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 あれから十年が経った、今日。私は悌市ていいちさんの三回忌に参列するために半年ぶりに松谷まつたにを訪れ、宿の会の面々やかつてお世話になった「惣兵衛そうべえさんのかまど」の布佐子ふさこさん夫婦と顔を合わせていた。十年の間に会の顔ぶれも少しだけ変わった、ミイさんは若おかみがを完璧に再現できるようになったのを見届けて隠居し、瀬波せなみでの修行を終えて松谷に戻りぶどうやの若旦那になった遼平りょうへいくんが会に顔を出すようになっていた。一方で幹夫みきおさんの山歩きツアーは超ロングセラーになり、還暦を過ぎた彼が今も低山のコースを巡っている。

 大学を中退した年の春から布佐子さん夫婦が立ち上げた会社に入社した私は、七年間お世話になってから退社し、松谷から車で小一時間のところにある街でお店を開いた。その翌年に、悌市さんが亡くなった。

 私が独立二年目を迎えた一昨年の春のことだった。いつものように掃除に訪れた大澤おおさわ様の本家の人が布団の中で眠ったままになっている悌市さんを発見し、温泉街の仲間達と合同でとむらってあげた。若い頃は本当に辛かっただろうが、松谷に帰ってきてからの悌市さんは幸せだったはずだ、法要に参列した人全てがそう思っているだろう。

 その後本家のはからいで悌市さんと彼のお母さんがあのお墓に入ることになり、悌市さんが亡くなった半年後に納骨式が行われた。本家の人も大澤様のだらしなさを先代から聞かされており、「こうなるはずだったんだし、様も生きているうちに実家に帰ったんだから気兼ねすることなんか何もない」と気を回してくれたのだという。そしてあの家には本家の息子さんが夫婦で住むことになり、「どうせだから人がつどえる場所にしよう」という話が出て座敷をちょっとしたお茶会などに使えるスペースとして開放することにした。同時に、お墓の脇に開湯者が眠っている旨伝える案内板を立てることになった。

 法要は、正源寺しょうげんじで行われた。お経をあげた後お墓に移動して改めてお参りをし、それからぶどうやの宴会場でおときを、という段取りだった。法要に参列していた幹夫さんの代わりに、遼平くんが会食の給仕を取り仕切った。

「すごい、遼平くんが史上最高に頼もしく見える」

「あれも今年二十九らっけな、あんげぐれえできねえば駄目らこて。宿の会はあいつと正嗣に丸投げしてるけど、二人ともなかなかやってくれてるんぞ。

 ほら、小さな文化祭さ。あれなんか今、遼平が旗振り役になってるっけな。マルシェ方式になったのも、あいつが話持ってきたんけさ」

 十年前に私の提案で始まった「小さな文化祭」は、今や松谷の秋の恒例イベントになっている。遼平くんの同級生が商工会議所に勤めており、どうせならコラボにしてもうちょっと大きいイベントにしよう、ということになって各宿の料理に加え他店舗の飲食物や町の特産品をアピールする場としてリニューアルし、実施場所も松谷公民館と町の交流施設と、一年おきの持ち回りで開催されるようになった。

 一方で、陸上の有望選手として成長する双子のサポートに余念がないお父さん、になっていた和宏かずひろさんは、その時間を確保するために会のリーダーを去年正嗣まさつぐさんに託した。双子は中学三年生になり、上越じょうえつにある強豪校に推薦で入れそうだ、という話になっていた。そうなると寮生活が始まるが、和宏さん的には二人が中学を卒業するまではきっちり後押ししてあげたい、正直いえば宿以上の優先事項、というところらしい。

