番外編 快晴、そして海からの風

「ねえ、マルセル。わたし、変じゃない? おかしいところ、ない?」

「さっきから七回同じことを言ってる以外は、おかしくないと思うわ」


 マルセルはつんと澄まして言った。三日前に十二歳の誕生日を迎えてから、彼女は急に大人びたことを言うようになった。以前からこまっしゃくれたところのある子で、それが可愛くも、時に鬱陶しくもあったが、見る目は確かで、頼り甲斐がある。

 ミルッヒは風車村に一台しかない全身鏡の前に陣取っていた。右を向き、左を向き、後ろを向き、くるくると回転しては、逆向きに回転する。肩越しに振り返る。しゃがんだり、お辞儀をしたり、手を上げたりばたばたさせたり、あらゆる動きを試していた。

 つるバラを思わせる淡い黄色のワンピース。薄手のタイツと短い丈のブーツ。つば広の白い帽子。すべて今日のために新調した、とっておきだ。昼寝の時間を削って帽子とワンピースにお揃いの花飾りを縫いつけたおかげで、肩がぱんぱんに張って痛い。目の下に居座った頑固なくまは、化粧で隠すことができた。

 まんざらではないと自分でも思うし、村でいちばん流行に敏感なマルセルもおかしくないと言う。でも、もしかすると何か大きな見落としがあって、この大切な日にけちをつけてしまうことになるかもしれない。そう考えると、何度自分の姿を見直しても、鏡の前でおかしな格好をとり続けても、やりすぎるということはないと思うのだ。

 ベルが迎えに来てくれるまで、まだ少しある。

 忘れ物がないかもう一度鞄の中身を確認してから、ミルッヒは鏡の前に戻った。椅子を引っ張ってきて、ブーツの紐を結び直す。


「もう、ミルッヒは可愛いって言ってるじゃない! あんまり可愛くしすぎると、ベルがびっくりして操縦をとちっちゃうかもしれないわよ」


 マルセルの声に不機嫌の色が滲む。ミルッヒだけずるい、あたしも行きたいと車椅子を倒さんばかりの勢いで暴れ、ごねた彼女は今日の主役の一人、シグルドの大ファンだ。また日を改めて挨拶に来てくれるらしいから、と宥めるのに難儀した。


「わたしの格好とベルの操縦と何の関係があるのよ」

「こんな昼間からのろけちゃって、ほんと鈍感なんだかラブラブなんだかわかんないね」


 のろけているつもりはないと言い訳したところで、聞き入れてくれるとは思えない。鏡の中のミルッヒは頬を上気させている。慌てて、両手で撫でさすった。


「でも、飛行機で紙吹雪と花びらを降らすんでしょ。それって大役じゃない。ベルって、肝心なところで抜けてるから心配だなあ」


 と、五つも年上のベルトゥリのことを平然とお姉さん口調で評するところなど、聞いていてひやひやするのだが、ミルッヒの心配とは裏腹に、彼女の毒舌はなかなかに評判がいい。聞いていてすかっとするのだそうだ。


「マルセルはベルが飛行機に乗るのを見たことがないから、そんなふうに言えるのよ。そりゃあすごいんだから。機体を立てて一気に上昇したり、屋根すれすれの低いところを飛んだり」

「後ろ向きに飛んだり?」


 マルセルが茶化すのを、もう、たしなめながらも笑みは隠せない。

 グレニッツ商会が実用化した、魔法なしで空を飛ぶ飛行機。実験機でもある一号機の正式なパイロットとして採用されたのが、若き工員のベルトゥリだ。ミルッヒはその報せを聞いて驚いたが、驚きはすぐに喜びと誇らしさに変わった。出会ったころから飛行機の開発に携わっていた彼の夢が、ようやく叶ったのだから。彼自身の手で、叶えたのだから。

 ベルの他にも、グレニッツ商会は数人のパイロットを育成している。飛行機が飛ぶたびに子どもたちが集まってきて空を見上げるといった具合の人気だが、実機はまだまだ不安定で、技術的に改善の余地を残した部分が多い。飛行中に部品が落ちた、もげた、なくなっていたというのは日常茶飯事で、とても危険な仕事でもある。部品もろとも飛行機が落ちてしまったら、無事では済むまい。今日はこんなだった、この前はこんなことがあって、と笑顔で話すベルに相槌を打ちながらも、内心穏やかではいられない。

