残念だった。
〇
「あった、……」
それは、箪笥の下の床から二センチほどの隙間にあった。ロマは自室で宿題をやっていて、落とした鉛筆を探すうちにそれを見つけた。フィービーが外し、ロマに付けようとした金色の耳飾りが、針をこちらに向けて倒れていた。ロマは鉛筆の先を慎重にぶつけ、それ自体の機嫌を取るようにそろりそろりとこちらに寄せた。
やがて西日の輝く部屋のなかに、金色の細い金属片が表れた。フィービーが来なくなってからの数日間に、薄い埃が全体に降り積もっていた。ロマが息を吹くと、綿ぼこりが落ちた。しかし針の上に積もった埃は動かなかった。何度か吹くうちに、どうやら人の脂らしいものが付着しているせいで、針についた埃は容易に動かないらしいと分かった。ロマは針を指先で強く拭った。
マフラーしていかないと寒いよ、と玄関で自転車を押していたリーザが言った。
「いい、どうせすぐ帰るし」とロマが言った。
「道分かってんの? 私ついてってやろうか」
「いいよ別に、一回行ったことあるし」
「今からじゃ、あちらで遊んでたら夜にならない、」
とロマの母親が濡れた手を拭いつつ出て来た。彼女のエプロンには常に獣の匂いのように食料の煮える匂いが染みついていて、言葉で言うより先に今解剖しているものの正体が匂う場合も多かった。この時は甘い油の匂いがした。
「今ちょうどお稲荷さんし始めたから、もう少し待てるんなら、あのカノジョの分も包んであげられるよ、持っていけば」
「お稲荷さん、やった」
「いいよ」と、ロマはポケットに手を入れたまま言った。彼の指先に当たる金属の冷たさを、彼はしきりと確かめ続けた。
「すぐ行って、忘れ物届けたら、帰ってくる。あいつ次いつ来るか分かんないし」
「そう、」とロマの母親は淡白に言った。
「いずれにせよ気をつけてね。暗くなるとあの辺は危ないんだから。外国様が住んでる通りでしょ」
「へい、へい」
ロマは母親がフィービーたちを「黒い目」と言わず、彼女なりの解釈から「外国様」と呼ぶことには慣れていた。尤も、彼女はフィービーに対しては「躾のされていない子」と見ている分、「外国様」よりは親しみを感じているらしかった。時には異文化交流がてら、稲荷寿司を持たせようとする程度には、彼女はフィービーに親切だった。
「気をつけてね」
と、特に関心もなさそうにリーザが言った。ロマが出た後、背後で彼女が門を閉める音がした。
部屋から見えた夕日が、町内の屋根という屋根を焦がすように照らしていた。ロマは自分の知っている屋根と屋根を、指先でそっと辿った。
(確か公民館の横を、右に曲がって……)
彼自身、フィービーの家を訪れるのはこれが二回目だった。一度目は、道案内もされずに何とか辿りついたものだった。
フィービーは朝、ロマの家に来て一緒に小学校へと向かい、十字路で別れる。下校の待ち合わせの時には、どこかから息せききって来るが、どこへ消えているのかは教えようとしない。放課後はロマの家に来て一緒に遊ぶが、外が夕焼けに染まっているのを見ると、飛び上がって逃げるように帰る。門限が時刻というより、太陽の傾き加減で決められているかのようだった。
リーザは暗くなるのに女の子を一人で帰すのかと言い、しばしばロマに送っていけと命じた。しかしフィービーは玄関を出るとすぐに拒絶した。十字路で別れる時と同様、彼は自分が許可していない時に、ロマに行く手を知られたくないらしかった。ロマは女に締め出しをくらった時のように、彼になぜ行く先を知らせないのかとは言わなかった。訊いても彼は曖昧に笑うだけに違いなかった。