「平野ツインズ、こないだ新聞に出てたじゃないですか」

「目指せ箱根、らっけな」

「二人が箱根駅伝に出てここにも取材が来たら呼んでくださいね、私『あの豆粒がねえ』ってカメラに向かって言うんで」

「お前も言うようになったなあ、そうやっておばちゃんになっていくんな。面白おもっしぇっけいいけど、行き遅れんなや」

「大丈夫ですっ」

 それは本当に大丈夫、だった。正嗣さんとは五年ほどおつき合いして別れてしまったがその後お陰様でいい出会いもあった、いつか彼を連れて松谷に、なんて日も来るだろう。正嗣さんはとっくに若おかみを迎えた、その時は和宏さんが人生初の仲人を務めたそうだ。ちなみに、かつてそういうつき合いがあった者同士としての私達の関係はすこぶる良好、だ。

「やっぱ、あれか。正嗣が頼りねかったんか」

「え」

「いいろう、へぇ五年られ。ぶっちゃけてくれや。多分、悌市さんも聞きてえと思うんだ。姿は見えねえけど、今日の主賓らぞ」

 お酒も入っているし、そもそも和宏さんは声を潜めるなんて芸当ができる人ではない。幹夫さんや武史たけしさん、そして康祐こうすけさんが椅子を持って移動してきた。

「なんだね、面白ぇげな話が聞こえてきたけど」

「もうー」

 実はそういうとこだったんです、なんて言葉がかすかに頭をよぎったりもした。私が松谷でバイトを始めた頃に正嗣さんに対して感じていた頼りなさはだんだん影を潜めてはいったが、どこか優しすぎる人のまま、でもあった。そんな姿にいらっとしてしまうことも少なくはなく、そういう正嗣さん像、のようなものをきっかけに松谷という優しすぎる場所、あたたかすぎる人達、への違和感を持ち始めた。

「聞こえてないかな、大丈夫かな。ちょっと、本人に言わないでくださいね」

「大丈夫らてば。ていうか、あいつも分かってるんて」

「倉ちゃんの気持ち、俺は分かるよ」武史さんが言った。「俺もね、史也ふみやを送り出す時に『世の中は松谷と全然違うぞ、こんなにあったかい場所は他にはないんだから』って言ったもん」

 彼の元では今、若い料理人二人が弟子入りし腕を磨いている。理系少年だった史也は大学進学を機に上京し何やら難しい勉強をしているそうだ、おそらく弟子のいずれかが宿を継ぐことになるだろう。

「でもね、あの子は『プライベートに踏み入ってこないのは助かるけど、たまに寂しくなる』って言ってた、ははは。あの子も生まれたのは東京なんだけど、完全に松谷の子になってたんだね」

「へえー。クールな史也くんがそう言ってたって意外ですね。

 なんかね。あの人もそうだけど、特に悌市さんが、ね。優しいとことか飄々ひょうひょうとしてるとこ、ほんわかし過ぎてる、みたいなとこって、私に言わせればザ・松谷、って感じだったんですよ。そういうあったかさとか心地よさが、気がついたら違和感になってて」

「それで武者修行してえなった、いうとこなんろう」

「うん、まさにそんな感じでした。ここで生まれて育った人達にこんなこと言うのも、ほんと申し訳ないんだけど」

「なに、いいさ。俺達おれってらたってそんげぐれえ言われ慣れてるし、悌ちゃんなんか今頃『やっぱなあ』いうてわろうったこて」

「まあ、今うまくいってるんけいいこてや。喧嘩別れした訳でもねかったんし、奈央やんなりに新しい道を歩いてて、それでも松谷に顔出してくれるんけさ」

「それで。今、倉ちゃんが思う松谷って、どういう場所?」唐突に康祐さんが訊ねた。「惣兵衛さんのかまど」では初代看板猫のが亡くなった後、見事な毛づやの黒猫を迎えて「おはぎ」と名づけた。この子もだいろ同様人懐こく賢い猫で、おはぎに会いに来店するお客もいるほどだという。

「うーん。不思議な場所です。やっぱり、お店を持ってから『同じ新潟なのに』って思うことってちょくちょくあるし、松谷ではほんと恵まれてたと思うし、でも、ごめんなさい。なんていうんだろ」

