花びら、空に舞う日 (3)

「大変だったのね。ベルは、ひとりでお家を出てきたの?」


 無難な相槌に、彼は気まずそうに表情を歪めた。すぐに、穏やかな笑顔が浮かぶ。


「まあね。でも、大変かっていうとそうでもないんだ。防火布って知ってる? 父さんが開発したんだけど、炎に強くて燃えにくいんだ。これが消火隊に採用されて、他にも工房とか、食堂の厨房とか、炎を扱うところに買ってもらうことができたから、その売り上げが俺の養育費になってるんだ。お嬢さんは面倒見がいいし、防火布の特許を買ってくれたから……仕事はきついけど、悲惨だってことはないよ」

「防火布、知ってるわ。昔は魔法使いが街中の水脈に働きかけて消火していたけど、魔法使いの数が減って、代わりに消火隊が結成されて、でも炎に巻かれて亡くなる方も増えて……それが防火布のおかげで、ずいぶん作業が楽になって、火事も早く消し止められるようになったって。ベルのお父さんが開発したのなら、最近の話なのね。もっと昔のことかと思ってた」


 だろ、と誇らしげに深森の眼が輝いた。身内のことだけど本気ですげえよな、と語るベルには、父の死を受け入れ、乗り越えてきたからこその力強い明るさが感じられる。


「ベルの仕事って、どんなの?」


 尋ねると、よくぞ聞いてくれました、と彼の声が弾む。


「俺が作ってるのは、飛行機械だよ。人を乗せて、魔法を使わずに空を飛ぶ乗り物」

「……それは、天馬の、ええと……空飛ぶ馬車の事件があったから?」


 天馬の事故後、すぐに魔法使いが殺され、その後も断続的に魔法使いが殺されたり、ひどい暴行を受けたりする事件が続いている。

 天馬の事故を、魔法使いの叛意とみなした誇大解釈か、あるいはもともとの差別意識が表層に現れたものか。同一犯か、暴行事件に便乗した者によるさらなる犯行か、警察はそれさえも掴めないでいる。

 実際のところ、王城の天馬が墜ちたと報せが入ったとき、風車村では動揺する者よりも、差別感情や悪意が増大することを心配する者の方が多かった。

 総じて魔法使いは虚弱で、体力、持久力ともに誇れるものではない。外出時は十分に注意するようにと言われたところで、市街に住む魔法使いたちはそうもいかない。ミルッヒとて配達があり、買い出しがある。魔法使いだけで自給自足の生活を営むことはできず、それを叶えるためには禁じられた魔法に頼るしかない、奇妙な状況にある。

 魔法使いたちを目の敵にする動きもある中で、シアたちは魔法に代わる科学技術を普及させようとしている。魔法を禁じられた魔法使いはただの人、魔法道具の寿命も近づいているならば、それに代替するものを造らなければ、と。


「違うよ、事故よりも前から、お嬢さんは飛行機を作るって意気込んでるからね。大方、エーテンの連中が自動車を……馬なしで、もちろん魔法もなしで、油を燃やして動く車なんだけど、その開発に必死だから、お嬢さんはその上を行くって飛行機を作り始めたんだ」

「エーテン、って、高級馬具とか革素材のエーテン・セヴンス社?」

「そうさ。いまはお嬢さんとエーテンの気障眼鏡との意地の張り合いみたいな格好だけど、絶対に飛行機械を飛ばしてみせる。俺、木型の設計をしてるんだ。俺が型を作った飛行機械が空を飛ぶって思うだけで、眠れないくらいドキドキする」


 気障眼鏡とは誰のことなのかわからないが、ベルの意気込みは頼もしく、好ましい。

 しかし、空を飛ぶ機械とは! エーテン社の、馬も魔法も必要ない、油を燃やして走る車とやらも想像できないのに、魔法なしで空を飛ぶなんてことができるのだろうか。

 疑問が顔に出ていたのだろう、ベルは歩みを止めて空を指差した。二羽のツバメが鋭くも優雅に軽やかに、淡く滲んだ青空を飛び回っている。


「鳥が空を飛ぶのは、魔法を使えるからじゃない。鳥が空を飛べるなら、俺たちも空を飛べるさ」


 深緑の眼は空を見ているようで、もっと高く遠いところに焦点が合っている。彼の見ているものが見えない、それが少し悔しかった。はるかな高み、ずっと遠いところにあるものをわたしも見てみたい。そう思わせるとびきり魅力的な眼をしていたのだ、ベルは。

