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     *


 大学に入学したばかりで、僕にまだ活力があった頃、小さな町のような大学の敷地内を歩き回った事がある。

 初めは、せっかくなのだから探検してみよう、くらいの気持ちだった。

 しかし、建物には入らずぐるっと敷地内を一周しただけなのに、だいぶ疲れた事を覚えている。

 講義棟裏にある蔦に覆われた建物も、その時見つけた印象的な建物の一つだ。近くにグラウンドがあり、講義棟も目と鼻の先にある赤茶色の煉瓦の建物は時代に取り残され、忘れられているようなのに確かな存在感があった。

 件の建物の前。サッカーをしている人の声が良く聞こえてくる中、僕は少し緊張していた。

 来た事はあっても入るのは初めてではあるし、近づいてみて分かるが思っていた以上に古い建物らしい。危なくて立ち入り禁止になっているのではないだろうか。

 小学校に入学して以来、校則の枠内で平穏に生きてきた僕としては、校則違反はしたくない。

 しかし、いままでこの建物に入ってはいけないと言われた覚えはないし、目の前の扉に注意書きが書いているわけでも、封鎖しているわけでもない。

 しばらく悩んで、怒られた時は適当な理由と、入ってはダメなことを知らなかったと言い張れば一度くらいは許されるだろうと、硝子の扉に手を掛けた。

 太陽に熱せられた、鉄製の丸い取っ手を引いて中に入る。

 中は外観程ボロボロではないが、埃っぽい。入ってすぐに受付のようなところがあり、右に折れ曲がって、真っ直ぐ廊下が伸びている。

 下駄箱などは無く、リノリウムの床はくすんでいた。

 停滞したような冷たい空気の中、コツコツと僕の足音だけが響く。

 窓の外は青い空が見えるのに、建物内は薄暗く、ここだけ別の世界のように感じる。

 本当に此処に人がいるのだろうかと疑問に思いつつも、八木が話していた一番奥の部屋にたどり着いた。

 明かりもなく人の気配は感じないが、ここまで来たのだからと、恐る恐る引き戸の取っ手に手を掛ける。

 力を入れると、ガラッと音をたてて、簡単に扉が開いた。

 案の定誰もおらず、元は講義室だったのだろうか、僕たちが普段授業で使っているのと同じように固定された長机と椅子が並んでいるだけで、目ぼしい物も無い。

「本当に何にもないよね。ここって」

 骨折り損だったと肩を落とした時、急に背後から声がして、背筋が冷える。

 心臓が悲鳴を上げるのではないかと思うくらいに暴れ出し、一瞬何も考えられなくなった。

 背後にいるだろう誰かに悟られないように、深呼吸をして状況を整理する。

 聞こえてきた声は女性のもの。勿論、思い当たる節はない。

 だとしたら、同じように魔法使いを探しに来た人だろうか。だが、言葉のニュアンス的にこの場所に何度も訪れた事があるかのようだった。

 いや、魔法使いに会えるかどうかは運次第なのだ。どうしても叶えて欲しい願いがあるなら、何度でも足を運ぶかもしれない。

 他にどういうことが考えられるだろうか。

「此処にいる魔法使いと言うのは?」

 それはちょっと出来過ぎていると思う。

 ハッとして、思考を止める。後ろの人物が、自然に僕の思考と対話をしていたような。

 またやって来た緊張に耐えられなくなり、ゆっくりと振り返る。

 鬼が出るか蛇が出るか、と思っていたのだけれど、居たのは僕と同い年程の女の子だった。

 背は低くも無く高くも無く、長い髪に整った容姿で、悪戯っぽい表情がとても似合っている。だが、いたって普通の人間には違いない。

 心を読んだのだって偶然だろうと、安心したのだけれど、女性が怪しく唇を開けた。

「鬼か蛇だと、たぶん私は蛇になるんじゃないかな。

 蛇っていうよりも『み』だとは思うけどね」

 簡単に僕の予想は挫かれる。

 楽しげに笑う女性に、このまま何も返さないのも居心地が悪いので、いつの間にか乾いていた唇を舐めてから、声を出した。

「何の事ですか?」

「貴方が鬼が出るか蛇が出るか、みたいな顔をしながら振り向くから。

 私はきっと蛇だろうなって思っただけだよ」

「顔を見て分かったんですか?」

「状況とかもあるけどね。此処にやって来たって事は、魔法使いを探しに来たんでしょ?

