第11話
コーヒーポットが空になり、フルッツとマノが相次いで自分の仕事をこなすために退出した後も、肝心の商会に降りかかる問題の話にはならなかった。
ユーリントでの最近のファッションの流行から、コーヒーとティーや東洋の食べ物など、まったく関係のない世間話ばかりで盛り上がった。さすがに、一時間を過ぎる頃からボクは少し心配になったのだが、アルフィアはまったく気にしていないようだった。
「こうしてお話ししていると、商会を継いでからの苦しかったことを忘れてしまいます。バーモンダルさんが相談とは畑違いのリルケットさんを推薦されたのは、私に対して気分転換をしなさいということだったのかもしれません」
そこまで言われては、ボクもこれ以上、言葉はない。
それに今日のアルフィアは昨日とは違い、終始、リラックスしている。もちろん、凜とした雰囲気は変わらないのだが、今日は何度も表情を綻ばせていた。
ボク自身も、直接役に立てないのなら、話し相手になるだけでもよいのだろうと思う。それにやはりこの時間はボクにとっても楽しいのだ。
こうして長い間、雑談に興じていたのだが、四時を回ったのを部屋の時計で確認し、さすがにそろそろ暇乞いをするべきかと考え始めたとき、事件は起こった。
「あの、困ります」
部屋の外でマノの声がした。
そして扉が開くと、男が三人、部屋へと入ってくる。
マノ、そしてフルッツがその後へと続く。
「ドラング!」
アルフィアが立ち上がる。
「断りもなく入ってくるなど失礼でしょう」
先ほどまでの和やかな気配は消え失せ、厳しい声が飛んだ。
アルフィアに答えるかのように、三人のうちのもっとも長身の男が、笑顔を見せながら近づく。仕立てのよい背広を着た堂々とした体躯の男で、しかも彫りの深い顔つきである。
おそらくこの男がドラングで、あとのふたりは護衛か秘書だろうか。
「はて、こちらはブラングリュード商会の商館ではありませんでしたかな。なのに商談でやってきた者を門前払いするというのですか」
アルフィアの剣幕などものともせず、ドラングはさらりと受け流す。
「門前払いではありません。今、商館は閉鎖しています」
「年中無休の商人が商館を閉鎖とは」
「どなたかがうちの使用人をほとんど引き抜いてしまいましたからね。休まざるを得ないのですよ」
「いやはや、それはそれは」
ドラングは整えられたあごヒゲに手をやりながら、まあそれはともかく、と笑った。
「この間の話、受けていただけますかな」
「話とはなんでしたか?」
「これはまた。このお嬢さんはご冗談がお好きのようですな。ブラングリュード商会を我がドラング商会にお売りいただけませんかというお話です」
「その話なら前にもはっきりとお断りしたはずです、ドラングさん。もうお忘れになられたとは、まだそんなお年でもないでしょう」
ボクはソファーに座ったまま、頭上で繰り広げられるふたりのやり取りを、黙って聞いているだけだ。
ドラングは言動の端々から自信に満ちあふれた男だった。リンハラで成した財で悠々自適の生活を送ることをせず、商売の道を選んだだけのことはある。アクの強さは感じるが、その辺の商売人とは格が違う雰囲気だ。
もっともそんなドラングに対して怖じ気づくことなく堂々と渡り合っているアルフィアもまた、かなり気丈な女なのだろう。
いずれにしてもボクの住む世界とは離れたところにいるふたりだ。
「仕方ありません。でも七日後も同じ台詞を吐けるかどうか――」
一歩も引かないアルフィアにドラングはわざとらしくため息をついた。
「どういう意味ですか」
「そこまでお教えする義務はありませんよ」
瞳に不信の色をありありと浮かべ、気色ばんで問いつめるアルフィアに、ドラングは片手をあげて押しとどめるジェスチャーを見せた。
つまりは最後通告というわけだ。この七日間に買収を同意しなければ、なんらかの実力行使を行うと脅しだろう。
「考え直すのでしたら早いうちにされる方がよいとだけ忠告しておきます」
口元に不敵な笑みを浮かべてそう言い放つと、ようやくドラングはボクに視線を向けた。
「ところであなたは?」
このタイミングで話しかけるとは、ボクは内心ムッとした。気がついていないはずはなく、これまでわざとないがしろにしてきたと言わんばかりである。
もっともその怒りは顔に出さず、ソファーから立ち上がると、ドラングに向き直る。
