お使いと鈴

3-1

 アリスのお使いもあるけれど、テストも疎かにできない。

 あまり点数を取る事は意識していないけれど、単位がもらえないのは困る。

 だからというわけではないが、休日の今日は図書館で勉強することになった。何故か音無さんと。

『別に一緒に勉強する意味無いよね? 音無さんと授業どころか学部も違うし』

 向かいの席で頭を抱えている音無さんに、すっとメモを差し出して、勉強に戻る。

 大学の図書館には勉強ができるように机が設置されていて、テスト前のこの時期大体どこも埋まってしまっているのだけれど、ここにはあまり人がいない。

 理由は簡単で、もっとも出入り口から遠く、余ったスペースにとりあえず机を置いておきましたと言わんばかりの配置だから。

 聞こえるのは鉛筆を走らせる音か、ページをめくる音だけで、二人同時に手が止まった時には耳が痛いほどの無音が訪れることもある。

 声を出すのも躊躇われたので、ここでのやり取りは筆談。何かがあれば紙に書いて渡し、渡された側はきりが良い所で答える。

『誰かが居ないと、ついサボっちゃうんだよね。

 一人でここに来るのも、寂しくなってきたし』

 相互監視をして、勉強を促そうと言う事か。僕は別に一人でも勉強は出来るけれど、こうやって誰かと一緒にテスト勉強をすることに憧れていたので、結構嬉しい。

 それぞれやっている事は違うから、教え合えないのは残念ではあるけれど。

『さっきから割とすぐ返事が来るけど、勉強進んでる?』

『進んでるよ?』

 言葉と裏腹に顔を逸らす音無さんは、多分あまり進んでいないのだろう。ページをめくる音も何かを書く音もこちらに比べたら少ないのだから。

 僕に出来る事もないので、『じゃあ、頑張って』と返してから、自分の勉強に戻る。

 再開したのも束の間、音無さんが背後に忍び寄り横からノートを覗き込んできた。

「どうしたの?」

 小声で尋ねたところ、音無さんは悪びれた様子も無く『お腹空いた』と書かれた紙を見せる。

 時間も正午を過ぎていたので、机の上を片付けてから席を立った。


 大学近くのファミレスは、昼時なのもあって人が多かった。

 幸い待ち時間も無く席に案内はされたけれど、料理が出来るまで時間はかかるらしい。

 忙しそうにしている店員に目をやっていたら、テーブルに何気なく乗せていた手をポンポンと軽く叩かれた。

 手元を見たら、メモ用紙が差し出されている。

『テストが終わったら、何処かに遊びに行かない?』

「何か食べたいものがあるの?」

 メモ用紙が戻って行った先に、ムッとした音無さんの顔があって、メモ用紙を睨みつけて何かを書いている。

 何度も会ううちに分かったけれど、この反応をしている時の音無さんは、本当は怒っていない。

『違う。折角大学生なんだから、小旅行って言うのをしてみたいって思っただけだよ』

「音無さんは何処か行きたいところとかあるの?」

『いつもわたしの我儘に付き合って貰っているから、成宮君が行きたいところかな』

 行きたいところと言われても、特に何も思い浮かばない。

 でも、行かないといけないなと思う場所はある。

「地下水や湧き水とか、きれいな水が汲めるところかな」

『またお使い?』

「これで最後なんだけどね。お店で売っているような水じゃ駄目なんだって」

 音無さんは不思議そうな顔でこちらを見た後で、何か思い当たる節でもあるのか考え始めた。

『だったらさ、温泉とかどうかな?』

「温泉?」

『温泉って地下からくみ上げているお湯で、飲めるものもあるって言うから』

 音無さんの言っている事はおおむね正しいと思うのだけれど、水とお湯って違いはある。

 でも、駄目だったら駄目だったで、また探せばいいのだから「行ってみようか」と応えた。

 そこから先、音無さんは前々から決めていたとばかりに、具体的な場所や交通機関を書いて楽しそうに見せる。

『前から行ってみたかったんだ』

「だろうね。すぐに情報が出てきたし」

『行くって事で進めていいかな?』

 頷いて返した所で、料理が来たので話は一度お開きになった。


     *


 何事も無くテストが終わり、夏休みが始まってすぐ、僕達はバスに揺られていた。

 音無さんが言っていた温泉まで片道三時間弱。最初の一時間半ほどは、電車に揺られていた。

 考えてみたら、学生だけで電車に乗ると言う事自体久しぶりで、気分が高揚しているのが分かる。知っている町を抜け、畑を抜け、橋を渡る時には太陽に光る海と浮かぶ島々と白く大きな雲とが如何にも夏休みという雰囲気を醸し出していて、童心に帰るようだった。

 楽しかった電車の旅とは裏腹に、バスの移動は恐怖そのものになっている。

 初めは良かった。しかし、次第に山道に入って行ったかと思うと、車両一台がギリギリ通れるような道路に、落ちたらまず助からないであろう谷、曲がりくねった道は前方からの車など見えようもない。

