「本命に決まってるよ」

 大正年間に建てられたネオバロック風の洋館は、煉瓦造りの二階建てで、ロの字の回廊になっている。そこだけは現代的な電子ロックを文学部特権で解除して、靴を脱いで冷えた廊下に上がると、予想に反して近くから声が聞こえてきた。おれはへーちゃんに耳打ちする。


「勝教授の研究室やユーラシア史の資料室は2階にあるんだけど、たぶん、いちくんたちは1階の給湯室にいるよ。声、そっちから聞こえた」

「なるほど。しかし、薄暗いな。何か出そう」

「出るらしいよ。回廊をぐるぐると」

「やめろ」


 おれたちは忍び足で、明かりの洩れる給湯室に近寄った。給湯室には扉がなくて、カーテンが掛かるだけだ。今はそのカーテンも開いている。


 いちくんと時尾ちゃんが向かい合っていた。いちくんはこっちに背中を向けて、時尾ちゃんは少し不安げな顔でいちくんを見つめている。


 唐突に、いちくんが言った。


「嫌いじゃない。好きだ」


 え、マジ? いきなり大スクープ? おれと平ちゃんは顔を見合わせた。


 時尾ちゃんがホッとしたように微笑んだ。


「よかった。斎藤先輩は甘いものが嫌いって言ってたから、わざわざチョコにするのもどうかとは思ったんですけど、作ってみてよかったです。炒って砕いたナッツと、塩と黒胡椒と生姜と、砂糖をほとんど入れてないビターチョコ。おつまみみたいでしょう?」


「普通にうまいと思う。好きな味だ。香りと風味もいいな。腹が減ってたから、助かった」

「甘い味は苦手でも、香りや風味が甘いものは、斎藤先輩もお好きですよね? この前の飲み会ではラム酒も飲んでましたし」


 話の流れから察するに、「好き」っていうのは愛の告白じゃなく、時尾ちゃんが作ったチョコのことみたいだ。しかし、いちくんが手作りチョコを受け取るとはね。これはこれで香ばしい展開だ。


 ちょっと沈黙が落ちる。いちくんがコーヒーカップをテーブルに置いて、背中側から見ててもわかるほど大きな息をした。


「こういう場合、お返しは、1ヶ月後でいいのか?」

「え? お返しなんて、気にしないでください。わたしが勝手に作ってきて、運がよかったら渡せるかなって、それくらいのつもりだったので」

「実際こうして受け取ったんだ。礼くらい、すべきだろう。その……悪い。オレはこういうことは初めてで、勝手がわからない」


 呼吸ひとつぶんの沈黙。時尾ちゃんが胸元で手を握り締める。


「さ、斎藤先輩にはいつもお世話になってるから、何か作りたくて……えっと、押し付けるつもりはないんだけんじょ、斎藤先輩はよく運動する割に栄養が足りてねぇように見えるときがあるんだなし。よかったら、わたしが作った料理、食べてもらえねぇがよ?」


 こぼれ落ちそうに大きな目が、まっすぐに、いちくんを見上げている。テンパっちゃって会津弁になってる。その発音の柔らかい響きは、標準語にも関西弁にもない奥ゆかしさがあって、とてつもない破壊力だ。これで落ちない男はいないよ。ヤバい。


 いちくんの背中が、また、大きく息をした。


「オレは、自炊できないからな。あんたの迷惑にならないなら、あの……ちゃんと食うから。甘いもの以外なら、好き嫌いはない」


 時尾ちゃんが笑った。


「もう1つ許してもらいてぇことがあって。今度の試合、見に行っても大丈夫さすけねぇですか? わたし、昔から薙刀なぎなたをやってて、弟が剣道だから、武道の試合が好きなんです」

大丈夫ださすけねぇ。薙刀は、今でもサークルでやってるんだろう? 1度、異種試合で手合わせ願いたい」

「は、はい」


 時尾ちゃんが笑いながら、口元を手で覆った。頬がハッキリと赤くなっている。いちくんも少し笑ってるような気配がある。珍しい。


 てか、すごくいい雰囲気だ。このままさらに甘いムードに突入するんじゃない? けっこう期待できるかも。


 と、思ったんだけど。


 突然、いちくんが振り向いた。笑顔じゃない。いつものクールなポーカーフェイスでもない。怒ってるような、うろたえてるような、何とも言えない微妙な顔だ。


「総司、へいすけ……いつからそこにいた?」


 おれは肩をすくめた。


「さあ、いつからでしょう? いちくんが背後を取られて気付かないって、滅多にないよね。余裕なすぎるんじゃない?」

「ぬ、盗み聞きとか、悪趣味だ」


「道場の消灯時間になっても戻ってこないから、心配になって様子を見に来たんだよ。腹減ってるだろうなーって、飯に誘おうと思ったら、何かリア充してるし」

「違う、そんなんじゃ、別に……オレなんかとじゃ、こいつも、迷惑だろうし」


 時尾ちゃんが慌てて口を挟んだ。


「斎藤先輩、迷惑って、むしろわたしのほうが先輩に迷惑かけっつまって、こっだ遅い時間まで手伝わせて、ごめんなさい、許してくなんしょ」

「い、いや、元凶は勝先生だ。謝るな」


 おれは思わずツッコミを入れた。


「違うよ。元凶はいちくんだよ」

「オレ? どうして?」

「バレンタインだからって、普段よりさらに警戒レベル上げて鉄壁ガードするもんだから、時尾ちゃんも気が引けてチョコを渡せなかったんだろ? 勝教授はそれを知って、いちくんを呼び戻したんだと思うよ」


