第7話 加奈ちゃんはずっと私のもの

 夢を見た。家具と私とおそらく母親がいるだろう、その部屋で、私は滅多に見ない夢を見た。

 始めに母親が出てきた。たぶん母親だ。顔がぼやけて、声にはボイスチェンジャーがかかったように気味の悪いものだった。体の輪郭は辛うじてある程度。要するに、母親の姿を私は憶えていなかった。じゃあ何でそれが母親だと分かったかと言うと、完全に勘だった。もしかしたら違うかもしれない。けれどなんとなく、母親な気がした。気がした。ずっと会っていないのだから仕方ないのだけれど、ちょっと薄情だと、まず思った。それから、思いだそうとして、頭が痛くなった。

 不鮮明な母親は言う。『気持ち悪い。あっちいけ。もう疲れた』

 気持ち悪いのはそっちも同じだろう。そうは言わなかった。私は言われたとおりにあっちへ行く。あっちがどこかは知らないけれど、私はとりあえず歩く。

 ぺたぺた歩いて、カツカツと鳴る。裸足のはずで、地面の感覚はほぼないけれど、カツカツ鳴る。その場で少し飛んでみたが、何も鳴らない。つまらなく思って、またぺたぺた歩くと、カツカツ鳴った。

 上下左右共に真っ白で影もないため、正直言って歩いているのかどうか、進んでいるのかどうか分からないけれど、どんどんと母親の姿が遠のいて行くのできっと離れて行っているのだ、ということは解った。

 しばらく行くと、加奈ちゃんがいた。今度は鮮明だった。加奈ちゃんは私に笑いかけた。面倒だなーと思ったけれど、やぶさかでは無かった。私は加奈ちゃんに笑顔で返した。加奈ちゃんが手を握ってくるので、私は握り返した。

 不意に、加奈ちゃんは私の手を振りほどいた。私は何でもないような顔で加奈ちゃんを見た。

 加奈ちゃんは言う。『あんたなんか大っ嫌い。死んだほうがいいんじゃないの?』

 私は言う。『いきなりどうして?』

 加奈ちゃんは言う。『いきなりじゃない。もう付いてこないでね』

 加奈ちゃんはそう吐き捨てると、すたすたと私から離れて行った。私はまた一人になった。上下左右共に真っ白なこの空間で、また一人になった。

 加奈ちゃんが言うなら、死んでも良いかもしれない。そう思い立ったが、しかし、手首を切るためのナイフもなければ、首を吊るための縄も、括り付ける場所もない。飛び降りるための高さもなければ、火も水もない。

 どうやって死のうかなー、と考えてみたけれど、良い方法は思いつかなかった。

 やがて、私は思い至る。そっか、と思い至る。

 私はとっくの昔に死んでいたのだ。きっと、加奈ちゃんが離れて行ってすぐに。

 だから死のうと思っても死ねないのだ。既に死んでいるから。

 なるほど。

 私は納得する。加奈ちゃんがいなくなったら、私は死んじゃうんだな。


 目覚めると、瞼が重かった。上下がひっついて開きづらい感じ。仕方がないのでそのまま手探りで洗面所に行き、くるぶしをぶつけつつ顔を洗うと、接着剤が溶けたように、やっと目を開けられた。鏡で確認すると、白目の部分が真っ赤だった。

 察するに、眠っている間に泣いちゃっていたみたいだ。

 まあ、普通に考えて母親と唯一の友達に拒絶されたら、そりゃそうなるはずだ。

 ただ、私に限って言うならそんな傷つきやすい人間ではないはずなのだけれど。

 …っていうかそもそも、何だあの夢。気味の悪い姿をした母親にあっちいけと言われ、加奈ちゃんに死ねと言われる、とか。はなはだ現実味がない。母親とは会わないし、加奈ちゃんが死ねなんて言うはずない。と思う。

