東十条さんはアカウントを持っていない
夏野けい/笹原千波
それでも彼女は物語を愛している
テレビで流れるクリスマス時期のCMに、苛立ちを覚えるようになったのはいつからだろう。小学生の頃は純粋に冬休みが楽しみだったし、中学に上がってからも別に平気だった。世間の浮かれた人々に腹をたててしまうのは、断じて僕には予定の一つもないからではない。期末試験が近いせい。
中途半端な学力で進学校に入ってしまった僕の期末は地獄だ。提出物ラッシュと試験勉強で嫌でも焦りがつのる。今日の放課後は、遅れている情報の授業の課題を進めることに決めていた。予定はひとつひとつこなさないと。そういうわけで職員室までパソコンルームの鍵を借りに来たのだが、すでに他の人が持って行ったと言われてしまった。微妙な徒労感をひきずりながら廊下を戻る。
パソコンルームの鍵を僕より先に借りていったのは
だからといって直接たずねることなど出来はしない。地味男子として十把一からげの僕と、正統派美人かつ優等生でいいとこのお嬢様な東十条さんの間に接点などないからだ。
派手さのない整った顔立ちのために隠れファンは多いらしいが、浮いた話を聞かないのはきっと彼女につきまとう「お嬢様伝説」にあると思う。出回っているのはおそらく尾ひれがつきまくった噂だけど、そうとうな箱入りなのは事実なんじゃないだろうか。
例えば月のこづかいが十万だとか。黒塗りのリムジンから降りてきたところを見たとか、通学に使用人がついてくるとか。
嘘だとしても、火のないところに煙は立たないわけで。そんな伝説が生まれてしまう女の子にちょっかいを出す者はなかなか現れないようだった。かくいう僕も、彼女を前にすると憧れまじりの緊張で固まってしまう。
パソコンルームの重たいドアを押し開けると、彼女は奥のほうの席に座って画面を見つめていた。なにか文章を読んでいるのか左右に瞳が揺れている。僕に気づいた様子はない。音を立てないようにドアをゆっくり閉めた。
何をそんなに熱心に読んでいるのだろう。気になって仕方なかった。上履きの足音を忍ばせて彼女に近づく。課題のための資料にしては、ときどきふわっと口角が上がるのが不思議だ。そう、彼女はやけに楽しげに文字を追っているのだった。
彼女の瞳が動きを止めた。もう僕は彼女のすぐそばに到達していた。まばたきを何度か繰り返した瞼のへりに、うっすらと涙がたまっているのが見えるくらいだ。その見つめる先を追って、僕は心臓が止まりそうになる。
余白の多い画面に横書きの涼やかな明朝体、あまりに見慣れたレイアウトだった。そして表示された文章を認識して目眩を覚えた。
僕の小説だ。見間違いようはない。昨日カクヨムで公開したばかりの、僕の書いた短編だ。それをパソコンに映し出して、彼女は目を潤ませている。いや、ただドライアイってだけかもしれないけど、現実に僕の書いたものを目の前で読まれたのは初めてだ。だから、どうしていいかわからずにじっと息を止めていた。
ふいに彼女の顔が画面から離れた。気配に気付いたのだろう。逃れようなどなく、視線が合ってしまう。
「あっ、えっと、あの。声かけずに入ってごめん。覗き見とかそんなんじゃないんだ、ほんと」
これじゃ覗いてたって自白しているようなものだよな。彼女はきょとんと首をかしげながらもブラウザを閉じる。器用なことだ。
「別に入ってくるときに声を掛ける必要はないかと思います。ただ、授業に関係ないことをしていたので後ろめたくて。誰にも言わないでくれますか?」
あまりに理知的で丁寧な返答に、僕は少しがっかりする。無意識のうちに、仲良くなるきっかけにしたがっていたみたいだ。そのせいか、僕の口は思わぬ言葉を吐き出した。
「いいよ。ねえそれより、見てたのってさ、小説だよね。カクヨムって投稿サイト」
口が滑ったな、と思ったときには手遅れだった。
「それさ、書いたの僕なんだよね」
後悔先に立たずとはまさにこのこと。僕の脳内では、クラス中に言いふらされ、寄ってたかって
「
彼女は大きな瞳に光をいっぱいためて僕を見上げる。僕の両手を握りしめながら。僕の手を包み込む温かなものは彼女の手のひらだ。すらりとした印象の指だけど感触はすさまじくふんわりとしている。これが女の子の、手。
血の気の引いた頭を必死に支えていると、彼女はなおもぐいぐいと僕に詰め寄ってきた。
「ずっとお話ししてみたかったんです。今日はこのあとお時間ありますか? 駅どっちです? 一緒に帰りません?」
「ちょ、ちょっとまって」
「はい! いくらでも!」
彼女の豹変におののきながら、まずは落ち着こうと呼吸を繰り返す。うん、少しは考えが整理されてきた。
「同級生なんだし、敬語やめない? あと恥ずかしいからペンネームで呼ばないでほしい」
「えと、本名……って。角田くんでいいのかな」
「うっ……まぁ、そうだね……」
苗字が思いつかなくて本名にしたのは失敗だった。こんなことなら根気よくいい感じのやつを探すんだった。やたらに恥ずかしい。
まさか僕に熱狂的なファンがいたなんて。それだけでも冗談みたいなのに、同じクラスの、ちょっと憧れていた女の子だなんて。僕はさりげなく自分の指に爪を立てる。うん、痛い。少なくとも夢ではないようだ。
冷静になると、彼女の目の前にあるまっさらなデスクトップが気にかかった。課題のファイルも無ければ、USBメモリもささっていない。びっくりするくらい作業の形跡がないのだ。