 けれどミルッヒは魔法使いで、身体が弱い。日光に弱いうえに、たくさん眠らなければならない。彼の見ているところへは、きっと行けない。

 心に絡みつく憧れをそっとほどいて立ち去ることには慣れている。ミルッヒは空色の糸を苦笑交じりの吐息で吹き飛ばした。


「もうすぐだね」


 風車村の名の由来であるたくさんの風車は遠くからも見える。海に向かって並び、巨大な羽をゆったりと回している風車の景色が、ミルッヒは好きだ。恐らくはベルもそうなのだろう。静かだなと思えば、口を開けて風車に見入っている。

 ゆるやかに下る道の先に埃がたっている。馬車が近づいてくるのだ。道を外れて草地へ入った。風車村の方角からやって来る馬車に心当たりはないが、気難しい貴族の馬車だと面倒なことになる。

 道を譲ったミルッヒたちに感謝を示すでもなく、馬車は速度を緩めずに走り去った。箱車に燦然と輝く社章に目を留め、顔を見合わせる。

 エーテン・セヴンス社。


「下っ端の馬車じゃなかったな……気障眼鏡かな」

「エーテン社の方も花を買いに来るわ。銀髪で、背が高くて線が細くて、ちょっと王子様っぽい雰囲気の方よ。いつも銀縁の眼鏡をかけていて、そう、高そうなスーツを着て、ステッキを持ってるの」


 ベルの表情が虫を飲み込んだかのように歪んだ。どうやら、花を買いに来るエーテン社の青年が、彼の言う「気障眼鏡」らしい。気障だろうか、と首を傾げる。

 この様子だと、グレニッツ商会とエーテン社はあまり仲が良くないらしい。ミルッヒにすれば、どちらも大口の客だ。エーテン社は買いつけの頻度こそグレニッツ商会よりも間遠だが、折々の花を一斉に顧客の貴族宅へ贈るなど、規模が大きい。グレニッツ商会の面々は人当たりがよく優しいのに対し、エーテン社の青年は淡々と商談を進めるが、指示は的確だし、支払いも迅速だ。買いつけに来る際は珍しいお菓子をたくさん持ってきてくれることもあって、子どもたちには人気がある。

 きっと、花を買いに来るのと商売敵に対するのでは、言葉遣いも仕草も違うのだろう。青年の洗練された物腰を思い浮かべつつ、ミルッヒはベルを宥めて、風車村の温室に案内した。

 うわあ、と素直な感嘆の声がくすぐったく、誇らしい。

 風車村の温室は花を育てるものと農作物を育てるものの二種類があるが、ミルッヒは花の世話をしている。温室は長辺が五十歩、短辺が十五歩ほどの大きさで、色も形も背丈もさまざまな草花が競いあって咲いていた。

 満開のもの、蕾だけのもの、まだ蕾すらふくらんでいないもの。畝ごとに整理、管理されていて、一年中花を欠くことがない。


「鉢や切り花で買ってくださる方が多いけど、花びらを干して茶葉と混ぜたり、精油を採ったり、染料にもなるの。どれも貴重なものよ」

「すごいなあ。こんなにたくさんの花、初めて見た」

「でしょう。このあたりは海風が強いし、土も良くないから、花を育てるためにはどうしても温室が必要なの。街には防風林があるけれど、花を育てるためだけの土地を買うなんて贅沢はできないしね」


 ベルは花に興味なんてないかもしれない、と気づいたのは、一通り温室内の説明を終えてからだった。彼はにこにこ笑っているけれど、愛想笑いかもしれない。自分ばかりが空回りしていたのではと、頬が熱くなる。


「ミルッヒはすごいよ。これだけたくさんの花を世話して、配達もしてさ。花も生き物だから、教科書通りに水や肥料をやればいいってわけじゃないだろ」


 ますます顔に血が上った。そんなことないわ、声は震えてみっともない。


「ベルの方がすごいと思う。だってお手本がないんだもの。何度も何度も、条件を変えて空を飛ぶ実験をするんでしょう。本当に情熱がないとできないことだわ」

「ミルッヒは?」

「えっ?」


 ベルは透明な眼で、ミルッヒを見つめる。


「お嬢さんが、ミルッヒも何か研究をしてるって言ってた。もし見せてもらえるなら、見たい」

「……見せちゃダメってことはないけど」

「じゃあ、見たい。頼むよ。この通りだ」


 ベルはミルッヒの両手を握る。まっすぐにぶつかった視線の高さから、彼の方がほんの少しだけ背が低いのだとわかった。同じことに彼も気づいたのだろう、ぎこちなく手を離し、足下に目をやって地面と、互いの靴の踵が平らであることを確かめた。こぼれるのは、隠しようもない落胆のため息だ。