 いや、どうなんだろう。

 言うかもしれない。私の態度次第では加奈ちゃんは私に死んでほしいと思うことがあるだろうか。

 あると思う…。

 だったら、予知夢だったりして。想像し辛いけれど、どうなんだろ。

 加奈ちゃんと同じ立場だったら、私は私に対して何を思うだろう。

 気持ち悪い、と言うかもしれない。死んでしまえ、と思うかもしれない。

 「どうしたらいいだろう」

 ぽつりと呟いて、急に不安になる。夢の通りに行くなら私は、加奈ちゃんに見捨てられたら死んでしまうみたいだ。

 死ぬのは怖い。例え無為な人生だとしても、恐怖は恐怖として存在する。

 震えてしまう。加奈ちゃんに見捨てられることが怖くて、ただただその場で悴む。極寒に放り出されたような気分だった。

 「…何とかしなくちゃ」

 私が死んだほうが、母親は楽になる。加奈ちゃんは解放される。私は私に振り回されなくて済む。

 それでも、自分勝手な本能は生きたいと叫んでいた。


 「かーなちゃん」登校途中の加奈ちゃんの背中を見つけ、私は昨日みたいにベタベタする。白々しいほどだったが、これくらい解りやすくないと、伝わらないだろう。

 「おはよう、風香」少し照れたように頬を染めながら、加奈ちゃんは挨拶する。

 可愛いな、とつい見惚れてしまう。

 「べたー」私は昨日と同じようにする。正直、結構恥ずかしいけれど、加奈ちゃんが喜んでくれるのも確かだった。

 加奈ちゃんは何か言いたげだったが、結局黙って歩いた。

 こんなに優しい加奈ちゃんが私に対して、死ね、と要求することがあるのだろうか。

 無いと言いきれないところが、私はどうも加奈ちゃんに対しての苦手意識が消えていないようだった。

 こんな私が加奈ちゃんにもっと好かれるには、どうしたら良いんだろ。友達だったときもそこまで好かれているわけではなかったと思うし、恋人になってからはいっそう怒らせてばかりいるような。昨日は一緒にいてくれるみたいなことを言ってくれたけど、無理に言わせていたとしたら、またそれで嫌われていたりして。

 そうだったら、私関係ないじゃん、加奈ちゃんの勝手じゃんと言いたいが、それに気づけない私もいけないのかもしれない。

 そもそもの話、どうして私なんかと恋人になって、こうして一緒に居るのだろうという話だ。

 私のことが好きだから、ってことは無いと思うけれど。でも逆に、好きって以外に恋人になる理由が見つからない。

 「ね…風香?」加奈ちゃんは静かに言う。

 「どうしたの」首をかしげて、笑顔で言った。わざとらしいだろうか。

 「いや…あの」加奈ちゃんは迷っていたが、やがて、「これから、どっかいかない?」

 「…どういうこと?」

 「二人でサボっちゃおう?」

 加奈ちゃんがこんなことを言うとは意外だ。加奈ちゃんは優等生だから、先生たちにも人気があったりする。サボるとか、不真面目なこととは無縁な人のはずだ。

 「どうしたの…いきなり?」

 「いやまあ、なんとなく…かな」

 「なんとなく…」

 目を合わせない加奈ちゃんを見て、なんとなくではないのだろうと思った。しかし、私がそれを訊くことはできない。

 加奈ちゃんが敢えて言わなかったことを私が訊くに足る理由がないからだ。

 「…そっか。加奈ちゃんがそうしたいなら、私も」

 「私は風香がどうしたいかを聞いたんだけど。…嫌ならそう言って」

 加奈ちゃんの面倒な部分がでたなぁと内心うんざりしていたが、私は理由を誂える。

 「…ごめんね。うん、私、昨日夜更ししちゃって。だから眠いんだ。今日は二人でサボっちゃおう」

 「…無理してない?」

 「うん。私は、加奈ちゃんと一緒に居れればそれでいいから」私は宥めるように言ってから、「とりあえず、うち行こう」 

 「うち…?うちって、もしかして…?」

 「えっと、私んちだけど…この前加奈ちゃんち上がらせてもらったし…」

 「いやま、そーだけど…」

 「…嫌?」

 「いや、いや、そうじゃなくて」

 要領を得ない加奈ちゃんの物言いは、しかし私は意図を察していた。要するに、私の家へ来ることに緊張しているのだろう。私も加奈ちゃんの家に行った時かなり緊張して吐きそうになったくらいだから、加奈ちゃんもそうなのかもしれない。

 「さ、行こう」

 私は加奈ちゃんの手を引っ張って帰路へ着く。こうでもしないと加奈ちゃんは私の家に来てくれないだろうから、多少強引に、加奈ちゃんの手を引っ張った。


 加奈ちゃんを自分の家に招くのに少しのためらいもないかと訊かれたらそんなわけはない。まず他人が自分の家に立ち入るのは好きじゃないし、私生活を見てほしくない。家と学校で立ちふるまいを変えているわけでは無いが、というか家ではふるまう相手がいないわけだが、どうあれ私生活に他人が踏み入るのはあまり好ましくない。部屋が汚いってわけでは無いけれど、人に自慢できるほどのものでも無いし、想像と違ったりするかもしれないし。

 じゃあ呼ぶな。

 いやいや、しかしながら、加奈ちゃんにより私を意識してほしいのだ。より私に縛り付いていてほしい。

 …なんかちょっと気持ち悪い?

 ともあれ、そのために私をより近しく感じてもらうのが正解だと思う。思うだけでそうでも無い気がしないでもないが、ともかく、加奈ちゃんは喜んでいるようなので、今のところは成功している。

 がちゃがちゃ、と何回か失敗しながら開錠する。

 私は扉を開き、加奈ちゃんを促した。

 「しつれい、じゃなくて、お邪魔しますー…」おずおずと加奈ちゃんは入って行く。

 「お邪魔されます」で良いのかな? 人を招いたことが無いから解らない。

 平凡な部屋を見て、加奈ちゃんはどう思うだろうか。つまらないとか、予想通りだとか、そんな程度だといいのだけれど。がっかりだけはされたくないな。

 「…なんか、生活感皆無だね」

 「そうなんだ…?」

 「うん。なんか、モデルルームみたい」

 「モデルルーム…って?」

 「おうちを買う時に、見本として作られた疑似部屋。大体綺麗で詐欺じゃねえかってくらいギャップがあるんだけど…これなら詐欺ってわけじゃないかも」

 おうちって表現が可愛いな。まあ、どうでも良いけれど。

 「でも、良い部屋だね」加奈ちゃんは言って笑いかけた。

 この場合、ありがとうと言えばいいのだろうか。部屋を褒められても、私が意図してこんな具合にしたわけでは無いし、それに、生活感がない部屋が果たして良い部屋と言えるのかどうか、一般的には微妙なところだと思うのだが。

