花びら、空に舞う日 (8)

 そうだ呼ばれたのだ、と目を開けたら、すぐそばにベルの深森の眼があった。


「うわっ!」


 大仰に跳び上がったベルは文机に腰をぶつけ、また悲鳴をあげる。

 見慣れた壁紙、傾いだ天井、お気に入りの花柄のシーツ。風車小屋の寝室だった。


「えっ? ベル? 火事は?」


 腰をさすりながら、彼は小ぶりの椅子に落ち着いた。全部終わったんだよ、と言う声は、妙に優しい。


「火事はミルッヒたちが消し止めたし、市街地への影響もほんの少しだった。みんな終わったんだよ。あれから三日間、きみはずっと寝てたんだ。もう目を覚まさないんじゃないかって、俺、心配で……」

「三日……」


 そういえば、炎に立ち向かってゆく直前はベルのことなどすっかり忘れていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、それを告白しないだけの理性は取り戻していた。

 ベルはミルッヒに水を差し出しながら、ゆっくりと事件の顛末を語ってくれた。

 火はすぐに消し止められ、大歓声が沸き起こる中、力尽きた魔法使いたちがばたばた倒れ、ミルッヒは意識までも失っていて大騒ぎになったこと。

 避難の際に軽傷者がいくらか出たものの、死者はなかったこと。事故の際の采配を高く評価した貴族たちが、エーテン社の自動車を次々と買っているらしいこと。エーテン社への非難はそれほど大きくなく、むしろ火災や混乱の収拾の手腕に称賛の声が上がっていること。


「それから、村長さんが捕まった」

「ドゥマさまが?」


 問い返したものの、思い当たる節はある。魔法使いは国益に反することをしてはならないと定められているが、消火活動を妨害し、市街地に火災を広げることはまさに国益に反する。目撃した貴族の誰かが訴え出たか、それともエーテン社が直訴したか。

 ドゥマが魔法で事故を起こしたことだけでなく、魔法使い殺しの件も明らかになるだろう。

 だが、彼女ががこんなにも追い詰められていたことに、いったい誰が気づいていただろう。魔法使い全員を気遣う長老を思いやり、いたわって、ねぎらう者が一人でもいただろうか。


「どうなるんだろう、この村」


 不安げなベルの表情に、噴き出しそうになる。ドゥマが拘束されて動揺したとしても、それだけで散り散りばらばらになるほど、魔法使いたちの結束は弱くない。本当に、彼は人が好い。


「きっと、少しずつ変わってゆくのよ。魔法使いも」


 まだミルッヒの魔法の力は失われていないようだった。包帯に包まれた手のひらにはいつもと同じ、魔法の手触りがある。

 あとどれだけ魔法が残っているのかはわからないけれども、きっとミルッヒはこれからも、見つからぬように少しずつ魔法を使っては、光る花や枯れない花を研究して過ごしてゆくのだろう。

 エーテン社の自動車が行き来し、ベルたちの飛行機械が空を飛ぶ。ミルッヒはベルに乗せてもらって空を飛び、ひどく揺れるのでお尻が痛くなったと文句を言う。仕方ないじゃないかと苦笑する彼はぐんと背が伸びて大人っぽくて、でも好奇心にきらきらと輝く緑の眼差しはちっとも変わっていなくて。

 そんな様子が簡単に思い描けてしまう。少しずつ少しずつ、世の中は変わってゆく。ミルッヒもベルも、魔法使いたちもグレニッツ商会のみなも。


「もっと落ち込むかと思ってたけど……元気そうでよかった」


 元気とはとても言えないけれども、ミルッヒは微笑んだ。体のあちこちが痛むし、少し動くと目が回る。煙をたくさん吸い込んだからか喉はいがらっぽいし、目もひりひりする。そう言うベルも、頬にも腕にも火傷の痕が残っていた。

 と、階下で聞き慣れない足音が響き、続いて扉が叩かれた。


「失礼します。エーテン・セヴンス社のシグルド・モニクですが」

「えっ? あ、あの……どうぞ」


 風車小屋にふたりも客を招いたことがなく、ミルッヒは慌てる。ベルは不機嫌さを噛み砕くかのように、歯を鳴らしていた。

 では、と扉が開き、入ってきたのは大きな花束だった。スーツの足とステッキだけがにょっきり生えている。


「花の研究をしていらっしゃる方に無粋かとは思いましたが、どうしてもお礼が申しあげたくて」


 部屋中に広がる花の香りに、ミルッヒは舞い上がった。花を育て、売り、品種改良に携わっていても、贈り物は嬉しいに決まっている。甘く爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「あなたの勇敢さに、我が社は救われました。有り難うございます。これはほんの気持ちです。受け取って頂けると嬉しいのですが」