「そういや東十条さんは作業しないの?」
「私、本当はもう終わっているの」
「へ?」
「角田くんの小説が読みたくて、課題のためって言って鍵借りてきちゃった」
読みたい、と鍵を借りた、の間につながりが今ひとつ見えなくて、僕は首をかしげた。
「スマホだと見づらい? あっ、ガラケーなのかな。家ではパソコンしないの?」
「親がうるさくて……スマートフォンも家のパソコンも全部履歴見られちゃうの。しかも他人とつながるようなサイトは全部ダメって言われるし」
「繋がるって、見るだけで? アカウント取らなきゃ交流もなにもないじゃないか」
「そこらへんよく分かってないのに禁止してくるから困ってるの」
彼女はふう、と息を吐き出して言う。眉が曇っている。
「でもいいの、今日は角田くんの小説をぜんぶ読めたから」
「じゃあもう帰っちゃうの?」
「うーん、まだ時間あるし、他の人のも読もうかな」
そのとき僕の胸に訪れたのは、独占欲にも似た感情だった。僕の話をもっと読んでほしい。贅沢な話だけど。ともかく僕は、鞄に手を突っ込んで何枚かのコピー用紙を取り出した。三回めの推敲をする予定だった未公開の小説。
「これ、まだ公開してないやつ。よかったら読まない?」
「新作! いいの?」
「もちろん。二回は直したからまあ読めるはず」
僕の語尾が消えないうちに、彼女は紙面に目を落とした。僕は彼女の隣のパソコンをつけてUSBメモリを差し込む。課題には、全然集中できなかった。
☆☆☆
最終下校の鐘が鳴る。僕と東十条さんは並んで学校を出た。噂になりそうなシチュエーション。だけど幸いにして、この時間まで残っている人はほぼいない。試験前だから部活もないし。
「駅が一緒でよかったよ。感想聞きたかったからさ」
「私も、角田くんと帰れて嬉しい。ずっと話してみたかった。ほら、アカウントないから声のかけようがなかったの」
東十条さんは横顔もとんでもなく整っている。ふわりと赤みを帯びた唇が紡ぐ、静かに熱っぽい言葉。僕は恋してしまわぬように彼女からそっと目をそらす。
「今度の小説も面白かったな。なんの気兼ねもなくいつでも読めたらいいのに」
「プリントアウトして渡そうか? 公開していないやつもあるよ。僕も東十条さんが感想言ってくれたりしたら嬉しいし」
「持ってきてくれるの! 絶対読む!」
「あっ、でも学校で渡すと妙な噂が立ちかねないよな……。どっか外で会ったりできない? 一分で済むからさ」
口にしてから気づく。これはデートの誘いってやつではないのか。いや、ちらっと会うだけだから違うはず。
しばらく沈黙があった。気になって視線を彼女に戻すと、思い切り目が合った。瞼のふちの造形美が僕の視界に飛び込む。
「日曜日は図書館で勉強することになってるの。家にいても息がつまるから。隣の駅のそばにある図書館、わかるかな。お昼から四時くらいまでいるよ。都合わるくなかったらそのとき渡してほしいな」
小首をかしげながら彼女は言う。さらりとした、黒い水の流れのような髪が揺れる。
「それと、東十条って長いでしょ?
これは良くない。うっかり好きになってしまいそうだよ。
☆☆☆
日曜日はすぐにやってきた。待ち遠しさよりも日々の忙しなさばかり感じていて、でも頭の隅ではいつも考えていた。
図書館に向かう道中、やけに心臓が動くのを感じていた。話すのさえ慣れないのに、外で会う緊張がどれほどのものか察してほしい。
初めて来たので、探すのに少し手間取る。彼女は奥の窓辺の机でハードカバーの本を広げていた。かっちりした感じの、フィクションのなかの真面目なお嬢様みたいな洋服で、背筋をぴんと伸ばして椅子に腰掛けている。
「詠子、さん」
呼び慣れない女性名は僕の口からぎこちなくこぼれる。彼女が振り向く。固い蕾が一気に開いたみたいな笑顔だった。
「角田くん。来てくれたんだ」
「来ないわけないじゃないか。大事な読者さんなんだし。こんな身近にいると思わなかったけどさ」
僕は鞄をひらいてプリントアウトを取り出す。何故か彼女も自分のバッグをごそごそやっている。中からは教科書の背表紙がのぞいていた。
「これ、言ってた小説。今度感想聞かせてくれると助かる」
僕はそれだけ言ってきびすを返そうとした。目の前で読まれるのは恥ずかしい。だけど僕の左手は、彼女の指にとらえられてしまった。案外強い力で引かれて足が止まる。
「あのね、これ」
空いているほうの手で、彼女が金平糖の袋を持っている。パリパリした透明なフィルムの先で、青の濃淡で染まった砂糖菓子がひしめく。
「プレゼント。甘いの、好きじゃないかもしれないし、迷ったんだけど、角田くんには星をいっぱいあげたくて。これなら青いし、ぴったりでしょ?」
僕は彼女の手からそれを受け取る。ささやかな重さのそれは、涙が出そうなほどの深い意味を持っていた。袋いっぱいの星。三つでエクセレントだったらそれ以上はなんだっていうんだろう。
「やっぱり、しばらくここにいていいかな」
僕は彼女の隣の椅子を引く。彼女は微笑みと共に頷いて、僕が書いた小説に目を落とした。
東十条さんはアカウントを持っていない 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
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