4-2


     *


 遊園地に行った日、音無さんが家の場所を訊いてから、さっそく次の日の朝、連絡がやって来た。

 時刻にして午前六時。普段鳴らない携帯のバイブレーションにひとしきり驚いてから、画面を確認したところ『カーズト君。あーそーぼー』と謎のメールが来ていて、二度驚いた。

 音無さんには僕の願いの全て話したので、このメールが意図するところは大体わかる。

 夏だから日は登っているし、僕的には全然問題ない時間だが、人によってはあと数時間は起きないだろう。

 問題はメールの内容から察するに、既に家の前まで来ていると言う事。

 もしも僕が起きていなかったら、どうするつもりだったのだろうと呆れつつ、玄関のドアを開けた。

 扉の近くにいた音無さんは、待っていましたとばかりに『おはよ』と書かれた画面をこちらに向ける。僕も挨拶を返したのだけれど、音無さんはじろじろと僕を見た後で、浮かない顔をした。

『もしかして、カズト起きてた?』

「一時間くらい前から」

 起きていたら何か問題だっただろうか? 返事を待つついでに、音無さんを観察する。

 いつもの伊達メガネはかけておらず、暑さのせいかいつもに比べて薄着で来ていた。

 眼鏡をかけていない音無さんに会うのは初めてで、雰囲気の違いにじーっと顔を見ていたら携帯が視界を遮る。

『寝起きのカズトを見るために、頑張って早起きしたのに』

「寝起きなんて面白いものじゃないと思うんだけど」

『意外な一面が見られるかもしれないでしょ』

 自分の意外な一面と言われてもまるでぴんとは来ないけれど、寝ぼけている音無さんはちょっと見てみたい。

 起床に関してはいいとして、目の前の問題へと意識をシフトする。

「今日は朝から何をするの?」

『とりあえず、散歩かな。一日カズトと遊ぶ気で来てるよ』

 要するに外に出るのか。家に入れろと言われても困るから、別に構わないのだけれど。音無さんには玄関で待っていてもらって、準備をするためにリビングに入る。

 玄関とリビングは短い廊下で繋がり、廊下にキッチンがあるワンルームの部屋。

 リビングと廊下の間には扉はあるけれど、基本的に開いているので、すでに音無さんにはリビングの様子まである程度見えていただろう。

 リビングの扉を閉めて、音無さんの隣に居ても不自然にならないような恰好を模索する。

 狭い選択肢の中で考えてみても、選択のしようはない。

 どこかに転がっている財布を探して、手提げ鞄の中に鍵が入っていることを確認して、携帯をポケットに入れる。

 窓に鍵をかけて、タンスの上に置いているタンブラーの中の鈴を一瞥してから、音無さんの所に戻った。

 音無さんは、興味深そうにキッチンを眺めている。

「何か面白いものあった?」

『他人の家ってだけで、だいぶ面白いよ』

 そう言うものなのだろうか。誰かの家に久しく遊びに行っていない身としては、疑問が残るが、音無さんが面白いと言うのであれば構わない。

 家の玄関は西側で、日差しがアパートに遮られているためか、思っていた以上に涼しい。

 朝の澄んだ空気というのか、まだ活動が始まっていない停滞した空気というのか、独特の雰囲気があって、わずかに心が騒めいているのが分かる。

 靴を履いて、鍵をかけた僕の手を、音無さんが掴んで歩き出す。

 アパートの影から出ると、眩しい朝日に目が眩んだ。やはり自分は日陰者だと、再確認をしている間にも音無さんはずんずん進んで行くので、慌てて追いかける。

「何処に行くの?」

『ひみつ』

 立てた人差し指の向こうからの返事は、まるで答えになっていないけれど、悪戯っぽく笑う音無さんには考えがあっての事なのだろうと、以降は黙ってついて行く。

 見慣れた景色から、初めて見る道に入って、少し歩いたところで目的地だろう場所が見えてきた。

 朝の青白い空の下、青々と地面を染めている稲を、四角く囲っているあぜ道が、田の字を書いているようにも見える。

「田んぼだ」

 自分でも驚いて良いのか、感動していいのか、呆れたらいいのか分からない。

 ただ、木の棒を片手にあぜ道を友達とふざけ合いながら歩く、というものに憧れはあった。音無さんは、そのまま僕をあぜ道へと引っ張っていく。

 住宅地の入口付近にある田んぼには水が張られていて、道に生えた草花が僕の足をくすぐった。

 流石に音無さんとふざけ合って歩く事は出来ないけれど、ぼんやりと想像することは出来る。それに、時折目が合う音無さんがほほ笑む姿は、一人でいる時には感じられなかったくすぐったさと妙な甘酸っぱさがあって、青春を感じられた。