 男の子は大きくなってからも背が伸びるとミルッヒは教わっていたけれど、賢しらに知識をひけらかすことが慰めになるとも思えず、しょぼくれるベルの手を引いた。


「こっちよ」


 ミルッヒの住まいは、日常生活に手助けが必要な者たちが集まって暮らす大きな建物から東に下った風車小屋だ。一階は小麦を挽く作業場、二階がミルッヒに与えられた実験室、三階が住まいになっている。住まいと言っても寝台とちっぽけな衣装戸棚と文机があるきりで、煮炊きはできない。食事はドゥマの家で、皆と一緒に摂るのが決まりだ。

 風車小屋に入ると、ベルの目が輝いた。風車の仕組みを間近で見られて喜んでいる少年を促して細い階段を上る。実験室を片付けていないままだが、多少散らかっていた方がそれらしく見えるかもしれない。鍵を開け、ベルを招き入れる。


「うわぁ……」


 実験室の片方の壁は作り付けの書棚、もう片方の壁には大きな作業台と戸棚。さまざまな土と肥料が整然と並べられ、細かい作業をするための拡大鏡、ピンセット、スポイト、それにスケッチ帳とたくさんの小さな植木鉢が作業台を占領している。


「花が、光ってる……」


 フウリンソウの紫の花が、ガラス細工のごときほのかな輝きを放っている。ベルは吐息で花が揺れるほどに顔を近づけ、上下左右からじっくりと観察した。


「わたしは花の品種改良をしているの。ここで光ってるのは魔法を使ったからなんだけど、魔法なしで虫や病気に強く、きれいな花を長く咲かせられるように」

「魔法は禁止されてるんじゃないの」

「それもあるけれど……あっ、ここのことは秘密ね、魔法で花を長持ちさせられるのは、その場限りのことでしょう。強い種を作ることができれば、ずっとずっと強いままよ」

「じゃあ、これは?」


 光るフウリンソウを指差すベルに、いくつかのスケッチを見せた。チューリップ、スズラン、バラ、ポピー。


「お得意先の奥方さまがね、仰ったの。光る花があればすてきね、って」

「……そっか」


 工房勤めの彼も、投資者のたわむれの一言がどれだけ研究者をひっかき回すかはよくわかっていることだろう。研究費を預かっている限りは、何らかの成果を出さねばならないことも。


「光を発する昆虫や魚はたくさんいるのだけど、植物となると苔くらいしか思いつかなくて、いまはどうやって光っているのか、観察しているところ。それに、夜ならともかく昼間でもはっきりわかるほど光らなきゃならないんだとしたら、ちょっと大変だと思う」

「わかるよ」


 単なる同情ではない、深い理解と共感の込められたベルの頷きに、疲れも吹き飛ぶ思いだった。もっとずっと話していたいと思うけれど、風車村の事情にあまり深入りさせてはならないとも思う。

 何せベルとは知り合ったばかりで、だというのにこんなにも長い時間、たくさんのことを話している。風車村には同年代の友だちがおらず、同じ年頃の少年というだけで緊張していたのも出会い頭のみで、その後は話題に困ることもなく、気さくに喋っていた。こんなことは生まれて初めてだ。

 飛行機械のことを語るベルの澄んだ眼の色、憧れを浮かべて、意志を秘めて遠くまで飛ぶまなざし。それから――分厚くて硬い手。

 ぎゅっと万力で締め上げられたように心臓が縮んで、ミルッヒは飛び上がる。どうしたのと尋ねるベルに、首を振って何でもないのだと伝えるのが精一杯だった。


「も、もう遅いから、帰った方がいいわ。食事の手伝いに行かなきゃならないの」


 苦し紛れに話題を変えると、ベルは素直に頷いた。大きく傾いた太陽を見て、やべえ、と声を上げる。彼とて集団生活なのだから、食事の時間も風呂の時間も決まっているだろう。

 自転車にまたがったベルが振り返る。シャツからのぞく腕はしっかりと筋肉の陰影を刻んでいて、生白い自らの腕が恥ずかしくなった。ローブに覆われた腕を抱く。


「ねえ、ミルッヒ。休みの日に、また来てもいい?」


 ベルの言葉が、声が、何と言っているのかすぐには理解できなかった。それほど珍しく、嬉しいことだったのだ。また来てくれるなんて!

 ううん、ベルはきっと風車が好きなだけよ。冷静に諌める内なる声に引きとどめられ、持ち上げたくちびるが震えた。


「もちろんよ。歓迎するわ、ベル」


 街の人々がグレニッツ商会に悪さをしなければいいのだがという心配を笑い飛ばすことができない。みんないい人なのに、と悔しく思うが、魔法使いが絡むと人々は理性をどこかに置き忘れてしまうらしい。見えない悪意こそが恐ろしいのだ。

 大きく手を振るベルに応えながら、西の空低くに黒々と横たわる雨雲を憂いた。

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