花びら、空に舞う日 (4)

「大丈夫かい」


 風車小屋に飛び込んでくるなり、ベルはそう叫んだ。よく陽に灼けた頬が上気し、肩と胸が大きく上下している。

 自転車を飛ばして駆けつけてくれたのだろう。外出を禁じられたここ数日ですっかり湿っていた心を、清々しい風と光が洗ってゆく。少しだけ笑うことができた。


「大丈夫。ありがとう」

「俺、すごく心配で……殺された魔法使いが若い女の人だって話だったから」

「……うん」


 またも、魔法使いが殺された。

 街でもっとも賑わう市場の裏通りで、うつ伏せでこと切れている若い女性が発見されたのは三日前の夕刻のこと。風車村に報せがもたらされたのは昨日だった。殺された女性が魔法使いだとすぐにはわからなかったのだ、と警察官と管理吏は口を揃える。

 天馬の事故後、殺された魔法使いは七人めだ。ドゥマは風車村で暮らすすべての魔法使いに対し、村の敷地を出てはならぬと厳命し、都に住む少数の魔法使いにもすぐ村に集まるようにと伝言を携えた鳥が飛ばされた。

 さすがに見て見ぬふりもできなくなったか、風車村には王宮から派遣された軍の一隊が駐留し、人員の出入りを監視している。ベルはシアからの見舞いの品を運ぶという名目で、何とか村にやって来たのだった。

 椅子をすすめてから、白湯だけど、と断ってカップを置く。


「無事でよかった、ミルッヒ」


 ベルの真摯な眼差しや声は、風邪をひいた時に食べるりんごのすりおろしや、寒い夜にことことと煮るスープと同じくらい、ささくれた気分を拭い、淀んだ空気を入れ替えた。いくらかすっきりした心持ちで、ミルッヒは微笑む。

 シアだけでなく、親しく言葉を交わすようになって日の浅いベルまでもが、こうして案じてくれたことが嬉しかった。同時に、どうして彼は魔法使いにも心ある振る舞いをしてくれるのだろうと、不思議だった。シアの教育の賜物、と断じるのは簡単だけれど、どうして、と尋ねるには勇気が必要だから、ミルッヒは生ぬるい臆病さで好奇心に鍵をかける。


「わたし、人よりたくさん眠らなきゃならないの。昼間でも眠くなるし、もしそんなところを襲われたりしたら……」


 殺された魔法使いたちに共通点はない。いっとき体が硬直する発作を起こす者もいたが、そうではない者もいる。歩行に杖を必要とする者、幻を見る者などもいたが、犯人がそうそう都合よく、魔法使いの隙につけ入ることができたとも思えない。

 魔法の使用を禁じているのは国の法ではなく、長老ドゥマが自主的な規制として言い出したものだった。街で暮らす魔法使いたちは魔法を使って日々の糧を得ているため、強く反感を示したが、不必要な魔法の行使は自重するとして従っている。どちらにせよ、命の危険が迫れば自主規制などと言っていられない。

 街に住み、日常的に魔法を使っている者が魔法で反撃や防御することもできぬままに絶命しているらしいから、不意を突かれたか、犯人はよほど巧みに近づいたのだろう。それでも、誰もが警戒しているなかで目撃されることもなく、抵抗する隙も与えず、鮮やかに魔法使いを殺害する手腕は、恐ろしいの一言に尽きる。

 捜査は難航していた。警察そのものに、何としてでも犯人を捜し出して早期解決を目指すといった使命感が決定的に不足しているのだ。村に軍が派遣されたこともあり、ドゥマも外出を制限するしかなかった。


「村にいれば安全だよ。国軍がおっかない顔して出入りを見張ってるから」

「……そうね」


 もっとも、風車村にいるのは魔法使いである。空を飛んだり、目に見えぬほど早く動いたり、手を触れずにものを動かしたりするすべを持つ者である。移動だけでなく、攻撃的な手段にも事欠かない魔法使いたちを閉じ込めて安全だと断じるのは、まだまだ早い。ミルッヒでさえ、この程度の包囲なら容易く抜け出せる自信がある。

 そうしないのは、魔法を使ってはならぬという掟ゆえだ。もうひとつ、特区管理吏も魔法使いが奔放に活動することを好んでいない。彼の機嫌を損ね、国からの生活の援助が打ち切られれば、身体の不自由な魔法使いは死ぬしかないから、結局は従わざるを得ない。

 ドゥマが国の方針をどう思っているのか、きちんと確かめたことはない。けれど彼女が魔法を禁じたことは、何よりの表れであると思っていた。

 声高にドゥマに反対する者もいるが、魔法の力を隠してひっそりと生きることがもっとも安全であるのは明らかで、血の気の多い者も最終的には黙ってしまうのだった。

 ベルはミルッヒを手招きし、声を落とした。


「エーテン社が人を雇って魔法使いを殺してるんだって噂がある」

「え、どうして?」

「連中は自動車の開発をしてるだろ? でも、自動車は高価だし燃料もいる。整備の手間もかかる。それに比べれば、移動の魔法は格安だし、安全でしかも速い。まだ自動車は魔法には敵わないから、ってことらしい」


