「どうだろうね? 毒かもしれないよ」

 おれが思い掛けない大病で入院することになったのは、3回生の夏だった。


 風邪が長引くなあ、と感じていた。微熱が続いて咳が出る。だんだん体力が落ちていくのがわかった。それでもできるだけ普通に過ごそうと、部活にも講義にも出ていた。結局、部活中に熱中症を併発して倒れて病院に運ばれて、そこで病名がわかった。


 肺結核だった。


 おれはすぐさま、隔離された病室で入院することになった。投薬治療で経過を見るという主治医の説明は、ほとんど理解できなかった。おれはもうすぐ死ぬんじゃないかと、恐怖が目の前でチラチラして、今まで平気だった微熱さえ苦しくてたまらなくなった。


 結核菌は飛沫感染する。おれと多く接触した人たちはみんな病院で検査を受けた。全員が陰性だったという結果を聞いて、ホッとして涙が出た。おれの病状が落ち着くまでの2ヶ月くらいは面会謝絶との指示を受けて、寂しくて涙が出た。


 入院して最初の1週間、主治医や看護師の目がないときには、涙が止まらなかった。不甲斐なかったんだ。試合直前に倒れて、最低でも2ヶ月は入院。おれといちくんとへーちゃんの3人がいれば負けなしだと期待されてたのに、おれは何の役にも立てない。


 台風みたいな女の子が現れたのは、本当にいきなりだった。


 見舞い代わりのメッセージや通話が入ったときだけ空元気で、あとは無気力に過ごすおれの面会謝絶の病室に、見も知らぬ彼女は押し掛けてきた。


「男のくせに、もっとシャキッとしたらどうなん? 毎日めそめそして、食事も好き嫌いして残してばっかりやって、うちの父も看護師さんたちも困ってはるわ。肺結核やったら、今すぐ死ぬような重病人ちゃうやん」


 制服姿の10代半ばの女の子だった。目尻がツンと上がった丸い大きな目は力があって、端的に言うと、すごくかわいい顔をした子だ。


「あの、きみ、何? おれのとこ、基本的に入室禁止のはずなんだけど」

「人に向かって『何』って訊き方、失礼なんと違う? うちははなっていいます。あなたの主治医、うちの父やねん。忘れ物を届けに来たら、困った大学生が入院してきたって言うて頭抱えとったから、どんな人なんか気になってん」


 顔はかわいいけど、言ってることには容赦がない。きょうおんなって、もっと婉曲な表現を好むものじゃないっけ?


「困った大学生って、まあ、態度が悪かったんなら申し訳ないけど。でも、自分は健康体だと信じてたのに、いきなり結核なんて言われたら、けっこう凹むよ?」

「21世紀の現代、結核は不治の病と違います。あなたみたいに比較的初期のうちに治療を始めて、お医者さんの指示どおりまじめに薬を飲み続ければ、半年で完治や。再発もしぃひん。説明されたでしょ?」


 同じことは、2度も3度も説明された。でも、ピンと来ない。入院なんか初めてだし、結核って響きが不気味だ。それに、おれに病気を感染させた人は、もうこの世にいない。肺炎らしき症状で入院したら実は結核だったと、死後にわかったそうだ。


 おれの感染経路は、2回生のころに行った古文書演習のフィールドワークだ。古文書をしこたま貯め込んだ蔵がある古い寺で、年老いた住職さんがひどく咳き込んでいた。たまたま風邪気味だったおれは抵抗力が弱っていて、結核菌をもらってしまった。


 怒った顔の花乃ちゃんから、おれは目をそらした。


「離れたほうがいいよ。おれ、まだ治療を始めたばっかりで、人に感染させる可能性がある。しゃべったり咳したりするだけで、人が死ぬかもしれない病気をばらまくんだ。自分の胸の中に何が入ってるのか、気持ち悪くてしょうがない」


