第8話 好きだよ、加奈ちゃん

 水が床に落ちる音で目が覚めた。シャワーの音だということはすぐに見当が付いたが、ここがどこなのか、即座には解らなかった。心地良い暖かさが体を覆っているので、布団の中であることは予想できる。どことなく固いので、うちのベッドでなく布団を床に敷いて寝ていることは確かだ。

 ん、と隣を見ると私の腰にしがみついたまま眠っている風香の姿が目にうつった。それで思い出して、なんか目がさえた。

 今日は風香の家に泊めてもらったのだった。

 風香を眺めて、可愛いなあ、と一人でにやにやする。気持ちがわるい、と自分で思った。

 ぷにぷに、と頬を二度つつく。ぷにぷにぷにぷに、と頬を何度もつついた。柔らかい。起きてしまうかと思ったが、風香はぐっすり眠っている。よっぽど疲れたのだろう。

 風香が感情をむき出しに、言葉を発しているのを初めて見た。ここ最近べったりだったのはなんとなく演技っぽかったけど、今日に限っては素で甘えてきたようだった。なんというのだろう、感慨深いのもあるけれど、破顔一笑の風香の現実感のなさといったら。まあ、これを本人に言ったら怒ってしまうだろうけれど。

 母親に対しては、あんなふうに甘えるのだろうか。それとも、私だけに心を開いているのか。美坂にはあんな感じなんだろうか。

 …なんにせよ、私はきっと、風香に認められたんだろうな。恋人として、理解者として、風香のそばにいることを今日やっと認められたのだ。風香の何を理解できているわけでも無いが、風香が私のそばにいたいと思ってくれたからには、私を好きだと心から思ってくれたからには、それで私は嬉しいのだ。

 これがいつまで続くかは解らないけれど、いつまででも続けるには、どうしたらいいんだろう。

 がら、と洗面所と居間を隔てる戸が開いた。浴室から流れ出る蒸気が顔に当たって、少し暖かい。部屋の湿度が一気に上がった。

 かち、とほんのりとした間接照明が点いて、寝間着姿で顔が上気した、どことなく色気のある女性が浮かび上がってきた。風香に似ている。風香がもう少し成長したらこんなふうになるだろうか、という感じだ。

 少し疲れているような印象を受けた。

 緊張して顔が熱い。風香と私がここに寝ているということは、シャワーを浴びていたこの人が風香のお母さんということになる。

 「ふぃー」彼女はため息を吐きながら壁に凭れて座った。

 「あ、あの…!」意を決して、私は声をかけた。居住まいを正す。風香はそのまま眠っているが、ずるずると私に引っ張られた。

 「あら、起こしちゃった。ごめんなさい」目を細めて、彼女はやんわり謝った。優しそうな印象だった。

 「あ、こちらこそ、勝手にお邪魔してすみません」

 「ああ…まあ、確かにびっくりしたけどね。風香に友達がいて良かった」

 友達じゃなくて、彼女です。とは言わないでおこうか。「…いないと思ってたんですか?」

 「いや、そうではないんだけど…友達泊めるの今日が初めてだから。今の風香、凄い無防備だし」私の腰にひっつきっぱなしの風香を指さして、少し笑った。「そんなに仲の良い友達がいるなんて、知らなかったな」

