第10話 あなたの為に遺すもの

 産み月に入ってからの物の怪のしつこさは、凄まじいものだった。女が翠子を苛む様にはもはや狂乱の趣きがあった。

 それでも、翠子も負けてはいない。

 胎内の子どもを守って耐え抜いた。

 加持の声はいよいよ高く、とよもすような読経が邸内に響き渡る。

 その日も翠子は夢現ゆめうつつの中で、必死に耐えていた。

 腹部は規則的な痛みに合わせて張り詰め、お産の近い事を伺わせる。すでに室内の調度は白一色に改められ、翠子も介添の女房達も白い晴れ装束にあらためていた。

 ふっ、と明るい影が兆す。

 清浄なひかりが穢を焼く。

 翠子の呼吸がわずかに楽になる。

 ただ、驚いた事に、物の怪の女はそのひかりに耐えた。

 女から感じるのは名状しがたい苦痛と、そして歓喜だ。

 ひかるの訪れを女は喜んでいた。おそらく翠子の存在を忘れるほどに。それでいて、女はあまりの苦痛にうろたえているようにも思えた。

 するりと、女が翠子の身体に入り込む。

 子を守る翠子は隅に追いやられ、女は翠子の身体を通してひかるに向かい合った。

 翠子はただ見ていた。

 女が歓喜の涙を流すのを。

 嬉しげに微笑むのを。

 翠子の指で光に触れようとするのを。

 そして光に正体が露見したことで、ついに去ってゆくのを。

 どん

 衝撃と共に、翠子の身体が翠子に戻る。

 それと同時に身体の奥で何かが弾ける音を聞いた。

 「お水が」

 「産気付かれました。」

 たちまち翠子の周囲は騒がしくなり、光が部屋を出される。ここからは女の仕事だ。

 子どもが、生まれ出ようとしている。

 「痛みはすぐに落ち着きます。静かに息をなさいませ。」

 「力をためておかねばなりませぬ。ゆっくりと息をしてくださいませ。」

 長い、お産になった。

 物の怪との戦いに疲れ果てていた翠子には、お産を耐え抜く体力など、ほとんど残ってはいなかった。それでも我が子を産み落とすために、残る力をふりしぼった。

 ずるりと体から抜けていく感覚。

 一拍遅れて思いがけないほど強い、張りのある産声が響く。

 「若君です。」

 「御嫡男の誕生にございます。」

 半ば朦朧とした意識で、翠子はその言葉を聞く。


 朦朧としたまま後産も終え、翠子が気づいた時、そばには光がいた。感覚の抜けたようになった翠子の手を握っている。

 「ありがとう。本当にありがとう。」

 光の目に涙が浮かぶのを、翠子は少し不思議なような気持ちで見る。

 女房が産着をまとった若君を連れてくる。

 ああ、似ている。

 額の感じやすらりと通った鼻。ちょっと薄い唇も。

 美しく喜ばしいもの達に慕い寄られているさまさえ。

 別の女房が翠子に薬湯を持ってくる。

 光はそれを受け取ると、さじで翠子の口元に運んだ。

 翠子も素直にさじを含む。

 ちょっと、くすぐったい。そして甘い気持ち。

 光はこの子の父親で、この子は光の息子。

 翠子は二人を抱きしめたいような気持ちになる。

 身体に力がまるで入らなくて、叶わなかったけれど。

 そういえば物の怪の女も光に触れようとして果たせなかった。それでもあの女は光に微笑みかけていた。

 そしてふと思う。

 わたしはあんなふうに真っ直ぐに、光に微笑んだことがあったろうかと。

 長くすれ違い、掛け違ったまま、正面から光の顔を見たことさえそれ程にはなかった気もする。まして真っ直ぐに微笑みかけるなど、したことはなかったのではないか。

 それはちょっといやだと翠子は思う。

 あの女は翠子の顔で光に微笑んだのに、翠子の本当の笑みを光が知らないなんて。

 光は翠子の世話を細々と焼いて、しばらくして立ち上がった。

 「すぐに戻ります。」

 翠子は精一杯微笑んで光を見つめた。

 光が一瞬ハッとした表情を浮かべ、それからちょっと子供っぽいほどの笑みを返してくる。

 その笑みが翠子の中で十二歳の光に重なった。

 あの、寝相の悪い少年は、こんな風に微笑むこともできたのだ。

 本当はもう、なんの力も残っていない。

 子どもを世に送り出し、長い物の怪との戦いを終えた翠子の体はもうぼろぼろだった。

 生命の最期の一滴まで絞り尽くしてしまった。

 いま、胎内の子を産み落とした翠子が、まだうっすらと精霊などを見ているのは、おそらく翠子の生命がつきかけて、あやかしに近づいているからだ。光が戻って来るのを待つことは、きっともう出来ないだろう。

 だからせめて、微笑みを遺したいと思った。

 翠子自身の笑みを。

 「姫さま? どうなさいました姫さまっっ」

 女房たちの声が遠くなる。

 自分は幸せだったのか。

 そんな問いを翠子は好まない。

 そんな事は誰にも、もしかしたら翠子自身にも量り切ることは出来ない事だと思うからだ。

 権門に見鬼ではない大姫として生まれ。

 臣下に下った十二歳の皇子に配され。

 長じてその皇子の嫡男を産んで、死ぬ。

 その人生を、人はなんと量るだろう。

 短い不幸な人生と言われるだろうか。

 けれど、翠子にとってはそんな事はもうどうでも構わない。

 翠子は生きて、そして遺してゆくものがある。

 それが、翠子の全てだった。


 

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翠子の結婚 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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