「え、嘘!? マジで!?」

 おれが道場に帰り着いても、いちくんは研究室から戻ってきていなかった。もうすぐ道場や体育館が消灯される21時だ。いちくんは練習できそうにない。


 21時ギリギリに、へーちゃんが道着から私服に着替えた。鮮やかなブルーのパーカーに明るい色のジーンズ、ハイカットのスニーカー。スポーティな格好で小柄で童顔だから、23歳の大学院生には、ちょっと見えない。工学部情報系のホープ、らしいんだけど。


「総っち、バイトお疲れ。いっちーと最後に試合しようと思って体力温存してたのに、あいつ何やってんだ?」

「教授からの呼び出しで仕事しに行ったよ。聞いてなかった?」

「聞いてねぇよ。サボりゃいいのに。あー、腹減った」

「時尾ちゃんも一緒に仕事してるから、サボれるわけないって」


 平ちゃんがニヤリとした。


「あ、そういうこと。じゃあ、あいつ、飯も合流しねぇ気かな?」

「いや、こっち来るんじゃない? いちくんが女の子を食事に誘うシーンとか、想像できる?」

「想像できねぇな。その時尾ちゃんって子も、まじめっつーか、ガツガツ声かけるような子じゃねぇんだろ?」


 全然、と、おれはかぶりを振った。2人して奥手じゃ、仲が進展しようもない。どうやって発破をかけてやろうかと、平ちゃんと何度か作戦会議をしたことがある。


「ところで、平ちゃん、飯、どこ行く?」

「ラーメン食いたい。夢を語れとか、天下一品とか」

「却下。あの食べ物はラーメンじゃない。ちょっと冷めたらスープに箸が刺さるくらいの脂の量って、大学院生の胃袋には無理だから。しかも、かなりの大盛りだし」


「じゃあ、総っち、何がいい?」

「普通に定食系。きちんとタンパク質を摂取しろって、OBの山南さんからも言われた」

「定食か。ハイライトは?」

「やだ。これくらいの時間になったら、あの店の油、すごい匂いするじゃん。ヤンパオ、行こうよ」


「昼に店の前を通ったとき、臨時休業の貼り紙があったぞ。バンは量が多くてイヤって言うだろ? ふうばいかんは空いてりゃいいけど、狭いから望み薄かな」

「21時過ぎたら、体育会の学部生たちが一気に食事に向かうから、どこも混むもんな。それにしても、いちくん、ほんとに遅いな」


 連絡してみようかとスマホを取り出したら、平ちゃんが大きな目をキラキラさせて、おれにストップを掛けた。


「ユーラシア史研究室の場所、総っちは知ってるんだろ? 押し掛けてみようぜ。俺、時尾ちゃんって子、見たことないし」

「あれ、そうだったっけ? すごいキレイな子だよ。清楚で素直で」


 おれと平ちゃんは道場のそばの駐輪場に自転車を置いたまま、キャンパスへ向かった。研究棟はあちこち明かりが点いている。博士課程ドクター博士研究員ポスドクの中には、完全に夜行性の人も少なからずいるんだ。


 今さらだけど、と平ちゃんが訊いてきた。


「ユーラシア史って何だ? シルクロード的なやつ?」

「シルクロードは唐代だろ。いちくんとこの研究は、もっと後の時代。中国の王朝は、基本的に外国と交易しないんだけど、例外が唐とモンゴル帝国で、チンギス・カンが13世紀に建てたモンゴルのころは、唐代以上にユーラシア全土の陸海の交易が発展したらしい」


「で、その空前のれい状態のユーラシアを観測するのが、ユーラシア史? でも、あいつ、東洋史グループって言ってたろ? 東洋よりユーラシアのほうが広くね?」

「そのへんの区分けはよく知らないよ。おれは日本史だし。何にしても、勝教授のユーラシア史では、東洋史と西洋史と西南アジア史と日本史と考古学の境界を全部ぶっ壊した研究をやってて、オリジナリティが随一なんだ。有名人だよ、あの教授」


 扱う文献は、漢字文化圏の各地に残る漢文資料、当時の大陸公用語だったペルシア語資料、モンゴル高原に残る多国語翻訳の石碑、当時描かれた世界地図、ヨーロッパ各地に伝わるマルコ・ポーロなど旅行者の記録、ほかにアラビア語やウイグル語の資料もある。


