京都チョコレート協奏曲

馳月基矢

「じゃ、ごゆっくり、お幸せにねー!」

 2月14日、曇りのち晴れ。最高気温は9度。でも、じっとりとまとわり付く底冷えのおかげで、体感温度はやたらと低い。京都の冬の気候は、いつだってこんなもんだ。


 文学部では講義もテストもとっくに終わったこの時期に、ほとんど毎日大学に通うのは、院生の中でもちょっと変わった部類に入るかもしれない。博士課程ドクターならともかく、おれはまだ修士1回生エムイチ。そう勤勉にやる必要もないんだけど。


 おれが大学に出てくる理由の何割かは、体育会剣道部の道場にある。


 子どものころから剣道をやっている。大学の剣道部は4回生で引退したものの、道場は開放的で、現役部員たちの規定練の邪魔さえしなければ、一日じゅうここにいたって許される。同じように入りびたるOBもけっこう多くて、ざっくばらんな空気がすごく好きだ。


 今日は夕方に家庭教師カテキョのバイトがあるから、昼飯の後、早めに道場に来て竹刀を振った。現役部員の自主練に付き合って試合の相手になってやったけど、ほとんど瞬殺。もうちょっと腕を上げてから挑んでくれよ。


 適当な時間になって、練習を切り上げた。ほかの体育会の部活とも共用のシャワー室は、やっぱり今日も空いていなかったから、タオルを使った後、香り付きの制汗シートで匂いをごまかす。このへんを徹底しないと、教え子がうるさくてかなわない。


 おれがアーガイル柄のニットに袖を通すころになって、中学時代から同じ道場に通ってて同回生の文学部院生で歴史系ってとこまで同じの、いちくんが部室にやって来た。「いち」はニックネームで、「はじめ」っていうのが本当の読みなんだけど。


 いちくんは、ライダースジャケットからハイネックのニット、ジーンズに靴下まで、見事に真っ黒のコーディネートだ。冬も夏も無難すぎる黒ばっかり。似合うけど物足りないから、1ヶ月ほど前の誕生日にはブルーのベルトをあげた。今日もそれが唯一の色味だ。


「お疲れー、いちくん。研究室帰りだろ? けっこう遅かったね」

「ああ。教授の雑用で……」


 言い掛けた途中でいちくんの口の動きが止まった。スマホが着信を知らせている。ポケットの中で振動する音。いちくんはため息をついて、細身のジーンズの尻ポケットからスマホを取り出した。ケースを開いて画面を見て、もう1つ、ため息。


かつ教授からの呼び出し? 早く出たほうがいいんじゃない?」

「たった今、解放されてきたばっかりなのに」


 ユーラシア史研究の世界的第一人者、勝教授は人使いが荒いと、いちくんはよく愚痴るけど、それは正しくない。こき使われてるのは、いちくんだけだ。勝教授の下に付いている学生は少ない。見込みのない学生は容赦なく門前払いされるせいだ。