 でも、誰もいなくて、急に後ろから声を掛けられた。一種の恐怖を感じながら、貴方は心の平穏の為に後ろの人物について考察を始める。

 それなのにもう一度声を掛けられた貴方は、一世一代の覚悟で謎の人物を確認しようと振りむいた。

 その時に出て来る言葉は『鬼が出るか蛇が出るか』だよね?」

 まるで探偵が犯人を追いつめるかのように、女性は自信たっぷりに推理を披露する。

 物的根拠は何一つない推理だけれど、全くもって言っている通りなので、こちらとしては脱帽するしかない。

「その通りです」

「貴方は私に何の用?」

 僕の隣を通り抜けて、まるでここの主だと言わんばかりに、自然に女性が椅子に座る。

「貴女が魔法使い……何ですか?」

「私が何者でも、貴方は願いを叶えて欲しいだけだよね。違う?」

 小首を傾げる女性に、違わないと言う意思を見せるため、首を左右に振る。

 女性は満足そうに頷いて、「貴方の願いは?」と繰り返した。

 すぐに机上の落書きについて訊こうと思ったのだけれど、思うところがあり口を噤む。

 願いを叶えてもらうためには代価が必要になる。逆に考えると、代価を支払えばいくつでも願いを聞いて貰えるのではないだろうか。

 仮にこの状況が冗談の産物だった場合、本当の事を言って笑われるのも嫌だ。

 しかし魔法使いではないにしても、ちゃんと願いを叶えてくれる人だった場合、ぼかした表現では受け付けないかもしれない。

「願いはいくつ聞いてくれるんですか?」

「私の気分しだいだね。どれだけ強欲なの、と言いたいところだけど、貴方は私が本当に願いを叶えてくれるか知りたいのかな。

 面白そうだから、私に質問したいって願いをしてくれたら、叶えてあげるよ。

 代価は貴方の名前を教える事」

「これが最後の願いですとは言いませんよね?」

 念のために尋ねてみたが、女性は目を細めて瞬きをするだけ。

 訊きたければ願えと言う事なのだろう。

「成宮一人です」

「さっきの質問の答えはノーだよ」

 すぐに返って来た答えに安堵の息を漏らす。

 これで質問しつつ、願いを一つは聞いて貰えるわけだ。

 問題は僕自身推理力があるわけではないので、どんな質問をしたら求める答えが返ってくるのか分からないと言う事だろうか。

「とりあえず、座ったらどうかな? 何だったら、紅茶淹れるよ?」

「紅茶って、コンロどころか水道も無いですけど」

 何処で紅茶を淹れるのだろうかと疑問に思いはしたけれど、お言葉に甘えていくつか間を空けて椅子に座る。

 ほどなく目の前に紙コップが置かれた。中には、湯気だったお茶が入っている。

 タンブラーか何かに入れていたのだろうか? ともかく今は質問をしなくては。

「初めに、名前を教えて貰っていいですか?」

「初めじゃないけど、そうだね。アリスでどう?」

「アリスさん……本名じゃないんですね」

「本名好きじゃないんだよね。あと、『さん』とか敬語は要らないよ」

 アリスはニコニコと笑い、何を考えているのか分からない。

 しかし、全ての質問にまともに答えてくれるわけでは無い事はわかった。

「敬語は性分みたいなものなので、慣れたらたぶん、そのうち消えています」

「名前通り一人で生きてきたから、人との距離感が分からないって所かな。

 シンパシーを感じなくもないね」

「質問っていくつまでしていいんですか?」

「無制限。でも、分かっていると思うけど、私も全て答えるわけじゃないよ?