 あぜ道を真っ直ぐ、田んぼの終わりまで歩いたところで、音無さんがようやく足を止める。

『カズトが見たかったのって、こういうところだよね』

「前にちょっと話したもんね。音無さんはグッとくるって言っていたっけ」

『うん。ところでカズトは普段音楽とか聴く?』

 急な音無さんの質問の意図が分からないのだけれど、裏を読むことは出来る気がしないので真面目に考える。

 それに音無さんから音楽の話題を振ってくることは珍しい。

「何も音が無いのは寂しいから、適当にBGMになりそうなものを聴いているよ」

『例えば?』

「全く詳しくはないんだけど、ジャズとかピアノの曲とかかな。後は邦楽とかも聴くかも」

『あまり、歌詞のある曲は聴かないんだね』

「古いドラマの曲とか、聴き覚えのある歌は耳に入ったら聴くんだけど」

 音無さんが、僕の言葉を吟味するように、こくこくと小さく何度も頷く。

 返事を書いている間に、水の上を滑って来たのか、涼しい風がやってきて目を細めた。

『わたしがバンドのボーカルを始めてすぐの事なんだけど、上手く歌えない時期が続いていたんだ。技術は置いておいて、どう歌えばいいのか分からないって感じで。

 どうしてだと思う?』

「歌詞の意味をちゃんと考えてなかったんだよね」

 前チラッと聞いた時には、歌詞の意味をちゃんと考えるようになったと言っていたから、それまでは逆だったのだろう。

『そうそう。歌詞の内容を分かっているようで、全然分かっていなかったんだよ。

 別れの歌なのに、長年一緒にいた友達がいなくなる悲しみをちっとも考えていなかった、みたいな。

 だから、まずは本をたくさん読んで、比較的分かりやすい恋愛から考えるようになって、風景や場面にも憧れを持つようになったの』

 音無さんのベタ好きは、僕と入口は違っても、もともと近いものなのかもしれない。

「そう言えば、音無さんが机に書いていたのって、歌詞だったの?」

『歌詞のつもりだったんだけど、現状だと詩なのかな』

「何が違うの?」

『メロディに乗って初めて詞なんだって』

 音無さん自身、明確に違いが分かっているわけではなさそうだけれど、言いたいことはわかった。

「だったら、あの詩も音無さんは想いがあって書いていたんだよね」

『教えてあげないよ?』

 結局よくわからなかった詩の解説を本人にして貰えないかと思ったのだけれど、先んじて手を打たれた。

「どうして?」と駄目もとで返したところ、『褒められた動機で書いたわけじゃないから』と戻ってくる。

「机に書こうと思った理由は?」

『誰かに気が付いてほしかったから。気が付いたのがカズトで良かったんだけど、改めて考えたら申し訳ないから、教えないの』

 内容を聞き出そうとはしていないのだけれど、音無さんが頑ななので話題を変える。

「声のリハビリってどういう事しているの?」

『やってないよ』

「ごめん」

 一般にリハビリをしたら声が出るようになる、と言っていたので、てっきり何かやっているのかと思っていた。

 でも、音無さんがそうだとは言っていないし、病院に通っているようなそぶりも見せていない。

 軽率だった僕に、音無さんは気にしていないと首を振った。

『カズトは歌うのは好き?』

「好きとか嫌いとか考えた事ないかな。

 音楽の授業くらいでしかちゃんと歌ったことないし」

『やっぱり、そう言う人もいるんだね。わたしの周りは音楽好きばっかりだったから、ちょっと新鮮』

「楽器を演奏していた人も、歌が好きだったの?」

『好きだったよ。わたしが歌しかできないから、色々あって譲ってくれたけど』

「バンドの人達とは仲良かったの?」

『仲良かった……かな。仲が良いと言うよりも、良い仲間って感じだよ』

 色々あったと言う事で、諍いを疑っていたのだけれど、杞憂だったらしい。

 明るい音無さんの表情を見る限り、諍いはあったかもしれないが、尾を引いていたと言う事はないのだろう。

『次の場所に行こうか』

 話がひと段落したところで音無さんが次へと促す。場所を知っているのは音無さんだけ――そもそも、移動すること自体知らなかったし――だから、僕はついて行くだけなのだけれど。

 次の場所までは距離があるらしく、途中でコンビニに寄って朝食を買う事になった。

 パンで済ませようと思ったのだけれど、音無さんに頼まれてポテトを買う事になったので、パンをやめてアメリカンドッグを買ってみる。

 道中の公園で足を止めて、ベンチに座って朝食にする。

 だいぶ外にいた気がするのだけれど、公園には僕達以外誰もいなくて、通勤なのかスーツを着た人がちらほら道を歩いていた。始めてくる小さい公園で、遊具がブランコとすべり台しかない。

