第9話 譲るわけにはいかないこと

 女がいる。

 顔はわからないが高貴な女であるのはわかる。

 高貴で、きっと美しい女だ。

 女は翠子を見ている。

 翠子の腹を見ている。

 翠子の腹を睨みつけている。

 憎しみが

 妬みが

 嫉みが

 哀しみが

 女から押し寄せてくる。

 翠子は女から腹を庇う。

 腹の中の子を庇う。

 それは翠子の中に芽生え始めた本能だ。

 この子を守りたい。

 この子を産みたい。

 この子を産むまで私は死ねない。

 

 目を覚ました翠子はひどい寝汗をかいていた。

 このところ、毎夜のように夢を見る。

 それは女の夢だ。高貴で恐ろしい女の夢。

 女は翠子の髪を掴み、引きずり倒し、腹を踏みつけようとする。

 あれは、あやかしだ。そして生きている女の念だ。

 これだけしっかりと護られているはずの翠子に、それでも迫って来るほどの強い念は、おそらくは光への執着でかきたてられているのだろう。

 実際に目にしたあやかしと化した女の姿よりも、その執着の強さを思って総毛立つ。いったいどれほどの思いがあれば、そんな事が出来るのだろう。

 いつから、という事にも翠子は心あたりがあった。


 京で行われる祭りの中でも、葵祭は大きなものだ。祭の行列には公卿があまた揃って加わり、双葉葵を頭に飾る。その美々しい行列を自分も目一杯着飾って見物するのは、貴賤を問わぬ京の人々の楽しみだった。

 そうは言っても、もともと翠子は今年は行列の見物に行くつもりではなかった。

 悪阻は落ち着いてきてはいるが、やはり体調は不安定だったし、何をするにも億劫さが先にたつ。少し動いても眠くなって、うとうとしていることも多い。

 それでも行ってみようかと思ったのは、その日たまたま体調が良かったのと、なによりそわそわと落ち着かない女房たちの様子を見たからだった。

 急な事であったので出遅れてはいけないと、女房を乗せた場所取りのための車が先発する。翠子自身は身体にさわることのないように、そろそろと車を進めた。女房たちの衣装はどれも葵にちなんで青や萌黄。翠子自身はこの季節には好んで身にまとう卯の花襲の袿の下に赤い単を重ねた。

 長い間庭にも出ないような生活をしていたが、さすがに祭の神威のおかげか今日は町中の穢も薄い。それでも車には何重にも護りをかけてある。

 「何か騒がしくはない?」

 ふと、異変を感じて同乗する女房に問いかけた。女房が物見から覗く。

 「なにやら揉め事があったようです。でももう収まったようですわ。」

 そのまま何事もなく先着した女房たちが取っておいてくれた場所に付き、無事に光の加わる行列の現れるのに間に合ったのだった。

 あの時、何か違和感があったのにうっかり光に気を取られてしまった。そしてその夜から、翠子は視線に纏わりつかれるようになった。

 いつも、誰かが見ている。翠子の事を見つめている。

 そして眠ると夢枕に、あの女が現れる。

 高貴に美しい、あやかしの女が。

 女は翠子を憎んでいる。

 女は翠子を嫉んでいる。

 翠子を苛もうとする。

 最初、翠子にはこの女がかくも強い憎しみを翠子にぶつける理由がわからなかった。

 知っている相手ではない。

 見知らぬ女だ。

 そんな相手になぜこれ程の憎しみをぶつけられなくてはならないのか。

 答えがわかったのは、葵祭に先行した女房たちに話を聞いてからだ。

 女房たちが先行した時にはすでに、沿道は物見の車でほとんど埋まっていたそうで、場所をあけるのに下男たちは少々強引に辺りの車をつめさせたそうだ。そうして追いやった車の中に、六条御息所のものらしい車があった。

 こちらの下男に少々酒が入っていたこともあり、結局は力づくでその車を押しやってしまったらしい。

 あの日、翠子の到着する直前の揉め事というのは、そういう事だった。 

 つまらぬことで恨みをかったものだと思う。

 やはり見物になど行くのではなかったとも思ったが、今更言っても取り返しはつかない。

 高貴な、美しい女。

 六条御息所ほどその条件に相応しい人がいるだろうか。

 翠子だけでなくその事に思い当たった者は多くて、あっという間に噂は邸内に広まってしまった。

 つまらぬ恨みをかったと思う。

 そして、それでは恨まれても仕方ないだろうとも思う。

 けれどもそれはそれとして、翠子にも譲れないものがある。

 いつでも纏わりつく視線。

 眠りの中で翠子を苛む女。

 それは翠子を疲弊させたが、翠子を折りはしなかった。

 負けられない、と翠子は思う。

 翠子は今、胎内にもう一人の生命を宿しているのだ。この生命の胎内にあるうちは、この子を産み落とさないうちは、決して死ぬことなど出来ない。

 しつこい物の怪が取り憑いたことで、加持には一層力が入り、さらに護りは強められた。

 それでも物の怪はひしと翠子に取り憑いて離れない。

 そうこうしているうちに翠子の胎内の子は、産み月に差し掛かっていた。

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