 答えられないモノや答えたくないモノには答えない。でも、答えたものに嘘はつかないよ」

「さっき偽名名乗りましたよね」

「渾名だって名前には違いないよね。実際に呼ばれていた名前でもあるし」

 誤魔化されたような気がするけれど、納得も出来た。

 自分の中で区切りが付いたところで、ここからが本題になる。

「アリスは魔法使い何ですか?」

「魔法使いだね」

 変わらずアリスの表情は読めないのだけれど、想定していた返答ではある。

 これだけだと、魔法を使えるファンタジー的な存在なのか、あくまで校内で噂になっている魔法使いと言う呼び名の存在なのかは分からないが、どちらにせよ僕の探していた人物で間違いないだろう。

「魔法が使えるんですか?」

「使えるよ」

「見せてくれませんか?」

「それは質問の範囲を超えるんじゃないかな?」

 からかうような声で返されたが、正しい指摘に言い返せない。

 一度思考が途切れたら、どうにも考え込んでしまう質なのだけれど、アリスは得に嫌な顔をすることなく待っていてくれるので、その点は話しやすい相手なのかもしれない。

 他の点だと、やり辛い相手と言わざるを得ないけれど。

「魔法を使えると言う事を、僕に証明できますか?」

「何とも言えない……かな。

 例え私が此処で魔法を使ったとしても、判断はカズト君任せになるからね。

 炎を出そうと、未来を予想しようと、種の分からない手品だと思われたらそれまで。

 心の中を読んでも、カズト君に好意を向けさせても、偶々だと言われたら私は何も言い返せないの」

 逆に言うと、今言った事は自分には出来ると言うのだろうか。

 僕の疑問とは裏腹に、アリスはどこ吹く風とばかりにこちらを見ている。

「今までどんな願いを叶えてきたんですか?」

「内緒。というか、言えないよね。カズト君だって誰かに教えられたら嫌でしょう?」

「確かに嫌ですけど……。でも他の人からも訊かれるんじゃないですか?」

「ううん。ほとんどの場合すぐに願いの話になるから。カズト君って物好きなんだよ」

 好んで会話を続けている人が珍しいのだろうか。

 確かに何を考えているのか分からないのに、こちらが考えていることは見透かされていそうで、あまり会話を続けたい相手ではないかもしれない。

 僕は得体がしれないと思いつつも、八木以外に話せる人物に出会えた事が楽しくなってきただけなのだけれど。

「代価はいつ教えてもらえるんですか?」

「話の流れ次第かな。先に教えようとしても、『何でもいいから早く願いを叶えてくれ』って言う人は少なくないから。

 先に願いを叶えた場合、払えると分かっている代価しか要求しないよ」

「願いを叶えて貰った後で、もしも代価を払わなかったらどうなるんですか?」

「一概には言えないけど、強制徴収かな。払えるのは分かっているんだし」

 この辺だけ聞くと物騒だが、ちゃんと代価を聞いてから依頼するかどうかを頼めばいいのだ。むしろ、ちゃんと見積もりはしてくれるようなものなのだから、しっかりしているのかもしれない。

「代価ってどうやって決めるんですか?」

「決め方は適当だね。同じような願いでも、人によってかける想いは違うし。

 何よりも、本来は見ず知らずの人の願いを叶えてあげる義理なんて、私にはないからね。

 でも、実現が難しい願い程、その人にとって重い代価を貰うようにしているよ」

「義理が無いのに、どうして人の願いを叶えるんですか?」

「面白いからね」

 僕の中の魔法使いのイメージと合致したのだろうか、猫のように目を細めるアリスのこの言葉はだけは、本心に違いないと確信した。

 言葉通り面白さと言うものに重点を置くのであれば、アリスは僕の願いに力を貸してくれるように思う。僕は真っ直ぐにアリスを見た。

「僕の願いを叶える為に、力を貸してくれませんか?」

「内容次第だよ」

「人を探しているんです。教室の机の上に詩を書いて、僕とやり取りをしてくれている人を」

「そう言う人がいるってことなんだね」

「はい。何だったら教室の空き時間を見て、連れて行っても……」

 言葉で説明するよりも、見せた方が早いと思ったのだけれど、アリスが手を伸ばして僕の言葉を中断させる。

「私に頼まなくても、カズト君はその女の子にちゃんと会えるよ」

 やけに真面目な返事は、どうしようもない依頼が来たから、適当にあしらわれたようにも聞こえる。

 落胆を隠して、その場を後にしようと思った所で、自分の中に違和感がある事に気が付いた。

「女の子だって言いましたっけ?

