第8話 胎内に宿るもの

 予兆は突然だった。

 光の腕の中でふと目覚めて、翠子は奇妙なものを見た。閨の中に薄く差し込んだ明かりの中で袖を翻し舞う何か。

 重たい瞼を押しあけて、懸命に見定めようとする。

 それは小さな女だった。

 冠をつけ、ひれを翻す、指ほどの背丈の舞姫。

 光の中でひらりひらりと舞う。

 そっと手を伸ばすと、ふっと光の中に消えた。

 ーなに?

 身体を起こしかけて、光の腕に絡めとられた。眠っている光が反射的に、翠子を褥に引き戻したのだ。光の体温に包まれてしまうと、重い瞼を持ち上げていることはもう出来なかった。


 なんだか熱っぽくてむかむかする。

 このところ、翠子は体調が優れない。

 だるくて食欲がなく、食べ物の匂いで吐き気をもよおすこともある。

 風邪でもひいたのかと思って横になると、びっくりするほど眠る事が出来る。朝起きて、体が辛いからと横になって、目が冷めたら暗くなっていたときは我ながら呆れてしまった。

 「姫さま、これはおめでたですわ。」

 食べる気にならない食事を下げさせて伸びていると、乳母がそんなことを言い出した。

 「ちょっと前からもしかして、と思っていたのですけれど、これは間違いございません。ご懐妊でございます。」

 懐妊。

 翠子がキョトンとしているうちに、知らせは両親のもとに届けられ、光のもとにも走る。

 その夜、早速光がやってきた。

 「身体を大事にして、良い子を産んでください。」

 閨の中でも扱いは優しく、少しくすぐったい感じさえする。通いどころの多い割に光には子供がなく、翠子の胎内に宿ったのが初めての子供なのだった。

 「いやでかしたぞ翠子。ぜひ姫君を産んでくれ。」

 兄の態度はちょっとわかりやすすぎるぐらいだ。

 きっちりと自分の都合を述べてくる。

 「ご譲位のこともあって、新しい東宮が立てられたばかり。今なら東宮のもとに入内させるなら理想的な年回りだ。これはぜひぜひ姫君をあげてほしい。」

 翠子に言うだけでなくすでに姫君誕生を祈願する祈祷をさせているらしい。生む翠子に一言もなしに祈祷を始めてしまうのは、さすがに何かが違うのではないだろうか。

 そんな華やかな騒がしさに、戸惑いながらも少し浮かれかけていた翠子は、しばらくすると奇妙な事に気づいた。

 庭に陰がたっている。

 じわりと滲むような陰は、日差しを吸い取って庭を暗くする。陰は日を追うごとに数を増し、庭は日毎に暗くなっていった。

 昼でもそんな状態なので、夜の庭はもはやひたすらにおどろしくおぞましい。

 「あれは何?」

 たまりかねて乳母に訴えた事で事情は判明した。

 「まあまあまあ姫さま、これは御子さまが見鬼でいらっしゃることはまず疑いございませんよ。」

 強い見鬼の子どもを宿すと、見鬼ではない母体でもあやかしを見るようになる事があるらしい。つまり翠子の胎内に宿った子どもは、まず間違いなく見鬼であるのだった。

 この知らせに周囲はさらに沸き返った。

 母にあやかしを見せるほどの見鬼であれば、后がねとしてなんの不足もない。姫君誕生の期待が大きくなったのも当然の流れだ。内々にだが光の父である院からも、翠子に見舞いの言葉と祈祷僧が送られて来るほどだった。

 もちろん翠子の身は徹底的に護られた。

 光の病臥の時にも増して結界が張られ、祈祷僧や陰陽師が昼夜を問わず護りにつく。

 翠子だけでなく側に仕える女房たちにも護符が与えられ、翠子の身の回りに穢が近づくことを避けた。

 その騒ぎの中心にあって、翠子はどうにも落ち着かない日々を過ごしていた。

 確かに邸内に陰はない。

 しかし、遠ざけられているのは穢れたあやかしで、害のない清らかなものは入って来るのだ。

 もともと見鬼でない翠子としては、害はなくても驚きはする。白い蛇が天井を這っていたり、小さな美しい人間に覗き込まれたり、龍が庭を通り抜けていったりする状況には、中々慣れられるものではない。突然煌めきながら花びらが降ってくる程度の物事にも、最初はいちいち驚いたのだ。

 なるほど、后が見鬼であることを求められる筈だと思う。見鬼でないということは世界の半分程も理解できないと言う事なのだと、翠子も納得しないわけにはいかなかった。

 そして光。

 彼は一体何なのだろう。

 今の翠子には光が現れるはるかに前から、光が来ることがわかる。

 光はいつでも明るい美しいものに取り巻かれていて、その輝きが届くからだ。

 光が歩む先には美しい花びらが撒かれ、光が翠子と閨に入ると、その周りを喜ばしい気配で彩る。

 これが天孫の血をひく帝の血筋の証なのであるというのは、確かにわかる気がする。その血筋に連なるということは、世界から無条件の好意を向けられるということなのだ。これ程に世をしろしめすに相応しい血脈が他にあるだろうか。  

 翠子はあまりにも完全に護られていた。

 だから、自分がどれほど妬まれているのかの自覚にひどく乏しかった。

 それはたぶん、男女の仲になっても引きずっている光との歪な関係とも無関係ではなかったろう。翠子は光に関わる女君に深刻な嫉妬を感じた事はなかった。兄が北の方の嫉妬に手を焼いているのを見ても、特に北の方に同情めいた気持ちを持ったこともない。

 どれだけ護られていようとも、翠子は自覚するべきだった。

 自分がどれだけ多くのものに妬まれている立場であるのかを、知っているべきだったのだ。 


 

 

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