 「まあ、こんなに懐かれたのは今日が初めてなんですけれどね…」

 「どういうこと…?」

 「いえ、ちょっといろいろありまして…」

 「…じg、…いやなんでもない」

 いま何言おうとしたんだろう…。

 さておき、自己紹介がまだであることに気付いた。「えっと、佐伯加奈って、いいます」

 「? …ああ、お名前ね。ご丁寧にどうも。風香の母です」まあ母じゃなかったら誰だって話だけど、と独り言のようにつけたした。

 「あの、家で風香ってどんな感じですか?」三者面談か、と内心で突っ込んだ。

 「どんな感じ…」ひとしきり悩んだが、「逆に学校ではどんな感じなの?」

 「ぎゃくに…えっと、そうですね。物静かです」

 「うん」

 「全体的に中庸です」

 「うん」

 「可愛いです」

 「うん」

 「友達が少なめです」というか、私とあとは美坂くらいしかいないけれど。

 「うん」

 「私の事好きって言ってくれます」

 「………うん。やっぱりじg…いやまあ、普通か、それくらい」

 「そんな感じですかね」

 「そっか」彼女は頷いてから、申し訳なさそうに言う。「…ごめんね、家での風香は、ちょっと解んない」

 「…?」

 「えっと、ほら、この通り私こんな時間に帰ってくるからさ、風香と会わないんだ。朝も早いし。もうずっと話してないんだ。だからごめん、わからない…教えてもらっておいて、ごめんね」

 「…はあ」

 そんな事情知らなかった。おかしいと思ったのだ。小柄とはいえ高校生まで育った人間がお母さんと二人でワンルームに住んでいて、狭くないわけがない。

 しかし一人なら話は別だ。

 風香が風呂場で言った、『誰も私を見てくれなかった』とはそういうことだったのか。『本当はずっと寂しかった』とはこういうことだったのか。だからこそ、私が友達になったことが嬉しくて、救われたとか、大袈裟な思いを抱いてしまったのか。

 私に話してくれなかったのは、なんでだろう。なんて、エゴイズムだろうか。

 「…寂しくないんですか?」

 「寂しい、のかな…わかんないけどあるとするなら、寂しかった、が正しいと思う。もうどうでも良いと思ってるかもしれない」

 「そうじゃなくて、お母さんの方です」

 「私か…変な事訊くんだね」

 「そうでしょうか」

 「寂しいよ。寂しいに決まってる」彼女は言ってから、「でも、その元凶は私だし、何より風香の方が寂しかったと思うから。私は寂しがるんじゃなくて、風香が生きやすいようにするのが仕事だと思う」

 きっぱりとした、親の態度だと思った。百パーセント娘のためを思った発言であることは、その言葉聞いた瞬間から、考えなくても解る。

 それでも、娘の、風香の味方としては、それは少し大人すぎると思った。

 「…さっきも言いましたけど、風香、友達いないんです」

 「え、さっきは少な目だって……もしかして、ゼロなの!?」

 「いや、えっと、私含めて、なんとか二人、みたいな…」

 「それは少ないな…」

 「そう、少ないんです」

 「そんな力強く言わんでも…」

 「でも、家でも一人なんです」きっぱりと言ってから、私は続ける。「友達なんて、いてもいなくても、まあいた方が良いですけれど、最悪いなくてもいいんです。でも家族はいなきゃ、寂しいんです。寂しくて、一人なんです」

 「……」風香のお母さんは少しの間黙っていた。

 帰ってきたら急にいた知らない人にこんなことを言われたら、まあ、普通に考えて返す言葉が見つからないだろう。本当は、お前に何が解るんだ、とくらいは言いたいのだろうが、それも言うわけにはいかないし。

 失敗したかな、と思った。今の言葉も風香のためじゃないしな。

 「…風香、寂しがってた?」

 「はい」

 「そっか」彼女は怒ることもなく、静かに頷いた。「ほんとうに、あなたのこと信頼してるんだね」

 「…そうだと、嬉しいんですけどね」

 「きっとそうだよ」彼女はうんうんと頷いてから、「私もね、分かってはいるんだ。風香のためにしてやれることが、お金の工面だけじゃないってことは。でも、何をしてやれば風香のためになるのか、それが解らないの。一緒にいてあげるだけでいいなんて、そんなわけないって思っちゃう。…手前勝手に、風香を一人にした私を、恨んでるんじゃないかな、とか、そんな風に思ってさ」

 そんなことない、と断言するには、私は風香のことを知らなさすぎる。風香が母親について言及しているところを見たことがないのだ。今日だって、本当に家で一人は寂しい、と言っていたのかどうか、判断しかねる。