 「…あらがとぅ」

 「なんかよくわかない言葉きたな…」

 なんだかよくわからない感想が来たのだから致し方ない。

 「一人暮らし…?」加奈ちゃんがはっとしたように訊いた。

 「え、いや、一応お母さんと住んでるけど…」

 「ワンルームに?」

 「うん…」

 「狭くない?」

 「今のところは…」

 「なるほど」

 「…驚いた?」

 「いやいや、そんなことは無いけど」

 「そっか」嘘吐けよ。

 早速ミスったような気がする。少し考えれば分かることで、まず片親ってところが一般的でない。いや、加奈ちゃんからしたらって話で、離婚して母親に引き取られるのはよくあるパターンなのだが、これでまず引かせてしまった。

 それに、加奈ちゃんを家に呼ぶなら少しくらい飾っておけば良かった。なんか百円ショップとかで、カラフルな小物か何かを、窓際に置いておけば、このどことなく灰色の雰囲気が払拭されただろうに。行き当たりばったりにやるもんじゃないな。

 でもまあ、今日で良いか。

 「さて…風香。どっか行こう」閑話休題とでも言うように、加奈ちゃんは私に向き直る。

 「どっか…?」

 ってどこだよ。遊園地とかかな。余裕で補導されると思うけれど。

 「どっか…どこか…どこだろう…なんか楽しいところ…」

 「決まってないの?」

 「う…いや、とにかくなんか、二人になれるところに」

 「今…そうだけれど」

 「あ…」加奈ちゃんは言ってから、「じゃ、じゃあ、このままで…」

 「うん」

 私はとりあえず、加奈ちゃんを卓袱台の前に座らせてお茶を淹れることにした。正直寝っ転がりたかったが、まあそこまで疲れてないし、客を呼んでおいてもてなさないのも決まりが悪いので、考える限りのおもてなしをしてみる。

 言ってもインスタントだけれど。

 加奈ちゃんは落ち着かない感じで部屋を見回している。そんなに珍しいものもないのですぐに飽きるだろうが、それはそれは居心地が悪い。居心地が悪いのは加奈ちゃんも同じだろうが、そう見られては落ち着かない。

 ぴーっとお湯が沸く合図がして、加奈ちゃんがびくっと体を震わせた。

 カップを二つ用意して、片方が母親のものであることに気付く。こんなふうに私のカップと母親のカップが二つ並んでいるのは一体いつ以来のことだろうか。いや、初めてかもしれない。まあ、今からこのカップを使うのが母親ではなく加奈ちゃんだから少し違うのかもしれないが、感慨深いものがある。

 引っ越した時に私が買ってきたのだが、今のところ使っているのを見たことがない。

 二人分の緑茶を持って、加奈ちゃんの体面に座る。

 「ありがとう…いただきます」加奈ちゃんは言って、お茶を啜る。

 「あの…加奈ちゃん?」

 「どうしたの?」

 「えっと」どうしようかと、少し迷った。さっきまで母親の存在を失念していたから本当に勝手なことをして大丈夫か気になってきた。

 「早く言いなよ」加奈ちゃんが少し笑って促した。

 「えっとね」加奈ちゃんを見て、まあいいか、となる。大丈夫じゃなかったところで何も言われないだろうし、いつも一人なのだ、少しくらい勝手をしたって気を遣って文句は言ってこないだろう。

 というわけで。

 「あの…今日泊まっていかない?」

 「なん…だと」

 「え、いや、だから、今日泊まっていかない? というより…泊まってください? みたいな?」

 「…いいの?」

 「あ、いや、駄目だったらいいの。全然全然」

 「そんなわけない! 良いなら、イイなら、泊まりたい! お泊りしたい!」

 急き込んで言う加奈ちゃんをみて、私は自然と、にやーっとした。お泊りって表現が可愛いな。「じゃあ、きまり」

 「うん! 家から着替え取ってくる!」

 「え、あの、大丈夫?」

 「何が?」

 「いや、今日学校サボっちゃったし、家の人とか…」

 「ああ…まあ、なんとかなるでしょ!」

 「なるかな!?」

 「大丈夫! じゃあちょっと行ってくるね!」

 言って、加奈ちゃんは部屋を飛び出した。呆然とする私だけが残って、たまらずくすくす、と笑う。あんな根拠のない自信にあふれた加奈ちゃんを見るのは初めてで、何と言うか、嬉しかったのだ。

 声を抑えたくぐもった笑いが、部屋に反響する。

 また一つ、私は加奈ちゃんを知った。そのことに安心して、加奈ちゃんを思って心地よくなる。

 加奈ちゃんは私を知ってくれるだろうか。知りたいと思ってくれるだろうか。

 こんな私に、付き合っていてくれるだろうか。


 「めっちゃ怒られた…」

 「やっぱり…」


 加奈ちゃんと私は、結局家で過ごした。まあ、外へ出れば運が悪ければ補導されてしまうだろうし、加奈ちゃんが私と一緒に過ごしたいと言うので、私も私で折角だからだらだらしたかったので、家の中で何かしようとなったのだ。

