花びら、空に舞う日 (6)

 感動を飲み込んで幾分か冷静さを取り戻したベルは、わかる限りのことを教えてくれた。


「あの運転席のレバーが、エンジンを調節するんだ」

「エンジン?」

「自動車の心臓だよ。エンジンがあの自動車を動かしてる。簡単に言えば燃料油を燃やして、その熱の力で車輪を動かすんだ。人間がご飯を食べて元気になるみたいにね」

「へぇ……。油を使うなら、煙草は吸えないのかしら」

「燃料タンクの防火には気を遣ってるはずだよ。防火布が使われてたら面白いのに」


 自動車の隣に、手押し車に乗った大きな樽が運ばれてきて、蛇腹のホースを車体の横腹に刺した。


「給油だな。あんまり燃費が良くないみたいだ」

「じゃあ、自動車で遠出しようと思ったら、燃料油も持ち運ばなきゃならないってこと?」

「そう。あるいは、行く先々で給油するか。使う油の質もエンジンの性能に関わってくるから、エーテンが各地に給油所を作るのかもしれない」


 大事業だ。そうまでして、自動車は売れるのだろうか。ミルッヒにはちっともわからなかった。自動車でさえそうなのだから、ベルたちの飛行機械が果たして本当に空を飛べるのか、魔法に代わるものになりえるのか、商品として売れるのかなど予想もつかない。けれども魔法の衰退を思えば、そして、この広場に集まった人々の熱狂を思えば、便利な機械が人々に受け入れられるのはあっという間のことにも思える。

 寂しくはないし悔しくもない、もちろん腹立たしいわけでもない。なのに、どうしてか寒気を覚える。

 魔法という希少な力を薄く削り取りながら糊口を凌ぎ、特区の名の下に国に管理され、非常時には使い捨てだと無言ながらに雄弁な政策に従わざるを得ない魔法使いたち。

 魔法を使ってはいけない、そのつけは必ずおまえの身に返ってくるのだからね。幼い頃から繰り返し繰り返し、呪文のように耳元で囁かれた戒めが蘇る。

 風車村の住人のうちでは身体の自由が利くミルッヒでさえ、幾度思ったことか――わたしたちは国によって生かされているのだ、と。

 野良にしておくには得体の知れぬ魔法の力に、しからば首輪をつけようと誰が言い出したのか。大地を削って天然の要塞となし、方々から水を招いた国祖は偉大なる魔法使いであったはずなのに、汲々とする魔法使いはいまや家畜と変わりない扱いに甘んじている。

 時代は雄大な河の流れのごとく、移り変わっている。大河の流れを読み切れず、取り残されて喘ぐ魔法使いたちは、どうなってしまうのだろう。

 エーテン社の自動車を、グレニッツ商会の飛行機械を疎んじる気持ちはミルッヒにはない。厭うほど魔法の扱いに長けていないのだ。ミルッヒとて魔法使いの端くれ、魔法の行使は呼吸と同じくらい容易い。けれど魔法が呼吸と違うのは、習熟していく点だ。魔法を使えることと、魔法に長けていることでは、天と地ほどの開きがある。

 年若いミルッヒは魔法に慣れていない。だから、ドゥマや年長者に言われるがままに、魔法を使わない生活を受け入れている。けれども老人たち、魔法を自由に使っていた世代の者からすればどうだろう。自動車、飛行機械、魔法に代わる新しい科学技術は自らの存在を否定するものになり得るのではないか。

 疎ましく、目障りな存在だと――なくなってしまえばいいと思うのではないか。科学技術がなければ、魔法は、否、魔法使いはもっと重用されるのに、と。

 俯いたミルッヒを、ベルが覗き込んだ。


「大丈夫? 人に酔ったかな。あっ、もしかして眠くなった?」

「ううん、それより、あっちの模型は見なくていいの? 今から並ぶ?」


 実際に動いていた自動車とは別に、展示されている自動車を近くで見ようと人々が列をなしている。機械部品をわかりやすく解説した模型、細かな装飾品などを展示する一画もあり、どこも人が幾重にも取り囲んでいた。貴族たちの席の前には銀縁眼鏡の青年がおり、身振り手振りを交えて実際的な説明をしているようだった。


「今は人が多いから、もう少ししてから並ぶよ」


 給油口がこちらを向いていたので、ベルは熱心に、スケッチさえ始めかねない勢いで給油の様子を眺めている。返事も上の空で、彼にしてみれば模型よりも実物なのだろう。

 しかし、エーテン社のこの自信はどうだろう。自社の技術を惜しげもなく公開している。こうでもしなければ実績に結びつかないのだとしても、グレニッツ商会にまで招待券を送るとは。技術を盗まれたら、という危惧も不信も軽々と乗り越え、エーテン社は自社製品を披露する。これもまた、ミルッヒには理解できない考えだった。

