5-2


     *


 音無さんの言葉を受けて、一つ気になる事が出来たので、忘れないうちにアリスの所へ赴く事にした。三十度を超える真夏日でも、アリスのいる旧校舎は涼しく、長袖を羽織っても大丈夫なくらいだった。

 いつもの部屋に、退屈そうに座っていたアリスは、僕を見つけるなり「久しぶり」と力なく片手を挙げた。

「此処にいて暑いって事はないと思うんですけど、どうしたんですか?」

「カズト君の敬語が抜けないんだよね」

「アリスって、どうしても同級生に見えないんですよね」

「冗談は置いておいて、単に暇なだけだよ」

 アリスは冗談だと言うが、いずれ敬語がなくなると言った手前、こちらにも問題がある。

 反省をしつつ「暇なんですか?」と問い直した。

「カズト君はいつ此処に人が多く来ると思う?」

「いつって、願いがある人が来るんでしょうから、決まっていないんじゃないですか?」

「答えがテスト前後って言ったら、理由は分かる?」

「単位関係が多いんですね」

「多いって言ってもたかが知れているし、全員に会うわけでもないんだけどね。

 授業もないし、気分的に暇だなって思うんだよ」

 去年の夏休みは一人だったので、アリスの言う事はとても理解できる。もしも音無さんと出会っていなければ、「何かいい暇つぶしがないですかね?」と願っていたかもしれない。

 でも音無さんと出会った僕は、別の言葉を返すことにした。

「どこかに遊びに行くとかしないんですか?」

「行きたい場所は、だいたい一年生のうちに行っちゃったんだよね。

 準備さえすれば、どこでも日帰りできるし」

「注意を向けてみたら、見方が変わるかもしれませんよ?」

「それはカズト君がやるべきことでしょ? で、何しにきたの?」

 僕がすべきだと何故わかったのかは今さら問わないけれど、だったら何をしに来たのかも分かっているんじゃなかろうか。

「以前の音無さんの歌を聴く方法がないかなと思って、尋ねに来たんですよ」

「願うとは言わないんだね」

「ずるいですか?」

「ううん。方法は知っているけど、私に訊いたら代価を貰うよ?」

 代価は想定内だったけれど、必要以上に「私に」を強調したアリスの言葉が気になって、質問を追加する。

「アリスじゃないと出来ない方法ですか?」

「今の世の中、誰でも出来るんじゃないかな?」

「分かりました。何か暇つぶしでもしましょうか?」

「急がなくていいの?」

「急ぐことでもないですからね。ここって、何かあるんですか?」

「ボードゲームなら何でもあるよ。チェスとかできる?」

「軽くやった事ある程度なので、やる前にルールとか確認させて貰えれば何とか」

 どこからかチェス盤を取り出したアリスに、まるで勝てる気はしなかったけれど、基本暇なのは僕も変わらないので快く相手をすることにした。


 チェスの後、将棋とオセロもしたけれど、僕は一度も勝てる事はなく、区切りがついたところでアリスが満足そうに背伸びをした。

「カズト君弱いね」

「言い返せないです」

「でも、楽しかった。カズト君はこれからどうするの?」

「やる事ないですし、帰ろうかなと思っていますけど」

「だったら、帰る前に学食に行ってみたらどうかな」

 何気ない提案だけれど、わざわざ言うのだから意味があるのだろう。

 どういう意味があるのかも何となく分かるので、「ありがとうございます」とお礼を言って部屋を出る。背後で「またね」と声がしたので、たまには遊びに来ようと心に決めた。


 学食で遅い昼食を買って、席に持って行く。いつもとは違い選び放題で、逆に迷ってしまった。窓側の席に決めてうどんを食べていたら、懐かしい顔がやって来る。

「よ、ボッチ。久しぶりだな」

「うん、八木も久しぶり」

 八木は「最近学食きていなかったのに、どうしたんだ?」と僕の前の席に座る。「夏休みだからね」と返す僕を、八木が訝しげる。しかしすぐに力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預けたようだった。