「個人財形相談事務所を営んでいるユリス・リルケットと申します」
「それはまた珍しいご職業ですな。はじめまして、パッセル・ドラングです」
そう言ってドラングは右手を差し出す。
「近いうちにある事業に乗り出すことになりましてな。もしかするとそのうちあなたにもお世話になりそうです」
詳しいことは申せませんが、と相変わらず思わせぶりなことを言うと、ドラングは握った右手にやんわりと力を込めた。
「そのときはどうぞよろしくお願いします」
社交辞令ではあるが、ボクはそう返す。
できればあまり敵に回したくないタイプの人間だ。それにどこまで本当かはわからないが、彼が自分と関わる業界に進出するならば、つながりをつくっておいて損はない。
「ユリス・リルケットさん。名前を覚えておきましょう」
ボクの態度に満足したのか、ドラングは手を離す。
「光栄です」
「こちらこそ。次に会うときは仕事の話をできるとよいですな」
少々、芝居がかった動作で答えると、ドラングはアルフィアの方を向いた。
「では私はこれで。お見送りは結構です」
「お気遣いなさらなくてもお見送りはいたしませんわ」
アルフィアの精一杯の皮肉であった。だが、それすらもドラングは意に介した様子もなく、護衛のふたりと共に、ただ呆然と立ちつくすフルッツとマノの間を通って、部屋の外へと出て行ってしまった。
嵐が過ぎ去り、部屋の中に静寂が訪れた。しばらく誰も何も言葉を発することなく、黙って立っていた。
夕方が近づいて日が傾いたのだろう。室内は少し薄暗くなっていた。
「あの、そろそろ私もおいとましたいと思うのですが――」
重苦しい空気を振り払うようにボクは口を開いた。
どちらにしても帰ろうとしていた矢先のことであり、ドラングがやってきたために、言いそびれてしまっただけだ。
アルフィアからは応えがなかった。
代わりに、少しの間をおいてツカツカとボクの方に歩いてくる。
次の瞬間、パシッという乾いた音が響いた。
頬を叩かれたのだと気がついたのは、アルフィアの右手の位置を確認してからだ。
痛みはなかった。それよりも突然のことに驚いて、事態を飲み込むのがやっとだ。
「私から話は聞いていたというのに、あのような男と親しげにやり取りされるとは――私の見込み違いでした」
両目を細くしてアルフィアが睨む。
「お引き取りくださって結構です。さようなら」
冷え冷えとした声だった。
ボクが口を開く前に、アルフィアはクルリと背中を向けた。表情は見えずとも、握りしめた右腕が小さく震えていることから、彼女の憤怒の感情が手に取るようにわかる。
「お嬢さま――」
ようやくフルッツが我に返り、アルフィアの元へ駆け寄ってくる。
「リルケットさまにそのような乱暴な――」
「フルッツ。この方のお見送りを」
だがアルフィアはにべもなくフルッツの取りなしを拒絶する。
ここへきて、ようやくボクは頬の痛みを感じ、そっと右手を当てる。それほど強い力ではなかったはずなのだが、精神的な衝撃が痛みを倍加させた。
怒るのも無理はない。ボクの失態だ。
半ば、彼女の八つ当たりではあるのだろうが、ボクの顧客に対する気配りが確実に欠けていたのだ。
昨日、話を聞いたときに、アルフィアは何に対して憤っていたのか。それはドラングの行為もさることながら、長年、見知ったはずの人々が、利益によってあっさりと彼について行ってしまったことだろう。
ボクがドラングとつながりを切ろうとはしなかったのは、業務上、決して誤ってはいない。むしろ好きではないタイプの相手とも、しっかり人脈を築いておくことは、間違いなく正しいはずだ。
だがそれをアルフィアの見ている前でする必要があったのか。
本来の問題の解決には役に立てそうもなかったが、アルフィアはボクを信頼していたのだろう。今日の午後のひとときは、単なる商売上の取り繕ったものではなかったのだ。だからこそ、怒ったのだ。
彼女にとっては、ボクの行為はまるで後ろ足で砂をかけるような行いであり、またひとり自らの前から人が去っていくような気分にさせたに違いない。
「それでは――これで」
なんとか声を振り絞り一礼をすると、ボクは部屋から出て行った。
余白の日々に、気まぐれに綴られた彩りは、僅か一日でモノトーンとなった。
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