机上の言の葉
姫崎しう
机上の言の葉
1-1
*
某大学にある三学部兼用の講義棟の裏には、蔦で覆われた赤茶色の煉瓦の建物がある。
壁にはひびが入り、長年放置されていた様相のこの建物には、願いを叶えてくれる魔法使いが居ると言う噂があった。
ある人は次のテストの問題を教えてもらったと言い、ある人はレポートの提出期限を延ばして貰ったと言い、ある人は大怪我を治して貰ったと言う。
同時に魔法使いはいなかった、と言う人も多い。
留年を避けるためどうしても単位が欲しかった学生が、藁にも縋る思いで毎日魔法使いの元へ行ったが一度も会えなかった。
結局その学生は、この間に勉強をしていた方がましだと気が付き、通う事を止めた。
仮に魔法使いに出会えたとしても、願いを叶えて貰えるとは限らないため、この学生の判断は正しかったとも言える。
魔法使いに願いを叶えてもらうためには、代価が必要なのだ。
代価として要求されるものは、何かの法則や基準があるわけではなく、魔法使いの気分次第だと言われている。
その存在は曖昧だが、探せば必ず出会った事のある人にたどり着く。もしかしたら、魔法使いはすぐ近くに居るのかもしれない。
*
特にやりたいこともなく大学に入学して、何度目かの中間テストが終わり、また通常の講義が始まりだした。
二年生になって初めてのテストは可もなく不可も無く、ついでにテストが終わったと言う感動も無い。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、食べて、寝る。テストもこの繰り返しの平穏な生活の一部でしかないから、感動が無くて当然か。
今でこそ、無風の生活の中に身を委ねているけれど、入学当初は不安もあった。
初めての一人暮らし、知らない土地、広すぎると感じた学校の敷地。
今では懐かしさを覚える。
平穏な生活はとても退屈なもので、七月目前の程よくクーラーの効いた講義室も相まって、教授の声が子守唄になりつつあった。
寝たら注意されるので、気を紛らわせるものはないかと目だけで辺りを見回す。
ちょうど自分の手元に視線を移した時、僕は“それ”を見つけた。
六人用の白い机――今使っているのは僕だけだ――の端に、女の子が書いたのか丸っこい字で何か書いてある。
『光を失った私に 伸びる救いの手などはない
光を失った私を 蔑む貶める目しかない
弓なりの月の下 一人放り出されて
6と8の混ざった 世界に迷い込むの』
文学はからきしなのだが、ザッと目を通した感じ詩か何かだろうか?
何か大切なもの――光とあるから希望だろうか――を無くしたのかなとか、一人になったのかなとかは想像できるけれど、具体的に何が言いたいのかは分からない。
6と8が混ざった世界とは何なのだろうか? 足して14、もしくは、さらに二で割って7が関わってきたりするのだろうか?
意図的に残したにしても、消し忘れたにしても、落書きには違いないので、深い意味はないのかもしれない。
幸い眠気覚ましにも、暇つぶしにもなった。冴えた目で授業をちゃんと聞こうかと思った矢先に「今日はここまで」と教授の声が響いた。
教室を出ていく教授を後目に立ち上がり、携帯で黒板の写真を撮りに行ってから、片付けをするために元居た席に戻る。
無造作に置かれたシャープペンシルを手にしたところで、ふと先ほどの落書きが気になった。
『6と8の混ざった』と書かれている部分を丸で囲ってから矢印を引っ張り、『14か7ってこと?』とコメントを添えてから、学食に向かった。
いつも一人でいる僕にとって、人の集まる学食は好ましい場所ではない。まず、注文に慣れるのに時間がかかった。カウンターで注文をして、受け取り口からもらうだけなのだが、周りが騒めいていてなかなか伝わらないのだ。
加えて基本的に席は四人掛けなので、一人で座っていると申し訳ない。
二人組に相席を頼まれ、談笑する様子を隣で聞いている自分がいたたまれなかったと言うのもある。
だから一年生の前半は、すぐに食べ終えて次の授業の教室に向かうか、講義が無ければ帰るか、図書館に逃げ込んでいた。
だがそれも昔の話で、今は一人で昼食をとっていたら「よう、ボッチ」と僕の前の席に寝癖の残った髪の男が座る。
「八木、今日も来たんだね」