 街で暮らす魔法使いには、足腰の弱くなった高齢者の送迎をしたり、工事現場などで重い資材を運搬したりと、移動の魔法を売って生活している者が多い。それぞれに必要とされている仕事だったが、新しい技術を広めたい者からすれば、疎ましい存在だろう。

 花を買いに訪れる、銀縁眼鏡の青年を思う。淡々とした声音に感情が込められることは少なく、けれど魔法使いを蔑むこともなかった。彼に限っては、人を雇って魔法使いを殺して回るといった感情的なことはしないような気がした。

 黙ったままのミルッヒを案じたのか、ベルがおどけて肩をすくめてみせた。


「そんなことを言うなら、うちだって魔法使いを敵視しなきゃならなくなるよ。たぶん、エーテンに恨みのある連中の作り話だよ」


 彼の言う通りだった。むしろ、エーテン社を貶める噂ならば、競合するグレニッツ商会による嫌がらせだと思うのが素直だろう。実直なシアがこんな上品とはほど遠い手段を使うとは考えにくいが、シアやベルの預かり知らぬところで事態が動いている、というのはありえる。

 魔法使いが殺されて、犯人も見つからぬまま、根も葉もない噂や誹謗中傷ばかりが世を賑わす。いやだな、と思う。


「……これは、わたしの考えなのだけど」


 誰にも言わないでね、と釘をさして、続ける。


「昔は違ったみたいだけど、いま、わたしたちは命を削って魔法を使うの。わたしたちはこんなふうに、身体も心も脆いし、魔法使いの数そのものも減っているし、魔法はもう、なくなってしまうのかもしれない」


 そんなこと、とベルが言葉を濁す。


「いいのよ。古代の魔法文明は廃れ、魔法道具の天馬も墜ちたわ。魔法の能力は子に継がれることもないし、このままいけば遠からず、魔法使いはひとりもいなくなる。滅びてしまうの」


 ベルは瞬きもせずにミルッヒを見つめている。森の色の眼に勇気づけられる。


「だからベルたちが科学の力で魔法と同じことをしようとしているのは、正しいと思うの。科学と機械は魔法に代わるものなのよ」

「きみはそれでいいの。魔法とか、魔法使いが必要とされなくなっても?」

「魔法と科学は相容れないものじゃないもの。魔法って言葉がなくなるだけよ。だからわたし、花のことは別にして、小説家になりたいの。魔法や魔法使いのことを書き残したいから」


 書き出しはこうだ。――かつて、世界には魔法があった。魔法という言葉だけがなかった。当たり前に魔法を使う人々に魔法の定義は必要なく、魔法を使わない人が現れてはじめて、魔法という言葉ができた。魔法は流行り廃れ、やがて枯渇する。魔法という言葉は再び姿を消す。


「ちょっと待って、魔法が枯渇するって、どういうこと」

「魔法の力はいま、ここにあるの。目には見えないけどね。わたしたちはそれを操っているけど、使える魔法の総量はどんどん減ってるの。このままじゃ遠からずなくなって、誰ひとりとして魔法を使えない時代が来るわ」


 それは、肩を寄せ合って暮らす魔法使いたちがもっとも恐れていることだった。いまは魔法の使い手を名乗り、誇ることができる。けれど魔法が枯渇してしまったら。ミルッヒのように、不自由ながらも出歩けて意思の疎通ができる者はいい。寝たきりの者は。言葉を持たぬ者は。激しい発作に見舞われる者は。

 働けぬ者を、意思の疎通が困難な者を、虚弱な者を、つきっきりの看護が必要な者を、この国は受け入れてくれるのだろうか。風車村の者はみな、恐れている。

 だからドゥマは魔法の使用に厳しい制限を設けたのだ。魔法を温存せねば、魔法にも魔法使いにも意味がなくなってしまう、と言って。風車村での暮らしの中で、魔法を使うことは許されていない。見つかれば罰が待っている。


「でも、きみには花があるじゃないか」

「わたしにはね」


 曖昧な言い方だったが、ベルには伝わったらしい。難しい表情で俯き、やがて顔を上げた。険しいままのおもてに浮かぶのは紛れもない、怯えだ。


「ミルッヒ。きみが言ったことの意味、わかるか」

「え?」


 大きな手が肩を掴んだ。


「魔法使いが、魔法使いを殺すこともありえるってことだ」

「……わかってるわ」


 精一杯の強がりだった。魔法使いは魔法使いを殺しうるのだとわかってはいたけれど、認めたくなかった。そんなことをして、どうなる? ただでさえ数が少なく、不自由を抱え、力を合わせて暮らしている同胞をさらに苦しめるようなことをして。

 魔法使いだというだけの理由で投げられた石の痛みを、浴びせられた罵倒への怒りを知る者が、さらなる苦しみを与えようとするだろうか。

 しかし、亡くなった魔法使いは誰もが街で暮らし、魔法を使うことを生業としていた。魔法があるからこそ魔法使いに価値があるのだと考える誰かが、魔法を消費する魔法使いを殺めた、と考えることに論理的な破綻はない。ただ、感情がそれを認めてはならないと声を荒らげる。


「大丈夫、ミルッヒ? 気分でも悪いの?」

「大丈夫。眠いだけだから」


 足が震えた。頭の中が急速に曇ってゆく。ベルに支えられてようやっと立ちながら、ミルッヒは深森の眼に映る自分自身の姿を見つめていた。

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