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ドラマって何だ、盛り上がりって何だ。(若干負け惜しみ)

 正直いうと、自分が書いたものに対して「けっこういろいろ起きてる、流れも起伏もある」と思っていた。人がいて(地味であれ)人との関わりや出来事があって、その積み重ねが結末というのを連れてくる。全然それに足るだろう、と思っていた。

 例えば、新潟には、江戸末期から明治にかけて活躍し「越後のミケランジェロ」の異名を持つ彫刻家がいた。彼は雑司ヶ谷の人だったが、越後の商人に「良い鑿と酒を与える」と誘われて現在の新潟県三条市に移り住み、当地の本成寺やその塔頭、魚沼などに作品を残した。
 彫刻家が江戸から越後に移り住むに至った経緯、そのきっかけになった人との出会いや関わり、越後に居を構えたことで起きた変化、後の新潟に残った作品ひとつひとつに隠されたエピソードや、作者・周囲の人々の思い。
 そういう中で、まっすぐだったものに少しずつ角度がついたり、平らだったものが丸みを帯びたりとんがったり。そんな変化が小さすぎて分からなかったり地味すぎたりすれば「つまらない」となるけど、何かの節目やきっかけになるのは確かだと思うんだ。まあ盛り上がりと呼べるだけのインパクトがあれば、それに越したことはないけど。
 私なんかはそういう小さいことひとつひとつにドラマがあって書く価値があるものだと思うし、その連続体がひとつの物語になってれば別にいいんじゃないか、と少しなめたような考え方をしている。

 年が年だからラノベは読んだことがないけど、例えば件の彫刻家の人生をラノベ化したらどうなるんだろう、彼が現代社会に蘇ったりこっち側の人が彼の時代に遊びに行ったりするんだろうか。
 そういうのがドラマなんだ、という世界もある、それもあり。というか嬉しい、あの彫刻家が現代社会に来たらどんな作品を生み出してくれるんだろう。
 とか書きつつ、私は正直そういう世界についていけない。でも、ついていけないから全否定します、なんて短絡的なことはいわない。
 ただ、私が書きたいこと/書けそうなことはちょっと別の場所にある。このことを、今これを書きながらはっきり自覚した。

 阪神大震災の時に、ある人がテレビのドキュメント番組か何かで「6000人以上の犠牲者、そのひとつひとつの命にドラマがある。数で片づけちゃいけない」みたいなことを言っていた。もう20年以上も前に聞いたこの言葉が発露になってるのかな、と今思ったけど「そういうこと」なのかもしれない、そういう話なら私でも書けそうだし書きたいと思える。人嫌いなのに矛盾してるかもしれないけど。
 それはweb小説の体ではない、だから誰にも読んでもらえないんだ、ってことになるのかもしれない。でも私自身、そういう括りはあんまり気にしてない。
 思いっきり、ハードルを地面にめり込むぐらいに下げて「はなし」が書きたい。それなら別にいいでしょ。

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