 けれど、危険だからと止めることはできない。彼が深森の眼を輝かせて飛行機や空について語る時間がミルッヒは好きだ。飛ばねばきっと、ベルはベルでなくなってしまう。


「ミルッヒ、お待たせ!」


 外が騒々しくなったと思ったら案の定、ベルがやって来た。つなぎの飛行服を肘まで折り返し、よく陽に灼けた腕をむき出しにしている。ワンピース姿のミルッヒを見て、緑色の眼がまん丸になる。ヒューヒュー、とマルセルが横から歓声をあげた。

 出会ってからの二年でベルの背はうんと伸び、見上げるほどになっている。背が低いことを気にしていたベルは、毎日欠かさず牛乳を飲んでいたそうだ。牛乳か、はたまた彼の祈りのおかげか。背が伸びて力が強くなっても、深森の眼はいつもやさしい。


「……変じゃない?」

「変じゃないです」


 彼は人形のように首を上下させた。マルセルは口を開けて笑っている。


「ほらほら、ふたりとも早く行きなよ。遅刻なんて洒落になんないよ?」

「うん、じゃあ、行ってくるね、マルセル」

「いい子にしてるんだぞ」


 贈り物の花束を抱え、同じ手で日傘をさしてベルの自転車に乗せてもらう。今日のためにと丹精したピンクを基調とした花束は、きっとシアに似合うはずだ。

 ベルの漕ぐ自転車は、風車村から市街地へのなだらかな坂をすいすいと登ってゆく。雲ひとつなくすっきり晴れた空、水平線が遠く、宝石を連ねたように輝いている。


「いい日ね」

「うん。最高だよ」


 ワンピースのスカートが風にはためき、束ねられた花が楽しげにそよぐ。ベルの自転車に乗せてもらって街に行くのはいつも心を浮き立たせるが、今日はとびきりだ。


「すごくきれいで、びっくりした」

「でしょ? 色とか形とかすごく考えて育てたんだから。今年いちばんの自信作よ」


 と花束を揺すれば、困ったふうに彼は真鍮の髪を引っ張った。


「違うよ。いや、花束もきれいだけど……その、ミルッヒが、さ」

「えっ」

「マルセルに聞かれると絶対からかわれると思ったから言わなかったけどっ! ミルッヒすごくきれいだ!」


 海風に張り合って大声をあげる背を叩いて、やめてやめてと抗議する。


「なんで。きれいだし」

「恥ずかしいの!」


 口が尖る。ベルはこちらを振り向きもせず、あははと軽やかに笑った。たぶんきっと、彼の顔も赤い。そうでなくちゃ、わたしだけが真っ赤になるなんてずるい。

 ミルッヒがベルの顔色を確認する前に、自転車は角を折れて速度を落とした。海までがらんと開けた草地に、舗装された道が真っ直ぐに横たわっている。

 グレニッツ商会が街外れに建造した飛行場には、もう多くの人が集まっていた。自転車を停めると、ベルはすぐさま飛行帽をかぶり、ゴーグルと手袋、スカーフをつけて機上の人となった。拍手とともに舞い上がった飛行機、西風の貴婦人号のエンジン音も、心なしかいつもより軽快に聞こえる。

 顔見知りの職人たちに手招きされ、ミルッヒは花束を抱えて滑走路の脇に並ぶ。来たぞ、と誰かの声に身を乗り出してみれば、遠くからやってくるぴかぴかの自動車と、純白の衣装を風にはためかせるふたりの姿が見えた。

 割れんばかりの拍手のなか、自動車が近づいてくる。

 ベルの飛行機が黒々と影を落として旋回し、操縦席から花と紙吹雪を散らした。またも、歓声がわいて口笛が飛ぶ。

 自動車が止まるや、車上のふたりを祝福せんと人々がいっせいに駆け出した。負けじとワンピースの裾をからげて走り、一番乗りで自動車に辿り着いたミルッヒは、顔をくしゃくしゃにしているシアに花束を差し出す。

 その満面の笑みに涙が混じり、波打つ黄金の髪が風に揺れた。


「おめでとうございます」


 シアの頬を伝ったしずくを拭うように、白い花びらがひらりひらりと舞い落ちる。


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