 案外できることは少なかったし、会話もまあまあ少なかったけれど。

 結構楽しかったのは私だけだろうか。

 必要以上のネガティブシンキングは煩わしいだけだけれど、普通は楽しくないのかもしれない。ほぼ何も喋ってないし。でも、私からしたらふとした時に喋れるような相手がいるってことはかなり貴重で、さらにそれが自分の家だって言うのだから、嬉しいというかなんというか。

 安心する、のかな。

 加奈ちゃんといて安心している自分がいて、不思議な感じになる。夢心地というか、現実味がないというか、言い表せない浮遊感。浮足立っているのだろうか。

 「そろそろ暗いねえ。晩御飯、何にする?」加奈ちゃんが窓を見て言った。

 なんか同棲してるみたいな会話だ。

 「なんか新婚みたいだな…」加奈ちゃんの呟きは聞こえなかったことにしよう。

 おんなじことを思っているのは、ちょっと恥ずかしい。

 「加奈ちゃん、何が食べたい?」

 「ああ、えっと…普段風香はなに食べてんの?」

 …カップ麺とか、即席麺とか、カップ焼きそばとか。とは言えないな。いや、勘違いしないでほしいが、料理が出来ないわけではない。ただ、自分の自分による自分のための料理ほど虚しいものはないし、まあ自分のことだし良いかなってことでどうしても億劫になってしまうのだ。自分が栄養不足でも別に良いかなーみたいな。

 まあ、最近のカップ麺は優秀だと聞くけれど。

 「えっと…一品料理が多いかな。オムライスとか、ハンバーグとか、グラタンとか」

 「…オムライス食べてる風香を見てみたい」

 「駄目…」

 「なんで!?」

 「だめだよ…うん」

 決してオムライスが作れないわけでは無い。いつも失敗するだけで。

 「お鍋にしよう」

 「ん…そう?」

 「いっつも一人だから、そういう大勢で食べる感じの料理作れないんだ。加奈ちゃんがいるから…お鍋でもいいかなって」

 一人だと、そういう一品料理は作り辛いものがあった。翌日に残っても、まあ食べれなくはないけれど一人で鍋と言うのも、なんとなく気が引ける。だけれど今日は、一人じゃ無かった。加奈ちゃんと二人で、鍋を囲む、とはいかなくても。

 二人で食べれば、一層暖かいものだと思った。

 「…なるほどぉ」加奈ちゃんはかあっと顔を赤くした。「うん…! うん、そうしよう!」

 「じゃ、お買いもの、一緒に行こう?」私は加奈ちゃんに手を差し出して誘った。

 加奈ちゃんはそれを受け取って、私達は外へ出る。


 私はいつからこんなに浮かれたやつになったのだろう。加奈ちゃんを見ていちいち嬉しくなるし、加奈ちゃんを見ていちいち可愛いと思ってしまう。そんな余計なことを考えている暇があるなら加奈ちゃんに見捨てられないように心がけろと思うが、自然とそうなってしまうのだ。

 私の知らない加奈ちゃんをもっと見たいと思ってしまう。

 だから私は、少しいつもと違う態度を取ってしまう。

 それが良いのか悪いのか今はまだ判然としないけれど、前は、というか朝まではこんなふうに変なやつじゃ無かった。加奈ちゃんの思う私に、どれだけ近づけるか、とか、加奈ちゃんが望む私になれれば、とか、そんなことを思っていた。誰かに好かれたいと思う時、普通の行動だとは思う。

 けれど、今は違う。加奈ちゃんといるとき、馬鹿みたいに無防備になってしまう。加奈ちゃんの言葉に、素直な私が反応する。そうして、加奈ちゃんは少しいつもと違う態度をする。

 あまり、素の私を出したくない。素の自分が魅力的な人間だとも、加奈ちゃんに好かれるやつだとも思ってない。

 それでも自然と出てしまうから、私は少し困惑している。

 「…ありがとうね、風香」二人で一緒にお風呂に入っているとき、加奈ちゃんは言った。広くない浴室に、その呟きが反響した。

 「なにが?」概ね解っていたが、聞いてみた。

 「…今日ちょっと学校行きたくなくてさー。家にも帰りたくなかったから、ありがたいよ、泊めてもらえるのは」

 「…そっか」

 一瞬、私と一緒にいたかったわけじゃないのか、と残念に思って、ぼっと顔が紅潮する感じがした。のぼせてしまいそうだ。

 「大丈夫?」

 「大丈夫、大丈夫」私は言ってから、「私、今日楽しいんだ。いっつも家で一人だから、なんか新鮮で…加奈ちゃんと、こんなに一緒にいれるのも、珍しいし…」

 「風香…! 可愛い…!キュン死させる気か…!?」

 なんだそりゃ、と思うが、思いついて、「だったら、どうする?」と笑って見せた。

 「えっ」

 自分でも、はしゃいでいることは解った。普段こんな冗談は間違っても言わないし、むしろ加奈ちゃんに対して冗談を言ったことがあったかどうか、分からないほどだ。加奈ちゃんの困惑する姿が見たいからちょっと冗談を言ってみたのだが、失敗だったかもしれない。