 決してジェットコースターのように速くはないのだけれど、近い恐怖を感じる。

 しかし、音無さんが隣にいる中、あまり怖がると格好がつかないような気がして平気なふりをしていたのだけれど、当の音無さんは優しい目をしてこちらを見ていた。

 実際の時間の倍はかかったような心境でようやくついた目的地は、崖の先端にポツンと建ったホテル。躊躇いなく中に入る音無さんに続いてホテルに入り、カウンターを目指す。

 マニュアル通りなのか、にこやかに「いかがいたしました」と話す男性を横に、音無さんがカウンターの向こう側を指さした。

 料金案内のようなものがあり、お金を払えば泊まらなくても温泉に入れるらしい。

「ここって、温泉だけは入れるんですか?」

「可能ですよ。当ホテルには二か所浴場がございまして、一つは源泉を沸かしなおしましたお湯で、後ろの階段から行ける浴場です」

 男性の声に合わせて後ろを見たら、確かに階段がある。

「もう一つがケーブルカーで下っていただきましたところにある、源泉を引いたままの湯でございます」

「ここのお湯って飲む事ってできるんですか?」

「はい、ケーブルカーで降りられた先で汲める場所がございまして、お持ち帰りも出来ます。ですが、飲むほどに効能が高まるわけではございませんので、飲み過ぎないようにご注意ください」

 男性からの説明を受けた後で、音無さんを一瞥する。

 音無さんが頷いたのを確認して、男性にケーブルカーの代金と入浴料を払う。

 ケーブルカーが戻ってくるまでに二十分ほどかかるらしい。

 ホテルのロビーで待っていても良いが、音無さんに袖を引っ張られたので外の発着場で待つことにした。

 何故わざわざ外に来たのだろうかと疑問に思ったが、すぐに答えは分かった。

 目もくらむような崖は、しかし同時に、まるで大型の動物の背のような生々しさを持つ鮮やかな緑の山で作られた谷でもある。

 翡翠色の川は、日に照らされて輝き、泳ぐ魚も捕えられそうなほど透き通っていた。

 吸い込まれそうな景色に感動しつつ、バスの中ではもっと別の角度から見られただろうに何を怖がっていたのだろうかと後悔する。

『やっぱり成宮君、高所恐怖症ってわけじゃないんだね』

「今日のバスは絶叫マシンに乗る様な怖さだったから、別に高いだけなら大丈夫だよ」

『絶叫マシンは苦手?』

「遊園地自体、十年くらい行ってないから、どうなんだろう?

 でも、昔は苦手だったよ」

 僕の中の最後の遊園地の記憶は、家族で行って、絶叫マシンには乗らずに延々と水でぬれるようなものに乗っていた。

 ジェットコースターは、一回転しなければ何とか乗れたような記憶がある。

「音無さんは遊園地とか行くの?」

『大学に入った後も友達と何回か行ったよ。絶叫マシンも割と好きな方だと思う』

 道理で平気そうな顔をしていたわけだ。

 いつか音無さんと遊園地に行ける機会が来るだろうかと、思っている間に、音無さんの興味が僕のバッグに移っていた。

『この鈴、今日もつけてきたんだ。いつもと違うバッグだよね?』

「預けた人に出来るだけ身に着けておけ、って言われてね」

『おまじないとか、魔よけとかなのかな?』

「確かにそう言うのには詳しそうな人だけど、だとしたら、これを持っていなかったら大変なことになるかもね」

 相手は本物の魔法使い。もしも音無さんの言う通りなら、効果は折り紙付きと言った所だろうか。

 しかし、出来るだけ持ち歩いている鈴だが、偶に忘れる事もあり、忘れた時に何か悪いことが起こったわけでもないので、違うとは思う。

 それにしても、音無さんは本当によくこの鈴に気が付くものだ。

 いつの間にかに十分経っていたのか、ケーブルカーがやって来たので、乗り込む。中には誰もおらず、ドアは手動になっていた。

 階段一段一段に椅子があるような構造になっていて、一番前と一番後ろでは高度に差がある。

 一番前の席には乗車し終わったと知らせるボタンがあり、入り口を確認した音無さんがボタンを押した。

 ほどなくケーブルカーが動き出す。

 谷に沿って落ちるように下っていくが、スピードはあまり出ておらず、怖くはない。

 むしろ、先ほどまで遠目に見ていた景色の中に入り込むことが出来て、楽しかった。

 近づく川に気を取られていたら、隣に座っている音無さんが、すっと携帯を差し出してくる。

『混浴だったらどうしよっか?』

「どうするって、時間ずらす?」

 音無さんからの不意打ちに動揺を隠して答えたけれど、自分でもよく言葉が出てきたなと思う。

 当の音無さんは何か言いたそうな顔で、携帯の画面をスライドさせた。

 出てきた文字は『残念、混浴じゃないよ』だったけれど、僕は心底ほっとした。

 音無さんは調べたうえで来ているだろうし、ちょっと考えればからかわれているだけだと気が付いたかもしれないけれど。

 ケーブルカーが麓の小屋に到着して、最初の扉の先には待合室のような場所があった。

 ソファに自動販売機、温泉もここで汲めるらしい。

 お互い気の済むまで入った後に、ここで待ち合わせる事にして、看板に示された道を行って温泉に赴く。

 数段階段を下ったところに脱衣所への扉があり、中には衣服を入れる籠と貴重品を入れるロッカーが設置してある。脱衣所を抜けた先にある浴場は、僅かなスペースと湯船があるだけ。