 指折り数えて挙げると、平ちゃんは呆れ顔になった。


「いっちーは、それ全部カバーできてんのか?」

「ペルシア語やアラビア語はきついって言ってた。ブロック体は読めても、筆記体はどこまでが1文字なのか判別できないって。東アジア各地の漢文は、どんな訛りがあっても読めるらしいけど」


「漢文って訛るのかよ? 意味わかんねえ。てか、あいつの性格なら、もっとシンプルなことやりそうなもんだろ。何でユーラシア?」

「んー、偶然の結果というか。最初から話すとね、東洋史にしろ日本史にしろ歴史学者は、がくばつや学派の壁に固執する人種なんだ。専門にする地域についてもそうだし、扱う研究素材もそう。文献至上主義で、考古遺物なんかに手を出すのは邪道だって」


 おれもいちくんも、学閥主義や文献至上主義はナンセンスだと思っている。例えば、幕末のしん戦争を調べたいなら、文字として残る資料を読むと同時に、戦場から発掘された銃弾や砲弾、装備品の考古遺物を参照したいと考えるのは自然なことだ。


 でもまあ、頭の固い教授も少なからずいるわけで、ああこの人の前で正直なこと言っちゃマズいなってのは、空気で感じられる。そのあたりがうまいのがおれで、下手なのがいちくんだ。


 どんな言い方をしたのかは知らない。いちくんは3回生の前期、文献至上主義への疑問を率直に口に出した。そして東洋史グループで最年長の教授の機嫌を大いに損ねて、その教授が関連する講義の単位没収はもちろん、受講登録自体を全部なかったことにされた。


 例の教授は、その前の世代に最も力のあった教授の娘と結婚したおかげで、出世もしたし絶大な影響力も手に入れた。東洋史グループのほとんどの人間は、その教授に歯向かわない。積極的にいちくんをいじめた人は、ほかにはいなかったようだけど。


 という一連の話をしたら、平ちゃんは思いっ切り顔をしかめた。


「文学部って闇だな。古くせー。いっちー、よくドロップアウトしなかったな」

「勝教授に拾われたんだよ。あの人だけは、例の教授も手出しできない。政略結婚なんかせず、学閥主義と文献至上主義をぶっ壊しながらも教授の座に上り詰めた、本物の研究者だ。敵も多いらしいけど、いちくんを評価してるのは本当みたい」


「そんだけ恩がありゃ、こき使われても文句言えねぇな。俺ら情報系にも学閥はあるけど、そこまで露骨じゃねぇし、実力さえあれば年功序列なんか引っ繰り返せるぞ」

「年功序列ね。日本史研究室のは固いな。古文書の崩し字読解は、先輩が後輩に1対1で教えるスタイルが伝統なんだけど、かつておれに教えてくれた博士課程ドクターの先輩より、今はおれのほうが圧倒的に読める。でも、研究室内の序列はあっちが上」


「ふぅん。無能なやつの下には付きたくねぇな。有能すぎる教授に首根っこ押さえられるのもどうかと思うけど」

「美人で優秀な後輩がいるし、いちくんは案外、悪く思ってないかもよ。うらやましい話だ」


「教え子に手ぇ出してる不良な家庭教師カテキョがよく言うぜ。口んとこ、グロス付いてるぞ」

「え、嘘!? マジで!?」


 おれは思わず、口元に手をやった。平ちゃんが爆笑する。


「嘘に決まってんだろ。引っ掛かんなよ」

「うわ」

「今のリアクション、身に覚えがあるって意味だよな? 後でキッチリ説明してもらおうか」

「やだよ。いちくんいじるほうがおもしろいって」


「両方いじってやる。文学部男子、ムカつくんだよ。半分くらい女子じゃん。俺んとこなんか、女子率0.1%未満だぞ。限りなくゼロに近いんだぞ」

「平ちゃんは男にもモテるから問題ないだろ」


 コロコロ表情の変わる平ちゃんは、爆笑から一転、ギュッと眉をしかめて思案顔になった。


「今日、やたらとココアやチョコやお菓子の差し入れがあったんだけど、やっぱそういう意味か?」

「付き合っちゃえばー」

「簡単に言うなよ。付き合えねえって。差し入れくれた男も女も、ビビッと来なかったんだよ」


 何だよ、自分も女子からもらってんじゃん。掃除のおばちゃんか事務のお局さんかもしれないけど。というか、ビビッと来たら、男でも付き合う気かよ。平ちゃんもそれなりに変わってるんだよな。


 ラッキーと言うべきか、話がこれ以上カオスなことになる前に、おれたちは勝教授の研究室がある洋館に到着した。

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