選択
5-1
ある朝、ふと気になったので、タンブラーに入った鈴を取り出して振ってみた。
水にぬれた鈴をタオルできれいに拭いて、軽く揺するとコロコロという何かが転がる感触に加えて、わずかにチリンと鳴ったような気がする。まだ時間がかかりそうだけれど、いつかはちゃんと鳴るのだろう。
ただこの鈴が直りかけていると言う事は、もしかして、とある事が頭をよぎる。
万能薬。その可能性が否定できなくなってきた。その名の通りであるならば、音無さんの喉も治すことが出来るのではないか。
しかしこれがそうだと言う保証がなければ、勝手に使って良いかもわからない。だが、わずかにでも可能性があるのであれば、試してみたい。
頭では良く無い事だと思いながらも、憑りつかれたようにコップに水を灌ぐようにタンブラーを傾ける。
だが水が一滴も落ちてこない。タンブラーの口部分が透明なもので塞がれているのかとも思ったが、鈴は取り出せたのだからそんな事はあり得ない。
でも考えてみれば、自ら取り出したはずの鈴は、全く濡れていなかった。
つまり僕には、万能薬と思しきこの水をどうにかすることは出来ないと言う事か。
諦めてタンブラーに鈴を戻した所で、携帯のバイブレーションが鳴った。
『おしゃれな喫茶店を見つけたので、一緒に行ってくれないかな?』
『いいよ』
音無さんからの題名も無いメールに、同じく題名をつけずに短く返す。
素っ気ないかもしれないけれど、気の利いたメールを返せない事くらい音無さんも分かってくれているだろうから、とても気が楽。
すぐに返って来たメールは『じゃあ、家の前で待っているね』と頭を悩ます内容だった。
まさかと思いつつ、玄関のドアを開けて見たところ、おめかしした音無さんが立っている。
おしゃれな喫茶店と言っていたので、合った格好をしたのだろうけれど、あいにくこちらには選択肢は少ない。
『おはよう』
「おはよう……は良いんだけど、今日は喫茶店に行くんだよね?」
『着替えるなら待ってるよ?』
楽しそうにニコニコ笑う音無さんには悪いが、着替えても今と大して変わらない格好になる。装飾品の類も持っていないので、後どうにかできるとしたら、入学式の為に買ったスーツを着る事くらいだろうか。
服装は音無さんに我慢して貰うとして、僕が疑問を呈したのはまた別の理由。
「喫茶店が何時に開くかはわからないんだけど、早くても二時間後とかじゃないかな?」
現在の時刻は午前八時を少し回ったところで、恐らくお店が開くのが早くて十時だろう。
距離があるとしても、喫茶店に行くのに二時間もかかる所にはいかないと思うし、この前みたいにあちらこちらを歩き回ると言うのは、正直疲れる。
音無さんは小首を傾げた後、二、三度瞬きをしてから、無表情で携帯を見つめた。
『早く来すぎたかも』
「だよね」
『どうしよう。いろいろ連れ回したら、またカズト疲れちゃいそうだし』
音無さんが困ったように目を彷徨わせる。というか、前回僕が疲れていたと気づいていたのか。
悩んでいる音無さんに帰るように言うのは気が引けるし、仕方がないかとリビングへの道を開けた。
「中で待ってる?」
『いいの?』
「面白い物も無いとは思うけど、ずっと外だと暑いでしょ?」
見られて困るものはないし、散らかっていることも無い。問題は誰かを家に入れた事がないから、どうしたらいいか分からない事だろう。
リビングで腰を下ろして、きょろきょろと部屋の中を見回す音無さんを見ていたら、変に緊張してしまう。
『なんて言うか、物がないね』
「自分でもそう思うけど、生活できているからいいかなって」
『カズトが良いなら、わたしが口出す事でもないんだけどね。
でも、一つだけ。あの鈴、何であんなに面白い事になっているの?』
音無さんが、タンスの上に置かれた透明なタンブラーを指さす。植物の切れ端と一緒にタンブラーの中に入った木製の鈴は、面白いかもしれないけれど、こちらとしては音無さんの目ざとさの方が面白い。
鈴レーダーのようなものを、内蔵しているのではないだろうか?