過去に、ロマがフィービーの家に行ったのは、あの耳飾りの事件の時だけだった。
その日、夕暮れ時になって、彼はリーザに貰った氷袋を頭に当てながら玄関を出た。彼は全身を絞るように泣き続け、仕方なく洟を啜り、寒気に当たって咳き込んだ。群れの少年に虐められた時も、物陰で密かに排泄するように涙を落としていた彼が、これほど赤裸々に泣き喚くのを見て、ロマは彼こそが血を流しているかのように感じ、後から出た。
ロマがついて行っても、彼はまるで無視しながら歩き続けた。ともすれば車に弾き飛ばされそうになるのを、ロマが腕を引いて守ってやっても、彼は口も利かずに歩き続けた。彼に慣れているロマは、彼がロマが来ることを許可していることを暗黙のうちに感じ取った。
「どっち?」と、二股路に来るたびに、ロマはなるべく普段のような明るさでフィービーに向かって訊いた。フィービーは氷袋に顔を埋めつつ、その都度頬を微かにずらした。その仕草を見分けて、ロマは己の知らない道へと急いだ。
一度彼が間違えた時、背後でフィービーの足音が止まった。それだけでも彼の場合は、ロマに対して一定の配慮をしているものと言えた。ロマは自分が泣かせたこの少年に、二度と口を利かないほど嫌われたわけではないらしいことに安堵した。元々口を利かれたためしはないのだったが、そのことを彼はよく忘れた。
背後で足音が止まり、ロマは目前にある二階建てのアパートが彼の家であると察した。臙脂色の屋根をした、静謐な空箱のようなアパートだった。白いペンキが割れた壁には、生命力のありそうな濃い緑の蔦が絡んでいた。針金で出来ているような細いベランダには、とりどりの洗濯物がまばらに吊るされていた。濃い灰色の窓は、不思議なほど外光を透かさず、なかに住民がいる気配が感じられなかった。二階の手摺には透明なビニール傘が溢れるように並んでいて、端に小さなピンク色の傘が力なく開いていた。
ロマの脇をすり抜けたフィービーが、甲高い足音を響かせて階段を上がった。そして二階の一番手前のドアを開けると、猛然と勢いをつけて閉めた。
彼の姿が見えなくなってからも、ロマはしばらくアパートの下にいた。
(怒られんのかなあ、あいつのオヤに)
彼はこれまでも遊びのなかで、ふと泣かせてしまった少女を送って、保護者から叱られたことがあった。大抵は母親だったが、時には兄の場合もあり、相手が男の場合には、凄まれたり殴られることもあった。
(あいつの父さんて、あのなかにいたのかな)
ロマは、フィービーの家族らしいものを公民館で見た時の光景を反芻した。彼が催しで、路上で、一族の他の男や子供と一緒にいるところは何度も見たはずなのに、彼と似たところのある人物が誰一人としていないことにロマは改めて気づいた。
結局、彼の家族はドアから出て来ず、ロマは誰からも殴られないうちにその場を去った。
それから数日して、ロマは同じアパートの前に立っていた。
あの日よりも西日の傾斜がきつく、濃い夕焼けが壁の蔦の葉を照らし出し、臙脂色の階段の手摺やベランダの柵にまで浸透していた。並んだ灰色の窓からは、相変わらず人の気配が感じられなかった。
(一番、手前、……あいつ家にいるのかな、夕方だしもう帰ってないかな)
ロマは足音が響くのを感じながら階段を上がりつつ、ふとそのことに気づいた。
(俺、あいつんちの言葉分かんないや。オヤが出てきたら、何て言おう。オヤはこっちの言葉分かんのかな?)