「今日はどうしたんだ? こんな時間にわざわざ来たって事は、何かあるんだろ?」

「八木こそ今日はどうしたの?」

「学割取りに来たんだよ。来週から旅行に行くからな」

「そうなんだ」

 八木なら一緒に行ってくれる友人が沢山いるのだろう。

 八木の視線が、こちらを追及するものに変わる。

「で、ボッチはどうしたんだ? 引きこもり時期だろ?」

「たまには大学に用事くらいはあるよ。でも、八木に訊きたい事もあったんだ」

「珍しいな。何が訊きたいんだ?」

「以前八木がバンドの話をしていたよね。そのバンドの曲って聴けないのかな?」

 八木が目を丸くして、何故か僕の頬を引っ張った。

「何するのさ」

「いや、本物のボッチか疑わしくてな。で、レアレスの話だったな」

「レアレスって言うのは?」

「件のバンドの名前。興味を持ったのはいいが、もう解散したらしいぞ?」

「それも前に聞いたね」

「だったらいいか。去年の文化祭の映像がネットに投稿されているから、『レアレス 文化祭』で検索したら、すぐ分かるだろ」

「わかった。ありがとう」

 お礼を言って立ち上がる僕に、八木が「もう行くのか?」と声を掛ける。

「思い立ったが吉日って言うし、忘れないうちに聴きたいから。八木も旅行の準備あるんじゃない?」

「そう言う事にしておくよ。じゃあ、休み明けちゃんと学校に来いよ」

 失礼な言い草だが、こういう冗談を言われるような性格だと自覚はしているので、「約束は出来ない」と返してから、学食を後にした。


 家に帰ってパソコンを開く。起動するのを待っている間、自分の世間知らずさを再認識していた。

 普段からネットに触れていれば、大学が分かっているのだから音無さんのバンド――レアレスだったか――を調べる事くらいできただろう。

 早速検索にかけてみたら、大手の動画サイトが表示され、クリックする。

 画面のスクロールを待たずに始まった動画は、良く知る大学の屋外に設置したステージが遠目に映されていた。

 ステージ上の人物ははっきりと映っていないけれど、音無さんと横尾さんが居る事は何とか分かった。マイクを持って喋っているのは音無さんのようなので、スピーカーから聞こえている声も音無さんのものなのだろう。今まで一緒に居ながら聞くことが出来なかった音無さんの声は音無さんらしく、違和感がない事に違和感を覚える。

 前口上が終わり、演奏が始まる。ギターとベースとドラムとボーカルのバンドで、好きな人はベースの音がとか、ドラムがとか一家言あるのだろうけれど、僕の耳にはボーカルの声しか入ってこない。

 知らない曲だから、素人の僕には上手なのか下手なのかは分からないが――上手なのだろうけれど――先ほど話していた時とも全く違う雰囲気の音無さんの歌は、安定感があり何よりも良く通っていた。

 僕が音無さんの事を知っている事もあるだろうけれど、思わず聴き入ってしまう。

 同年代で世界と渡り合うような凄い人がいるが、音無さんもその一員ではないかと思えるほどに。少なくとも、僕の隣でくすぶっていて良い人ではない。

 音無さんの声を取り戻す事は、今まで僕の相手をしてくれた音無さんに出来る最大の恩返しになるだろう。いや、単純に僕が音無さんに、好きな人に、何かしてあげたいのかもしれない。


     *


 音無さんから明日遊べないかと誘いのメールが来た翌日、朝の六時ごろに玄関のチャイムが鳴った。

 音無さんとは昼過ぎに会う約束だし、こんな朝早くからいったい誰だろうと不審に思って、ドアを開けたが誰もいない。悪戯だろうかと辺りを見回したら、白い紙で作られた紙飛行機を見つけたので、拾い上げる。