 それでも、一人で平気な人間なんていないと思う。まして、家で一人なんてそんなの、嫌に決まっている。

 と思う。

 「まあ、風香のことは何とかしなきゃっていつも思ってるんだよね。あまり話してないと、母親である必要が無くなっちゃうし。できることなら、成長を見届けたいし、いろんな意味で支えてあげたい。でも結構、今のご時世、難しくてさ」彼女は自嘲気味に呟いた。それから、私の目を見て言う。「当分の間は、あなたが風香を支えてあげてよ、加奈さん」

 「う、え」急に名前を呼ばれて、どきりとする。なまじ風香に似ているため、私の好みのど真ん中の顔立ちなのだ。色っぽいし。

 「なんだその呻き声は。嫌なのか」

 「いやいや、そういうわけではなくて…えっと、任せてください、的な?」

 「なぜ疑問形なのかはわからないけど、まあ、うん。任せる」彼女は言ってから、「でも、私も絶対、なんとかする」

 「なんとか…って」なんだろう。自分でこんなふうに言っておいてなんだが、私は大人の社会的な事情は分からない。なんとかするとは、どういうことを言うのだろう。

 「ほらほら、子供はもう寝なさいな。こんな時間よ。二時回ったわよ…って、もう二時か」言いながら、座っていた私を寝かせた。

 すぐ隣に風香がしがみ付いている。それを見て微笑む風香のお母さんが、すぐ上にある。

 何ここ。心臓に悪い。

 「じゃ、おやすみ、加奈さん」

 「あ、はい、おやすみなさい…」言って、私は目を瞑った。

 風香のお母さんは寝ないのかな、となんとなく思いながらもすぐ眠りについた。


 「加奈ちゃん、べたー」

 「おいおい…やめろよ、私がいる前で」

 昼休みの屋上は、私たち三人しかいない。私は屋上の鍵を持っているが、普通の生徒は持っていないから当たり前である。これはひとえに、私の人望によるものだ。だから正直、この空間を風香と独占したいわけだけれど何故か今日に限っては美坂がいた。

 なんでだ。不服だ。

 「ねえ、なんでいんの美坂」

 「冷た! びっくりするくらい酷い言葉だな!」

 「いや、だってさ…ねえ?」私は風香に同意を求めた。

 「…あまり居てほしくないです」風香は警戒した言葉で言った。

 「うわ…寄ってたかって」美坂は言ってから、「というか、この前でちょっと仲良くなったと思ってたんだけど、気のせいだった?」風香を見て言った。

 「気のせい、じゃ、ないと思います…が、それとこれとは話が別です」

 「まあ、そっか。敬語抜けないのは?」

 「う…」呻いて、風香は私を縋るように見つめる。

 可愛い…。

 敬語はまあ、風香はどうやら同級生でも敬語から入るタイプの様で私ともため口になるまで結構かかった。別に抜かなくても丁寧な印象を与えるから、これはこれで問題ないのだろうが、やっぱりこの年代は同い年に敬語を使うとどうしても壁ができてしまう感は否めないからなあ。