 正直僕自身、相手が女の子だと言う確証はないんですけど……」

「女の子で間違いないよ。折角だし、どんな子なのか教えてあげようか?」

「良いんですか?」

「もちろん、代価は貰うけどね」

 当然とばかりにアリスが言うが、こちらとしても代価を要求されることは予想出来ていたので、「お願いします」と頭を下げる。適当な事を言われるかもしれないが、何も知らないよりもずっといい。

 アリスが満足げな表情を見せる。

「文学部で、カズト君と同い年の可愛い子だね。

 髪は長め、伊達メガネをしていて、最近は目立たない服装が好きみたい」

「伊達なんですね」

「ファッションで伊達メガネをかける人は少なくないと思うけどね。

 でも、この子の場合はちょっと違うかな。

 もしも、が無いように一応アドバイスをしておくと、次に例の教室で授業がある時には筆箱か何かを教室に忘れていったらいいよ」

「忘れないといけないんですか?」

「うん、忘れないように忘れてね」

 忘れないように忘れるって、凄い響きだなと思う。

 この場合、忘れる事が目的ではなくて、忘れたものを取り行くのが目的だろう。

「まあ、忘れないように忘れる事を忘れたとしても、カズト君は問題なく何か忘れるだろうから、別にこの話は忘れていてもいいんだけどね」

「やめてください」

 真面目に聞こうとしていたこちらが、変に混乱するだけで馬鹿らしい。

 要するに、筆箱を置いて行くのを忘れなければいいだけの話だし、何かあった時の保障もあると言う事なのだ。

 突発的に声を出してしまったが、アリスの楽しそうな顔を見ているうちに落ち着いて来た。

「カズト君も一目見たら、その子だってことはわかると思うんだけど、ちょっと大変な子だから怖がらせないであげてね」

「どういう……」

「って事で、代価はこれね」

 こちらを無視して、アリスが小さな紙と小銭入れを手渡してきた。

 何だろうかと、怪しみながら紙に目を落とす。

 綺麗な小さな文字で書かれていたのは、食材の名前と個数だった。

「お使いに行って来いってことですか?」

「もちろん。家から学校までの間にスーパーくらいあるよね? ついでで良いから買ってきて。

 あと二つくらいお使い頼みたいんだけど、今回はこれ」

「今からですか?」

「暇なときで良いけど、早い方が良いかな。明日も時間あるよね」

「分かりましたよ」

 明日は例の教室での授業も無いし、午後からの授業は取っていない。

 別の二つと言うのも気になるが、先に回数を言ったのだから、今後ずっとお使い係というわけでもないだろう。

 話は終わりだと言う意図も込めて、やや乱暴に立ち上がった僕をアリスが見上げた。

「話は終わりでいいの?」

「明日も来ますからね」

 疲れたよう言って、アリスに背を向ける。

「もう一つの願いは叶えなくてもいいの?」

 ドアの取っ手に手を掛けた所で、怪しげなアリスの声が聞こえてきた。

 背筋に悪寒が走り、動きを止める。

 見られたくなかった秘密を見られたような緊張感の中で、「何の事ですか?」とだけ返して足早に部屋を出た。

 逃げるように建物から出て、生ぬるい生きた空気を吸った所で、ようやく落ち着く。

 アリスが言っていた通り、願いがもう一つあるのは事実。しかし、知られて笑われることはあっても、困る事は無いのでこんなに動揺する必要はなかったと思う。

 だけれどアリスの声色は、心の柔らかい所に触れるような、不快感があったのだ。

 同時にアリスが本当に魔法使いなのではないだろうか、という考えが頭をよぎる。

 僕が知らないだけで、世界は不思議な事を隠しているのではないか。

 少なくとも、渡された買い物のメモが、先ほどのやり取りが現実だった事を教えてくれる。しかし、どうせならもっとファンタジックなものだったら良いのに、と気の抜けた笑いがこぼれた。

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