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     *


 大学は講義ごとに教室が違う事はよくある。

 しかし、落書きを見つけたもっとも広いこの教室は、定員の多い講義に限らずよく使われるため、使用率は教室の中でもトップクラスだと思う。

 予想に違わず、僕もこの教室で週に何度か講義を受けている。

 落書きの主も同じだとは限らないのか、今日は落書きの更新は行われていなかった。

 自分が書いた無骨な字を見ては、変に緊張していく。

 教授の声もほとんど耳に残らずに、瞬く間に講義の時間は進んで行った。


 講義が終わり、生徒が思うままに教室を後にするのに合わせて、僕も外に出た。

 じりじりと太陽が照り付けて来るので、急いで日陰に避難して一息つく。

 緊張も解れ、何処で時間を潰そうかと思っていたのだが、筆箱を置いてきた記憶が無い事に気が付いた。

 やらかしたと言うショックで、一瞬寒気がした身体が、熱を帯びていくのが分かる。

 アリスに「忘れる事を忘れないように……」と言われた時に、馬鹿にされているような気分だったのけれど、こうなってしまえば言い返しようがない。

 せめてペンの一本でも忘れていればと、カバンを漁ってみたが筆箱そのものが無かった。

 安心して大きく吐いた息と共に、全身から力が抜けた。


     *


 図書館で時間を潰して、二限が終わる頃に教室の扉の前に戻る。

 普通なら次にこの講義室で授業を受ける生徒が数人は居るのだが、二限の後は昼休みなので、僕以外には誰もいない。

 ものすごく緊張していることはわかるのだけれど、それがどうにも他人事のようにも感じられる。

 講義時間が終わり、分厚い扉が開かれた。

 我先にと勢いよく数人が飛び出し、後に続いて続々と人が出ていく。

 こちらに気が付く人も居るけれど、すぐに興味を無くして歩き去っていくのを見送り、流れが止まったところで教室を覗いた。

 教授に質問に行っている人や、友達と話をしている人、黒板を書き写している人などが居る中に、その子はいた。

 背もたれに届くかどうかの髪に、地味な如何にも大学生らしい服、後ろからでは眼鏡をかけているかはわからないけれど、僕がいつも座る席で女の子が何かを書いている。

 怪しまれないために出来る限り堂々と中に入って、女の子に「あの」と声を掛けた。

 書く事に集中していた女の子は、驚いたように顔をあげて、僕の方を見る。

 化粧気はないけれど、メガネのレンズの向こうに見える目はパッチリと大きく、整った容姿をしている。

 手に持ったシャープペンシルが向いているのは、ノートでもプリントでもなく机そのもの。

 この子で間違いないと確信して、前もって考えておいた言葉を話す。

「すみません、此処に筆箱有りませんでしたか?」

 女の子は納得したように頷いて、机の下にある教科書を置いておくスペースから筆箱を取り出し、渡してくれた。

 一連の流れに違和感を覚えつつ、お礼を返して机の方に目を向ける。

 女の子が慌てたように、机の詩を隠した。

「やっぱり、その詩は貴女が書いていたんですね」

 顔を赤くしていた女の子は、隠す事を止め興味を持ったように僕を見てから、何かに気が付いたのか驚いた顔をした。

「僕がコメント書いていたんですよ」

 合点が言ったように女の子が頷いて、視線を下げる。

 何か悪い事をしてしまったのだろうかと不安に思っている中、女の子がこちらに携帯電話の画面を見せた。

 画面には『今から時間ある?』と書かれていた。


 女の子に連れていかれたのは、近くのファミレス。

 学食に行かなかったのは、今から行っても席が取れないからだろうか。

 店員に案内された席につき、メニューを広げる。

「とりあえず昼食ってことですか?」

 何も言われないまま連れてこられたので、ひとまず目的を尋ねた。

 女の子は首肯して携帯に目を落とし、何かを打ち込んだと思ったら、僕に見せる。

『注文してくれないかな?』