「今まで鳴らなかったんだけど、水につけていたら直るらしいんだよね。信じ難いけど」
『全く原理は分からないんだけど、鈴が鳴らないって言うのも、なかなかある話じゃないよね』
これだけ伝えると、音無さんは興味を失ったのか、また部屋を見回し始める。
僕も手持無沙汰なので、音無さんに尋ねてみる事にした。
「音無さんって朝ご飯食べてきたの?」
『ううん。すぐに喫茶店に行くかと思って食べてなかったよ』
「じゃあ、何か簡単に作ろうか? 僕もまだ食べてないし」
音無さんが頷いたのを確認してから、キッチンに行くのだけれど、どういうわけか音無さんもくっ付いてきた。リビングに面白い物が無かったからなのだろうか。
狭いキッチンに二人並んでだと作業がしにくいので、「見ていてもいいけど、少し離れていてね」と注意をしたら、『何か手伝えることがあったら言ってね』と返って来た。
手伝いが必要なほど手間のかかるものを作る気はないので、初めは何も頼まずに、小さい鍋でお湯を沸かし始める。沸騰を待つ間に卵を溶き、お皿を二枚用意してレタスとミニトマトを三分の一ほどのスペースに置く。
お湯が沸騰したらウインナーを投入して、続いてバターロールをオーブントースターに。
ウインナーとバターロールをそれぞれお皿に盛りつけ、鍋を退かしフライパンをセットして、ササッとオムレツを作って出来上がり。
人様に出すものだから、少し気を遣いすぎたかもしれないが、時間は潰せたように思う。
音無さんに「軽く片づけるから、持って行っていてくれないかな?」とお皿を渡す。
片づけを終えてリビングに戻ったら、音無さんが神妙な顔で朝食を見ていた。
『何か、ホテルの朝食みたい』
「嫌だった?」
『ううん。でも、わたしより女子力ありそうだなって』
別に難しい料理をしたわけでもない。多少料理が出来れば誰でも作れるものだから、女子力は関係ないのではないかと疑問を抱きつつ、朝食を食べ始めた。
朝食を食べ終えて、ひと段落したところで音無さんから『いつも朝からこんなご飯作っているの?』と質問が来た。
「いつもはもっと手を抜いているよ。面倒だったら、昼食と一緒にすることもあるし」
『ちゃんと食べないと、って言いたいけど、わたしも気持ちは分かるな。作っている時間ないんだよね』
「音無さんも料理はするんだよね?」
『一応ね。でも、カズトの方が料理上手そう』
「どうだろう。ある程度は出来ていると思うけど、魚を捌けないし、お肉は動物単位でしか気にしてないし、何より似たような料理ばかりになるよ」
気が付いたら、丸二日オムライスしか食べなかった事もある。練習の為だったけれど、未だに安定してオムライスを上手に作れる気がしない。
出かけるにもいい時間になったので、返事を待たずにお皿をシンクに持って行き、さっと洗う。
バッグの中に鍵と財布が最低限入っていることを確認してから、「そろそろ行こうか」と音無さんを促した。
十時頃に家を出て、喫茶店に着いたのが十時半過ぎ。音無さんがおしゃれと言っていただけあって、濃い茶色が基調となっているシックなところで、テーブルや椅子は勿論、小物に至るまで歴史を感じさせるようなものが揃っている。
しかし、堅苦しくはなく、同じ年代の人もちらほら居て、落ち着いて話をできそうな場所に思われた。
案内された席で注文を済ませる。
『ついてきてくれてありがとう。ここ、一人だと入り難くって』
「言われてみたら女の子一人だと難しいのかな?」
どの喫茶店にも等しく入りにくい僕としては、何とも思わないのだけれど。
『今のわたしに入りやすいお店があるとは思えないんだけどね。
今さらなんだけど、カズトって誕生日はいつなの?』
「六月だよ?」
『なんだ。わたしも五月で過ぎちゃったんだ』
「急にどうしたの?」
『考えてみたら、カズトの事よく知らないなって思って。
中学や高校で何していたの?』
確かにこういう話は今まで避けてきたのだけれど、どうして今なのだろうか?
だが逆に、いつなら普通なのかと言われても分からないので、真面目に考える。
「何もしてなかったな。だからこそ、ベタな青春に憧れるようになったんだし」
『部活も何も入ってなかったの?』
「うん、帰宅部。音無さんはいつから音楽をはじめたの?」
残念ながら面白い話が出来そうになかったので、音無さんに話を振る。
音無さんは、ちょうど届いたショートケーキを一口食べてから、フォークを置いた。
『部活に入ってちゃんと始めたのは高校生の時だよ。
でも、歌はずっと好きだったから、小さい頃から歌っていた。そのせいかはわからないんだけど、喉が弱くなっちゃったんだけどね』
「高校の部活ってどんな事するの?」
『どんなって程の事はしてないかな。基本は基礎の反復。
授業が終わって、部室に行って、発声練習をしてって感じ。喉が弱いから最初は心配だったんだけど、緩い部活だったのもあって、先生も先輩もわたしに無理はさせなかったかな』
決して楽ではなかっただろうが、文字を打つ音無さんの表情に陰りはない。
珍しく音無さんが長文を打つので、こちらもいつも以上にリアクションを大きくして、読み進めていく。
『でも、先輩達が卒業して行ったら、本気で音楽やりたい人とそれまで通り楽しみたい人で、部が二つに割れちゃったんだ』
「音無さんはどっちだったの?」
『前者。思っていた以上に自分が歌える事に気が付いて、どこまでやれるのかなって、試したかったんだよね。
一週間くらい喧嘩して、先生に怒られて、仲直りって感じだったよ』
話を目にしながら、音無さんは元は住む世界が違う人なのだなと、実感する。僕のように青春に憧れる側じゃなくて、青春の中で輝いている側なのだ。
「中学の時には?」
『部活みたいに何かをちゃんとはやってはいなかったよ。好きだったから、家で歌の練習はしていたけど』
誇るわけでも、見せびらかすわけでもなく、好きだったからで済ませる事が出来る音無さんが眩しくて、「そうなんだ」と視線を下げた。
「やっぱり僕とは住む世界が違うね」
強がって顔を上げたのだけれど、音無さんはムッと口を尖らせる。じれったそうに手を動かして、こちらに意思を伝えた。
『わたしとカズトの住む世界が違うなんてことない。いまわたしの隣にいるのはカズトだけなんだから。
このテーブルが、世界を分けているわけないじゃない。わたしはカズトと一緒にいるの。
分かった?』
最後の一言を指さす音無さんの目は、こちらが否定することを許してはくれず、僕はコクリと頷く事しか出来なかった。
しかし『喉を治してカズトにわたしの歌を聴いて貰うのが夢なんだから』と、次の文章を見せる音無さんがどうしてこんなに怒っていたのかを理解することは出来なかった。
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