 何の変哲もない紙飛行に思えたが「カズト君へ」と書いてあるのが見えたので、開くことにした。

 中にはきれいな文字で次のように書かれていた。

『代価が揃いました。都合が良い時にでも、相応の覚悟と木の鈴を持ってやってきてください。 アリス』

 不思議と疑うことなく、アリスからの手紙に間違いないと確信できた。

 今すぐにでもアリスの所に向かいたかったのだけれど、今日は音無さんとの約束がある。アリスの所に行くのは明日にするとして、もう一度手紙に目を通す。

 何故木の鈴が必要なのだろうかと思い、試しに鳴らしてみたところ、木製の鈴は何故かチリーンと響いた。金属のように高いが温かみのある音で、少なくとも木からこんな音はしないだろうと驚きはしたが、もしかして魔法的な何かだったりするのだろうか。

 相応の覚悟というのはアリスのはったりだとは思うし、早くも音無さんに恩返しできる機会がやって来たと言える。

 ふと気が付くと、自分の口角が上がっていた。僕が思っていたよりも、僕は音無さんの為に何か出来る事が嬉しいらしい。

 今日はその音無さんに会える日だから、ちゃんと準備をしていこうと、紙飛行機だったものをテーブルの上に置いて準備をすることにした。


 待ち合わせ場所は学校近くの運動公園で、以前に音無さんとコンビニで買ったから揚げを食べたところになる。

 いつものように早めに家を出て、音無さんを待っていようかと思ったのだけれど、今日は先に音無さんが来ていた。

「音無さん、早いね」

『たまにはカズトを待ってみようと思ってね。いつもわたしの方が後だったから。

 それに、遊べる時間が伸びた方が嬉しいし、話したい事もあるの』

 ベンチに座っていた音無さんが、ポンポンと自分の隣を叩いて、座るように促す。

 少し間を空けて座ったのだけれど、音無さんが距離を詰め肩と肩が触れた。音無さんの距離が近いのはいつもの事だけれど、好きだと意識してからは露骨に鼓動が早くなる。

「今日は何するの?」

『お喋り……かな?』

「だったら、とりあえず場所移さない? 外だと暑いし」

『そうだね』

 何だか音無さんの元気がないように見えたので、何とか元気づけられないかなと考えながら、喫茶店に向かった。


 いつもは注文が大変だからと、後払いの所に行くのだけれど、今日は音無さんの頼みもあって先にお金を払うところに来た。

 音無さんが席を取り、僕が飲み物を買いに行く。

 それからしばらくは、お互い探り探り益体のない話をしていたが、音無さんが一度目を伏せ真面目な顔をした。

『わたしね。声を取り戻すのは諦めようと思うんだ』

「ちょっと待って、どういう事?」

 思わず大きな声が出て、こちらに注意が向く。周りに対して僕が平謝りをしている間に、音無さんの言葉が届いた。

『特に捻った意味も無いよ。ただ、もう駄目なんだって。

 わたしの声はリハビリをしたからって戻るものじゃないんだよ』

「もう、声を出せなくていいの? 歌えなくてもいいの?」

 僕の質問に音無さんの手が止まる。キュッと口を閉じて、唇を噛んでいた。

『うん。もう歌とかどうでも良くなっちゃった』

 流石の僕も、今の音無さんの笑顔が本気じゃないって事は分かる。

 手を尽くしても駄目だったから、開き直っているのだろうか。音無さんの表情が思わしくないので、何とか元気づけたくて思わず声が出る。

「もしも、治せる方法があるとしたら……」

 僕が言葉を言い終わる前に、バンッと音無さんがじれったそうにテーブルを叩いた。

 続いて乱暴に文字を書き始める。辺りは一瞬だけ静まり返ったが、何事も無かったかのように騒めきが返って来た。

『やめて、絶対に無理なの。何をしても、誰を頼っても。

 だから、わたしの声を治そうとしないで』

 乱れた字が音無さんの感情を表している。だが、音無さんは本当に声を治す方法がある事を知らないのだ。アリスの事を言ってしまってもいいかもしれないけれど、感情的になっている音無さんに話しても逆撫でるだけかもしれない。

 何せアリスは腕のいい医者ではなく、魔法使いだなのだから。

『ごめん。今日は帰るね』

 冷静になった音無さんが、これだけ書き残して席を立つ。何とか引き留めたかったのだけれど、理由も方法も思いつかなくて音無さんの背中を見送る事しか出来なかった。

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