 確かに、もっと仲良くなるには敬語を抜かなくてはいけないなあ、と思う。

 だけど、もっと仲良くなってほしくないなあ、とも思う。

 でも、風香のお母さんに任せられたしなあ。

 「じゃあ、はい、ちょっと挨拶してみようか、風香」私は言う。

 「なん…で」唯一の仲間を失ったかのような(風香にとってはそうかもしれない)深刻な表情をしていた。

 「頑張ってみよ、風香」

 「むう…」加奈ちゃんがそう言うなら、と風香は頷いた。

 「おはよう!」美坂は唐突に始めた。

 「んあ、お、おは…おはよう、ご…」そこまで言って、風香は何とか止めた。

 「わんもあ。おはよう!」

 「おは、よう」

 「わんもあ。おはよう!」

 「お、おは」

 「おはよう!」

 「おはよ、う」 

 「おはよう!」

 「お、はよう」

 「鬼かあんたは! 風香がビビってるでしょうが!」

 「hahahaha…加奈に対して程じゃない」

 「う…あんた、平気で人の傷抉るな…」

 「加奈ちゃんを悪く言わないで…」

 「お、おう」美坂はたじろいでから、「おお、きた。敬語抜けた」

 「あ…」

 「えらいえらい」美坂は言って、風香の頭を撫でた。

 「えへへ…」風香は照れたように笑った。

 可愛い、けどさあ。美坂に撫でられてその反応をされると、何だか…。

 「…妬いた…?」気付いた風香が耳打ちしてくる。

 「えう…」私は黙って首肯した。

 「…あとでね」意味ありげな笑みと共に風香は言う。

 あと、で、だと…。なんか、なんかエロいぞ…。何をされるんだ私は。

 「あんたら、ほんとに私をおいてきぼりにするな…もお」美坂は不満を漏らすが、風香のため口が嬉しかったのか、すこし笑っていた。「よっし。三人でどっか行こう!」美坂が張り切った声を出す。

 「ん…どっか。いまから?」

 「サボり魔のあんたらと一緒にするな」

 「昨日一日休んだだけなのに…」

 「今度の休みの話。今日が、何曜日?」

 「…金曜日」風香が言った。

 「さんく」

 「毎日学校来てるのに曜日感覚なくなるってどういうこと…」

 「知らねえよ…。ともかく。じゃあ、明後日。日曜な。日曜日にどっか行こう」

 「え、日曜か…土曜じゃダメなの?」

 「法事があってね」

 「マジかー…んー」

 「あらあら…なにかご予定でも?」美坂は探るように言った。

 「いや、まだないんだけど…これからできるかもというか…」

 「煮えきらないな…男か?」

 「違う!」

 風香を盗み見ると、目があった。

 『違うよね』と口だけで言った

 『違うよ』とこちらも声には出さない。

 『あとでね』

 先程もらったその言葉は別の様相を呈す。

 …美坂のやろう。

 「まあまあ…行けるかもしれないからさ、一応どこいくかだけ決めとこ?」

 「…へえ」風香は疑惑の目を向け続ける。

 「…ふうん、まあ良いけど。…風香はどっか行きたいとこある?」

 美坂お前…! ナチュラルに風香を呼び捨てにしたな…! 私の女だぞ…! 気安く触るな…!

 とは言えない…。

 「…んとね」風香は可愛らしく小首をかしげる。

 うちの嫁かわいい…。

 ちら、とこちらを見てから、悪戯気な笑みを浮かべた。

 「…私は、友子ちゃんの行きたいところに行きたいな」

 「…友子ちゃん?」

 友子ちゃん、もとい美坂は訝しげに自らを指差した。ざまあないと思う。

 「…友子ちゃん」風香は首肯した。「違ったっけ…?」

 「いやま…うん。違うね」いやまあ私が悪いんだけどね、と美坂はぶつぶつ付け足した。

 「そっか…ごめんね…変えないけれど」

 「何そのこだわり?」

 風香は顔を赤くしている。どうやら、美坂のことを友子という名前と勘違いしていたことが恥ずかしかったようだ。

 まあ、これは美坂が悪いよな。初対面の時に友田友子だと名乗ったのだから、それで定着してしまうのも無理はない。

 …しかし、風香が煽ってくるとは。

 こんなこともあるもんだな。

 「ふふん」私は得意げに風香を見た。

 「…ぐぬぬ」

 「また二人で何かやってやがるぜ…」美坂は呆れたように言った。


 「…加奈ちゃん、一緒にかえろー」

 風香のその言葉は、意外にも初めてもらうものだった。家の方向が違うわけではなく、どちらも徒歩での通学だったけれど、風香は授業が終わると特に用がなければさっさと帰ってしまうのだ。そのことに何度苦虫を噛んだことか計り知れない。じゃあ誘えよ、という話だけれどその隙のなさと言ったらない。

 それがどうだ、この進歩。それもこれも昨日のお泊りのおかげだ。このまま上手いこと風香を私から離れられないように…いや、いやいや。

 どちらかと言うなら、離れないでほしいというか帰ってきてほしい。風香にとってただいまな場所になれたら、それが良い。

 …その先は何になりたいのだろう。私は風香と結婚したいのか? 結婚は出来ないよな、法律的に。海外に出るつもりはないし。ってことはじゃあ、結婚じゃない。でも、一緒には住みたいな。