 先客も居たけれど、特に気にすることなくかけ湯をして、湯につかる。

 透明なお湯は人肌よりも少し高い位なのかぬるめで、ずっと入っていられそうな感じがした。

 壁際にお湯が流れてくるところがあり――ライオンの顔はしていない――、反対側にはケーブルカーからも見えた景色が一望できる。

 露天風呂自体初めての経験だった僕は、外が見える状態でお風呂に入っている状況が何だか新鮮で、見える景色と、ぬるめのお湯と、偶に吹く風を楽しんでいた。


 気が付けば浴槽に一人だった。

 僕より後に来た人は居なかったはずだけれど、もしかして結構な時間がたったのではないか、と慌てて脱衣所に戻る。

 着替えを終えて時計を確認したら、三十分以上湯につかっていたらしい。

 待合室に戻って来たが、人がいなくて息をつく。

 しばらく黙って座っていたが、今のうちに温泉を汲んでおくか、とバッグの中からアリスから借りた透明なタンブラーを取り出した。

 飲泉場と言うらしく、学校でよく見かける手洗い場の蛇口があるべき場所からお湯が流れていて、タンブラーに注いでいる時に音無さんが戻って来た。

 ふたを閉じて、音無さんを視界に捉えた僕に、『待った?』と口を動かす。

「ちょっと前に出たところだよ」

『よかった』

 実際どれくらい待ったかは覚えていないけれど、恐らく五分くらいだろう。

 胸に手を当てて、安心したとジェスチャーする音無さんが、コロッと楽しそうな表情に変えて近づいてきた。

 手に持つ携帯には『ついて来て』とだけ書いてある。

 何か面白いものでも見つけたのだろうかと、音無さんについて行くが、向かったのはお風呂がある下りの階段。

 お風呂がある階のさらに下、行き止まりかと思っていたのだが、左に曲がることが出来て、外へとつながっていた。

 要するに、川まで行くことが出来る。

『成宮君って、こういう自然とか好きだよね』

「何で知ってるの?」

 音無さんの言う通り、こういった如何にも物語の一シーンになりそうな風景には、目を奪われる。それ以外にも、水が流れる様を見たり、その音を聞いたりすることは飽きない。

 でも、音無さんにこの事を言った事はないと思うのだけれど。

『以前、成宮君じっと空を見ていたことがあったから、そうなのかなって。

 ゲームセンター何かで騒ぐタイプでもなさそうだし』

 ばれてしまったのであれば、衝動のままに川に近づきたい。

 チラッと音無さんを見たら、待っていたとばかりにメモ用紙を見せる。

『鞄持っていてあげるから、先に行って大丈夫だよ』

 音無さんが伸ばした腕にバッグを渡すのは気が引けるのだけれど、渡さなければ引っ込みそうも無かったので、お礼を言ってバッグを手渡し、川へと急ぐ。

 思った通り、川の水ははっきりと底が見えるほどに透明で、アリスのお使いはこっちの水でもいいんじゃないかと思えた。

 光を反射する水面の下では、小さな魚が流れに逆らっている様や、流れに身を任せ石が転がっている様が見て取れて、全く飽きが来ない。

 高低差で水が白波を作っている様子も音も、上空を飛ぶトンボも、何もかもが楽しませてくれる。

 川近くの手頃な岩に座っていたら、音無さんがあとからやってきて、隣に座った。

『こんな成宮君始めてみたかも』

「退屈だったら、もう大丈夫だよ?」

『ううん。わたしもこういうの好きだよ。これでも、バンドのボーカルやっていたから、こういったものには興味持つようになったんだ。

 なかなか一緒に行ってくれる人は居ないけど』

「昔はそうでもなかったんだね」

『高校生の半ばくらいだったかな。行き詰った時に、歌詞の意味をちゃんと考えるようになったんだよ。

 で、気が付いたの。決して長くない詞だけれど、いろんな事が詰まっていて、グッとくるものがあるって。

 そのグッとくるものの、根源にはこういった素直な感動があるんじゃないかなって。言葉にするのは難しいんだけど』

 音無さんは『語っちゃって恥ずかしい』と照れたように笑う。

「でも、気持ちは分かる気がする」

 音無さんと同じく言葉では言い表せないけれど。

 誰かと二人並んで、ただじっと景色を眺めているのは、妙なくすぐったさと変な居心地の良さがあった。

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