第9話 ごめんね

 今すぐ加奈ちゃんを問い詰めたいくらいだ。あの時、何でキスなんてしてたの、とそんな風に。だけど私は、それが出来ないでいる。単純に怖いのだ。キスをしなければならない事情とはどんな事情だ。そんなもの、ないだろう。お互いがお互いを好きだからそれを示すためにキスをする以外に、理由がない。少なくとも私が加奈ちゃんにキスする理由がそれしかない。

 だから、怖かった。加奈ちゃんに捨てられることが怖かった。加奈ちゃんが私のことを嫌いと言うのが怖かった。

 加奈ちゃんが私に死んでほしいと思うかもしれないことが怖かった。

 今日は火曜日だった。月曜日は学校を休んで、一日中怯えていた。布団にくるまり、私の何がいけなかったのかと悶々と考えていた。

 答えは一応出た。たぶん私自身の全部だ。

 だからと言って落ち着けるわけもなく、すごすご学校へ来てこうしてまた怯えているわけだ。

 加奈ちゃんと、私に怯えながら。

 「……」黙って弁当を食べる。いつもなら白米の甘みを感じるが、今日に限っては異物感しかなかった。舌の動きもどこかたどたどしく、体が若干火照っている。

 要するに、緊張していた。

 「…どうしたの、風香?」加奈ちゃんがゆっくり訊いた。

 どうしたのって。理由が分からないのだろうか。

 いや、もしかしたらあのとき見たのは別人だったのかもしれない。

 そんな考えが頭を過ったが、私が加奈ちゃんを別人と見間違えるわけなかった。

 「…何でもないよ、なんでもない」自分でもわかるほどぎこちなく笑って、誤魔化した。

 「そんなわけないでしょ。顔色悪いし、声震えてるし」

 「そんなことないって」

 「…なにかあったなら、私に相談してよ」

 加奈ちゃんがキスしていたことを、加奈ちゃんに相談する。それが出来るならこんなふうに苦労はしていない。

 「昨日一日休んだし…もしかして、美坂と出かけたときなんかあったとか」

 「…あのね加奈ちゃん」

 「ん?」

 「…私の嫌な部分、言って」

 「……は?」加奈ちゃんは理解不能だと言わんばかりに首をかしげる。「そういう時は好きなところを言わせるものじゃ…」

 「それじゃ、意味がないの」

 「意味がない…どういうこと?」

 「いいから、お願い」

 「いや良くないでしょ」

 「……直すから。嫌なとこ、全部直す。だから、お願い」

 「……」加奈ちゃんは少しの間黙ってから、「…ないよ、そんなもん」

 「嘘吐かないでよ…」

 「本当だって。なにも無いよ」

 「……」

 何も言ってくれない加奈ちゃんをよそに、私は考え込んだ。なんだろう、なんだろう、と昨日ベッドの上で散々考えたことをまた繰り返した。

 加奈ちゃんが私に求めていたこと。それなのに、私がそれを満たせなかったこと。それはきっと、先週のやつだ。

 ぼっと顔が熱くなる。だけど、恥ずかしいとか言ってられない。やり方もちょっ分からないけれど、やるしかない。

 「加奈ちゃん…」私は加奈ちゃんに向き直って、抱き付いた。

 「…どうした?」

 「が、頑張るから…」

 「え…わっ」

 私はそのまま加奈ちゃんを押し倒した。意外にも力を必要としなかったのは、加奈ちゃんが気を抜いていたからだろうか。

 私はこんなにも、加奈ちゃんのことで悩んでいるのに。

 自分のワイシャツのボタンに手をかけた。上から順に外していく。いくつか外し終えた時点で、加奈ちゃんも私のしようとしていることに気付いたようだった。

 「ちょ…風香? こんなところで、なにを…」

 「…頑張るから」

 「まって、まってって」

 そんなこと言われたって辞められるわけもない。個人的にそんな気分になってることもあるし、これが失敗だったら私はもう終わりなのだ。

 私はもう既に死んでいる。あのファストフード店で加奈ちゃんを目撃してから、その瞬間に。だからいまはゾンビだ。血清が欲しい。誰かの愛が、加奈ちゃんの愛が欲しい。

 こんなことを思っているから愛想を着かされるのかもしれない。

 けれどだって、それくらい好きなんだ。加奈ちゃんのことをどこまでも深く愛しているのだ。

 「…ごめん。上手くできないかもしれないけど…頑張って、気持ちよくするから」

 加奈ちゃんのボタンを外しにかかる。外は少し寒いけれど、他のいい場所が見つからない。加奈ちゃんの家はあの男がいるのかもしれない。そもそも連れて行ってくれないかもしれないし。私の家もそうだ。付いて来てくれないかもしれない。

