第9話
ブラングリュード商会へと向かったのは、予定よりも一時間ほど遅く、午後二時を回ってからだった。
予定では昼前には、一度、事務所へと戻るはずだった。それがシェトラント氏との話が予定より一時間も長くなり、結局、戻ったのは一時過ぎになってしまったのである。
パンとティーだけの軽い昼食を済ませると、朝よりももう少し念入りにジャケットにブラシをかけて外へと出た。
今日のユーリントの大気はどことなく春めいた雰囲気を漂わせていた。ラグリシア大陸のなかでも北に位置するこの国では、春の訪れが周辺の他の国々より半月ほど遅い。それでもようやく、ここ数日は寒さも和らいできたことだし、あと半月もすれば街はすっかり春の装いとなるだろう。
アルフィアの言葉どおり、ミッシュルストリートに入ると、すぐに商会の建物を見つけることができた。ふたつ次の十字路をさらに越えたところに、付近の建物よりも一回り大きな、青い壁の屋敷が堂々とそびえ立っている。
門の前に立つと益々、その大きさがわかる。
仕事柄、裕福な家庭を訪れることが多いとはいえ、さすがに今回は少々、腰が引けた。商会なのだから当然なのだが、普通の家屋とは規模が違う。いわゆる貴族階級の人間が住むような建物だ。
もちろんリンハラにいたころに、ここよりもさらに広大な敷地に建てられた、現地の貴族の屋敷に招き入れられたことが何度かある。だが当時は子供であったし、なによりも主計官の父に付き添っただけであったから、自身の仕事としてはこれが初めてになる。
一呼吸置くと、ボクは思い切って敷地内へと足を踏み出した。
商館ということもあり、門扉は自由に出入りができるよう開け放たれていた。おかげで誰にも咎められず玄関まですぐにたどり着いた。
ただ建物の扉はしっかりと閉まっていた。
開けるのがためらわれて、しばらく立ったまま中の雰囲気を伺ったが、商館の割にはまったくといっていいほど人の気配がない。
そういえばアルフィアが、使用人のほとんどが引き抜かれてしまったと言っていたことを思い出す。
だとすればノックをしても仕方がない。そのまま入ろうと扉に手をかけたとき、突然、背後から声をかけられた。
「あの――」
なにか悪いことでもしたかのように、ボクはビクリとして手を止めた。
扉に手をかけたまま振り向くと、黒の簡素なワンピースに白いエプロン姿の女性が立ってこちらを見ていた。
箒を手にしていることから、掃除中のこの商館の人間なのだろう。ボクよりも年上、おそらく二十代の半ばのようだ。
「ユリス・リルケットさまでしょうか? 個人財形相談事務所の」
「そうですが、あなたは?」
「この商会の使用人でマノと申します」
そう言って女性は軽く頭を下げる。
「お話は伺っております。ご案内させていただきます」
箒を壁に立てかけると、扉に手をかけた。
重そうな鉄の扉だったが、スムーズに中に開いた。当然、日頃から手入れはされているだろうし、錆びついているわけではないはずだが、小柄なマノが軽々と開ける様子は、なにか似つかわしくないように思えた。
「どうぞお入りください」
ボクは失礼しますと言うと、先に入って案内をするマノの後に続く。
足を踏み入れた先は広いロビーになっていた。薄暗くやはり人気はない。とても商館のロビーという雰囲気ではなかった。
商談用に幾つも用意されているはずのテーブルには座る者もなく、かえって寂しさの演出に一役買っている。
「いつもでしたら日中は賑やかなのですが、なにしろ人手が足りなくて商会の業務自体に支障をきたしておりますので、今はお休みさせていただいております」
ボクの戸惑いを察してか、マノが少し寂しそうにそう教えてくれる。
「そのことは昨日――」
そう言いかけて口ごもる。本人はアルフィアとファーストネームで呼べと言っていたが、さすがに彼女の使用人に対してもそう呼ぶのは、失礼かもしれない。数歩進む間、躊躇しながら、結局、ブラングリュードさんから聞いております、と言うことにした。
「そうでしたか。使用人もほとんどいなくなってしまって、今は私の他には執事のフルッツさまがいるだけです」
「ではこの商会は今、三人で切り盛りしているのですか」
「はい。ああ、ちょうどそのフルッツさまが――」
マノの視線の先、ロビーの奥の扉が開いて、黒いスーツで身を包んだ初老の男がひとり姿を現した。
男はすぐにこちらに気がつくと、早い歩調で近づく。
「ようこそおいでくださいました。執事のシェル・フルッツと申します」
「ユリス・リルケットです」
丁寧に頭を下げるフルッツに合わせて、同じように辞儀をする。本来は向こうが顧客側のはずなのだが、向こうも客商売の人間とはいえ、このようにどちらが客だかわからない対応をされると、どうも落ち着かない。
「マノ、ご苦労さまでした。ここからは私がお嬢さまの応接室へご案内しますから、お嬢さまにご連絡するように。それからコーヒーの用意を」
ではリルケットさまこちらへ、とフルッツは背筋を伸ばして歩き始めた。
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