第三章 善意なき恩人

第12話

 ラグリシア大陸から北東洋に向かって短剣のように突き出た半島が、三王国の領土である。首都ユーリントは短剣の東側、比較的、柄の部分に近い場所に位置しており、有史以前から人の住む場所であった。

 なんといっても今日現在、海洋帝国として君臨する国家の首都であり、世界でも有数の港湾都市だ。世界各地から人種、民族を問わず様々な人々が流入し、活気溢れる街となっている。

 中心を流れるルーテル川を挟んでユーリントの市街地は北と南に二分されており、ボクの住む場所は街の北側だった。ルーテル川へは南へ歩いて十分ほど、そこから東に折れて川沿いにもう二十分も歩けば、カラン湾に面した港へと出る。

 歩いて港まで往復すれば、一時間程度の絶好の散歩となり、仕事のない日のボクのささやかなレジャーでもあった。

 朝、厭な夢を振り払って起きると、強引にパンとチーズを胃に詰め込んだ。食欲はなかったが、空腹で出かけるのは健康によくないし、なによりサニシュがめざとく見つけて、小言をブツブツ呟くのを聞くのも嫌だった。

 いつものジャケットに着替えて外へ出る。とにかく散歩でもして思いっきり気分転換がしたかった。

 特に行き先は決めていなかったのだが、気がつけばいつものコースをたどり、港へとやってきていた。

 桟橋にほど近い場所のベンチに腰かけ海へと視線を向ける。

 何隻もの帆船が帆をひろげて海上を航行している。まさに外洋へと旅立つ船や、逆に港へと入ってくる船を、ただぼんやりと呆けたように眺めていた。なにも考えてはいなかった。

 やがて一隻の大型帆船が入港し、横腹を見せて目の前の波止場へと止まった。船を意識したのは着岸の寸前で、それまではただ船を視界には捕らえていても、ただそれはひとつの景色であり、特に興味を向ける対象でもなかった。

 タラップが降りてそこから乗客が降りてくる。それとなく観察していると、着ているものや荷物からそれなりに裕福な中産階級と思われる人間が多い。だが、なかにはかなり生活に困窮しているかのような薄汚れた服に、小さな袋ひとつを担いだ者もいる。

 ふと三年前、帰国したときのことを思い出す。

 そのときも、船を降りた後、行く当てもなく、袋ひとつに着の身着のままで、こうしてベンチに腰かけていたのだ。

 あのとき、途方に暮れていたボクを見かけ声をかけてきてくれたのが、バーモンダル氏だった。そして父の友人だったという縁だけで、ボクを助けてくれたのだ。

 だからしばらくのつもりで、ボクはバーモンダル氏の好意に甘えることにしたのだ。

「リルケットくん」

 懐かしい声に驚いて振り返る。

「バーモンダルさん?」

 ブラウンのボーラーハットを被った恰幅のよい紳士が立っていた。

「なんとも――ちょうど三年前のことを思い出していたところですよ」

 偶然とはいえあまりのタイミングのよさに、ボクは神様のなにかの作為すら感じてしまったほどだ。

「それは奇遇だな」

 バーモンダル氏は白いものが混じりはじめた口ひげに手をやりながら、ステッキを手に近づいてくる。ベンチのボクの隣に腰かけると、たまの休みで散歩に来てみればなあ、と笑った。

「君は今日は仕事はないのかね」

「ええまあ――」

「先日、ブラングリュード商会のお嬢さんに君を紹介したのだが、どうなったかな」

 いきなり気にしていることを訊ねられた。

「昨日一昨日の二日間、お会いしましたよ」

「ほう、どうだったかね」

「それがもう済んでしまいまして――」

 どういうことかといぶかしむバーモンダル氏に、依頼は一応は受けたこと、ブラングリュード商会へ訪問したこと、そしてドラングの登場とボクがドラングと社交辞令を交わしたことにアルフィアが激怒したことを述べた。

 バーモンダル氏は口を挟むことなく、黙ってボクのボソボソとした説明に耳を傾けていた。

 二日間の成り行きをすべて説明し終わると、バーモンダル氏は深くため息をついて、一言だけ呟いた。

「それはいけないな」

 短い言葉だった。だが、それだけにボクの肺腑を容赦なく抉った。

「ええ。なんというか自分に呆れかえりますよ」

 空を仰いで冷笑する。青空に白いカモメが飛んでいるのが目に痛い。

 バーモンダル氏は何も言わなかった。だが黙ってはいるが何か言いたげにステッキの柄をもてあそんでいる。

 それでも結局、お互い口を開かず、しばらく沈黙が流れた。

「どうしてもお聴きしたいのです」

 先にじれたのはボクの方だった。

「なぜブラングリュード商会にボクを紹介したのですか?」

「どういう意味かな」

「ふたつあります」

 黙ったままバーモンダル氏は目だけで先を促す。

「ひとつは、ボクは商会が抱えている問題の解決には畑違いの人間であるということです。ボクは個人財形が専門であって、商売にまつわるトラブルを解決するような交渉人のような仕事とはほど遠い人間ですよ」

「もうひとつは?」

「バーモンダルさん、あなたは親切で人柄も悪くない。ボクの父と知り合いだったということで、帰国したばかりのボクに住処と仕事を与え、あまつさえ独立までさせてくれた。おかげでボクは救われました。だけど、商品取引所の理事長とユーリント商工組合の会長という地位は単純なお人好しが務められるほど甘いものではないでしょう。そんなあなたが、どうしてブラングリュード商会に肩入れしようと思ったのですか?」

 相手の顔を見ないで話す。

 もちろんバーモンダル氏は悪人ではない。だが彼を善人というのも無理がある。

 ボクを助けてくれたのは第一の理由は善意だ。それは三年間も接してきて、疑う必要のない認識だ。

 だが、その一方でバーモンダル氏にとってボクは使える人間であり、やがて自らの利益に還元されるときが来る可能性を考慮しているのも間違いないはずだ。幼い頃から父の仕事を手伝って経理関係の知識があり、リンハラやシリカなどの諸外国を実際にこの目で見てきているボクは、バーモンダル氏にとって目をかけておけば、いずれ使える人材になると踏まれているのだろう。

 つまりは将来を見込んでの投資というわけだ。

 そうでなければ、わざわざ技術を与えて独立までさせず、単なる取引所の事務員として終わらせるだろう。実際にバーモンダル氏の使用人には、そのような人間はたくさんいる。

 もっともそれが悪いわけではなく、ボクにとっては単なる善意よりわかりやすく、負い目を感じる必要が薄いのがありがたい。

 ただ今回に限っては、バーモンダル氏が何を考えているのかわからないところが、当初からの不安だった。ブラングリュード商会の執事であるフルッツが、以前、自分の元で働いていたからといって、商会どおしのトラブルにわざわざ自らが紹介状を書くはずもなく、しかも畑違いの人間を紹介するのは、なんらかの意図があるに違いないのだ。

「裏があるのではないかと疑う方が自然だと思いますが」

 そう問うと、バーモンダル氏はニヤリと口元をゆがませた。

「パッセル・ドラング氏のことは知っているかな?」

「リンハラで財を成した、というのは聞いています」

 こちらの問いとは直接は関係がないことをバーモンダル氏は訪ねてくる。だが、交渉事では時として回りくどいものの言い方をすることがこの紳士にあることを知っているから、ボクは素直にそう答えた。

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