 淡白な文章からは読み取れない、ねだる様な表情に「良いですけど」と言い淀む。

 女の子は笑顔で返して、メニューを見た。


 座席に呼び出し用のボタンがあった事に安堵して、彼女と自分の注文を終える。

 店員が厨房の方へと戻って行った所で、違和感の正体にようやく気が付くことが出来た。

『急にごめんなさい。出来ればゆっくり話したかったの。

 学食だと、もっと迷惑をかけてしまうから』

「耳が……ってわけじゃないですよね。声が出せないんですか?」

 携帯の画面に書かれた言葉で推測してみたら、彼女は頷いてまた何かを書き始める。

 最悪メニューを指させばいいファミレスとは違って、学食はカウンターで注文を“口頭で”伝えなくてはならない。

 だからファミレスに来たと言うのもあるのだろう。

 言葉を打ち終わったのか、彼女が携帯の画面を向けた。

『はじめまして、わたしは音無唄おとなしうたい

 君が言っていた通り、病気で声が出せないの。君の名前は?』

「成宮一人です。『ひとり』と書いて『カズト』って読むんですけど、そのせいで極一部の友人に『ボッチ』なんて渾名をつけられましたね」

 勢い余って言わなくても良い事まで言ったような気がするけれど、音無さんが小さくでも笑ってくれたので良かった事にする。

『なりみや君は、成宮君でいいの? あと、敬語はなくていいよ?』

「あっていますけど、敬語は……」

『ため口じゃないと、わたし帰るよ?』

 携帯では遅いと判断したのか、メモ帳を取り出した音無さんが走り書きした言葉をこちらに突きつけた。

 勢いに負けた僕は「う、うん。わかりま……分かったよ」と話し難さを我慢する。

 満足したらしい音無さんが、ペンを携帯に持ち替えた。

『ボッチって事は、本当に一人だったりするの?』

「そうで……そうだね。このボッチって渾名を考えた奴以外とは関わりないし、唯一呼ぶ奴も今では学食でたまに会うくらいの間柄だから。

 本当に名前通りだから、笑えるよね」

『わたしも今は一人でいる事が殆どだから、今からは二人“ぼっち”だね』

 屈託のない音無さんの表情に、図らずも目を逸らしてしまう。

 なんて真っ直ぐな人なのだろうか。皮肉屋の節がある僕には、ある意味苦手な人かもしれない。

「二人ぼっちって事は、これからも相手してくれるって事?」

『何かの縁だと思うし、成宮君さえよかったら、何だけどね』

「悪くはないんだけど、僕は音無さんの事、伊達メガネだって事くらいしか知らないよ?」

 音無さんが不審そうな、疑いの目を向けるのをみて、自分の失言に気が付いた。

 音無さんが伊達眼鏡だということは、アリスに聞いただけで、音無さんからは聞いていない。何か言い訳をしなければと思うのだけれど、頭が真っ白になり、より変な事を口走りそうで何も言葉に出来なかった。

『何で知っているの? 教えてないよね?』

「……講義棟裏の建物に居る、アリスって知ってる?」

 知っていても知っていなくても、アリスの事を話す気はなかったのだけれど、この場をどうにかできる言い訳も思いつかなくて、ついつい口に出てしまう。

 音無さんが首を横に振ったのを確認してから、流れのままに続ける。

「アリスはなんでも屋さんみたいな人で、音無さん……というか、机の上でやり取りをしている人を探しているって言ったら、教えてくれたんだ」

 自分でも言っていて厳しいのは分かるのだけれど、魔法に関する部分を話した所で信じて貰えないだろうし、嘘は言っていない。

 良い顔はされないだろうなと思っていたのだけれど、音無さんは特に怒った様子も無く『そうなんだ』とだけ返した。

「信じてくれるの?」

『話自体は作り話っぽいんだけど、成宮君って今の状況で嘘つけるほど器用そうでもないからね。

 何でわたしを探していたの?』

 信じて貰えた事に安心する。しかし、音無さんはまだこちらを怪しんでいるようで、向けられた視線が痛い。

「あの講義室での音無さんとのやり取りが楽しみになっていたから、どんな人なのかなって気になったんだよ。詩を書き終わったら、もうやり取りも無くなるんじゃないかと思って」

