花と風にのせて2『海のむこう』

※2年前くらいに書いたバレンタイン掌編その2。やっぱり本編以前のお話です。



 二月には、男女が愛を確かめあう、特別な日がある。

 その話を彼女がはじめて聞いたのは、大陸に流れ着いた年だった。ある男女の悲恋の物語は、魔術師がからんでいるというだけあって、否応なく心に響いた。

 そしてふと、考えた。去年の今頃は、何をしていただろうかと。

 以降、毎年、その日になると思いを巡らせる。

 去年は何をしていたか。その前の年は。前の前の年は。糸を手繰るように、過去へさかのぼって――記憶はいつも、同じ場所へ辿り着く。


 海は、これまでに比べれば穏やかだった。が、空は暗い鉛色で、厚い雲が地上にむかって沈んでこようとしているかのように垂れこめている。いつもは深い青色の海も、ここ何日かはどす黒く染まっている。そして、かすかな波間を、大きな船が漂うように進んでいた。

 太陽のない空を見て、乗組員たちは考える。何日経っただろう。――何人、死んだだろう、と。

 幸い、この船じたいの死者はそれほど多くない。しかし、船団を構成していた船は次々沈んでいっている。もはや、この一隻しか残っていないのではないかとさえ思われた。

 死者はいなくとも、長く厳しい航海は、船員たちを痛めつける。怪我や病気や栄養失調、死の要因などそこかしこに転がっている。そんな状況では、人々も気が立って、狭い船の中で争いはじめたりもするのだ。彼らの敵意はまっさきに、船内の弱者に向けられる。

 あの日、あんな騒ぎが起きたのも、それゆえだった。

 矛先が向いたのは、彼女の幼馴染だった。彼はあの日、わけあってまともに仕事ができない状態になってしまったのだ。そのとき、船員のひとりが厳しい口調で言った。『どうしてこんな奴を連れてきたのか』と。そして、ほかの船員からも同調するような声があがった。

『こうも頻繁に動けなくなるのでは使えない』

『海に捨ててしまえ』

 そんな声があちこちから聞こえる。

 大陸を出る前、『彼』が同乗することに、全員が同意したはずなのに、だ。

 彼女が怒りで叫びだしそうになったとき、それを制したのも彼だった。体を引きずり起こし、ふらふらになりながら皆の前に立った彼は、言ったのだ。 

『俺がここで死ぬことで、みんなが生きのびて新天地に行けるなら、俺は喜んでそうするよ。でも――そうじゃないだろ?』

 ここで俺が死んでも、航海が厳しいことに変わりはない。それどころか、さらなる争いの種をまいて、苦しむ人を増やすことになるかもしれない。そんなことを、俺は望んでいない。

 切々と訴える声は、彼女の心に今も残って、響き続けている。



     ※



 マリオンは、石を積み上げてつくられたつつみに寄りかかって、青い海を見ていた。

 今年は穏やかな天気のようで、空には丸い月が浮かび、星ぼしが天を覆うように散っている。淡い光に照らし出された海は、ときおり、ちかり、ちかりとそれを反射して、白い粒を濃紺の上に漂わせた。

 吹きつけた風に、長い黒髪が舞う。暦の上では春とはいえ、風はまだ、刃のように冷たい。マリオンは、愛用の長衣をなんとはなしにかき寄せた。

 ここは、グランドル王国の王都にある港のそばだ。――彼女は毎年、『この日』になるとここへ海をながめにやってくる。本当は客船用の港の方がいいのだが、当の港はこの時間、封鎖されてしまっているので入れない。

 けれど、それでいいのだ。海を見られるならそれでいい。

 遠い故郷をのぞめるような気になるのは、変わりないのだから。

「マリオン」

 背後から声がかかる。振り返ると、少し離れたところ――ちょうど、街路灯の下にひとりの青年が立っていた。黒髪に、青い目。やや角ばった印象ながらも繊細な目鼻立ちは、彼女の故郷の人々特有のものだ。その彼は、青灰色の薄手のコートを身にまとって立っている。街路灯の明りがなければ、夜の闇に溶け込んでいたかもしれない。