 だから、誰も来ない二人きりのこの空間じゃないといけない。

 「風香、ちょっと、ほんとどうしたのって」

 加奈ちゃんは振りほどこうとするが、案外私の力が強いみたいだった。

 

 「ふうか…怖いよ…」

 

 加奈ちゃんが泣きそうだった。

 その表情を見たら、言いようもない後悔が押し寄せる。焦燥と、後悔と、恐怖と、性欲と、愛したい気持ちと、愛されたい気持ち。それらが頭の中で混ざりだした。

 私は、加奈ちゃんを怯えさせたかったのか。

 いや、違うよ。

 加奈ちゃんが求めていることに応えたかった。それなのにどうして、今加奈ちゃんはこんなふうに涙を瞳にためているのか。答えは簡単なはずだ。単純明快に、加奈ちゃんが欲しいのはこんなものじゃない。

 「…それでも、仕方ない」私はどうしようもなくなった。思考が停止した。

 私の体の中には、遂行すべき任務だけ残った。

 「…っ」ゆっくりと、加奈ちゃんにキスをする。

 あの男としていたみたいに、舌を絡めてキスをする。

 もうこれしかできなかった。何も考えたくなかった。これが正解だと思いたかった。

 「…ん、むあ、ふっ…かぁ」

 ぐちゃぐちゃと気色の悪い音がした。なんの心情もわかない。ただの舌を絡めるだけの行為に、なんの意味もない。

 「…やめっ…ふぇ」

 「ごめん…ごめんね…」

 気付けば謝っていた。謝るくらいならなんでこんなふうに襲っているのだろう。どこか他人ごとになっていく。

 目のあたりが熱くなって、加奈ちゃんの頬に私の涙が落ちる。

 なんで、なんでこんなことになったの?

 う、うう、と嗚咽となっていく。

 やがて私は加奈ちゃんに馬乗りになったまま動けなくなった。

 「風香…」加奈ちゃんは私を真っ直ぐに見て言った。「…泣いちゃヤダよ」

 「だって…ごめん、ね…」

 「…なんかあったの?」加奈ちゃんは荒い息遣いの中、優しく言った。

 「……」しばらく答えられないでいた。加奈ちゃんは、私があの男のことを知ったと分かったら、どんな反応をするだろう。そのことが引っかかって、声が上手く出せない。しかし、このままでも加奈ちゃんを困惑させただけになってしまう。言わなきゃいけない。どうして、と加奈ちゃん本人に。

 私はなんとか小さな声で言う。「…一昨日まで」

 「うん」

 「一昨日まで、全部順調だと思ってたのに…」

 「……」

 「それなのに、どうして…」

 そこで、屋上の扉が開く。同時の声がしたのもあって、誰が来たかはすぐに分かった。

 友子ちゃんだ。

 「よーお二人さん、待たせたな」友子ちゃんはいつも通りに挨拶をした。それから、この状況に顔を歪める。私が加奈ちゃんに乗って、お互い服が乱れている姿は、快いものではない。「…なに二人で盛り上がってんの」

 「……」私も加奈ちゃんも、黙ったままでなにも返せなかった。

 「まあ、薄々勘づいてはいたけどね。あんたら二人、友達以上の空気感だったし」

 「…驚かないの?」加奈ちゃんが言った。私は下を向いたままだった。

 「そりゃ、この状況には驚くけど。外でやるなよって思う。加奈たちが付き合ってたことについて言うなら、友人の恋人が男だろうと女だろうと私にはさして関係ないから、安心しな」友子ちゃんは言ってから、こちらへ近づきながら続ける。「あんたらが何をやるのも自由だけど、でもね、私の友人を傷付けるようなことをするのは看過できない」