 いちくんは仕方なそうに、動画付きの通話をオンにした。よく通る勝教授の声がスマホから聞こえてくる。


〈よう、斎藤、ちょいと戻ってきてくれねぇか? 早めにやっといてもらいたい仕事を思い出したんで人に頼んだんだが、1人じゃ大変そうでね。手伝ってやってくれ〉

「早めにという程度なら、明日でもいいでしょう?」


〈今日でないと意味がねぇんだよ。俺ぁ今から教授会があって、上がりが何時になるかわからねえ。おまえさんが来てくれると心強い。時間あるだろう?〉

「週末に試合を控えているから練習したい。さっきも言いましたが」


〈ん? たっぷり朝練をやったって話だったじゃねぇか〉

「朝は朝、午後は午後です」


 イライラ気味のいちくんに応えたのは、勝教授じゃなくて女の子の声だった。ちょっと遠い位置にいる感じだ。


〈先生、わたしひとりで大丈夫です。コピーを取って製本するだけですから、斎藤先輩の手をわずらわせなくても〉


 いちくんの体がピクンとする。相変わらず、わかりやすいな。ポーカーフェイスを保ってるつもりなんだろうけど、目が泳ぎまくりだ。


 勝教授が笑っている。


〈高木よ、そう言わずに斎藤を頼ってやれ。かわいい後輩の頼みを聞けねぇ男なんかいるまいよ。ほら、電話、替わるぞ〉

〈えっ? あ、えっと、斎藤先輩、こ、こんにちは。あの、勝先生はこうおっしゃってるけんじょ、わたし、本当に1人で大丈夫なので〉


 いちくんの後ろからスマホをのぞき込むと、色白で黒髪の女の子が、遠慮がちに画面の向こうで微笑んでいる。まじめで優秀で美人な上に進学希望だから歴史系の院生の間では有名な3回生、高木時尾ちゃんだ。


 しかめっ面のいちくんが、おれの視界からスマホを遠ざけた。


「コピーと製本って、『集史ジャマール・タヴァリーク』のか?」

〈はい。春休み中に先生が出られる研究会で必要になる部分があるのと、来年度の演習の課題も今のうちに刷っておくことになって。でも、これくらいの量なら、わたしひとりでも今日じゅうに終わると思いますから、斎藤先輩は剣道の練習……〉


「いい。すぐ行く」


 時尾ちゃんの返事も聞かずに、いちくんは通話を切った。頼まれたら断れないタイプのいちくんだけど、勝教授にはずいぶん巧みに操られているようで、ご愁傷さまだ。


「さすがいちくん、頼りになるね。まあ、かわいい子が困ってるところは見過ごせないか」

「……『集史ジャマール・タヴァリーク』って本は重いんだ。あれのコピーは、オレでも時間がかかる」


「14世紀に成立したペルシア語の文献って言ってたっけ。その読解の演習に付いていける学生はほとんどいなくて、授業は人文学研究所の助教クラスばっかりなんだろ?」

「あの演習で最後まで残った学生は、オレとあいつだけだ。だから何かと雑用が回ってくる。あいつひとりに任せてもおけない」


「いちくんはもともと親切だけど、時尾ちゃんには特別優しいよね。そもそもの出会いからして、優しすぎるエピソードだし」

「は?」


「時尾ちゃんが緊張してうっかり会津弁を出しちゃったときに、いちくんがフォローしてあげたって、文学部ではけっこう有名になってるよ。あの子、旧家の出身のせいもあって実は訛りがきついんだってね。あれ? この話が知れ渡ってるの、気付いてなかった?」


 クッキリ大きな目をさらに見張ったいちくんは、すごい勢いで真っ赤になった。酒を飲んでも顔色が全然変わらないのに、こういうネタには一瞬で反応する。おもしろすぎるって。


 今年度の4月、例のペルシア語文献の演習で、最初に自己紹介の機会があったらしい。3回生に上がったばかりで演習では最年少の時尾ちゃんは、緊張したり慌てたりすると、お国訛りの会津弁が出てしまう。このときもそうだった。


 会津訛りが聞き取れなかった勝教授たち一行はキョトンとして、時尾ちゃんはますます焦った。けれど、いちくんは母方の実家が福島で会津弁を聞き慣れてるから、こともなげに会津弁で「大丈夫ださすけねぇ」と時尾ちゃんをなだめて、落ち着かせてやった。


「そんなふうにさりげなく助けてもらったら、女の子としてはたまらないだろうね。しかも、いちくんは文武両道のクールなイケメンで、中学高校では生徒会活動もやってたような責任感のあるタイプ。優良物件すぎるって」