 自分なら、改良途中の花たちをお披露目しようなどとは思わない。ベルに研究室を見せたのは、彼がまったく違う畑の人間だからで、彼がもし園芸や農業に携わっていたら、風車小屋に招くこともなかったに違いない。

 それは、怖いからだ。ミルッヒの技術を利用して、他の誰かがもっと良いものを作り上げたらと思うと、怖くてたまらない。そうして無能者と指差され笑われることが、切り捨てられることが恐ろしい。

 エーテン社やベルの明るい公平さがどこから来るのかと、羨ましく思う。実力の伯仲した競争相手がいた方が、互いの伸び率は大きいのだろうとは想像がつくのだが。

 そしてこの構図は、そのまま魔法使いにも当てはまる。特区や保護の名の下に、魔法使いは隔離され、管理されている。閉じた環境の中で、誰とも比べられることなく育ち死んでゆく魔法使いと、真逆の環境にある人々と。

 植物でさえ受粉し、種を残すために「外」を欲するというのに。

 たぶんそれは、諦めだった。魔法文明の衰退、魔法使いの停滞、そして緩慢な滅び。目前で未来へ飛翔せんと、体をたわめて力をためる人々――科学技術。機械。

 広場の喧騒が、ざわめきと賑わいが、急に遠ざかった気がした。人々の動きがゆっくりになり、耳が詰まった。音が低く聞こえる。

 いつもの眠気かと思ったが、違う。

 大掛かりな魔法の気配に、慌てて首を巡らせる。フードが脱げて白い髪が頬を撫で、それを払いのけたときに、ミルッヒの紅い眼は場違いなローブ姿の人物を見つけた。小柄な体躯、薄くなった銀髪、ねじくれた杖。見慣れた姿に舌の根が縮む。

 ドゥマさま!

 声を上げなければと思うのに、何とかしなければと思うのに、思考だけがぐんぐんと加速して空回り、身体はぴくりとも動かない。

 広場を指差したベルの動きも、再び轟音と共に動き出した自動車も、すべてが水槽越しに見る景色のごとくに歪み、粘ついて緩慢だった。

 前進し、後退した自動車が運転手の必死の操作にも関わらず停止せず、エーテン社の整備用テントに突っ込んだ。ままごとのようにテントがひしゃげて崩れ、整然と並べられていた燃料油の樽が転がり――炎が、上がった。




「ミルッヒ! ミルッヒ! しっかり!」


 音と時間と光が戻り、はっと我に返ったときには、会場内は先ほどまでとは違った悲鳴と喧騒に包まれていた。

 肌を焼く熱気と揺らめく炎から少しでも遠ざかろうと、人々が出口めがけて押し寄せている。逃げ惑う人々の怒号と焦燥が質量を持ってのしかかってきて、眩暈がした。

 騒ぎから少し離れたところでミルッヒはベルに支えられていた。何が起こったのかは克明に覚えているけれども、理解することを頭が拒否している。まるで現実味がなかった。

 ドゥマさまが、魔法を使った。

 魔法を使って、自動車に事故を起こさせた。

 きっと、自動車に対する批判が高まるように。魔法が最後の砦として頼られ続け、魔法使いの地位が変わらぬように。

 まさか、市街で殺された魔法使いも?

 ドゥマさま。祈りに似た囁きは炎に飲み込まれた。ミルッヒは顔を上げる。長老の姿はとうに見えず、誰ひとりとして事故が魔法によるものだとは気づいていないようだった。


「火を消さなきゃ」


 海風に煽られ、炎は市街地に迫っている。火元の広場から逃げようにも、目指す市街地は炎に巻かれようとしていて、戸惑う人、それでも逃げようとする人、エーテン社を口汚く罵る人、ただ呆然と炎を見つめる人、広場は混乱に包まれ収拾がつかない。


「ミルッヒ、エーテン社のテントに行こう。協力できることがあるかも」


 この中で自分を見失わないベルはやっぱりすごい、とミルッヒは感心する。そう、待っていても何も解決しない。火を消すなり、できなければ逃げるなり、行動せねばならないのだ。


「あっ、見て。シアさんよ」


 燃えるテントから展示車を挟んで反対側、エーテン社の社員たちに混じっているのは、普段と変わらぬ作業着姿のシアだった。ベルと考えることは同じだったようだ。あるいは、彼がシアの教えをきちんと実践しているとみるべきか。


「本当だ、行こう」


 いつの間にか解けていた手はまたするりと一回り大きな手に納まり、引かれるままにミルッヒも走った。

 おじょーうさーん、とベルの声は逆巻く炎の中でもよく通る。シアがこちらに気づいて、わずかに口もとを緩めた。


「お嬢さん!」

「ああ、ベル……ミルッヒも。無事でよかった」


 美貌こそ煤で汚れていたが、シアは焦りも見せずに腕を組み、誰もが右往左往するなかで堂々と地を踏みしめている。普段は控えめな威厳と貫禄が感じられた。


「いま、連中と話をつけてたとこだ。まずは燃料油のタンクを海べりまで持ってく。それから客たちを逃がす。ともかく混乱を鎮めて道を空けさせて、並行して飛び火した部分だけでも火を消そう。燃料油に水をかけるわけにはいかないから、火元は工房の連中が防火布を持ってくるまで放っておくしかないけど。それから、お嬢さんって呼ぶな」