 彼はにこりともせず、けれど穏やかな表情で歩いてきて、マリオンのすぐ隣に立った。

「ロト」

 マリオンが、かすれた声で名を呼べば、青年はようやく薄い笑みを浮かべた。

「驚いたな。まさかほんとに、ここに来てるとは」

「そういうあんたこそ、わざわざ王都まで来たの?」

 マリオンが問うと、ロトは面倒くさそうにうなずいた。

 彼女にしろ彼にしろ同じことだが、住んでいる町から王都まではそれなりに距離がある。馬車を使っても二日はかかるほどだ。

 それでも、マリオンは毎年来てしまう。もはや、ある種の儀式のようなものだった。

「俺もたまには、来てみようかと思っただけだ」

 ロトがぼそりと言う。深い意味はねえよ、と付け足した。そう、と答えたマリオンは、前へ向き直る。海は相変わらず、暗い夜を映していた。

「――あんたさ。六年前のこと、覚えてる?」

 海から目を離さないまま、マリオンは言った。

 隣のロトは、目を瞬いた。

「六年前?」

「そう。あの年の、この時期。私たちが、まだ海の上にいた頃のこと」

 答えは、すぐにはなかった。マリオンが眉ひとつ動かさずにいると、息をのむ音とともに「それがどうかしたのか」と無愛想な声が返ってくる。

 異邦人の女は、ふっと微笑んだ。

「ちょうど、だったかな。あんた、呪いのせいで熱出しちゃって動けなくなったでしょ。それを知った仲間の一部が『なんでこんなのが船に乗ってるんだ』って言って、乱闘騒ぎの一歩手前までいってさ」

「……あー。あったな、そんなこと」

 ロトが笑いを含んで言う。何かを懐かしむような空気と、かすかなほろ苦さがそこにあった。

「あのときあんた、なんて言ったか覚えてる?」

「え――いや。忘れたよ、そんなの」

 マリオンは、また横を見た。きょとんとしているロトに、細い指を突きつける。

「俺がここで死ぬことで、みんなが生きのびて新天地に行けるなら、俺は喜んでそうするよ、ってさ」

 ロトの目が、大きく見開かれた。思い出してくれたのだと、マリオンにはわかった。案の定、彼は今度こそ、軽やかな笑い声を立てた。

「ああ、そうだそうだ。それであの後、おまえにこっぴどく怒られたんだったっけな?」

 実際にはその言葉のあとに、そうではないだろうと、今すべきなのは、仲間の誰かを排除することではないだろうと、彼は訴えた。けれど、あのときまだ少女であったマリオンには、幼馴染のあの一言が衝撃的でならなかったのだ。

 だから、船員の反発がおさまったあとに、マリオンはふらふらのロトにつかみかかって怒鳴ったのだ。なんでそんなこと言うの、と叫んで、手まであげかけたところで、船団長に止められた。

 取っ組み合いの一歩手前のような互いの姿を思い出し、二人は顔を見合わせ笑いあう。

「いや、あれはないと思ったぜ。ただでさえ熱と頭痛で意識がもうろうとしてるところにあの仕打ちはひどい」

「ごめんって。――でも、死んでもいいなんて、言ってほしくなかったのよ」

「わかってるよ。それは、悪かった」

 軽いやり取りの最後に、ロトは少し目を伏せた。月の光に縁どられた顔が、憂いを帯びて翳る。

――彼は、幼い頃から特殊な呪いを抱えている。術を使うたび、魔力に反応して黒い痣が体に広がってゆくというものだ。それに伴い、魔力の制御も難しくなってゆく。いわばいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなもの。船の中で厄介者扱いされるのも、しかたのないことだった。

「船、か」

 呟いたロトが、海を見る。釣られてマリオンも、また水平線のむこうを見た。海面にいつのまにか、歪んだ月が映っている。

「むこうの大陸、どうなってるかしらね」

 マリオンが小さな声で言うと、変わらず冷静なロトは「さあな」と呟く。

「俺たちが出奔する原因になった抗争は、何年か前に終結したらしいな。争いじたいは下火になってるって聞くけど、実際のところ、完全に平和になったとはいえねえだろう」

「うん。けっこう、荒れてそうよね。お師匠様たち、大丈夫かしら」

「心配ねえだろ、あの二人なら。俺たちなんかより、力も心もずっと強い」

 わずかに、笑むように目を細めたロトは、静かな瞳で空をなぞる。海よりも、わずかに明るい空の青を、似た色の瞳にとらえた。

「――俺たちは俺たちで、精一杯生きていくしかねえだろうさ。そうすればいつか、お互いに胸張って会える日もくる」

 穏やかな声が空を打ち、海の上を滑る。

 マリオンは、目を見開いたあとに微笑んで――そうね、と、また返した。

 そのためなのだ。毎年この日に、この場所を訪れるのは。

 遠い故郷をのぞめそうな場所で、残してきた人々のことを想い、かつての決意をまた確かめて。そうしてまた一年、自分がしっかり生きていけるようにと願い、誓う。

 マリオンが海をながめてそうするように、ロトも今まで、彼なりのやり方で誓いを立ててきたのだろう。魔術師たちの自由のために、と、拳を突き上げたあの日のことを思い出して。

 そして今年は――同じ誓いを、同じ場所で立てている。お互い何も言わないが、マリオンはそんな気がしていた。

「待っててください、お師匠様。ロトと一緒に、また行きますから」

 マリオンは、海を見つめて呟く。

 かすかに波だっていた海面は、いつの間にか鏡のように凪いで、白い月を映し輝いていた。

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ぼくらの冒険譚 蒼井七海 @7310-428

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