「カズトは気まずくない、俺は席を取るのが楽、素晴らしい関係じゃないか」
八木の言葉を否定する気も無いので、「おっしゃる通り」と返して、食事に戻る。
ボッチもカズトも、僕を示す名称で、正確には成宮一人という。
『一人』と書いて『カズト』と読むのだが、一年の時に偶々同じ授業を取った八木が一人でいる僕の所に来て、名前を訊いて『ボッチ』と名付けた。
『一人ぼっち』だから『ボッチ』。如何にもいじめられそうなニックネームではあるが、幸か不幸か呼ぶのは八木しかいない。
「昼休みだけしか会わなくなってだいぶ経つが、相変わらず一人なんだな」
「別に友達を作りたくない訳じゃないんだけどね。
こっちから話しかけたくはないし、誰からも話しかけてくれないしで、出来ようがないんだよ」
「ボッチは明らかに真面目ですってオーラ出しているからな。
話しかけ難くはある」
「八木は話しかけてきたけど?」
「俺は誰彼かまわず話しかけるからな」
なぜか誇らしげな八木が言った「真面目そう」は案外的を射ていて、真面目にしている僕の事を邪魔しちゃいけない――真面目のつもりはなかったけれど――と、皆がちょっとずつ距離を置いていたため、友達と呼べる人は毎年一人いればいい方だった。
現在もこうやってため口で話せる相手は八木くらいなものだ。
胸を張る八木が内心羨ましいのだけれど、表に出すことはせずに話を変える。
「だいぶ新入生も落ち着いてきたよね」
「学食ね。四月は波のように押しかけていたよな。
ところでカズト、この噂知っているか?」
「僕が噂を知っているとでも?」
八木はよほど話したかったのか、僕の釣れない態度など意に介さない。
「例のバンドのボーカルの子が、軽音楽部を辞めたって話だ」
「へえ、この学校軽音楽部ってあったんだ」
「そうだ、お前はそう言うやつだったよ」
「説明よろしく」
出鼻を挫かれ八木が頭を抱えるけれど、八木以外から噂話など入ってくることはないのだから、仕方あるまい。
さらに言うと興味がない事はすぐに忘れるので、この大学にどんな部活やサークルがあるのかを僕はあまり知らない。
「前にも話したかもしれないが、去年の文化祭で凄いバンドがあったんだよ。
四人組ガールズバンドで、演奏が上手いのは勿論」
「容姿的に見てもレベルも高い、ね。思い出したよ。
去年の文化祭は、学校を軽く一周してから帰ったから見てはないけど」
「前回で有名になったから、今年の文化祭も期待されていたんだが、ボーカルが辞めて文化祭に出られるかどうかも怪しいって話だ」
「それはご愁傷様」
「ああ、今年の文化祭の楽しみが一つ減ったよ」
僕にも八木にも対岸の火事でしかない話題は簡単に流れて行って、ふと落書きの話をしようかと思った時には、授業開始十分前を知らせるチャイムが鳴った。
*
別の日。この前の講義とは違うけれど、例の落書きが書いてあった講義室にやって来た。この大学の中で唯一、三つの学部が詰め込まれた講義棟の一番広い部屋。
この教室に限らないが、前から三番目の左側の列の席が、僕の定位置になっている。
講義の時の席というのは面白いもので、皆示し合わせたように、やる気がある人は中央の列の前の方に座り、多くの生徒は後ろ半分に集まるのだ。
対して僕の定位置は一見やる気がありそうだが、教授との接触を極力抑え、なおかつ人が殆どいないため教授もあまり目を向けないと言う、僕だけの完璧な席。
同じことを考えている人がいるからこそ、落書きがあるのだろうけれど。
まだ講義までに時間があるため人はまばらにしかおらず、雑談が聞こえる中を通り抜け、いつもの席に座った。
特にやることも無いのでいつもなら軽く予習をしておく時間だが、今日は落書きがどうなったのかが気になり、目を向ける。
『聞こえる 誘う声は 吉報か悪魔の声か
迷子の私は 縋りつく 目も見えないから 手探りで 忘れられない光を 求め』
以前書かれていたものは消されていて、新たに詩が書かれていた。
前と同じ字だから前回の続きだと思うが、さらに理解できなくなっている。
『目も見えない』と書いているけれど、こうやって落書きできているのだ、実際目が悪いわけではないだろうし、意味があるとしたら何かの例えだと言うところまでは良い。
しかし、吉報と悪魔の声を並べるだろうか?