 言って、友子ちゃんは私を加奈ちゃんから引き剥がした。抵抗はしたが、いとも簡単に友子ちゃんは私を動かした。

 「服戻しな、風香」

 「いや…」

 「私の前でセックスしたいのか?」

 「……。出てって」

 「嫌だよ」

 きっぱりと言い放って、友子ちゃんは私のワイシャツのボタンを留め始めた。それに抵抗することなく、私は項垂れたままだった。

 また、失敗した。

 こんなの仮に続けられていたところでなんの意味もない。

 「……」ぽろぽろ涙が落ちていく。こんなの、私も加奈ちゃんも望んでない。そのはずなのにどうして、どうしてこんなことになったのだろう。

 加奈ちゃんはどうして、私を裏切ったのだろう。

 「加奈も、いつまでも前開けてないで」

 「あ、うん…わかった」

 加奈ちゃんがボタンをつけ終えたところで、友子ちゃんはため息混じりに言う。「こうなるだろうことは、予想はしていたんだけどね」

 「…そうなの?」

 「…そうなの、じゃあないだろ」友子ちゃんはつまらなそうに言う。「昨日、あんたが知らないやつと、恋人ふうかじゃないやつと、キスしてるのみてたから」

 「…っ!? なんで…あの場にいたの?」

 「いたよ。風香と二人で。だから、風香もみてたんじゃないの? あんたのキスシーン」

 「…つけてたの?」

 「そんなわけないだろ。私ら、街に出て食事してたんだ。あの店で」というか論点はそこじゃないだろ、と友子ちゃんは続けた。

 そう、そこじゃないんだ。私たちの間にある問題は、そこじゃない。

 なんでそんな、時間稼ぎみたいなことをするのだろう。

 それとも、これは私だけの問題なのだろうか。

 「あんたには関係ないでしょ」

 「風香には、関係ないことないだろ」

 「……」加奈ちゃんは黙った。黙ったまま、俯く。

 「加奈ちゃん、私、あの…ごめん」

 「なんで風香が謝るんだ。加奈が悪いだろ」

 「でも…」

 「……風香は、関係ないから」

 「…え」

 「風香にも関係ないことだって言ったの」

 突然発せられた、加奈ちゃんの言葉が響く。脳に響いた。

 関係ない。その言葉はナイフの様に私と加奈ちゃんの間にあるはずのつながりを断った。張りつめていた緊張の糸が緩んだ。同時に、加奈ちゃんとの糸でつながっていた私の体は奈落へ投ぜられる。そんな感覚がした。

 関係ない。加奈ちゃんが私以外とキスすることに関係ないなら、私は加奈ちゃんのなんなの? 恋人じゃなかったの? ただの友達?

 こんなにあなたが好きなのに。

 あんなに愛してくれたはずなのに。

 あなたにとってはなんでもないことだったの?

 「…そっか」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。頭が空っぽになって、感覚があまりない。音も景色も温度も感情も、全部なくなってしまった。モノクロのように味気ない。本当は見えているし、聞こえているし、感じているのだろう。けれどたぶん、それを自覚してしまうと私の中の大事なものが壊れてしまうのだと思う。

 涙さえ臆病になっている。

 加奈ちゃんと友子ちゃんが言い合っていたように思うが、あまり覚えていない。聞いていなかった。

 どのみち、このまま私は死んでしまうのだ。あの夢の通りに。加奈ちゃんがいなくなったら私は死ぬのだ。

 …口には出していないけれど。

 加奈ちゃんは私に死んでほしいと思ったのだろうか。

 それが飛躍しすぎな考えであることはわかっていた。

 …いや、実のところそうでもないのかもしれない。

 加奈ちゃんはもう私の近くにはいないのだ。当然ながら、私も加奈ちゃんの近くにはいない。だから、私と加奈ちゃんはお互い死んでいようと生きていようとよくわからない状態になっているわけで。