「そんな、勇敢だなんて……あっ、ええ、お花はもちろん」


 シグルドは今日も上品なスーツに身を包み、ぴかぴかのステッキを手にしていた。あの日、共に火事を消し止めたのが夢であったのかと思うほど、ミルッヒとは様子が違っている。


「いいえ、本当に助かりました。あなたたちが防火布を持ってきてくれなければ、誘導に手間取り、市街地にも燃え移っていたでしょうし、魔法使いは誰も名乗りを上げなかったでしょう。結果として長老が拘束されてしまったわけですが……ご不便はありませんか。我が社がお手伝いをいたしますので、何なりと遠慮なく仰ってください」

「いえ、その……大丈夫です」


 それは良かった、とシグルドは微笑む。視界の隅で、ベルがぺっぺっと何かを吐き出すしぐさをしていた。


「今回の事故は予想外でしたが、自動車を印象づけるよい機会だったと思っています。安全への取り組みを強化して、何としてでも量産してみせますよ。ところで……ミルッヒさん」

「はい、なんでしょう」


 改まって呼ばれ、背筋を伸ばすミルッヒの包帯に覆われた手を、彼はそっと持ち上げた。


「これは個人的なお誘いなのですけれども、また後日、体調のよろしい時にお食事などいかがですか。魔法使いどうし、親交を深め……」

「だめに決まってるだろうがっ!」


 大声で割り込んだのは、ベルだ。顔色が赤くなったり青くなったりしている。まだどこか具合が悪いのかもしれない。


「よく俺の前でミルッヒを口説けるもんだな、この気障眼鏡! ミルッヒは具合が悪いんだ、出直せ! それから二度と来るな!」


 シグルドは唾を飛ばしながら喚くベルを見つめ、小さく笑みを漏らして一礼した。


「では、後日改めてお誘いさせていただくことにしましょう。お大事になさってください」


 包帯からのぞく指先に唇を寄せ、彼は悠々と風車小屋を去った。ベルが服の裾でドアノブを拭っているのが、何とも言えず滑稽だ。


「社長さんだったのね、あのひと」

「知らなかったのかよ!」


 社長自らが花を買いつけに来るとは思わなかったのだ。社会的地位のある男性が花を求めて風車村を訪れるのは珍しい。


「……たぶん社長さん、目が見えていないわ」

「えっ、まさか……いや、そんなはず……」


 だからこそ、いつ何時もステッキを手放さずにいたし、護衛の男がそばに控えていたのだろう。しかし、盲目のシグルドが単独で、風車村まで花を買い付けに来る理由は、彼が魔法使いだというだけではあるまい。

 胸の中に残っていたもやもやとした霧が晴れていく。

 魔法使いでありながら科学技術を求めたシグルドと、恐らくはそれに反対していたドゥマ。簡単には埋まらぬ溝であっても、防火布を用い、魔法を用いて火事が消し止められたことがはっきりと示している。


「魔法と科学は、相容れないものではないのよ」


 ベルが姿勢を正し、ミルッヒ、と呼んだ。


「飛行機械ができあがったら、まずミルッヒに乗ってもらいたい。そうしたら、絶対墜ちない気がするんだ。根拠はないんだけど」

「……いいよ」

「有り難う。じゃ、約束する。俺は絶対、飛行機械を飛ばしてみせる。ミルッヒに魔法で飛ばしてもらうだけじゃ、格好悪いもんな」


 火傷だらけの小指が絡まり、ミルッヒとベルは顔を見合わせて笑った。

 いつかこんなふうに軽やかに、風に舞う花びらのように、わたしたちも空を飛ぶ日が来るのだろう。科学技術によって。もしかすると時々、魔法に頼りながら。

 風車の羽根が窓をよぎり、ゆるやかにかき混ぜられた花の香りが、胸の奥までを清らかに撫でてゆく。



(終)

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