第7話 経験しないとわからないこと
現状に納得したと思ったら、現状がいきなり動き出す。そんなこともあるらしい。
その変化してしまった日常に、翠子は多いに戸惑っていた。
光が通って来るようになったのだ。
いや、通ってくるという事なら今までだって通っていたし、頻度は今だってそんなに高くはないのだけど。
つまり翠子と光はついに男女の仲になったのだ。
北山からすっかり本復して戻った光は、病の間、世話になったと親のもとに挨拶に来て、そのまま翠子の部屋に泊まった。その夜、そういう事になったのだ。
最初は親への礼の一環かとも思われたが、前よりは通っても来るし、なんだか早々に閨に篭りたがったりもする。どちらにしても翠子にとって背の君であることにかわりはないわけで、拒む理由も無いのだった。
こういう話はあっという間に邸中に広がるので、今では前にも増して皆が光の訪れを待ち焦がれてもいる。そして光は当たり前のように、翠子の肌に触れるようになった。
いや、それが悪いわけではない。
光が翠子に触れるのは、そうでなかった今までよりも当たり前の話で、別にそこに文句はない。鳴り物入りで迎えた婿君が通って来るのを、喜ぶ親の心情だってもっともだ。全体に状況は前よりずっと良くなっている。
ただ、翠子の気持ちが変化についていけていないだけで。
自分は何もわかっていなかったんだと、今更ながらに翠子は痛感していた。
いくら背の君とは言っても、まさかあれだけあからさまに肌を見せたり触れたりするものだとは知らなかった。ではどうするものだと思っていたかと問われると、ちょっと困るのだけど。
とにかく男女の仲というものを、自分がまったく理解せずにいたのだと思い知らされないわけにはいかなかった。
この点に関して、光に導かれるような形になってしまうのは、いかんともし難い。なんと言っても踏んでる場数が違いすぎる。そして翠子を導くことに、光は意外に熱心だった。
「いやいや、結果的に良かったのかもしれんな。」
最近、また兄がよく邸にいる。どうせまた通いどころを押さえられるとかしたのだろうと、翠子はもうわざわざ尋ねたりはしない。聞いても仕方のないことでもあるし。
「良かったって、何が?」
簀子に座りこんだ兄と御簾をはさんで向かい合った翠子は、髪を女童にとかせている。光の通ってきた次の朝はどうしようもなく髪がもつれるので、きちんととかすのは大仕事だ。
「いや『光が初めての女』っていうのはお前がそれこそ初めてなんじゃないか?」
なんだってこの兄はこんなあけすけなことを言い出すんだろう。
「そういう『初めて』に値打ちを感じるのって、ある程度経験したあとなんだよな。だから今だったのはちょうどよかったのかも知れんと思ってさ。」
妹としてこの兄になんと言い返すのが正解かというのは、中々に難しい問題ではないだろうか。
兄の言う意味は別にわかりたくもないが、光がそれなりの熱意をもって翠子に触れるようになったのは事実だった。
逢瀬が重なるにつれて翠子が朝、起きられないような日が増えてきている。今も兄が現れるような時間に髪の手入れをさせているのは、翠子が中々起きられなかったからだ。
そして、翠子が起きられなくて、光を見送ることができなかったような日は、なぜだか光が続けて通って来たりする。考えると頬が火照るので、なぜ光が続けて通ってくる日があるのかについては、翠子は考えない事にしていた。
「おつかれですか。」
閨の中だけでなく、居間での団欒の折にも光はよく翠子に話しかけて来るようになった。
「いえ、あの…」
あまりに近々と覗き込まれると、赤面して目をそらしてしまう。耳をくすぐる声が、触れてくる指先が、翠子を乱す。
「やはり少しおつかれのようですね。もう休みましょう。」
そう言って、光は軽々と翠子を抱き上げて閨に連れ込んでしまう。連れ込まれればいっそう光に乱される。
いや、閨の記憶があるからこそ、居間でも光は翠子を乱すのだ。
閨ではもう、翠子の身体は翠子の自由にはならない。翠子の身体は翠子を裏切って、光の意思に従ってしまう。
光の腕は、指は、長々と触れてもこなかった事が嘘のように、翠子の身体を好きに扱う。その感覚に翠子は未だに慣れる事ができない。
経験してみないとわからないこともある。
翠子はつくづくとそんな事を思いながら、改まった背の君との関係を幾分持て余してもいるのだった。
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