 生きているとも思えるし、死んでいるとも思える。

 加奈ちゃんが好んでその状況にしたという事実。

 それは私のことを死んでいると思いたかったのではないか。ひいては、死んでほしかったのでは、と。

 加奈ちゃんは人当たりがいいからなあ。面と向かってそんなこと言えるはずがなかったのだろう。

 「……」

 加奈ちゃんが言うなら、死んでもいいのかもしれない。ここは夢の中じゃない。本物のナイフもあるし、首を吊るための縄も柱もあるのだ。

 ここから飛び降りても良いな。柵はあまり高くない。私でも乗り越えられるだろうか。

 よし、と立ち上がって足を踏み出した。けれど、なかなか前には進めなかった。

 「……」

 「…かっ! おい、風香!」

 友子ちゃんの叱責するような声が聞こえて、私ははっと振り返る。

 「…さっきから呼んでたんだけど」

 友子ちゃんは怒ったように言う。

 いつの間にか加奈ちゃんはいなくなっていて、私と友子ちゃんだけが屋上に残っていた。

 友子ちゃんが私の腕をつかんでいる。結構強く。通りで前に進めないわけだった。

 「…離して」

 「いやだよ。今追っかけたって無駄だ…加奈はなにもわかっちゃいない」

 どうやら友子ちゃんは私が加奈ちゃんを追いかけるつもりだと思ったらしい。

 そんな、加奈ちゃんが嫌がることはしたくないに決まっている。

 加奈ちゃんはきっと、私がそばにいるのは嫌だろうから。

 「そんなことしないから…離して。痛い」あくまで感情を押し殺して言った。

 「じゃあ」友子ちゃんは言って、そのまま私の腕を引っ張って抱き寄せた。「これで」

 「離して…」

 「いやだよ」

 「……」私は仕方がないので抵抗せずに友子ちゃんに身を任せた。

 しばらくお互い黙り込んで、次第に生徒の怒声が遠くに聞こえてくる。昼休みになったようだった。

 友子ちゃんの温度が私に伝わる。暖かい。

 徐々に、景色が色づいて行く。氷が解けて行くかのように、徐々に感覚が戻って行く。同時に感情も戻ってくる。私はもう一人なのかと感じ入る。

 「…いったん落ち着け」

 友子ちゃんの声がして。

 一人ではないことに気が付いた。

 今日はもう、死なないでおこうか。友子ちゃんには迷惑をかけた。友子ちゃんに何も言わずにいるのだめだと思う。

 「……。…。ごめんね、友子ちゃん」私はおずおずと口を開いた。

 「…いいよ」

 「私と加奈ちゃんのことに、巻き込んでごめん」

 「なおさら」

 「…もう大丈夫だから。もう平気」

 友子ちゃんに笑って見せる。

 「……」友子ちゃんはなにも返さない。「…私の前で無理しなくていいよ。大丈夫なわけないだろ」

 そりゃ、大丈夫なわけないけれど。

 加奈ちゃんの香りが恋しいとか。声が聞きたいとか。抱き締めてくれているのが加奈ちゃんだったら、とか。

 でも、大丈夫じゃないと駄目なんだ。大丈夫だと思わなきゃ壊れちゃうから。

 「…今だけは何も考えなくて良いから。私が、全部受け止めるから」

 嬉しかった。受け入れてくれるというその言葉が、この上なく。

 「…優しいんだね。私、友子ちゃんが喜ぶこと、なにもしてないのに」なんで、と続けた。

 「友達は損得勘定でやるもんじゃないだろ」友子ちゃんは言ってから、「それに、友達になってくれて嬉しかった」

 「…それは私のほうだよ」

 「……風香は知らないかもしれないけど、私、風香のこと前から気になってたんだ。何かあぶれてるのがいる、って。加奈に紹介されたとき、しめたって思ってたから。だからさ…ね…」

 「うん」

 「あの…加奈とちょっと揉めたくらいで、あんま落ち込むなよ」

 「…ごめん。ありがとう」

 「ごめんはいらない」

 「…ありがとう」

 「よろしい」

 友子ちゃんは優しい笑みで言った。加奈ちゃんがいなくても、私は友子ちゃんに愛されているんだな、と思う。悲しさは軽減された。喪失感はぬぐえない。

 それでもやっぱり、寒くはなかった。

 「…私は風香のことが好きだからさ、絶対、一人にはさせないから」

 言いながら私の体をぎゅっと抱きしめる。私は友子ちゃんの香りを吸いこんで、友子ちゃんの温度を感じて、友子ちゃんを実感した。

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