「結核菌はそんなに強い菌やない。ほとんどの人は、吸い込んでも体の抵抗力で追い出せるし、感染しても発病しぃひん。保健衛生上の規定から、こうして隔離した病室で治療することになっとるけど、ちゃんと治る病気や。弱気になる必要あらへん」


「隔離って状況だけで、精神的にかなり来るよ。けがれてるというか呪われてるというか、そういう扱いを受けてる気分になる。おれが他人に触れたら、その人まで穢れて呪われるんだな、だからおれはここに閉じ込められてるんだって思ってしまう」


 自嘲の言葉を吐き切ったとき、急に顔の向きを変えられた。小さな両手がおれの頬を包んでいる。花乃ちゃんのまっすぐな視線に正面からとらわれて、逃れられない。


「イケメンやけど子どもみたいな人やって、看護師さんたちが言うてはったとおりや。怖がりやな、あなた。うちのパパが診てるのに、治らへんはずないやん。だいたい、穢れとか呪いとか、あるわけないわ。歴史の勉強してはるから、物の考え方も古いん?」


 さすがにムッとした。子どもはどっちだよ? その制服、中学のだろ? 確かにおれは今いじけててカッコ悪いかもしれないけど、体を壊して入院して平然としていられる人間がいると思う? いろいろ考えてしまって気分が沈むのも当然だろ。


「あのさ、近すぎ。可能性は低いとしても、感染して発病する人間もいるんだ。おれみたいにね。きみも近寄らないほうがいい。暗くなる前に、子どもは家に帰りな」

「子ども扱いせんといて。うちは絶対、うつらへん。賭けてもええで」


「賭けるとか何とか、そういう問題じゃないだろ。とにかく離れてよ。自分が毒ガスでも吐いてる気分なんだ。いや、おれ自身がばいきんにでもなった気分、かな。自分自身が気持ち悪くて、近寄られたり触れられたりしたくない。おれに構わずに、どっか行ってくれよ」


 投げやりな言葉を吐けば吐くほど、顔が笑いの形に歪んでしまう。自分の性根がこんなに卑屈だとは知らなかった。


「近寄っても触れても平気やし、絶対に治る。その口から吐く息は、毒やない」

「どうだろうね? 毒かもしれないよ。おれの吐いた息を吸える距離にいて、きみ、本当に気持ち悪くないの?」


 自分の言葉に自分で傷付いてしまうのに、止められない。だって、おれが言葉を重ねるたびに、花乃ちゃんのまなざしは張り詰めていく。その苦しそうな色が、とてもキレイだ。


 おれの意地悪な思いを、花乃ちゃんはある瞬間に、一気に叩き壊した。


「気持ち悪いわけないやん! 黴菌でも毒でもないって、うちが証明したる」


 言い返す隙もなかった。柔らかい感触に、唇を塞がれた。


 ……キス?


 驚いた途端に吐き出した息は、キスの内側に閉じ込められている。鼻の頭が少しこすれた。まばたきをして焦点を合わせる。化粧なんかしなくても長いまつげに、視線を惹き付けられた。


 時間にして、ほんの数秒間。でも、おれの卑屈な言葉が吹っ飛ばされるには十分な時間だった。


「きみ、度胸あるね。いろんな意味で」


 毒気を抜かれた。花乃ちゃんは頬を染めて、怒った顔で、挑戦状を叩き付けるように言い放った。


「うちは病気にはならへんし。また監視に来るわ。好き嫌いせんと、ごはんをちゃんと食べて、看護師さんの指示には従っとってください。うちのファーストキス奪った責任や」

「奪われたのはむしろおれのほうだけど。ファーストじゃないけど」


「何か言うた?」

「いいえ、何も」

「とにかく、また来るし。さよならっ」


 花乃ちゃんはきびすを返して、病室から走り出た。面倒くさいことになったなあ、と思った。でも、ワクワクした。


 それが家庭教師カテキョの教え子、花乃ちゃんとの出会いだ。

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