 いちくんがピシリと固まって、みるみるうちに赤くなった。湯気が上がりそう。平ちゃんが、いちくんの隣であわあわしている時尾ちゃんに、人懐っこい笑みを向けた。


「俺ら、これから飯に行くんだけど、一緒に来るだろ? いっちーが時尾ちゃんのぶんおごるし。ってことで、腹減りすぎだから早く行こうぜー。もう学食でもどこでもいいや」

「平ちゃん、おれ、ケニアのオムレツと牛すじが食いたくなった。全員、下宿はあっちの方角だし、ケニアでよくない?」


「いいよ、決定。時尾ちゃん、今からケニアで晩飯ってことでOK?」

「は、はい」


 時尾ちゃんは、まだ固まってるいちくんの袖を、そっと引いた。いちくんはビクッとして、時尾ちゃんを見て、視線を床にさまよわせる。いちくんのリアクションが新鮮すぎておもしろい。今日の晩飯はうまそうだ。


 ふと、おれのポケットでスマホが震えた。トークアプリに、新着のメッセージ1件と画像1件。花乃ちゃんからだ。親指が反射的に動いて、花乃ちゃんとのチャットの画面を起ち上げた。


〈意味がわからへんところ、あってんけど。これの意味〉


 メッセージの入った吹き出しの下に、セルフィーが1点。細い首に黒猫のチョーカーを付けてそれを指差して、ちょっと上目遣いでこっちを見ている花乃ちゃん。まなざしに、おれは射抜かれる。ドキリとした心臓が、そのまま速いリズムで走り出す。


 10代だな、やっぱり。そんなアングルの自撮りがどうしようもなくかわいいって、高校生の特権だ。


 おれの既読を確認したのか、花乃ちゃんがもう1件、メッセージを送ってきた。


〈このチョーカー、どういう意味なん?〉


 数学のノートに挟んできた紙包みに、カードは添えなかった。表に「花乃ちゃんへ」とだけ書いた。


 どうしてチョーカーだったのか、どうしてこのタイミングなのか、自分でもよくわからない。おれはけっこう、その場限りの判断や何となくの衝動で生きている。贈りたいと思ったから贈っただけ。複雑な意味はない。


「いちくん、平ちゃん。おれ、ちょっと先に外に出てる。電話するから」


 断りを入れて、詮索されないうちに、洋館を後にする。2月の湿った冷たい夜気の中、見上げる空にはオリオン座。かじかみかけた指先で、通話アイコンをタップする。呼び出しを待つ間、1秒、2秒。


〈……もしもし?〉


 威勢がいいはずの声が、電波の向こうで臆病そうに縮こまっている。おれ、そんなに不安にさせたかな? 小さく笑って、おれは告げる。


「あれの意味はね、花乃ちゃんに似合いそうだと思ったから。チョーカーって、首輪みたいでかわいいよね」

〈首輪!?〉


「冗談だよ。バレンタインにチョコ以外のものを贈ったって、問題ないだろ? 気に入ってくれた?」

〈メッチャかわいい。これに比べたら、うちが作ったチョコ、メッチャしょーもないわ〉


「せっかくの本命チョコなのに、そんなこと言わない」

〈ほ、本命とか、センセのほうから言うことちゃうやん!〉


「嘘じゃないんだから、いいだろ」

〈……センセのプレゼントは、本命なん?〉


 今この場で言わされるんだよな。できれば次に会うときに面と向かって言いたかったんだけど、一瞬一瞬が大切でわずかな時間さえ待てない17歳の女の子には、今この場でおれが告げる言葉こそが、世界でいちばん重要なんだろう。


「本命に決まってるよ」


 スマホ越しの声が、くすぐったそうに笑う。


〈今度、もういっぺん、もっとちゃんと言うて〉


 いとおしくて、笑ってしまう。熱い吐息が白く曇って流れていく。段だら模様が編み込まれた青いマフラーをそっとつかんで、おれは、バカバカしいほど甘い言葉をささやいた。


「了解。何度でも言うよ。本命の獲物は、つかまえて離さないから」



【了】



『幕末レクイエム』セルフパロディ。

新撰組の沖田総司、斎藤一、藤堂平助が京都で過ごしたのは大学から大学院にかけての年齢のころだったので、リアルに大学院生にしてしまいました。魔が差しました。ゴメンナサイ。

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京都チョコレート協奏曲 馳月基矢 @icycrescent

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