彼はポケットから金色の耳飾りを出し、手持無沙汰に表面を触った。それから玄関のインターホンを押す直前に、ドアが微かに開いていることに気づいた。なかから煮物の匂いように微かに、ロマと同じ言葉で会話する低い声が聞こえてきた。
こんにちは、と言い、ロマはなかに入った。返事はなかった。室内は玄関から物が溢れていて、実際に人がどこにいるのかさえもよく分からなかった。
ドアの外で聞こえた会話は、間もなくどこかで付けっぱなしになっているラジオの声だと分かった。
入り口付近に思いがけず人がいて、物音に反応したらしくロマを見た。一瞬、彼と同じぐらいの子供のようにも見えたが、それは膝を立てて座り込んでいる老人だった。真冬というのに上半身が裸で、下半身も下着しか身につけていなかった。時計の針が進むような陰鬱な規則正しさで、老人は黄緑色の袋からスナック菓子を抜き取り、口内に放り込んだ。針金のような細い喉仏を通り、あばらの浮いた胴の底に落ちるのが、灰色の皮膚に伝わる震えから見えるような気がした。
ロマは部屋に走る静電気のようなものを感じた。それから玄関に溢れた、成人男性の物と思われる夥しい靴の群れを見た。ロマはそれらに従って靴を脱いだ。室内に踏み込むと、靴下の下で乾いた摩擦音がした。床を一面に満たしているのは、ロマの知らない外国語で書かれた大量の書類だった。なかには灰色の封筒に入ったままのものもあったが、ほとんどが剥きだしの状態だった。それらは恐らく日常的に彼らに踏まれ、折れて汚れていた。
部屋の真ん中にあるテーブルには、開封された菓子の袋と酒の空き缶が並んでいた。そのなかには、町内会で配布された煎餅の詰め合わせが、包装にリボンが付けられたまま残っていた。また小鍋が灰皿としてテーブルの上に乗っており、なかには大量の煙草の吸殻と、お香らしいものの燃え滓があった。かつてリーザが言った、フィービーの体臭に混じっていた匂いかもしれないと思われたが、無数の埃を舞い上げているそれらに近づくことはロマには躊躇われた。
床の半分ほどまでが、強い西日で濡れていた。部屋のあちこちにある衣類の山が、部屋のなかで塹壕のようにいくつかの纏まった影になっていた。それらには革製の上着もあり、色褪せたタオルもあり、それらが糸くずのように絡んだまま放置され、表面に積もった埃が西日に照らし出されてきらきらと光った。
西日は鬱蒼とした流し台にも浸透し、山積した半透明のグラスや食器の片面を濡らしていた。食器のほか、外国語のラベルの付いた空き缶や缶詰がどこか規則的に並べられていた。玄関には大量の靴があったが、歯ブラシは四本だけで、うち一本は子供用の物だった。また猫の絵の付いたコップだけが、フックで棚から吊り下げられていた。
ふと背後から、老人の咀嚼音とは違う地響きのような音が聞こえた。誰かが放屁した音だった。ロマは顔をしかめて老人を見たが、灰を被ったような老人が菓子を咀嚼する姿からは、全くそのような気配が感じられなかった。続いて屁の音とは違う、地響きのような音が聞こえてきた。ロマは何となしに、老人の焦点の薄い瞳が見ている先を見た。
衣類の山に微かな震えが起こり、地割れからぬっと赤い腕が伸びた。それは空中で一度屈伸のようなことをやった後、再び衣類の山へと落ちた。ロマの目の前に、厚い肉を張った成人男性の裸の背中、腰、尻が表れた。それらは西日に照らされて赤く染まり、動くたびに体毛が光線のなかできらきらと戦いだ。
突如稲妻のように表れた色彩に、ロマは呆然と目を奪われた。それは中年男性で、肩の上には太い首、癖のある短くて黒い髪、濃い睫毛や大きな耳が付いていた。地響きのようなものは、この赤い岩場のような身体から出る鼾らしかった。この赤々とした肉塊は眠り、放屁し、鼾をかいているだけでは飽き足らず、なお横向きになって伸び縮みのようなことをやろうとしていた。ロマはむずかる赤ん坊をのぞくように、この赤い肉がやろうとしていることを覗き見た。
