第二章 割り切れぬもの

第7話

 シュトラント家の応接室は東洋趣味の装いだった。

 なかでも部屋の中央のテーブルと椅子は、シリカでよく見た漆塗りの繊細な家具であった。

 促されるまま、ボクは椅子に腰かける。高い背もたれに自然なカーブが付いており、感触は硬いが、見た目とは違い、楽な座り心地であった。

「本日は貴重なお時間をいただきまして」

 もちろん、この挨拶は形式上の礼儀ではある。個人財形相談という仕事上、顧客にある程度の時間を取ってもらい、会話ができなければ仕事が進められないのだ。

 とはいえ、このようなちょっとした一言が言えるか言えないかが、今後の会話がスムーズに進むかどうかの分かれ道である。なるべく相手の心理に負担をかけないようにして、うまく話を引き出さなければならないのだ。

 ユーリントに戻ってからは事務員だったこともあり、この業務を始めた頃は、そんなたった一言がなかなか言えなかったのだが、気が付けば自分の意志とは関係なく、勝手に言葉が口から出るようになっていた。慣れは重要である。

 テーブルを挟んだ正面には、シュトラント夫妻が腰かけていた。

 主人のシュトラント氏は、昨年、退役するまで海軍の将校だっただけあって、がっちりとした体型で、日に焼けた顔をしていた。

 シェトラント氏とはすでにボクの事務所で、一度、顔を合わせている。そのときは海軍の年金や、入っている保険のことなどを聴かせてもらった。

 個人財形相談としては二度目になるのだが、今日は夫人にも同席をお願いしていた。

 すでに髪も薄くなった初老の男性とはいえ、まだ身体からは逞しさの感じられる夫とは違い、夫人は白髪で細身の和らいだ雰囲気の女性であった。

「私なんかお話に加わってよいのかしら」

 夫人が笑う。

 もちろんです、とボクは応じた。

「おふたりの老後のことですから、ぜひ奥さまにもお話を聞いていただくべきだと思いまして、同席をお願いしました」

 もっとも必ずしもそうというわけではない。

 ボクの仕事は接点のない人がいきなり顧客になるということはほとんどない。信頼できるかわからない相手に、自分の懐具合など好んで話したがるような人はまずいないからだ。

 個人の財産形成の相談という職業が、まだまだ一般に浸透していない以上、こちらとしても、まずは知り合いや、既に顧客になっている人から新しい顧客を紹介してもらうという形を取ることが必然的である。

 その際、紹介されるのはほとんどが男性だ。つまり家庭でいえば夫の立場の人間である。

 まずその夫から家計について話を聴くことから始めるのだが、そのときの会話の内容から、家庭内での夫婦のバランスを推し量る。家計に関することもほとんど夫が決めていれば、夫とだけ話をすればいい。

 だが大抵の場合は妻の方が家計を握っているし、決定権もあり、夫は妻の言いなりである。

 シュトラント氏も最初に話をしたときに、妻に相談してみてから、という言葉が何度も口から出ていた。そこで次回、自宅を訪れることが決まった際に、ぜひ奥さまもご一緒にお願いしますと添えておいたのだ。

「でも、主人に聞いたとおり、本当にお若いのね」

 ボクは笑顔を見せる。

 夫婦で同席のときは、妻側に合わせて多少、雰囲気を柔らかくする。

 実際に年が若いために、夫だけの時はあまり未熟に思われないように堅い外見と応対を心がけるのだが、同席の時は妻側に合わせるのだ。笑い方も少し柔らかくしたり、本題とは直接関係がない世間話を多く取り入れるようにもする。なにより年齢が若いことが、何気ない話のキッカケになることもあり、ボクはそれを積極的に活用している。

 若さは信頼の面で損をすることも多いが、使い方次第では武器にもなるのだ。

 興味をそそられたのか、年齢や住まい、仕事を始めるきっかけなどを、夫人に問われるままに話していると、次第にシュトラント氏の表情が飽きていくいくのが解った。

 なにしろ今の話題の大半が、紹介されたときや先日の相談のときに聞いている話である。

 そもそも回りくどいことが嫌いな性格のようだった。

「もうその辺でいいだろう。せっかくリルケットくんが来てくれたんだ。そろそろ本題に入ってもらおう」

「あら、ごめんなさい。若い人とお話しするのも久しぶりなものだから」

 たしなめられてもあまり気にした様子もなく、ホホホと夫人は笑う。

 そうですね、とボクは一息入れて話を切り出した。

「本題に入る前に、まずはリスクという言葉を覚えておいてください」

「リスクかね」

 シュトラント氏が大きな身体を揺らした。

「はい。この言葉はこれからよく使いますので、憶えておいて欲しいのです」

 夫妻がふたり揃って首を縦に振る。

「たとえばシュトラントさんがある会社の株式を購入したとします。順調ならば株の価格は上昇しますし、配当金も出ます。そうなればシュトラントさんの資産は増えますよね。ですが、株は下がることもありますし、会社が倒産してしまえば価値はなくなります」