「うん、分かる分かる。俺も東京から来た人間だし」

「多分ね。いろいろ、きっかけになった場所なんですよ。ほんと、うまく言えないんですけど」

「うん。そう思ってくれてるだけで嬉しいよ」

「ちょっと変なこと言ってもいいですか。

 今思うと、私が松谷で働いてた頃っておとぎ話の空間っていうかそういう不思議さがあったような気がするし、悌市さんを実在した人のように思えない、みたいに感じたりもするし。世間の荒波に揉まれちゃったか私、とか思ったりもするんですけど、でもほんと幸せだったからそう思うんだな、って。

 ていうか、悌市さんに失礼ですよね。『実在してないって、おい』みたいな」

「悌ちゃーん。倉ちゃんが、こんげこと言うったぞー」幹夫さんが天井に向かって叫んでみせた、それで一同大笑いとなった。

 昔なら一緒になって大笑いしたり、一時期はうざったいと感じていたような場面だった。でもどうにもならないような切なさ、をこの時は感じていた、ほぼ初めてといってもいいような瞬間だった。


 遼平くんが車で駅まで送ってくれて長岡ながおか行きの電車に乗り、家に着いた時には六時をまわっていた。少しずつ酔いがさめていくのに従ってぶどうやでみんなと話したことを思い出し、言葉のひとつひとつを反芻はんすうしては意味を考えたりしてみた。

 私は松谷で働いていた日々のことを「おとぎ話の空間」と表現したが、自ら言っておきながら言い得て妙、みたいな気がしておかしくなった。私自身が過ごした時間なのに、今となってはリアルなことと思えないような不思議な日々。何もかもが楽しくて嫌な人や嫌な出来事も存在せず、もし何かあったとしてもちゃんと片づいてしまう。そうなんでもかんでもうまくいくはずがない、みたいな数年間とも言い換えることができた。

 桃源郷とうげんきょうという言葉だとか、どこで見聞きしたのかなど覚えてはいないが隠れ里伝説や、そんなのを思い出しもした。そういう場に迷いこんだ二十代前半の私は数年間を楽しく暮らして、その場に疑問を持ち始めた頃に魔法がゆっくりと解けはじめ、自分のお店という現実世界で新たな道を歩み始めるに至った。疑問を持つきっかけになったのは、あの正嗣さんだった。なんて筋書きを思い描いてみた。

 和宏さんが正嗣さんの話を振った時はびっくりしたが(正嗣さんは布佐子さんや志ま津の若おかみにつかまっていた)、私もそれに応えて話してみたことで改めて当時の諸々を整理できた気がした、彼本人にも松谷の人にも察しがついていることなら遠慮して口を閉ざすこともない、そもそもそういう場所でもない。

 そして、正嗣さんや松谷に違和感を持ち始めた頃に、私にはやっぱり父の血が流れているんだ、とも思い始めていたことを自覚した。例えば「甘い」と一喝してやりたくなるような瞬間があった時に父が取引先との電話で同じ台詞を吐いていたことを思い出したりして、そういえば父の口癖だったな、と思ってしまうあたりが、だ。新潟の人も粘り強いといわれるし私自身そういう傾向があるが、私のそれはやはり父から貰ったもの、でもあった。

 まさにそんな頃に、母の橋渡しもあって父と私は和解した。多少のぎくしゃくも葛藤も未だにあり年に数回のやり取り程度にとどまっているが、それでも父と私という二本の線が交わる方向に少しずつ向かっているな、と感じることができている。

 松谷で働き始めた頃、近郊にオープンした二軒目のギャラリー管理人を任され、さらに私の発案で移動販売を始めて充実した中でも、父に関することが頭から離れることなどなかった、それこそ殴られたあの日から一日も欠かさず、だった。はじめは、私だって自分が吐いた言葉も父の行動も一時的なもの、わずかな時間でというかいつの間にか修復されるたぐいのものだと思っていたし、一方で新しい毎日の渦から湧き上がってくる高揚感が父関連の問題に思いを向かわせることを阻害していたような状況もあった。でも少し落ち着いてから、私が父をどう捉えるかということ自体が、私がこれからどう生きたいのか、どんな風に世の中と関わっていきたいのか、を象徴することにもなると気づいた。