「せ、生徒会は、頼まれて断れなかっただけで……そうと違って、オレは別にモテない」


 いちくんの視線は、おれのカバンのそばにある大きな紙袋に向けられた。今日はバレンタインデーだ。研究室で渡されたり図書館に呼び出されたり、なかなか忙しい1日だった。チョコだけはありがたく頂戴して、気持ちは受け取らなかったけど。


「今年は店で買ったやつばっかりだったよ。おれの好みを突いてくれてはいる。やなぎのばん三条のマリベルとか、宇治の伊藤久右きゅうもんとか、ひゃくまんべんりょく寿じゅあんみずとかのバレンタイン限定品で、けっこう並ばないと買えないんだ。いちくんは今年も鉄壁ガード?」

「甘いものは嫌いで食えない。受け取っても仕方ないだろう。大学には靴箱やロッカーがないから平和だ」


 チョコ以外でも、酒を渡そうとすれば「コンスタントに試合があって飲むタイミングがない」、マフラーや小物は「必要最低限しか物を持ちたくない」、食事に誘っても「剣道仲間と作戦会議を兼ねた夕食の約束がある」と、いちくんのガードが固いことには定評がある。


 おかげで、剣道仲間とデキてるんじゃないかって噂が絶えない。特に、中学時代から腐れ縁のおれとへーちゃん。まあ、見栄えのする男3人がいつでも仲良くつるんでたら、妙な方向に妄想を膨らませたがる女子はどこにでもいるわけで。


 いちくんは、名残惜しそうに自分の竹刀ケースを撫でて、部室の外へ向かった。おれも、ショート丈のダッフルコートを羽織って、いちくんに続く。バイトの後に戻ってくるから、チョコの紙袋その他、かさばるものは置いたままで、カバンの中身はペンケース程度だ。


 駐輪場での別れ際、おれはいちくんに訊いてみた。


「今日は時尾ちゃんと会うチャンスがあった?」

「ちょうど行き違いになった」


「ああ、なるほど。だから勝教授は『今日じゅう』って条件を付けて、時尾ちゃんに仕事を言い付けたんだ」

「え?」


「今日、バレンタインだろ。時尾ちゃんの前では、その固いガード、緩めてやりなよ。実は期待してるでしょ、時尾ちゃんからプレゼントもらえるんじゃないかって」

「だっ……誰がそんな、期待なんかっ」


 本日2度目の赤面。しょっちゅうからかってるんだから、ちょっとくらい耐性が付いてもよさそうなのに。


 いちくんは中学時代から浮いた話が皆無で、平ちゃんと一緒にひそかに心配してたんだけど、今年度に入ってようやく巡ってきた春は、傍から見てるとじれったくてしょうがない。勝教授もせっかちなタイプだし、じれったく思ってるんだろうな。


 おれは自転車にまたがって、デカい声で捨てゼリフを放り投げた。


「じゃ、ごゆっくり、お幸せにねー! リア充、爆発しろー!」

「ちょっ、総司!」

「結婚式には呼んでくれよ! おれも頑張んなきゃなー」


 ポロッと言ってしまって、マフラーの内側で苦笑いする。頑張んなきゃって、今の、本心だ。おれはマフラーを撫でる。


 まさか手編みには見えないくらい目の細かい青いマフラーは、実は家庭教師カテキョの教え子が編んでくれたものだ。おれは昔からマフラーの感触が苦手で、首には何も巻かない主義だったんだけど、教え子に大いに叱られた。


「大病で入院までしたくせに、体を冷やす格好なんかしたらあかんって、何回言うたらわかるん?」


 だよね。贈られたマフラーをしぶしぶ付けるようになって、あったかいんだなって知った。くすぐったいけど、悪くない。


 編み込みの段だら模様を、指先でなぞってみる。もらったときには甘いような匂いがしていたマフラーは、3度目の冬を迎えた今、とっくにおれの持ち物の匂いになっている。


 曖昧だった気持ちが熟成するために十分な時間が流れて過ぎた。そろそろ心を決めてもいいだろうか。

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