 自分でやっといて結構恥ずかしいものがあった。

 「…でも、死んでほしくはないかな。私も死んじゃう」

 「えっ…それはどういう」

 あ、これはミスった。ちょっとこれは、引いちゃうくらいのことだった。

 加奈ちゃんがいなくなったら私が死ぬ、なんて、私でさえちょっとおかしいんじゃないかと思うくらい異常な思考なんだから、当人はどう思うんだろう。興味はあったけど、恐怖もあった。

 まだ加奈ちゃんに、このことを言うわけにはいかない。さらけ出したくないわけじゃない。今のテンションなら。

 でもどんなテンションでも加奈ちゃんに嫌われるわけにはいかない。

 「な、何でもない。何でもないよ…」

 「死んじゃうって…?」

 「なんで、もないってば」

 「ふうん…」加奈ちゃんは疑いを持った目のまま引き下がった。ややあって、「なんか…今日風香ちょっと機嫌良い感じ?」

 「うん。加奈ちゃんといるから、楽しい」

 「いや、何かこう…顔いろが良いというか…」

 「……?」

 「なんか、私に怯えてない感じ?」自分で言って悲しくなってきた、と加奈ちゃんは続けた。

 「……」

 的を射た物言いに、私は何も言えなくなる。私自身、今日一日で実感していた。いつもだったら、考えて会話するのに、今日に限っては、いうなら反射的に返答している。冗談だって言えるし、加奈ちゃんといて安心するなんて、今日が初めてかもしれない。

 なるほど。

 私は浮かれているのではなくて、力が抜けているのか。

 「いやあ、なんというか、違ったら恥ずかしい話なんだけれど…そうだったらうれしいな、的な…希望的観測じゃあないけど、風香が私に安心してくれてるって、ことでしょ…?」

 そうだったら、私は嬉しいな。

 加奈ちゃんは続ける。

 私はなおも何も言わない。

 ぴちゃん、と水滴が浴槽に落ちる音がする。

 それは私の涙だと気づいた。

 なんでこの言葉で泣くのだろう。それはわかりきっている。受け入れてもらえたからだろう。何も考えてない会話を、長らく表に出ていなかった素の私を、加奈ちゃんを好きな私を。私がいくら自分を嫌っても、加奈ちゃんだけは私を受け入れてくれるという、頼りを感じる。たとえ一人になっても加奈ちゃんだけは私を探してくれる。きっと加奈ちゃんだけは私のそばにいてくれる。そう思って、私は安堵し、涙したのだ。

 別に、いままでだって拒絶をされていたわけではない。いや、加奈ちゃんにはいくらかされたこともあったけど、拒絶を怯えるほど、それに対して感慨はない。しかし、私は受け入れられることに慣れていなかった。誰かの中に入り込むことを経験していなかった。加奈ちゃんが私に近づいてくれたことで、それを感じて、温かく思って、加奈ちゃんの中から出たくないと思った。

 拒絶を恐れているわけではない。ただ、変化を恐れている。

 あまりに加奈ちゃんの中が心地よくて、ずっとここにいたいと思っている。

 だから、だから私は。

 「本当は…」涙と並行して、今度は言葉はあふれてくる。「本当は、ずっと寂しかった。誰も私を見てくれなくて、誰も私を意識してくれなくて、本当に存在してるのかとか、思ったりして、でも、でも…加奈ちゃんが私を見つけてくれて、加奈ちゃんが私を好きだと言ってくれて、あったかくて、うれしかった…もう、もう失いたくなくて…」

 「……」

 加奈ちゃんは黙って聞いてくれている。私の一方通行な言葉を。独りよがりで、幼い言葉を。

 「加奈ちゃんに嫌われたくなくて…だから、いっつも加奈ちゃんを探って、嫌われないように頑張って…でも、いっつも不安で…いっつも怒らせてばっかりだから、いつ見捨てられてもおかしくなくって、怖くって…だから」

 「…うん」

 「だから、私は…ごめん、加奈ちゃん。ごめんなさい。でも、でも、私は、加奈ちゃんに救われたから」 

 まるで要領を得ないことはわかっていた。そもそも何かを伝えるための言葉ではないのでまとまっているはずがないのだが、加奈ちゃんに吐露せずにはいられない。迷惑だと思いつつ、加奈ちゃんに、受け入れてもらわずにはいられない。

 「…泣かないでよ、風香」加奈ちゃんの声が柔らかく反響した。私の耳に届いて、するりと胸を包む。加奈ちゃんは私を撫でながら言った。「あのね、風香。私は、風香に気遣ったりしてほしくないな。私は風香が安心できるような人になりたい。だって、私…風香の恋人じゃん。風香がどう思ってるか、今初めて聞いたけど…救われたとか、思わないでよ」

 「でも、でも…」

 「これ言うと幻滅されるかもしれないけど…私は風香が可愛いから声かけたんだ。だから、これは私欲なの。私が自分勝手に風香を巻き込んでるというか…なんというかその…ほかの人に取られたくない的な…ど、独占欲というか…」加奈ちゃんは苦笑いで言ってから、「だからあの、ね、風香が私を嫌いにならない限り、私が風香のそばからいなくなるってことは無いからさ…安心してよ」