 正直に話した俺を、音無さんは品定めでもするかのように見てから『わたしが伊達眼鏡の理由は知ってる?』と尋ねる。

 知らないと返した俺に、音無さんは『ごめんなさい』と謝った。

 何故謝られているのか分からないのだが、他にも言いたいことがあるのか携帯と睨めっこを始めたので、黙って待つことにする。

『成宮君も他の人と一緒かと思って、疑ってごめんなさい』

「どういうこと?」

『わたし、元々軽音サークルでボーカルをしていたんだ。

 これでも、そこそこ人気のあるバンドだったの。文化祭でライブもやっていたんだよ。

 だけど、声が出せなくなって、どこから知られたのか男の人がいっぱい言い寄って来たんだよね。「声が出せなくても、俺が守るから」って。下心が見え見えな人ばかりで嫌気がさしていたの。

 だから、成宮君もわたしの事を知ったうえで、言い寄りに来たのかなって少し思っちゃって。ごめんなさい』

 画面いっぱいの長文を読み終え、音無さんが八木の言っていたバンドのボーカルなのだろうと予想が付いた。その事は胸に留めて置いて、話を続ける。

「伊達眼鏡は変装のため?」

 音無さんが頷く。

「僕は文化祭を一緒に回る友達も居なかったから、正直軽音サークルの存在自体最近まで忘れていたよ」

『それはそれで傷つくかも』

「ごめん」

 僕が音無さんを知らなかったのだと補強するために言ったのだけれど、逆効果だったらしい。しかし、顔をあげたら音無さんは怒った様子も、悲しんだ様子も無く、むしろ楽しそうにしていた。

 なるほど、傷ついたと言うのは冗談か。冗談でないにしても、言葉ほど傷ついていないのだと思う。

 ホッとしている僕に、何かを感じたのか音無さんが携帯を手元に戻した。

『声の事、私もようやく受け入れられるようになったから、成宮君も気にしないで話してね。

 質問も答えたくない物は答えないから』

 これは何か質問しろと言う事なのだろうか。咄嗟には思いつかないのだけれど。

 音無さんが携帯で文字を打つくらいの時間をかけて、ようやく僕は「じゃあ」と尋ねてみる事にした。

「音無さんの病気は治るの?」

『一般的には、リハビリしたら声は出せるようになるらしいよ』

 歌えるようにはなるの? とは訊けなかった。

 音無さんも治るとは言わなかったので、この判断は間違っていなかったと思いたい。

 音無さんの様子を見ている限り、歌に対して未練があるようには見えないけれど、出来るだけ触れないように、気を遣っていないと思われる質問をしないといけない。

「どんな病気なのかって訊いても大丈夫?」

 当たり前だけれど、こちらが質問をした後、音無さんは視線を下げて紙や携帯に返答を書く。

 間が生まれちょっと怖くなるけれど、返答までに時間がかかってしまうと言う所は親近感が沸いた。僕と音無さんでは状況が違いすぎるけれど。

『正確には病気って言うよりも、喉を使いすぎたみたい。炎症を起こしたり、ポリープが出来たりして、声が出しにくくなっていたの。

 普通は喉を休めたら治るんだけど、わたしの場合は度が過ぎていたんだって。

 普通だったら痛さで自制するラインを越えても酷使した結果、声帯自体を切除しないといけなかったんだ』

 読み終わった後も第一声に何を言うかを考える為、画面を見ているふりをする。

 大きなけがや病気とは無縁だった僕には、限界を超えて喉を酷使する痛みは分からないけれど、音無さんはせざるを得ない何かがあったのだろう。恐らくは歌う事に関して。

 どう言葉をかけて良いのか分からないのだけれど、いつまでも黙ってはいられない。

「そうなんだ、教えてくれてありがとう」

 存在しない制限時間に追われて何とか返したのだけれど、何故僕はお礼を言ったのだろうか?

