花びら、空に舞う日 (7)
「そうしてもらえると助かるけど……。こんな大勢が見てる中で魔法を使って、あんたは大丈夫なの? 魔法は自粛なんでしょ? 言いたくはないけど、今よりもっと風当たりが強くなることだって考えられ……」
「俺も行くよ」
「ちょっと! ベル!」
ベルはシアを左手で制した。残る右手を差し出す。
「俺を連れて飛べる? ミルッヒひとりじゃ防火布を運びきれないだろうから」
真鍮の髪が炎を照り返して赤銅のごとくに輝き、けれど深森の眼はいつも通りに真っ直ぐで、どうしてか鼻の奥がつんと痛んだ。煙のせいだ、そうに決まってる。空咳をしてごまかして、大きく頷いた。
「大丈夫。飛んでみせるわ」
ミルッヒはベルの手を握り、その大きな熱が応えてくれたことを知ると、シアに向かってもう一度頷いた。大丈夫です、と。
「わかった……任せたよ、気をつけて。絶対に無理するんじゃないよ、ふたりとも」
シアは気遣わしげにミルッヒの肩を抱いてから一歩下がった。眼鏡の青年は、こうなることをはじめから見越していたと言わんばかりの穏やかさで、軽く手を挙げた。
大きく息を吸って、吐く。一歩めは軽く踏み出し、二歩めは宙を踏む。三歩めで炎の海から高く高く、飛び上がった。背を炙らんと吹きつける熱い風を盾の魔法で防ぎつつ、泳ぐように空を歩む。うおお飛んでる、とベルが興奮して叫んだ。
思えば、久しぶりの飛翔だった。前に魔法を使ったのは、いつだったか。記憶は曖昧であっても、魔法はミルッヒに応えた。炎に負けぬどよめきを足下に感じつつ、しっかりとベルの手を握り、腰に手を回して工房に向けて飛んだ。
彼の鼓動は速く、熱く、ミルッヒに安堵を伝えるかのように強かった。
工房の倉庫からありったけの防火布を引っ張り出した。ベルは騒ぎに顔を出した職人たちに手助けを乞い、声を掛け合った職人たちはバケツや手桶、盥を手に飛び出してゆく。周囲の商店の者も、救急箱や水や食料、毛布に包帯に着替え、めいめい思いつくものを手に坂道を下っていった。
頼んだよという先代の声に再びの勇気を得て、ミルッヒとベルは防火着をまとう。ぶかぶかで不格好だが仕方ない。
背中に、腕に、持てる限りの防火布を携えたベルを抱えて、またも空を翔ける。消火隊の詰め所から、馬車が広場に向かっているのが見えた。だが、広場の出口では無事に脱出を果たした者が立ち止まって振り返り、市街から野次馬が集まって、道は塞がったままだ。到着までにはまだしばらくかかるだろう。
エーテン社の社員とシアが炎に負けじと声を張り上げ、逃げ惑う人々を整列させ、走るな、落ち着けと繰り返していた。貴族たちは会場から出ることはせず、火災現場から最も遠い風上側、海の方に集められていた。
強まる風によって炎の勢いがじわりと増し、先端が市街地の間近で次々に閃く。ああ、と嘆きの声が上がった。ミルッヒの背に回されたベルの腕に力がこもる。
大荷物で広場に降り立ったミルッヒのもとに、数人の男女が集まった。みな魔法使いだと言う。
「私たちにできることはある?」
「防火布で身を守りつつ、一気に火を消そう。水栓の水脈を招いて……」
「いや、燃料油の火災は水じゃ消せないぞ」
「では直接火を消そう。水は防御に回せば……」
「お待ち!」
大喝に、魔法使いたちが一斉に顔を上げる。それぞれに、なぜ、どうしてという思いがあったのだろう、強張った表情が複雑に歪んでいた。
「ドゥマさま……」
誰かの声を、ドゥマは鼻で笑い飛ばした。燃え盛る炎を背に、節くれだった杖を振り回す。杖の尾が大地を叩くと、地揺るぎがしたかのように幾人かが飛び上がった。
「これ以上、魔法を使うことは許さないよ! もしも魔法が枯渇したら、あたしたちはどうやって生きていけばいいんだい。魔法を安売りするんじゃないよ! これは事故なんだ、愚かなエーテン社の尻拭いをしてやる必要がどこにある!」
魔法使いにとって、ドゥマの言は絶対だった。しかし誰もがこの火災を前にして、沈黙を保つことに後ろめたさを感じている。
ひとにできないことも、魔法使いにならできる。ただし、結果として魔法使いたち全員を苦しめる。
「魔法の価値を守る、それはわかります。わたしたちは魔法の存在に生かされている。けれど、それは火災を招いていい理由にはなりません、ドゥマさま」
長老がミルッヒを鋭く睨み、唾を吐きかけんばかりに形相を歪めた。魔法使いたちがどういうことだと囁き交わす。徐々に、ドゥマの主張とエーテン社の新技術が相容れぬものであるという理解が広まり、この火災が魔法によるものだと納得の色に変わった。