 「…私は、私は加奈ちゃんを嫌いになんてならないよ」

 たとえ加奈ちゃんが私を嫌いになっても、私に死んでほしいと思ったとしても、私は加奈ちゃんを嫌いになることは無い。それだけは言えることだった。

 「そっか」加奈ちゃんはふんわりと笑って、「じゃあ、ずっといっしょだ」

 優しい声で放たれたその言葉に、私は頼りを感じて、ふわっと心が浮かんだ。水面にボールを浮かべた時のような、ヘリウムの入った風船のような、軽々と、優しく浮かぶ。

 力が抜けて、加奈ちゃんになだれ込んだ。うわ、と加奈ちゃんは声を上げるが、受け止めてくれて、私は加奈ちゃんに身をゆだねた。

 「私は…私はずっと加奈ちゃんのものだから。加奈ちゃんはずっと、私のもの…がいい」

 「うん」

 「他の人と話してたら嫉妬とかするかも」

 「うん」

 「ずっとそばにいてくれなきゃ怒るかも」

 「うん」

 「一日に何度も、好きって言ってもらうかも」

 「いいよ」

 「変なこと言うかもしれないし、変なことするかもしれない」

 「うん」

 「…それでも、良いの?」

 「いいよ」

 「…それでも、私の事好きでいてくれる?」

 「好きだよ」

 加奈ちゃんの声が反響して、私の中に入り込んでくる。じわりと胸に広がって、やがて体中を巡ってから、どくんと一回、心臓を打った。

 我慢できずに、口からこぼれる。

 「私も、加奈ちゃんが好き」


 私はたぶん、加奈ちゃんが告白して来る前から加奈ちゃんのことが友達以上に好きだったんだと思う。加奈ちゃんに対して依存心を持っていたわけで、それは解り切っていることだ。キスしたいとか恋人になりたいとかでは無く、ただただ加奈ちゃんに構ってもらいたかった。加奈ちゃんが私に言葉を投げかけてくれれば、加奈ちゃんが私の言葉を聞いてくれれば、加奈ちゃんが私を好きでも嫌いでもどちらでも良かったきらいがあって、だからきっと今まで成り立って無かったんだと思う。

 でも今は少し違って、加奈ちゃんが私を好きじゃ無いと気に食わないのだ。逆に言うなら、私以外の人を好きなるのが気に食わない。加奈ちゃんは絶対私が好きで、私は絶対に加奈ちゃんが好きだ。この関係があって、私は加奈ちゃんに対して安定を感じていた。いや、加奈ちゃんが絶対に私のことを好きっていう確証は、詳細に言うならば無いのだ。もしかしたら私に合わせて言葉の上だけでそう言っているのかもしないし、もしかしたら私にもう愛想をつかしているのかもしれない。その可能性だって充分にあるはずなのだが、私は何故だか、変な自信を持っていた。加奈ちゃんはたぶん本当のことを言っていて、これから先も揺るがないだろう、という根拠のない自信。昨日の風呂場での会話で、私は頼りを感じたのだ。

 このまま、加奈ちゃんとずっと一緒にいられる気がする。

 このまま、両想いのままずっと一緒に。

 ぱち、と目を覚まして、いつもの家具が私を出迎えた。それから、加奈ちゃんに抱き付いたまま眠ったのだった、と思いだす。

 あのあと、全力で加奈ちゃんに甘えて、それで…えっと…。

 隣には加奈ちゃんの寝顔がすぐそばにあった。

 かあーっと一人で顔を赤くする。

 昨日は変なテンションだったな…今日はちょっと自重しよう。

 「んあー…」加奈ちゃんが不意に声を上げる。ふふ、と思わず笑ってしまった。「んぅ…あ、おはおー風香…」寝ぼけ眼をこすりながら、挨拶した。

 「うん。おはよ、加奈ちゃん。べたー」私は早速加奈ちゃんをぎゅっとした。

 あれ。自重は?

 「はは…よしよし」加奈ちゃんは私の頭を撫でる。

 うん…まあ、今日は甘えてもいいか。ぎゅーっと加奈ちゃんに密着する。

 「…いくらなんでも懐き過ぎじゃないかい」

 「私はもともとこんなもんだったよ」

 「大胆な嘘だ…まあ願ったり叶ったりだけれどさ」

 「……」ぎゅーといっそう強くした。

 「ちょ、苦しい苦しい」

 「ご、ごめん…でも加奈ちゃんも悪いからね」

 「顔赤いなー」

 「だ、だって…」

 「はは」加奈ちゃんは笑ってから、「…そろそろ起きようか」

 「…うん」同意して、体を起こした。

 加奈ちゃんの体温がなくなって、少し肌寒くなる。あと、少し寂しい。まあ、ずっと抱き合って生活するわけにもいかないので、言ってもしょうがないのだけれど。

 加奈ちゃんの鞄と制服は持ってきてあった。どうやら、一日だけ休むことは決めてたようだ。もしかして、私と二人で過ごすために、休んだんじゃ。いやまあ、そうは言っていたけれど、多分それは建前で本当は違うのだろう。そうわかっていても期待してしまう。