 失礼にならないかと思ったのだけれど、音無さんは一度キョトンと瞬きをしてから、穏やかな顔で首を振ったのでたぶん大丈夫だったのだろう。

 また何かを書き始めた音無さんの前で安堵と共に息を漏らす。

『一つ訊きたいことがあるんだけど良いかな?』

「答えられる事ならいいよ」

『バックの鈴ってどうしたの?』

 鈴と言うと昨日アリスから渡されたものか。

 あまり何も考えずに「さっき言ったアリスから預かったんだ」と返したあとで、音無さんがこの鈴に興味を持ったことが気になった。

「音無さんはこの鈴がどういうものか知っているの?」

 音無さんは困ったように視線を彷徨わせてから、時間をかけて言葉を文字に表わす。

『知り合いが似たようなものを持っていたんだよ。珍しいものだとも言っていたから、気になって。

 成宮君はその鈴がどういうものか、どれくらい知ってる?』

「全く知らないよ。何も教えられずに渡されたから」

『それはね、オークの木で作られた鈴で、単純に木製の鈴だから珍しいって言っていたかな』

 オークの木と言えば、アリスが万能薬がどうのと言っていたやつか。

 この鈴が薬ということはないと思うが、謎の鈴だったものの正体が少しでもわかった事は、嬉しく思う。

「詳しい知り合いなの?」

『薬学部の子で、薬を作るために植物についても調べているんだって』

 出来れば話を聞きたいけれど、音無さんとは学部も違うし、バンドでの知り合いだろうか。だとしたら紹介してとは言い難い。

 それに話を聞いて、とても高価なものだとしたら管理に支障もでるだろうし、あまり知らない人と話すのは得意ではない。

『成宮君にいくつかお願いがあるんだけど、いいかな?』

 考え込んでいる僕の目の前に携帯電話が差し出される。読み終えて音無さんを見たら、音無さんが首を傾げた。

 出会って間もない僕にどんな頼みなのだろうかと疑問に思ったが、すぐに理由が思いつく。

「声を出さないといけない事?」

『うん。でも、とっても個人的な事だから、嫌だったら嫌って言ってね』

「頼みの内容は?」

『いろいろあるんだけど、簡単なのだとコンビニのホットスナックを頼む、かな』

 ホットスナック……レジの隣にあるから揚げやポテトの事か。

 確かに声を出さずに買うとなったら、並外れたボディランゲージ能力が必要になるだろう。傍からだと何かの罰ゲームをしている人にしか見えまい。

 声の出せない音無さんにとって自分ではできない事の一つだろうけれど、正直気乗りはしなかった。

 別に店員と話せないことはない。話しかけるのが億劫なうえに、ちゃんと発音しなければ意図していない物を渡され、指摘するのも気が引けるから食べたかったわけではない鳥つくねを食べる羽目になる。

「好きなんだね」

『普段は自炊しているんだよ? でも、偶に味が濃いって言うのかな、ジャンクなものが無性に食べたくなるんだよ』

「気持ちは分かるかな」

 話を逸らすような言葉にも音無さんは真面目に返してくれる。

 他の頼みを叶えられるかはわからないけど、コンビニのホットスナックくらいちょっと行って、買ってくればいいだけなのだ。気が引けると言っている場合ではないか。

「うん、代わりに買うのは大丈夫だよ?」

『ありがとう。でも、買うの「は」ってどういう事?』

 別にこちらを責めるわけではなく、音無さんは僕の言い回しを純粋に疑問に思っているらしい。

 鳥つくねが頭をよぎったから妙な言い回しになってしまったのだけれど、どう返したものか、と思ったがそのまま話せば良いのか。

「僕が買うと、たまに食べたいものじゃないものが出て来るよ?」

『?』

「以前コンビニでから揚げを買おうとしたんだけど、何がどうなったのか鳥つくねを出されたんだよ」

『から揚げが?』

「うん」

『鳥つくねに?』

「うん」

 音無さんがキョトンとした状態で二度のやり取りをしたので、何か間違えたかなと思ったのだけれど、彼女が笑い出したのでこちらも安心する。

 何だか初対面の人と、こんな風に積極的に会話をしたのは久しぶりだ。

『その時は私も鳥つくね食べるから大丈夫だよ』

「他には何かしたいことあるの?」

『ファストフード店のものが食べたい』

「他には?」

『屋台のラーメンが食べたい』

 何だか食べ物ばかりな気がする。本気で言っているのだろうかと音無さんの顔を見ても、僕にはサッパリわからない。

 そんなに食べるような人には見えないし、どう返したものかと悩む。

「えっと、お腹すいているの?」

『違うよ』

 冗談だったのだけれど、短い否定の言葉は返答を誤ってしまったのだろうか。

 しかし、初めは頬を膨らませていた音無さんは、すぐに表情を崩した。

『とりあえず、昼ご飯食べようか』

 すでに並べられていた料理を前に、音無さんが提案する。

 話せないと言う事は、食べながら雑談も出来ないのか、と納得して音無さんの提案を受け入れた。

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