彼の腕の下に、彼の皮膚とは似ても似つかない白い部分があった。フィービーの身体だった。彼は男性の腕に抱えられ、胸に押されるようにして横向きになっており、あばらの透けている胴が呼吸とともに微かに上下していた。銭湯にいる時と同様、彼は一切衣服を身につけておらず、スカーフのない頭から黒い髪が四方に零れていた。
ロマが彼の頬にかかっている髪を指で外してやると、耳飾りのない裸の耳が表れた。また、その微かな震えが伝わったものか、彼が背負っている男性が、フィービーの首の後ろの髪のなかに鼻先をうずめ、両腕で彼を抱え直すような仕草をした。
ロマは、この巨大な肉塊を、眠ったままで従えているらしいフィービーを面白く感じた。フィービーはやや身体を屈めていて、踵がちょうど背後の男性の太腿に当たるぐらいで、そんな小さな身体しか持っていないのに、男性はまるで母親に赤ん坊がすがりつくような懸命さでフィービーの身体にしがみついていた。そして時折すすり泣くように震えて、微かにフィービーの小さな身体を揺さぶっていた。まるで母親から乳を欲しがる赤ん坊のようで、ロマはこんな立派な大人の男を赤ん坊に変えてしまう、フィービーの密かな力について夢見るように想像した。
彼は決して弱いのではない。どこかに力を蓄えて、隠しているだけだ。そして彼は裸身でいる時に見違えるように強くなる。他人からの視線をまるで気にせず、恐れるものが何もないかのように見える。また、この部屋には火の気がなく、隙間風が吹くのか戸外と変わらない寒さだったが、この部屋のなかで彼らは浴場にいるようにことごとく裸だった。それもあるいは、とロマは昂奮して想像を進めた。少年がここにいる大人に命じたのではないか、彼の持つ黒い瞳の力で――。フィービーに鏡越しに、あの美しい目で睨まれる時、ロマはたとえ寒中に水に飛び込めと命じられてもやれるような気がした。この荒涼とした巣は恐らく、少年の命令によって食い荒らされて疲弊した生活の残骸であるのに違いない……。
「フィービー、なあ、おい、」
ロマは自分でもそれと分かるほど、親しさのこもった声で少年に話しかけた。
「起きろ、これ、返しに来た」
そう言って耳飾りを少年の頬に当てて、指先で押し付けて揺さぶった。フィービーは目や唇を堅く閉じて動かず、ロマの指先に従って細い首が揺れた。
ロマはふと、衣擦れの音で、フィービーが頭の下に灰色の座布団を敷いていることに気づいた。彼が背にしている男性の方は、床に直に埋もれていたにも関わらず、彼は金色の刺繍のある鶯色の座布団を二つ折りにして、枕を作って寝ていた。
恐らくそれは、隣にいる男性と頭の高さの位置を合わせるためだった。どんな行為でも単純に没頭せず、自分のために小さな調整をしたがる神経質さは、ロマとの遊びのなかでも彼がしばしば発揮したものだった。ロマはこの荒涼とした、見慣れぬ物ばかりの部屋のなかで、自分が好きな彼らしさを発見したことが無性に嬉しくなった。
背後でラジオの音がふいに高くなった。老人がラジオのスイッチをひねり、音量を上げたり下げたりしていた。ロマはこの弱々しい威嚇を微笑とともに受け取った。それは彼が悪い少年たちの群れでも、女ばかりの家でもしたことのない笑い方だった。彼はフィービーに接してから、自分がしたことのない表情が表れるのを感じていたが、それも少年の命令の一部のようなものと思い、彼に慣れ親しむような気でその微笑を持続した。
「すぐ帰るよ」
とロマは老人に優しく言い、
「フィービー、おい、まだ寝てんのか、おーきーろー、」
と言って己の愛してやまない友達を揺さぶった。彼は微動だにしなかった。ロマは少年の頬に悪戯のように耳飾りを押し付け、そっと指を離した。それはするりと頬を滑って落ちた。ロマは拾おうとしたが、それが座布団の刺繍の上で金色の棘になっているのを見て止した。
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