ドゥマを庇う声は上がらない。保守的であった長老が自動車の展示会にいる、それこそが何よりも説得力を持つ答えだったのだ。
誰もが理解しているにも関わらず、動けなかった。火の粉が降り注ぐ中、しんと凪いだ時間を切り裂いたのは、よく通る澄んだ声だった。
「もちろん、すべては我が社の責任です」
エーテン社の眼鏡の青年が、いきり立つドゥマの肩に手を置いた。左手のステッキは熱のために歪んでいたが、眼鏡の奥の微笑は消えていない。銀髪は騒動で乱れていたが、堂々とした態度には余裕さえ感じられる。
「非常事態です。社の方は部下に任せていても大丈夫ですが、私が協力できるのはむしろ、こちらだと思いまして」
「シグルド! おまえはまた、勝手を言うのかい!」
「お言葉ですが、長老。私にはこの事故の一切を負う責任がある。それはすべてに優先することです。ひとつの村を束ねるあなたになら、おわかり頂けると思うのですが。それを勝手と断じることこそ、あなた方の勝手だ」
「勝手なものか! あたしらから消火の権限を奪ったアルターの防火布だけじゃない、おまえまで科学技術とやらにうつつを抜かして! まだこれ以上魔法使いを除け者にしようっていうのかい? あたしらがどんな暮らしを強いられているか知らないわけでもなかろうに、とんだ不孝者だよ、おまえは!」
父さん、とベルの唇が震えたのを、ミルッヒは確かに見た。ドゥマがベルを疎んじる理由が、多くの消火隊員の命を救い――魔法使いの活躍の場を減らした防火布にあったなんて。
けれど、ベルの父は魔法使いの仕事を奪おうとして防火布を開発したのではないはずだ。シグルドも、シアも、ベルも、魔法使いに対する悪意などかけらも持ち合わせていない。
ただ、誰かの役にたつならと、
誰かを助けたいと、
誰かを救えたならと。
その一心で、魔法使いたちと同じ気持ちで、新技術の普及につとめていただけなのに。
思っていること、考えていること、目指していることはまったく同じなのに。
魔法か技術か、その手段だけが異なる。たったそれだけの違いが対立と衝突の原因だった。
「違う!」
ベルが叫んだ。身を捩っての激情に、皆が振り返る。シグルドだけが大きく頷いた。
「ええ、違います。シアも……アルターも、違います。違うからこそ、防火布を作り出すことができた。彼は心ある天才です。それを認めないのはあなたの狭量さです。違いますか」
エーテン社の青年をシグルドと気安く呼ぶドゥマと彼の間に何があったのか、息を詰めて見守る魔法使いたちの目から隠すように、護衛の黒服が、暴れるドゥマを抱え上げて避難させる。皆がほっと息をついた。
「委細は省きますが、私にも少々魔法の心得があります。水脈を招いて盾を作る班、消火班、防火布を配りつつ誘導の動線を整えて水栓までの通路を確保する班、三つに分かれて進めましょう」
簡潔ながら的確な采配だった。ミルッヒは手を挙げる。
「わたしは火を消します。飛行が得意な方がいらっしゃれば、防火布の方をお願いできますか」
「わかった。おれが行こう」
「では私は盾を」
防火布を抱えた六人とベルが去り、ミルッヒとシグルドを含めた四人が残った。みな不安を表に出すまいとしているのだろう、頬の線が固い。
「さあ始めましょう、お嬢さん」
シグルドの声は落ち着いていた。この人に従っていれば大丈夫だと、不思議と恐怖や不安が和らいだ。人の上に立って采配を振るう能力を思い知る。
ミルッヒは海風を背に受け、黒煙を巻き上げる炎を前にして息を吸った。
たとえ、これっきり魔法を使うことができなくなったとしても、後悔はない。魔法が失われても、ベルの飛行機械で空を翔けめぐる日がきっとすぐにやってくるから。
手をついた地面は熱く、触れているだけで火傷しそうだった。消えてなくなれ、と無言のままに命じ続ける。熱に煽られ、炎の腕に抱かれ、火の粉が雨と降り注いでも、ミルッヒは目を開けず、魔法を止めることもしなかった。地中に息づく魔法水脈が、別の誰かの魔法に応じていた。熱気が遠のいて、呼吸が楽になる。
――消えなさい、炎よ。
偉大なる魔法使いが拓き、整え、発展を望んだ崖の国、この国に住まうすべての人のために、ただひたすらに唱えた。
――鎮まりなさい、炎よ。猛りなさい、水よ。
魔法によって招かれた水脈が大地を穿ち、伝承に謳われる龍の姿となって炎の喉笛に食らいつく。歓声と悲鳴、水蒸気の熱と怒れる炎の咆哮が、身体を震わせた。何かがごっそりと抜け落ちてゆく感覚によろめく。
ミルッヒ、と呼ぶ声が熱風で歪み、かき消される。
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