意味合い的には反対なのかもしれないが、吉報と並べるなら凶報だろうし、悪魔と並べるなら天使や神だと思うのだけれど。
詩の部分に関する考察はこれくらいにしておいて、今日は詩とは別の場所が僕の目を惹いた。
僕が前回書いたコメントの右下に『やっぱり、そう取られちゃうんだね。でも、違うよ』と返事が書いてあるのだ。
メールでのやり取りが簡単に出来るこのご時世ではあるが、いや、このご時世だからだろうか、机の上の日を跨いでの言葉がとても魅力的に見えた。
柄にもなく楽しさを覚えて、急いで返事を書く。
『じゃあ、どういうことなの?』
続いて、今日の詩に対して『吉報と悪魔の声を並べたのはどうして?』とコメントしておいた。
気が付けば授業が始まっていたので、ノートを開いて落書きを隠しつつ、真面目に授業に耳を傾ける。
しかし、途中で眠気が襲ってきたので、机の上に書いてある詩を前回の分も思い出しながら、ノートに書き写すことにした。
以来、机の上で始まった他愛ないやり取りは、思いの他に長く続いた。
僕の『どういうことなの?』と言う問いには『ヒントは十二だよ』と返って来て、『時計?』と続けたところ『ひみつ』と小さな文字が添えられた。
『吉報』は何かの花言葉らしく、『悪魔』と並べるので問題ないらしい。何の花なのかは教えてくれなかったけれど。
また同時に詩の方も書き足されていった。
『光を失った私に 伸びる救いの手などはない
光を失った私を 蔑む貶める目しかない
弓なりの月の下 一人放り出されて
6と8の混ざった 世界に迷い込むの
聞こえる 誘う声は 吉報か悪魔の声か
迷子の私は 縋りつく 目も見えないから 手探りで 忘れられない光を 求め
突然奪われた希望を 探す取り返す術などない
理不尽に無くした希望に 代わる輝くものはない
絶望のその先には 新たな絶望が待っていて
6と8の混ざった 世界で弦を鳴らすの
愛にも似た 世界は 曖昧で 光をチラつかせる
盲目の私は 手を伸ばす 先にあるモノ以外全てを 犠牲にしたとしても
ピカピカと光り輝く過去の栄光も 今は虚しく 私を苦しめている
それはまるで 幻のように 手と手の隙間から 零れていく』
詩について毎回質問しているのだけれど、はぐらかされたり、秘密にされたりと結局僕はこれが何を言いたいのかはよくわからない。
それでも毎回飽きもせずに僕のコメントに反応する作者が、いよいよ気になって来た。
文字の感じから女の人だろうと予想はしていたけど、丸文字を書く男がいないわけではないし、相手のことは殆ど知らないと言っていいだろう。
机上のやり取りの中に、もうすぐこの詩が完成するというものがあった。
もしかしたら詩の完成と共に、このやり取りが終わってしまうかも知れない。
楽しみではあったが執着しているわけではないので、机の上で名前を尋ねたり、連絡先を教えたりすることはしないが、どうせ暇なのだから、少し自分で動けないかと考えてみる。
とりあえずは、大学について詳しい人に相談でもしてみようかと、昼休みになるのを待った。
*
昼休みに入り、いつもよりも急ぎ気味に学食に向かう。
無事席を確保して、一安心しているところに八木がやって来た。
「よう、ボッチ」
「やあ、待ってたよ」
お互いに片手をあげて挨拶をするのだが、今日の八木は一段と不思議そうな顔をしていた。
「カズトが俺を待っていたって珍しいな。初めてじゃないか?」
「そうかな? 今日はちょっと訊きたいことがあって」
「期末テストについて話すのは、まだ早いと思うが?」
「いや、テストじゃなくて……」
訝しげな表情の八木に説明をしようとして、口籠る。
まさか「机の上に詩を書くような人を探しているだけど、知らない? ここ最近ずっとやり取りしているんだけど」と尋ねるわけにはいかないだろう。
僕はどう思われても構いはしないが、相手に悪い気がするし、冗談だと思われる可能性だってある。