 同棲。

 「…あわわわ」

 「どど、どうしたの加奈ちゃん」

 「え、いや、なんもない。なんも」

 なんもないが、どうやら今日は断らないといけないようだった。頭の片隅に映るそいつを捕らえながら、風香に言う。

 「ごめんね。今日はちょっと予定があって。もうちょっと学校に残ってるから、先帰っといて?」

 「…待つよ?」

 「だめ」

 「…嫌」

 なんか、押しが強いな今日の風香。「ほら、友子が待ってるよ」

 「友子じゃねえわ! 杏里だ!」

 「…なんでいるの友子ちゃん」

 「…いたら駄目か」

 「だって…加奈ちゃんは私と一緒に帰るんだよ?」

 「加奈に用があるわけじゃない…私は風香と一緒に帰りたい」

 「…うっ」

 「ちょ、ちょっと待って。風香は私の…」言いかけて、すんでのところで止めた。

 「…私の?」

 「…私の、なに?」

 風香まで煽ってくるのはどうなのだろう。これはあれか、本当は恋人同士であることを隠したくないとかいう思いの表れか。そういえば、風香の口から隠す隠さないの話は聞いたことないな。もしかして、もしかしてそうなのか。

 偏見は怖いが。

 「…いや、どちらにせよ今この場所で言うことではないか」

 「…何の話?」

 「ともかく。風香、今日は無理だから。…ごめん。この埋め合わせは、いつか絶対するから」

 「……」風香は悲しそうな顔をする。そんな風に思ってくれることに嬉しくなってしまった。「…うん。分かった。ごめんね、我がまま言って。じゃあまたね、加奈ちゃん」

 風香は美坂を伴って、どんどん遠くへ行く。若干の寂しさを覚えた。あそこに私もいられたら、と思う。

 けれど、やっぱりあの子のことを風香に知られたくないなあ。いや、悪いやつではないのだ。だけれど、ちょっと私の黒歴史と言うか。

 なんて、悶々と自己弁護のような、正当化のようなことを考えながら数十分。あと五分来なかったら帰ってしまおうと思っていた矢先に、その子は来て、私に手を振った。

 それに私も小さく応じる。

 「や、加奈ちゃん。今日はちゃんといるね」控えめな笑顔を浮かべて、水谷絵梨は言う。

 

 水谷絵梨は私に懐いてくれている、従妹同士だった。以前は母親の実家に住んでいて、両親の転勤で引っ越すことになったのだが、引っ越し先の近くに学校がないらしい。そのため、私の通っている学校に編入し、うちで面倒を見ることになったのだ。

 昨日は、この子から逃げていたと言っていいだろう。昔から一緒にいて、だから仲が良いのだけれど、少し過剰だというか、スキンシップが多いのだ。昔は許容していたけれど、というか私も満更では無かったけれど、ある程度成長した今となってはそうそう許してはいられない。

 風香という恋人ができてからは尚更だ。

 「ねえ、加奈ちゃん、手ぇ繋いで帰ろ」絵梨は手を差し出してくる。

 それくらい良いか、という気になった。私はそれに応じる。

 「あはは。久しぶりの加奈ちゃんの手だ。柔らかい」

 「変なこと言わないの」

 「昔は私の方がちっさかったのに、ちょっと見ない間に縮んだね」

 「あんたが伸びすぎなのよ。よくもまあ、そんなになったわ。何センチくらいあんの?」

 「んー。一七〇ちょっとかなあ」

 「うわ…モデルにでもなれんじゃない」

 「えへへ。でも、それを言うなら加奈ちゃんもだよ。スタイル良いよね。何と言うか、女の子らしい体つきだよ。いい体してんね」

 「…おっさんか」

 「ねえー久しぶりにキスしようよ。昔はよくしてたじゃん」

 「…馬鹿じゃないの?」

 まあ、こんな具合だ。二人で『恋人ごっこ』をしていたことがあった。なんてことはない、子供の背伸びした心が産んだ黒歴史だ。持ちかけたのは私だが、それはもう小学校低学年くらいの話で、だからもう時効が来ても良いはずなのだ。実際、中学年ごろには辞めたくなった。

