第五章 小麦の記憶
第19話
また悪い夢を見た気がするというのに、今朝の目覚めはここ数日になく爽快だった。
昨日と比べればたった一日の差なのだが、どうしてこうも違うのだろうか。昨日は無理をして詰め込んだ朝食も、今朝は軽々と口に入る。
クラヌス夫人がくれるパンとチーズは、その辺で手に入るものよりもやや上等である。夫人が言うには、食事だけはちょっとだけ贅沢をしているのそうだ。今日ほどそれをありがたく思ったことはなかった。
朝食後はすぐに仕事に取りかかる。一昨日のシェトラント氏の訪問で、ここしばらくは顧客と会う予定はない。だが、この時間のあるうちに作成しておくべき様々な書類や、各顧客の財務状況の確認、それに現在、発売されている主な金融商品の整理をする必要がある。
特に昨日、ラッシュベリーティーハウスのペーパーから久々に仕入れてきた新しい保険の情報は、早めに把握しておかなければならなかった。
こうして半日は瞬く間に過ぎた。
現在、最重要の懸念材料であるブラングリュード商会とドラング商会の件はまったく進展がないのだが、アルフィアとの仲直りが済んだことで、なにか問題自体が解決したような気分になっていた。
やはり実際にボクに手が出せるようなことはなさそうだし、と昼食の片付けをしながら考えていると、扉をドンドンと叩く音がした。
「電報です、リルケットさん!」
名前を呼ばれて急いで出る。受け取るとそれはバーモンダル氏からのものである。
『先物市場デどらんぐ氏ガ小麦ヲ十数回ニ分ケテ大量ニ売却』
たったこれだけの短い文面である。
なにかわかることがあったら報せてくれると言ったのは、まだ昨日の昼前である。仕事が早いと思うものの、バーモンダル氏が取引所の理事長であることを考えれば、たいしたことではないのかもしれない。
だがこの情報にはなにか意味があるのだろうか。
かなり金銭にはゆとりのあるドラングだ。先物市場で売買をしていたところでなんの不思議もない。
だが待てよ、と思い直す。
今年の小麦はやや豊作だろうという情報を、一昨日、ブラングリュード商会を訪れた際に、アルフィアから聞いた記憶がある。豊作になるということは、小麦は供給が増え、つまりは値段が下がるということだ。
だとしたら、先物で売るという行為にはまったく問題はない。もちろん予想が外れて不作になれば値段は上がり損失を出すだろうが、それは仕方のないことだろう。商品先物を売買する上では絶対に覚悟しなければならないリスクだ。
なのになにかが引っかかる。
もう一度、電報を読み返す。さらにもう一度――。
三度、読み返してみて気がついた。
十数回ニ分ケテ、というところである。
最初はリスク回避のために分けているのだと考えた。一度に大量に売買するのではなく、何度かに分けて行うのは、売買価格を平均化させるためによく採られる手法である。
だがそれにしては細かい。
ならばこの意味は、ドラングは自分がが大量に売却していることを、市場で目立たないようにしているということだ。
市場で自分が売買していることを知られたくないという人は少なくない。市場に影響のある立場の人物や、表に出たがらない金を動かしている人間ならそうだろう。、
しかしそれにしても十数回という数は多すぎる。なぜここまで分けて売り注文を出す必要があるのだろうか。逆に考えれば、一度に大量に売り注文を出したくないからということなのだろう。
一度に大量に売り注文を出せば、値段が大きく崩れる可能性が高い。しかもただでさえ今年は豊作の予想で値が崩れやすく、さらに売りを出しているのがドラング商会という大きな商会だとわかれば尚更だ。そうなればドラングの売り注文自体が成立しない可能性すらある。
つまり、ドラングは市場価格が一気に崩れないうちに、自分の望む量の売り注文を目立たぬよう確定させたかったということだ。
そこまで考えて、また別のことに思い当たった。
ティーハウスでのアシュハーの話しである。
ドラングは二隻のクリッパー船を、ライバループで秘密裏に造らせているという噂。
そして海難保険会社との提携。
ボルクウェンとアシュハーの読みでは、このふたつの噂は関連性があり、こっそりクリッパー船で品物を運ぶために、外部に漏れぬよう自分のところの船に保険をかけたいからだということだ。
この件と、今回の商品先物の件もまた関連性があるのではないか。
すべては表に出ないようにドラングは進めている。
もしかして――。
手にした電報を握りしめる。
ひとつの可能性に思い当たった。
「そういうことか!」
ドラングの行動にはすべて意味がある。
ひとり部屋の中で奇声を上げると、ボクは事務所の扉に鍵も掛けずに外へと飛び出した。
ブラングリュード商会の扉は開いていた。
別にドラングに嫌みを言われたからではないのだろうが、たとえ商談に訪れる者がいなくても、商会としてはこの方が自然なはずだ。
ボクはユーリントの街を駆けてきた勢いそのままで商館に跳び込んだ。
館内には、誰も座るもののないテーブルを拭くマノの姿があった。
「わかった、わかりました!」
ボクはマノの肩を両手で掴むと、興奮して揺すりながら叫んだ。
「ど、ど、ど、どうされたんですか? なにがわかったんですか?」
マノは突然のことに驚くというよりは、もはや怯えの表情さえ浮かべている。
「ドラングです。ドラングの目的のことです」
「わ、わかりましたから落ち着いてください」
それでも興奮のあまりボクはマノの肩から手を離せず、揺すり続けた。
ようやくそれが収まったのは頭上から声が降ってきてからだった。
「リルケットさんは、主人の前でメイドを誘惑するのですか」
冗談めかした言い方だったが、その言葉でボクは慌ててマノから離れた。
二階へと続く階段をアルフィアが降りてくる。
さらにボクの叫び声が聞こえたのか、フルッツも顔を出していた。
「落ち着いて深呼吸なさってください」
マノに言われて、二三度、大きく息を吸い込む。
そこでようやくボクはいつもの自分を取り戻すことができた。
「本当に驚きました。人が少なくなったので強盗でも入ったのかと」
今日は黒いドレスを着たアルフィアが苦笑いをする。
このときにはフルッツも傍まで着て複雑な笑みを浮かべていた。
「それよりもドラングの目的がわかったとおっしゃっていましたが、本当ですか?」
そう訊ねる執事に、あくまでも推測ですと断って、まずバーモンダル氏からの電報を見せる。電報は握りしめられてクシャクシャになってはいたが、破れたところもなく文字もはっきりわかるのが幸いだった。
そしてラッシュベリーティーハウスで聞いたことを説明する。すでにアルフィアに話した内容と重なる部分も多かったのだが、彼女は最後まで黙っていた。
「ブラングリュード商会の強引な買収も含めて、すべてのことはつながってるのだと思います。おそらく、今ドラングが狙っているのは小麦価格の大暴落です」
ボクが結論から先に言うと、三人は目を丸くした。
「つまりドラング商会がリンハラで大量の小麦栽培に成功したと仮定します。リンハラで採れた小麦をクリッパー船で大量に輸入するのです。そうすれば小麦の価格は暴落する。もちろんドラング商会もせっかく輸入した小麦の値段が下がるので損をしますが、予め同じ量だけ先物市場で小麦を売っておけば、その分は相殺されます」
「ちょっとまってください。それだとドラングは損もしない代わりに利益もあげられません」
「そうです。ですがドラングの思惑が、今すぐ輸入した小麦や、先物相場で利益を上げることではないとすればどうでしょう」
「どういうことですか」
アルフィアが首をかしげた。
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