 工房にも火事の報せはすぐに届くだろう。シアとベルが展示会に来ていることは皆が知っているから、指示がなくとも工員たちは仕事の手を止めて消火活動に向かうはずだと、女社長は臆せずに語った。


「だから、応援が来るまでの辛抱だ。悪くとも現状維持、応援が来ればすぐに消火活動に移る。異論は?」


 驚いたことに、エーテン社の社員たちはシアの指揮に反感を示すこともなく、素直に頷いた。自社の工員たちの有能さを自慢されて対抗意識を燃やしたのかもしれないし、指示を出す誰かを求めていたからかもしれない。


「では、我々は誘導に当たります」


 エーテン社の作業着を着た若者が方々に散ってゆく。鷹揚に頷いて、シアは彼らを送り出した。それからうっそりと、テントを振り仰ぐ。


「気障眼鏡ー! 無事か?」

「もちろんですとも。……気障眼鏡というのが私のことであれば、ですが」


 眼鏡の青年に続き、自動車の説明を担っていた美女らが顔を出した。傍らの黒服のうちひとりは運転席にいた男に肩を貸している。運転手は怪我こそしているが、意識ははっきりしているようだ。責任を感じているのだろう、顔色は炎に照らされてなお、白い。

 眼鏡の青年は黒服に頷き、周辺の地図を広げさせた。会場の外、市街地に入ったところに二か所、印がつけられている。


「印をつけているのが、消火用水栓です。……なに、こんなこともあろうかと、事前に調べておいたんですよ。火災など起こらないに越したことはなかったんですが」


 飄々とした様子の青年に、シアが唇を尖らせる。


「そうでもしないとここの使用許可が下りなかったんだろ。燃料をしこたま運び込むんだものな。上が神経質になるのもごもっともだよ。そもそも燃料油が燃えたなら水栓も意味がないだろうに、よく開催できたな」


 崖と海に挟まれた天然の要塞、崖の国はその立地ゆえに火事には神経質だ。住宅が密集し、海からの風が絶えない。古くからの石造りの家ならば焼失こそ免れるだろうが、家財は無事では済まない。火の始末には細心の注意が払われている。

 城を守る魔法水脈の一部が都市部にも通っていて、現在は消火活動に使われる水栓となっている。いたずらや誤作動を防ぐために水栓の蓋は魔法で錠がかけられているが、いざという時は誰でも使えるようになっている。水栓を使えば、多少は時間が稼げるだろう。人々の安堵にもつながる。


「そこはそれ、いろいろ方法があるんですよ。会場は禁煙にしていましたしね」


 青年は曖昧な笑みを浮かべた。シアは地図を目だけで辿り、混乱が鎮まらない会場出口を見遣った。


「水栓まで少し距離があるね。上って行くのは難しいか。火元には手が出せないし……何にせよ消火隊の防火布頼みだよ。次に開発するのは自動車じゃなくて、燃料油火災の鎮火剤にしたらどうだい」

「素材開発はそちらの得意分野でしょう、お任せしますよ。……それはともかく、消火隊を待つ間に炎が水栓にまで達するかもしれません。そうなるとますます消火が難しくなりますから、水栓までの動線を確保して、延焼を防ぐくらいはしておかねば」


 それもそうだねと反論するでもなくシアが頷く姿に、ベルが目を見開いている。いがみ合っている場合ではないと気づいたのだろう、唇を尖らせた。


「動線を確保するにしても、一筋縄じゃいきませんよ。ここに防火布があれば……」


 悔しげに地面を蹴るベルに、シアも同意する。


「こんなに道が混んでちゃ、消火隊も迅速には動けないだろうしね。防火布を取りに行きたいところだけど、これ以上道を塞ぐのも」

「飛行機械があればなぁ」

「魔法で飛びます」


 ベルとシアの視線が向けられてはじめて、ミルッヒは自分が言葉を発したことを知った。後には引けず、あの、あの、と空気を求めて無為に口を開く。


「わたしが、飛びます。工房まで、魔法で。それで、防火布を取ってきます。そうすれば少しは、お手伝いになりますよね?」


 火勢に耐えていたテントの骨組みがついに崩れ、炎が一層勢いを増す。黒い煙がもくもくと市街へ流れてゆくのに、あちこちから押し殺した悲鳴があがった。その悲痛さに背筋が伸びた。


「わたしが、魔法で飛びます」

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