 けれど、絵梨の方はそうではなかったようなのだ。成長しても、私を好きなままだった。私の恋人のままだった。

 だから、距離を取りたかった。けれど親戚づきあいは今まで通りで、だから取ろうにもとれない。下手に仲が良かったから強く拒絶することも憚られた。

 まあ、それはただ私がへたれているだけなのが。

 「…昔は加奈ちゃんの方からしてくれたのに」

 「昔の話ばっかりしないでよ。もうお互い大人なんだから、そういう冗談はよして」

 「冗談じゃないってば」

 「それはこっちの台詞よ。キスなんて、冗談じゃない」

 「…それはちょっと酷くない?」

 「……」

 可哀想だと思ってしまった気持ちを引き締めた。

 「あの…加奈ちゃん、私のこと嫌い?」

 「いや、だから…嫌いじゃないって」

 「じゃあ、昨日帰ってこなかったのは何でさ。私が来るからじゃないの?」

 「じゃないよ…たまたま友達が誘ってくれたんだ。今日泊まらないか、って」

 「ふうん。学校来なかったのは?」

 「それは…怠かったから」

 「そんな不良みたいな理由のはずないでしょ」

 「…私はワルだぜ」

 「そんなわけないでしょ。加奈ちゃんに限ってそんなわけない」

 まあ、確かにそんなわけないが、本当のことを言うのもなんだ。

 でもこれじゃあ、避けたいのかそうでないのか分からない。はっきり言ってしまえば、きっと絵梨は傷付くだろうけれど言わないと伝わらないかもな。

 ちょっとしたジレンマに陥って、黙り込んでしまう。

 「よし! 加奈ちゃん。日曜日、一緒にどこかへ出かけましょ」切り替えるように絵梨は言った。

 それは予想していたことだった。絵梨が言わなくても、親の方がたぶん提案する。この辺になれていないだろうから、案内する必要があるのだ。

 だから、美坂の誘いを断ることになってしまった。

 いやまあ、美坂の方を先に約束しておいて先約があると断っても良かったのだけれど、それじゃあ。

 それじゃあ、絵梨が可哀想だ。

 「…うん。分かった」

 「きまりー」両手を上げて万歳のようにして、声を高くした。


 絵梨はボーイッシュな装いだった。とはいえ、スカートだったから完全に男性に見えるわけでは無いのだけれど、それでも格好いいと思うほどだ。手を繋いで歩きたいと言った。それくらい良いかもしれないと思った。

 そこで風香を思いだす。風香は確か、今日は映画に行くのか。金曜日のうちに断ってしまったけれど、今は繁華街から離れたところにいるはずだ。

 だから、大丈夫。

 そのはずだ。

 絵梨が少し休みたいと言ったので、ファストフード店に入ってお茶をした。その時だった。

 「ねえ、加奈ちゃん。ごみついてる。ちょっと目ぇ瞑って?」

 「ああ、うん」私は絵梨に向かったままで目を瞑った。

 取ってくれたらありがとうを言おう。そして撫でてやろうと思った時、唇に感触がした。

 最初は、手が触れてしまったのかと思った。けれど次第に、絵梨の唇の感触だということに気付く。

 「ちょ、絵梨」突き放すようにして顔を離した。

 「…っ」絵梨は私の両手を掴んで、また唇を重ねる。今度は舌を入れてきた。

 絵梨の力が思った以上に強くて、抵抗できない。

 んむ、んあ、とだらしのない声を出してしまう。

 やがて私は抵抗しなくなる。どうせ絵梨には勝てないのだから、身を任せてしまおう、とそんな気分になってきた。

 風香が頭をかすめたけれど、大丈夫、この場にはいない。

 絵梨は顔を離してから、私を見て言う。

 「はあ…好きだよ、加奈ちゃん」

 その言葉を聞いて、悪い気はしなかった。

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