 しかたないよね。

 「……」

 なんで休んだかは、聞かない方がいいのだろう。加奈ちゃんが話すまで私が変にプレッシャーを与えるのは少し不本意だ。まあ、加奈ちゃんのことだから、近いうちにきっと話してくれるだろう。

 …気になるけれど。

 顔洗ってくる、と加奈ちゃんは洗面所へ移動した。居間に一人残った私は卓袱台に置いてある紙に目がいった。

 昨日も一昨日もその前も、同じようにおいてあるそのメモ書きに私は興味も関心もないし、情緒も目新しさも無い。けれど今日は少し違うような気がした。

 文章が違うように見える。手に取って確認すると、いつもと同じ字で、『いつか紹介してね』と書いてある。

 得も言われぬ気分になった。

 こんなふうに血の通った母親の言葉を見たのは何年ぶりだろうか。

 いつも業務連絡みたいな文字が母親だった。冷たいと感じたことは無い。私にとってはそれが当たり前だし、何も伝えることがないなら書くことがないのは自然だ。それに、私の方も話題を振るようなこともなかったから、文句は言えないし、文句はなかった。

 なかった、のだけど。

 なんで仕事ばかりで家にいてくれなかったの、とか。もっと色んなこと話したかった、とか。そんな今更な思いが溢れて、止まらなかった。学費なんていいから、もっと私と一緒に居てほしかった。貧乏でもいいから、お母さんにもっと私のことを見てほしかった。幼い我がままを言っていることは解っているけれど、それでもお母さんにそれぶつけたくて堪らない。

 「……」けれど、この場にはお母さんはいなくて、言葉の代わりに少しだけ涙が出た。

 今日は返答のメッセージを残してから寝よう、と思い立った。そうすればきっと、お母さんも答えてくれる。と思う。正直もうお母さんがどういう人間だったのか覚えていないけれど、どんな返答をされてもそれはお母さんの思いだから、たぶん、嬉しい。わかんないけど。普通に、嫌なことされたら嫌な気分になるし、好ましいことを言われたらいい気分になるかもしれないけど。それでも、お母さんとコミュニケーションを取りたいとか、そんな風に思っていた。

 とりあえず泣いてる事、加奈ちゃんに気付かれないようにしないと…。


 「今回ちょっと長くないか?」隣の友子ちゃんが言う。何の話だろう、と手元を見ると、動画投稿サイトだった。どうやら、贔屓にしているユーザーの新作動画の再生時間が長かったようだ。「ん…個人的に三分以上の曲は受け付けないんだよなあ」

 「三分以上…ちょっと短くない?」

 いやいや、と友子ちゃんは首を振る。「グリーンデイとか、パンクバンドになると結構ざら。早いし、短い。少数精鋭みたいな?」

 「そっかあ」私は音楽とかまるで興味ないので積極的に聞いたことがない。テレビをつけて音楽番組が流れていたらなんとなくみるけれど、それ以外は音楽に触れる機会と言ったら学校の授業で程度だった。だからまあ、音楽といえば短く切られた一、二分のものか十分とか一時間とかある曲なのだが、どうやらそれだけが音楽ではないらしい。

 「…そういや、あのあとどうなったか聞いていい?」友子ちゃんは言いづらそうに聞いてくる。

 「あのあと?」って、いつのことだろうか。

 「ほら、初対面の時、みんなで加奈んち行った時さ、私先に帰ったじゃん」

 「ああ、なるほどね」どこまで話せばいいだろう、と逡巡した。加奈ちゃんの名誉のためにも、ディープキスのことは言わないほうがいいだろうし、女の子同士でキスすること自体、やっぱり言わないほうがいいか。「えっと、とくには何も」

 「嘘つけ」

 「いやいや、電話してきたときも言ったじゃん。考えすぎだって」

 友子ちゃんは出るとわかる前、加奈の様子がおかしいから二人きりになったときに危ないかも、と私に忠告していた。え、加奈ちゃんて私以外にも女の子と付き合ったりしたことあるの? と思ったけれど、そうではないらしく、加奈ちゃんの表情が少し不機嫌そうだったから、ということだったようだ。加奈ちゃんの私への態度は知っていたから、今度こそ何かするのでは、と思ったらしい。

 加奈ちゃん、信用されてなさすぎでは?

 で、加奈ちゃんが私を襲っている最中、雰囲気ぶち壊しの電話があったというわけだ。

 まあ、今となっては初エッチがレイプじみたものじゃなくてよかったと心底思うけれど。

 「そうか…? あの後から、風香の態度が明らかに変わらなかったか」

 そんなに話しているわけでもないのによくわかったなあ、と感心する。確かに意図的にわざとらしくしたけれど、加奈ちゃんの前だけだったし。

 そのあとは…まあ…意図的ではないし、ディープキスは関係無く、加奈ちゃんを好きになっただけだし…。

 「まあ、心配するようなことは何もされてないよ…気遣ってくれてありがとう」

 「風香…」

 「友子ちゃん…」

 「…あんたまだ私の名前勘違いしてるのね」

 「…え? 友子ちゃんじゃなかったっけ?」

 「嘘はつくもんじゃないな…杏里だよ! 美坂杏里!」

 「…? なんかピンと来ないな」

 「そっか…まあいいか、あだ名みたいで…」

 少し肩を落とした友子ちゃんを少しおかしく思う。

 そういえば、ため口が板についてきたなあ。初めて会ったときはここまで砕けて話せるとは思えなかったけれど、やっぱり友子ちゃんは良い性格をしてるから、話しやすい。何も気にせず親しくできる人は貴重だ。今までだってちゃんと話せれば友達ができていたのだろうけれど、一人での生活が当たり前の人間にとってはいろんな人に囲まれて生活するのは、正体不明のもので、ちょっとした恐怖があるのだ。