 ひとり風に揺れるブランコが哀愁を漂わせる中、今後の予定を音無さんに尋ねるべきかを考えていた。

 しかし、どこに連れていかれるか分からない今の状況が面白く、敢えて訊く事もないだろうと結論付ける。

 朝食を終えて公園を出て、バスで駅まで向かい、また公園にやって来た。

 先ほどの公園と違い、とても広く子供たちがちらほらと遊具で遊んでいる。

 いくつもあるベンチの一角を陣取って高校生くらいの子が話をしていて、別の場所には犬の散歩をしている人もいる。

 高校生が話しているところからだいぶ離れたベンチに座り、音無さんに尋ねた。

「この公園がどうしたの?」

 答えの代わりに音無さんが指差したのは、一台のトラック。派手に装飾されたトラックの荷台部分に人だかりが出来ている。

 どうやらアイスを売っているらしい、実際に公園にいるのを見るのは初めてかもしれない。

『バニラが良い』

 一方的に音無さんがお金を渡すけれど、僕が買いに行くしかない事も、僕の為に音無さんが此処に連れてきたことも分かるので黙って買いに行く。

 初めての店で緊張しつつも、聞き間違えられないようにはっきり注文して、目的のものを手に入れてから音無さんの所に戻った。

 コーンの上に、半球状にアイスが盛られたもので、シンプルなものをと自分用にはチョコレート味のアイスを買って来た。

 軽く頭を下げてバニラのアイスを受け取った音無さんの隣に座って、一口食べる。

 気温も上がって来た今、冷たいアイスは美味しいけれど、ちょっと高めだと感じた値段相応の味かと訊かれたら首を傾げたくなる。外で買ったのだからこんなものかと納得して、食べ進めていたら、音無さんが僕が食べているアイスを見ている事に気が付いた。

 冗談半分に「食べる?」と差し出したら、躊躇うことなく音無さんがチョコアイスをかじる。あまりにも自然でそのまま流してしまいそうだったのだけれど、友達だと普通のやり取りなのだろうか?

 当然のようにバニラアイスが目の前に差し出されるので、こちらの考え過ぎだと意識しないことを意識して一口食べる。

 内心緊張していたせいもあって、甘い以外の感想はわかなかったけれど「美味しい」と応えた。

 二人ともアイスを食べ終わり、両手が空いた音無さんが携帯を弄り始める。

『カズトが言っていた買い食いとは違うとは思うけど、こんな感じだよね?』

「うん。でも、公園でアイス売っている場所が、実際にあるとは思わなかった」

『わたしも、なかなか見つからなくて困ったよ』

「ありがとう」

 音無さんの厚意が嬉しくてお礼を言うと、音無さんは照れたように頬を赤くして『まだまだこれからだよ』と笑った。


     *


 公園でアイスを食べた後は、用もないのにデパートに行ったり、川辺に行って土手を歩いたり、いきなり白線から出たら負けだと勝負を持ちかけて来たり、朝から田んぼに行ったのが遠い昔のように感じるようになってきた時には、太陽が西に傾いていた。

 濃い一日の最後に、また僕の家の近くに戻ってきている。

「ありがとう音無さん。今日は楽しかった」

『いえいえ、わたしも楽しかったよ』

 楽しかった分疲れてもいるけれど、音無さんも同じ気持ちだったようで安心した。

 僕の言葉に足を止めていた音無さんが、手元に戻した携帯をまた操作している。

 少しして、音無さんが歩行を再開したのを見て、ついて行く。

 何か言いたいことがあるのかなと思ったのだけれど、メールでも送っていたのだろう。

 たまに通る道からほぼ毎日通る道に入ったところで、音無さんがくるっとこちらを向いて動きを止めた。

『今日は色々な所に行って、カズトも楽しんでくれたと思うんだ。これでも、頑張ってカズトが好きそうな場所を探してきたからね。

 じゃあ、この景色はどう?』

 あらかじめ書いていたのか、すぐに携帯を渡した音無さんは、読み終わり顔を上げた僕に見慣れた景色を見るように促す。

 何も返さない僕を想定したのか、音無さんは携帯の画面を切り替えた。

『この道だって、誰かの通学路になっているはずで、数えきれない学生たちがこの道を使って家に帰っていたはずなんだよ。

 中には夕飯を楽しみにしていた人もいるだろうし、早く帰ってテレビを見たいと思っていた人もいると思う。友達とふざけ合っていた人も、好きな人と手を繋いで帰って来た人もいるかもしれない。

 この景色を見て、カズトはどう思う?』

 音無さんが後ろで手を組んで二歩三歩足を進め、顔だけこちらに振り返る。

 焼けるような西日に照らされた音無さんが何かを言ったのだけれど、音のない声は僕の元には届かなかった。でも、残された微笑みが教えてくれる。

 毎日通る道も、見方を変えるだけでドラマの一シーンと変わらない。あるはずのない懐かしさが、胸きゅっと締め付ける。見方を変えればと言う事自体は、頭の中ではわかっていたのかも知れないけれど、実感できたのは、きっと、音無さんが居るから。

 この瞬間が思い出の一つになり、次の可能性を示唆するようだった。

「とっても、眩しく見えるよ」

 音無さんに聞こえるように言ってから、隣まで歩いた。

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