「どうしたんだ?」
「僕たちの使っている講義棟を使う人の中で、詩を書く事を趣味にしている人っていない?」
「何だそれ?」
八木の表情がいっそう険しくなる。
急かされたので、言っても問題なさそうなところだけを言葉にしたのだけれど、我ながら曖昧すぎる。
砂漠の中で一粒の砂金を見つけろ――というは言い過ぎだけれど――に近いものは感じる。
しかし、八木は何か納得したように頷いた。
「よくわからないが、殆ど情報がない状態で、人を探しているんだな?」
「うん。見つからなかったら仕方ないかなくらいの気持ちだけど」
「だったら、一つ可能性は無くはない」
「本当!?」
口にしてみて、無理難題だと自覚したところでの肯定的な言葉に、驚き顔を上げる。
「教える代わりに、そのから揚げが欲しい」
「いいけど、先に情報」
企み顔の八木だったが、僕が簡単に頷いた為か、すぐに上機嫌で話し出した。
「カズトは、この大学に魔法使いが居るって話は、知っているか?」
「冗談なら怒るよ?」
「俺も冗談だとは思うんだが、まあ聞け」
魔法使いなんて空想上の存在なのだから、冗談以外の何物でもないと思うのだけれど、八木も半信半疑と言う感じで、僕をからかっているわけではなさそうだ。頷いて話を促す。
「噂自体は結構有名なものなんだが、この学校の生徒の中に魔法使いがいて、他の生徒の願いを何でも叶えてくれるらしい」
「七不思議みたいなものじゃないの?」
「俺も最初は大学でもあるんだな、くらいに思っていた。
だけど、先輩の中に本当に願いを叶えて貰った人がいるんだよ。
俺が聞いたのは、単位がギリギリの先輩が、留年を決めるテストの内容を事前に教えてもらったって話。
先輩は何とか留年を免れて、今卒業研究に精を出している。
後は、部活の大会直前に怪我をして出場が絶望的だった先輩が、奇跡的に回復したって言うのもあったな」
「前者は教授から何とか教えてもらったとか、問題を盗み出したとかで、後者は偶々で魔法使いとは限らないんじゃないの?」
「可能性は否定できないが、逆にテストを盗むような奴なら、人探しくらいしてくれるんじゃないか?
確か代価がいるって話だったが」
「なるほど」
僕は人探しがしたいのだから、探すのが魔法使いでも探偵でも、それこそ泥棒でも構わないのだ。八木の言葉に納得して、頷く。
「代価って言うのはどんなものを持って行けばいいの?」
「先輩は渋って教えてくれなかったな」
首を振って分からないと示す八木に、続けて質問する。
「何処に行ったら会えるの?」
「講義棟の裏手に建物があるのは知っているか?」
「妙に古くて蔦に覆われた、煉瓦造りの建物の事?」
「こういうことは知っているんだな。
その建物一階の一番奥の部屋に、居るかもしれないらしい」
「何でそんなに曖昧なの?」
「全員が全員会えるわけじゃないらしくてな。居たり居なかったりするらしい。
だから、普段は授業を受けている普通の学生じゃないか、って話もある」
なるほど、相手も願いを聞くだけの存在ではないと言う事か。学生とは限らないだろうけれど、一日中部屋から出ないなんてことはないだろう。むしろ魔法使いが常にいると言われた方がリアリティには欠けそうだ。
学生だと噂されるのは、見た目が僕たちと変わらないくらいだから、というのが実際の所だと思う。
駄目で元々、思い立ったが吉日と言う事で、早速行ってみようと席を立つ。八木が驚いて僕を見上げた。
「気が早いな」
「すぐに動かないと、面倒くさくなっちゃうから。幸い次は授業ないし」
「行くんだったら、後でどうだったか教えてくれよ。
俺も気になってはいたんだが、行くのも馬鹿らしくてな」
「はいはい」
何だ、都合よく使われるだけか。行動指針をくれた事は嬉しいけれど、から揚げはあげる必要はなかったかもしれない。
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