 けれど、加奈ちゃんと友達になったから、正体不明じゃなくなって、変われたのだろう。そうして、友子ちゃんと友達になれたんだから、加奈ちゃんには感謝しないとなあ。

 「…風香、ほんとに加奈のこと好きだな」

 「うん、大好き」

 「その加奈はなんで今日来なかったんだっけ?」

 「いや…なんか予定が入っていたんだって。私も詳しくは知らないんだよね」

 だから今日は友子ちゃんと二人で映画だった。この組み合わせに抵抗が無かったかと言えばそりゃあ多少はあるし、加奈ちゃん抜きで出かけるのもちょっとピンと来なかったけれど、たまには良いものだと思う。

 ただ、やっぱりできれば加奈ちゃんと一緒にいたい。

 「いや、私としてはあんたら二人がいちゃついて二対一になるのは面白くないけれどね…」友子ちゃんは困ったように言ってから、「風香にも言わない用事か…」

 「ん、なに」

 「いや…恋人か何かだろうか」

 「そんなわけないよ」

 「お、何だその断言は」

 「だって」

 だって、その恋人は私なのだから。その恋人に隠れて恋人に会うって、それは。

 それは、浮気か。いや、二股と言うのか。

 いやいやいやいや、加奈ちゃんに限ってそんなわけないよ。だって、加奈ちゃん私のこと好きだし。私も加奈ちゃんのこと好きだし。相思相愛だし。

 「…冗談じゃない」

 「え?」

 「あ、う、いや、なんでもないどす」

 「なんで急に舞妓さん…?」

 「加奈ちゃんに限って恋人だなんて、私に隠れて、そんな、あるわけ」

 「ちょ、落ち着け落ち着け。冗談だから…つか、ほんとに好きだな」

 「だ、って」

 「え、おい、泣くなよ」

 「友子ちゃん、が変なこと、言うからあ」

 「おいおい…」友子ちゃんは困ったように頭を掻いた。「愛が重いな…私にはそんなにないくせに」

 「…? まあね?」

 「そんな当たり前のように…嫉妬するぞ?」

 「私も嫉妬しようかなあ」

 「ぜ、前後の文とかみ合って無い。誰に対して嫉妬する気だ」

 「だれだろう」

 するとするなら、加奈ちゃんの恋人だろうか。私ではない恋人。いや、もし加奈ちゃんが本当に二股をしているなら、の話だが。

 もしそうなら、嫉妬どころじゃないかもしれない。

 殺してやるかもしれない。

 「ともかく…変なこと言ってごめんね。まあ、加奈にもいろいろあんでしょう。風香だって、加奈に言ってないことの一つや二つ」

 「ないけれど…」

 「だよねえ…」

 そんな風に話しながら、映画館のある郊外から町へ抜ける。せっかく休みの日に会うというのに映画だけではつまらないということで、繁華街まで出てお昼ご飯を食べようという話になったのだ。私の場合、昼を食べると夜まで持つので、晩御飯を作らなくて良い分楽だった。

 もしも加奈ちゃんが、と頭をぐるぐるする。加奈ちゃんに限ってそんなわけない、と思うものの友子ちゃんの言葉が何度も掠めた。

 それから、いつか見た夢のことを思いだす。私は加奈ちゃんに拒絶されて、行く当てもなくその場で死を自覚するのだ。

 そんなことには、なりたくない。死にたくないし、拒絶されたくないし、加奈ちゃんと離れたくない。

 「どこで食うー?」友子ちゃんが訊く。

 「ああ、えっと…どこでもいいよ、好きなとこで」

 「それ、一番困るやつなんだけど」

 「あ、そだね…えっと、じゃあ、和食と洋食どっちが良い?」

 「洋食」

 「私も」

 「じゃあ、あそことか?」友子ちゃんが指さしたのはハンバーガーショップだった。腹持ちも良いし早く食べれるのは良いことだ、と思って首肯した。

 その店は結構にぎわっている。駅近くという好立地に加えて、昼時なのもあって二人分の席を見つけるのに一苦労だった。

 「私買ってくるよ、何が良い?」私は友子ちゃんに言う。

 「ああ、悪いね。じゃあ、お願い」

 友子ちゃんに指定されたものを忘れないよう、何度も呟いて、レジカウンターに向かった。その途中、私は見てしまう。

 加奈ちゃんだった。

 背の高い、男の人と一緒にいる。

 お互い目を瞑って、キスをしていた。

 「……」息を飲む暇もなく、人とすれ違って、だから私は見なかったことにしてその足をレジへ進める。

 加奈ちゃんはずっと私のもの。

 そんなわけなかった。

 注文の行列の途中だった。

 自分の中の命が、尽きる感じがした。

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