 私にとってあの人は父親である、というシンプルながらもやたら重たい事実は覆りようがなく、そうである以上人並みに申し訳ないと思ったり心配したりする、お互いの関わり方がこれからどうなっていくのかを含めて、だ。でもその時点では、私がどう生きたいかという視点で考えれば父は関わりを断つしかない存在でもあった、「違う」という言葉を突きつけた以上はどちらかが変わらない限り二本の線が交わることはないだろう、何かが変わる兆しが見えてこない限りは距離を置くしかないんだ。そう思っていた。そして私は、「あなたとは違いますから」と言いっぱなしの状態で五年近い時間を過ごさせてもらっていた。

 そして正嗣さんのことに端を発して、松谷にずっといるかどうか、という悩みが出てきた。私も父の子だ、と思い始めたということは私のほうが少し変わり始めたということだったのだろう、もし父と松谷が対極にいる存在だとしたら、思いっきり松谷寄りだった私が父の方向に振れ始めたような感じで。でもその頃には父も変わり始めていたというのも多分にあった、だから(不思議なことだが)こちらにもそれが伝わってきて私に影響を与えたのかもしれない。

 惣兵衛さんのかまどでの一件があった直後からテレビに顔を出すのをやめた父は、その後私との関わりが復活して少し経ってから全店舗の経営権を他社に譲り、事業の一切から手を引いた。それ以降は、なんだか勉強しつつ(商売とは全く関係ないことらしい)悠々自適、といったところだそうだ。去年里帰りした時はどこか悪いのかと思うほど静かに、というか穏やかになっていた。母は「どこも悪くないし、ぼけた訳でもないから安心して」などと言っていた。

 もしかしたら父は若い頃に学びそびれたことを改めて学び直しているのかもしれない、それは推して知るべし、だ。私の進路を発端として起きた騒動、松谷という場所やそこに住む人々、そして誰より悌市さんという存在が父に影響を与えていたとしたら、それが父が少し変わるきっかけになっていたとしたら嬉しい、というかなんだか誇らしい。そんな風に思ったこともあった、自分が信じたことを受け入れてもらえた感があったからだ。

 父の人生の軸は勝つこと、だけだった。それ以外は一切不要といってもいいくらいの勢いで突き進み、いつしか勝つことについてくる付加価値――社長さんとして周りの人に大事にされるようになり、母のような若くてきれいな人をめとり、大きな家を建て――の諸々を手に入れた。そういう諸々、はたしかにたくさんあった、でもきっとそれ以外は何もなかった。それでも手元にはとにかくたくさんのものがあったから、きっと幸せだと思いながら生きてきただろう、それははからずも私に新たな道を示してくれた布佐子さんが大嫌いな人間像そのもの、だ。

 ではそれらを手に入れる前、何も持たない、親すら持たない少年だった頃の父はどうだったのか。「一人なんだから強くならなきゃ、敵を負かさなきゃ、勝つための仲間を作らなきゃ」と歯を食いしばりっぱなしの日々、だったのだろう。仲間といっても勝つためなんだから、鼓舞はしてもいたわったり思いやったりする暇もなく(あるいはそんなところには思いも至らず)、というところだっただろう、そういう意味でも強すぎる人だった父だから。

 そういえば私に激高した二回とも、私にさえ勝たなければと思ったからなのかもしれない、と考えたこともあった。おとなしくて何を考えているのかいまいちよく分からない、でも自らの掌から一歩も外に出ないはずの娘、である私が刃向かった数少ない瞬間があり、咄嗟に(あるいは本能的に、といってもいいほどの強さで)「こいつに負けるわけにはいかない」と思った父の中には、そういう時に作動または暴発する何か、があるのかもしれない。それはきっと、母でさえおぼろげにしか知らない父の少年時代に蓄積された何か、に起因することなのだろう。父には手に入れるべき何か、失う訳にはいかない何かがあって、悲しい暴発を繰り返しながら諸々つかみ取り、守りとおしてきたのではないか。

