この文章は、自分なりの真摯さは持ち続けていたいものだな、みたいな気持ちから書きました。そのために言葉が荒くなって、人様に誤解を与えたり傷つけたりするものになっているかもしれません(自分の気持ちを表現するって難しいものです)。
なので私が書いたものは他の方には目の毒、になるものかもしれません。もしそうだったらスルーしてください、「頭が沸いてる奴がいるw」とでも思っていただければ。
(でも読んでほしい、という面倒くさい人間でもあるのですが。ごめんなさい矛盾だらけです)
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始めたばかりのツイッターで、カクヨムにおられる方数人をフォローさせてもらってる(ごめんなさい)。皆さんすっごい書いてるんだなーと思う、10万字超えの作品をいくつも書いてる人もいる。
もともとマイペースな私はといえば、書く方でもそんな感じで。3年前から書き始めて数万字レベルのものを年1編、その合間に地元紙の賞に応募してみるか、と短編をぱらぱらと。
ハイペースでたくさん書ける人は、書くことを楽しむ/書いたもので楽しませる、ということができている人なんだと思う。
私はその辺、どうか。
例えば、ぽっとあるビジュアルが浮かんできて、そこに自分が考えていることや伝えたいことを乗っけられそうだと思えば、そこに肉づけしてひとつの物語にしよう! と頑張ってみる。拙作「誰かのお墓」を、そうやって書いた。海老ケ瀬(新潟市東区。昔ながらの農村集落と新興住宅地が混在している、今時の新潟にはありがちな場所)で見かけた竹の茂みに囲まれたお墓の記憶に、近郊の某温泉みたいな小さいけど頑張ってる温泉街とか里芋みたいなおっちゃんとか主人公の進路とか、を後乗せしてみたらああなった。
もっというと、考えているものや伝えたいこと、そういう何かが湧いてこないと書けない。脳内のものを煎じ詰めて一気呵成に放出する、という書き方しかできなくて、他からインスパイアされてこんなん書いてみました、というやり方では書けない。いかにも狭量な私らしい。自分の中の何やかやとならとことんまで向き合うことを是とし、かつそこから生まれたものをばら撒こうとする迷惑な奴、だ。
そんなわけで今の私は読書家じゃないし、好きだった音楽だって聞きもしない。高校の時、大江健三郎が分からなくて「私は馬鹿」と思い知らされたような気がして(当時の私としては挫折、だった。今はあんな凄い人の書くものなど分からなくて当然、みたいに思えてしまう。たしかそれ以来読んでもいないし)、でも音楽はよく聞いた。主に1960年代後半~70年代前半の洋楽に走ってたけど、ジャニス・ジョプリンが一番しっくりきた。私が抱えていた心の謎みたいなものを解く、あるいはそういうものを抱えている私に寄りそってくれる存在、と勝手に思ってしまった瞬間があったんだと思う。
ちなみにジャニス本人はとっても奔放な女性だったので、色恋関連の曲をドスの利いた声でがなり立てる、という人だった。だから私が今もほんの少し抱えている(平たくいえば)生きづらさ、みたいなものにはかすりもしないはずだけど、英語の歌詞のいいところでというかなんというか、私はその辺を思いっきり勘違いしたことで救いを得る、ことになった。
もっともジャニス本人にも生きづらさ的なものは少なからずあったようで、歌にかすかに乗っかっていたそういう要素に私がうまいこと反応できた、というところだったのかもしれない。
そんな中で岡村靖幸の歌に出会った、姉が彼のファンだったんだけど。彼もまた色恋関連、どころかそれを通り越してエロいとまでいわれる歌ばかり歌っていた(初期は。今はよく知らん、そういえば在日ファンクの「爆弾こわい」をリミックスしてたな)。
でもこの人、単にフラれた歌だったはずがいつの間にか自分の掌に己が弱さ小っちゃさを乗っけてまじまじと見ているような、そんなところに着地させる詞を書く人で(私見です)。やはり色恋などすっ飛ばして刺さってくるもの、があった。
どうしてそんな詞を書けたのか。岡村自身、己が云々かんぬんについてものっすごく考えてて(お父さんが転勤族で、新潟で暮らした時期もあったそうだ。新潟だけでなくそれなりの何やかや、もあったんじゃないか)そういう気持ちを誰かに伝えたくて、同時に若者らしく色恋にも興味があって。そういう思いが強く強くなって、もうのっぴきならない、というところまで行った末に、ああいう歌詞たちが生まれたんじゃないか。
それで、おばちゃんになってから彼の歌について勝手に考えてみた時に、「表現する用事」という言葉を思いついた。
きっと、表現する用事があったんだ。
そんな姿勢(って勝手に思い描いたものだけど)にリスペクトした瞬間があったから、かどうかは分からないけど。
書くこと=大事なこと、という思いだけはやたら強いようで、私にとっては怖いし面倒くさいもの、厳粛であって自分の中の何かを削り取るようにして進めていくべきもの、とさえ思っている節がある(そんなこと語ってるとかっこいいし、みたいなのが自分の中に見え隠れするのが情けない)。セオリーも流儀も他者の目もすっ飛ばして、ただもう煎じ詰めたものを、みたいな。かくして、自己満足の結晶ができあがる。こんなやり方してても、書いてる時はそれなりに楽しかったりするんだけど。
こういうのを書くことの芯にしてもいいのなら、自己満なんて言わずに胸を張っていたいところだけど。
でもそれだけでもなさそうだ、と最近思い始めた次第。
楽しむには心の余裕が必要で、楽しませるには周りに向ける目も必要で。もちろん、それプラス技術。とりあえず、周りを遮断している(わざとこうしてるのかどうかさえ忘れた)今の私にはできない芸当。
でも、それができたらもっと楽しくなるんだろうな。楽しみながら書き、自分が書いたもので楽しませることができる人だって結局は「自分の『これが面白い!』」を表現してるんだもんね。