「ああ、最近話題の南洋開発会社なんかだな」

「そうですね。この手の危険がボクの言うところのリスクです」

 するとシェトラント氏はドキリとする一言を放った。

「私の友人も痛い目にあったよ。リルケットくん、君は買っておらんかね」

 一瞬、躊躇した後、ボクは首を横に振った。

 嘘ではあるが、ここはそう言わざるを得ない。一応、相談をされる身であるなら、なるべく金融周りの大きな失敗は知られたくないからだ。もちろん体験談として小さな失敗は、話を盛り上げたりするのに使えるが、倒産した会社の株を処分しきれずに持っていたというのは、やはり信頼に関わってくる。

 ただでさえ年齢から信用が低くなる問題を抱えている以上、あまりマイナスの情報を相手に与えるのはよくないだろう。

 こちらから言わなければまず知られることのない話ではある。

 幸いなことに、シュトラント氏もそれ以上はこの話題をするつもりはなさそうだ。

 話を戻すため、ボクはひとつ咳払いをした。

「つまり株式はリスクがそれなりに高い金融商品だといえます。ただし、リスクの高さはリターンにも繋がります。リターンというのは利益と言い換えていいですね。うまくいけば株式は銀行に預金しておくよりも、ずっと高い利益が見込めるということです」

 今度は夫妻は黙っていた。

「では、株式を買わずに現金で持っているというのはどうでしょう」

「ああ、それなら株式よりは安全だな」

 癖なのだろうか。また身体を揺すってシェトラント氏が答える。

 ただ夫人の方は別の感想を持ったようだ。

「でも泥棒が入るかもしれないわよ。それに銀行に預けたって、その銀行が倒産するかもしれないわ」

「そりゃ、おまえ――」

 何か反論しようとしたシェトラント氏だったが、どうやらうまい言葉が出てこないようだ。

「そうなんです。現金で持っている方が株式よりもリスクが低いんですね。でも、奥さまがおっしゃられたように、盗難や預けた銀行の倒産というリスクはあります。もっともそれ意外にもリスクはあるんです」

「ほう、いったい何かね?」

「物価です」

「物価というと、キャベツが今年は高いわねとか、そういうのでしょうか?」

 夫人が、らしい喩えをした。

「そうですね。ただここでの物価は、小さな変動ではなくてもう少し大きな変動ですが」

 景気がよく経済がうまくいっているときは、大抵の場合、次第に物価は上昇してゆく。十年という単位で考えると、かなりの変動があるのだ。

 仮に以前は一百ティワントで買えた物が、二倍の二百ティワントになったとする。現金から見れば、価値は半分に下落したということになる。

 極端な喩えだが、もし資産のすべてを現金で所有していた場合、単純に考えれば、物価の平均が二倍になれば、資産価値は半減したということだ。

「ですから、何にも投資しないで現金で持っているということは、多くの金融商品と比較して遥かに安全ではあるとはいえ、株式に比べると低いながらもリスクは確実に存在するということです」

 ほうっと夫妻が息を漏らした。

 もっとも今はあえて言わないでおいたのだが、リスクは別にもある。

 現金――いわゆる現金通貨は、公権力を背景に発行されるのが一般だ。昔ながらの貴金属や貴石そのものの価値を背景にした貨幣は、今では使われる量も減っている。

 普段使用される紙幣や硬貨は、貨幣そのものの価値ではなく、国家という公権力の後ろ盾によって価値が成り立っているのだ。

 以前は、三王国で発行される紙幣は国家が蓄えている金の保有量を価値の背景にしており、所有者が願えばいつでも等価値の金に交換することができる兌換券であった。それも今は廃止されている。

 つまり今の現金は国家の信頼度にも左右されるのである。

 それこそ国家が崩壊するようなことになれば、一気に崩れ去ることになる。

 ただ、必要以上に心配させてしまっても仕方がない。今のところ、この三王国は、西洋の列強のなかでも一二を争う強国であり、南洋会社の破綻などもあるが、経済の致命的な欠陥も見あたらなかった。

 ここでは現金で持っていれば安心という概念に一石投じるだけでよかったのだ。

 投資を嫌う人は、現金主義であることが多い。前回、話をしてシュトラント氏もその傾向があり、この話をしてみたのだが、ふたりの顔色を伺う限り、どうやら効果があったようだ。

「なるほどなあ。ではどうするのかね?」

「はい。そこで老後に備えて、シュトラントさんの資産も現金だけでなく、株式や債券など、いくつかの金融商品に分配しておくのがいいと思います」

「とはいっても、私は若い頃からずっと海軍で過ごしてきたし、経済のことなどさっぱりわからんのだよ。おまえはどうだね?」

 難しい課題を突きつけられた学生のような表情をして、シュトラント氏が妻に問いかける。

「いいえ、私もさっぱりです」

 夫人も肩をすくめた。

「そこを考えるのがボクの仕事です。どのような金融商品に分散すればよいのか、ご説明いたします。ただしいくつかの案を出すだけで、最終的な決断はご自身でお願いすることになりますが」

 それは心強いですわ、と夫人が言う。

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