「高級チョコなんかより、よっぽど上等だろ?」

「センセ? 何ボーッとしてはるん? 考え事?」

「ん、ちょっといろいろ思い出してただけ。問題、解けた?」

「一応できた。今日バレンタインやから、センセ、女の子からいっぱい声かけられたんと違う? 思い出してたって、そのこと?」


「まあね。あ、ここ、最後の詰めが甘いよ。もう1段階、因数分解できる。考え方は合ってるんだから、凡ミスで減点されるのはもったいない」

「めんどいわー。数学、嫌いや。センセは文系やのに、何で数学もできるん? 意味わからへん」


 高校2年生の花乃ちゃんは、国語が壊滅的に苦手で数学の成績もよくない。文系でも理系でもないという、進路選択にいちばん困るタイプだ。


 あの入院中に花乃ちゃんに勉強を教えるようになって、途中から正式にアルバイトとしてお金をもらうことが決まった。以来、国語と数学を中心に、週に2回ほど教えている。


 前よりはずいぶん成績が上がったらしいけど、高校の勉強ってそんなに手こずるものだっけ? というのが正直なところ。正直に口に出したら容赦なくどやされるから、言わぬが花だ。


「今日のところは、そろそろ終わりでいいかな? 宿題とか予習とか、急ぎで片付けないといけないものがあれば見るけど」

「あ、そうや、英語の訳がわからへんところがあってん。見てもらってもええ?」

「了解。見せて」


 花乃ちゃんが机から離れて通学カバンをガサゴソやる隙に、おれは数学のノートに、薄くて小さな紙包みを挟んだ。紙包みの端を、しおりのようにノートから少し出しておく。


 今日はバレンタインだから――そんな言い訳を何度も聞かされた1日だ。女の子だけの特権ってのは、ちょっとずるいんじゃない? なんて思うから、やっぱり今日、こっそり仕掛けることにする。


 結局、言い訳が必要なんだよな。おれ、自信満々に見えるらしいけどさ。


 花乃ちゃんが戻ってきて、おれは課題である英語の長文を斜め読みして、下線が引かれた箇所の和訳をする。うちの大学の二次試験も去年の今ごろ受けた大学院入試も、英語の問題は同じ形式だった。


「知らない単語はスルーして、何となくのニュアンスで意訳すればいいんだよ。下線が引かれるのは、その直前の段落までのまとめの一文であることが多い。全体的な内容がつかめていれば、1つ2つ知らない単語があっても、訳文に大きなミスが出ることはない」


「こんな量の長文、全部読んどったら、時間が足りひんくなる」

「全部読めるように、スピードを付ける必要があるね。英語の歌を覚えるとか、洋画のワンシーンの台詞を丸暗記するとかでも、英語を読む速さは身に付くから、やってみたら? 大事なのは、声に出して体で覚えることだよ」


「んー、やってみる。またわからへんところがあったら、スマホ使って訊いてもええ?」

「いつでもどうぞ」


 有言実行で形から入るタイプの花乃ちゃんのことだ。きっと来週には、部屋に新しいCDが増えているに違いない。


 おれの帰り際、玄関先まで見送りに来た花乃ちゃんは、手を体の後ろに回してソワソワしていた。そもそも、今日はずっと落ち着かなかった。見て見ぬふりをしてたけど、このままじゃ、おれも帰れない。


「何かおれに渡すものがあるんじゃないの?」


 笑顔で訊いてあげたら、鼻先に勢いよく、小さな包みが差し出された。


「作ったから。学校に持っていった友チョコとは違うやつ。フォンダンショコラ。レンジで20秒くらいチンして食べて」

「ありがとう。やっともらえた。お返しは、ちゃんとするよ」


 膨れっ面が、そっぽを向いている。一時期、しっかりメイクをしていた。ケバい化粧より素顔すっぴんのほうが肌も目元もキレイに見える、とハッキリ指摘したら、その日は泣かせたけど、次のときから素顔すっぴんに戻った。おれはこっちのほうが断然好きだ。


 横顔が少し大人びたと思う。かわいいだけじゃなくて、美人になってきた。


「センセの高校時代は違ったやろうけど、最近は男子もバレンタインに逆チョコとか友チョコとか、くれはるで」

「チョコは持ってきてないな。何か甘いもの、ほしかった?」

「甘いもんとか、別に。ただ単に……ホワイトデーまで1ヶ月も待たなあかんって、不安やねん。気持ち、どれだけ込めても、1ヶ月も経ったら忘れられてしまうんと違うかなって」


 たったの1ヶ月、ではないんだ。高校時代は、おれもそうだったかもしれない。今すぐ結果がほしくて、先延ばしにされる不安には耐え切れなかった。


 20歳を超えて、おれは悠長になったわけでも大人になったわけでもなくて、時間をテキトーに使い捨てるようになってるんじゃないかなって、急に気付いた。今という瞬間に押し潰されそうな、花乃ちゃんの張り詰めた表情がとてもキレイで。


 魔が差した、かもしれない。からかいたいというより、奪いたいと思った。


「じゃあ、即席で悪いけど、逆チョコの代わりに」


 初めてその頬に触れた。冬の外気に染まって、少しひんやりしている。奪った唇も、おれの唇より冷えていた。


 おれは、花乃ちゃんにキスをしている。


 家庭教師カテキョ失格だな。でも、花乃ちゃんの高校卒業まで待っていられるほど、おれはまじめな人間じゃないから。


 唇を離す。白い吐息越しに、そっとささやく。


「そのへんで売ってる高級チョコなんかより、よっぽど上等だろ?」


 花乃ちゃんの肩をポンと叩いて、ちょっと手を振って、おれは門を出た。自転車にまたがって、夜道を走り出す。


 しょ西にしの、木々の匂いの湿った冷たい夜風が正面からぶつかってくる。それが気持ちいい。顔から火を噴きそうって、こういう状態をいうんだな。顔が火照って、耳や首まで熱くて仕方ない。風、もっと吹け。道場に着くまでに、熱を冷まさなきゃいけない。


 心臓があまりにもドキドキするから、叫びたくなった。叫ぶ代わりに、高校時代に覚えた歌を口ずさんだ。


「I wanna be your man!!」

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