 そうやって生きてきた中で、例えば寂しさだとか「何やってんだ俺は」的な思いとかが胸をよぎったとしても「こんなに満たされているのに」と思い直す、なんて癖がついていたかもしれない。それが習い性と呼ぶなら強すぎるところも習い性、もう軌道修正するまでもないところまで到達していたのだから考えること自体愚かしいこと、と思ってもいただろうか。

 でも悌市さんとお兄さんを傷つけたという過去が露呈したことがきっかけになって、娘の私を手放すことになった。自分のような人間を一番嫌う布佐子さん、かつての父にとっては実在を信じられない地だったであろう松谷という隠れ里、に私を絡めとられたという皮肉のおまけつきだったが、それも実は(母がいつか手紙に書いてくれたように)悌市さんのお兄さんの計らいだったんじゃないか、と思ってしまう。私が大好きな松谷で大好きな仲間と働く数年間は、父にとってはペナルティであり自身の歪んだ面を見つめ直すための数年間、でもあった。悌市さんのお兄さんが父に課したペナルティにはそれなりの効果があった、だからこその今、ともいえるような気がする。

 たまに、父と悌市さんが「惣兵衛さんのかまど」で鉢合わせした時のことを思い出す。あの時悌市さんが口にした言葉はどこまでが本当でどこまでが嘘だったのか、そして父は当時のことを覚えているか、ちょっと知りたくなったりもする。

 悌市さんが父に投げた「なんとも思ってない」という言葉は、本心だったのかどうか。私のために無理やり折り合いをつけようとしてああいう言葉が出てきたのかもしれないし、悌市さんなりのプライドがあって「今さら頭を下げられたくない」的な思いからああいう言葉になったのかもしれない。それに父の顔を見ればやはり昔の思いがぶり返してきただろう、「いろいろ忘れている」なんてのもまた違うはずだ、松谷の人々やそこでの日々にかなり癒されてきたというのがあったとしても。

 それで、父は。あのやり取りをどれくらい覚えているだろう。私が松谷に引越す時に母から貰った手紙によれば「随分変わった」となっていたはずだが、父は何を思ったのかを具体的に知りたかったし、やはりあのことが発端になって事業から手を引くに至ったのか、を確認したい思いもあった。多分というかほぼほぼそうなのだろうが、その辺のことを父から直接聞かせてほしかった、それこそ根掘り葉掘り。

 そんなことを思っている割には、東京に里帰りするといっても私は近くのホテルに泊まってしまうし、父も私のお店に顔を出したことは一度もない、というかまず新潟に来ようとしない。お互いがどうも気持ち悪い距離の取り方をしながら、似たようなことを胸に秘め少しずつ前に進んでいる、ような感がある。

 私にとって、父にとっての松谷とはどういう場所だったのか。

 法要の席で言ったとおり、私にとっての松谷は不思議な場所であり、そして今も変わらず大好きな場所、大事な場所、だ。この年でさすがに大好きとか大事とか言ってもいられないが、松谷の人にはこういう気持ちがちゃんと伝わっていると思う、それが一生変わることはないだろう、と大真面目に思っていることも。

 そして、法要の席で康祐さんに訊ねられて答えた「きっかけになった場所」という言葉を思い出した。なんのきっかけだったのかといえばそれは言うまでもなく、私がどう生きたいかを考えるきっかけになった場所、父がどういう人間だったのかを知るきっかけになった場所、ということだ。そこから大人としての私がスタートし、いろいろありながらも今も私は松谷から貰ったたくさんのものを活かし、大切にしながら日々を生きている。

 それから、もうひとつ。松谷はきっと、父が少し変わるきっかけになった場所、でもある。お互いがもっと密に関わろうとしない限りはどうしようもないが、例えばお互いの今を、「こんな風に生きてます」という姿を見せっこしたらどんな気持ちになるんだろう、父は経営者になった私をどう思い、私は父が机に向かっている姿を見たらどう思うんだろう。なんてことをちょっと思い描いてみたりする、そんなことがあったらまた二本の線の方向も少し変わるだろう。

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誰かのお墓 中野徒歩 @yabu_neko

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