二人の世界

成澤 柊真

第1話 変化

 「ねえ、キスしようよ」友達の加奈ちゃんが言った。授業は全部終わって、これから帰ろうかという時だった。私達は部活もやっていないし、授業が終わればすぐにでも帰れる。

 教室には外から差し込む夕陽と、人数分の椅子と机、ロッカー、本、それに、私と加奈ちゃんしかいない。

 つまりは私達は二人きりで教室に残っていた。

 「え、と…どうしたの?」私は笑顔で答えた。

 「それは、ちょっと違うね。私はキスしようと言っているのに、どうしたの、って返すのは違う」加奈ちゃんは厳しい口調で言った。それから、少し距離を詰めてきた。「キスをしよう」

 「ど、どうして…?」

 「キスしたいから」

 「キスって、でも…」

 「ねえ、もしかして嫌なわけ?」

 「えっと…」

 「何で即答できないのかな?」加奈ちゃんは威圧するかのように言った。「ねえ、風香。あんた、私の要求を断れるとでも思ってるの?」

 「え…」

 「あんた、私に見捨てられたらまた一人ぼっちに戻っちゃうよ?それでもいいわけ?それとも、話しかけてくれる子をずっと待ってるつもり?」

 「それは」

 「そんな子、いるわけないじゃない」

 加奈ちゃんはきっぱりと言って、また距離を詰めてきた。かすかだった甘い匂いが輪郭を帯びる。

 加奈ちゃんと私は、今言ったような関係だった。友人のはずが、上下の力関係がある。まあ、それは普通にどんな関係にもあってしまうものだと思うけれど、私達の場合はそれが少し露骨なのだ。

 私は、一人ぼっちだった。友達がいない。片親で、遅くまで働いている。兄も姉も妹も弟もいない。家に帰っても、学校でも一人きりの救いようのないやつだった。そんな私は努力の仕方も知らなかった。だから、仲の良い同級生なんて出来る筈もなく、一人を楽しむ方法を探すようになっていた。

 そんな時、声をかけてくれたのが加奈ちゃんだった。挨拶から始まって、よく話すようになって、お弁当を一緒に食べたり、一緒に出かけたり、仲良くなっていった。加奈ちゃんは人気者なので常に私が独占することはできないけれど、それでもなるべく一緒にいてくれた。

 私にとって加奈ちゃんは救世主で、生きる希望だった。

 だからだろうか。

 接し方を間違えてしまったらしい。

 どういうふうに間違えたかって言うと、力関係が出来る風に間違えた。

 つまり、私は加奈ちゃんをもてなしてしまったのだ。媚びへつらって、加奈ちゃんに気に入ってもらえるような人間を目指した。努力の仕方を知らなかったから、間違った努力をしてしまったようだ。そう気づいたのはこんなふうに脅されるようになってからだった。

 再び最初の頃のような関係に戻るには、もう時間が経ち過ぎていた。

 「ねえ、嫌なわけ?」加奈ちゃんは重ねて訊いた。

 「そんなわけ…ないよ…」

 「ふうん」加奈ちゃんは言って、また距離を詰めてくる。背後はもう壁だった。「じゃあ、良いね」

 「うん…」加奈ちゃんが後ろの壁に手をついた。本当にキスされてしまう、と思ったところで、私は言った。「あの、でも、私達、友達、だよね?」

 「そうだね。今はまだ」焦れた様に言った。

 「それに、女の子同士…」

 「だから?」

 「だから…えっと…」私は勇気を出して言う。「関係、壊れないかな…」

 「…もう壊れてるじゃない。取りかえしが付かないくらいに」

 加奈ちゃんは意外にも感情を込めて言った。加奈ちゃんは人当たりが良いから、こういう激しい感情を表に出すことは少ないので、少し怖かった。

 「そんなこと…」

 「あるでしょ?」加奈ちゃんは遮る。それから、顔を近づけてくる。

 「…っ」私は何も言わず、ぎゅっと目を瞑った。

 初めて触れた柔い感覚に、私は動揺する。動悸が激しい。呼吸がしづらくなって、意識がぼんやりとしてきた。加奈ちゃんの方はどうなのかと、目を開けてみたい気持ちはあったが、加奈ちゃんの顔がすぐ近くにあることを思うと、恥ずかしくて出来なかった。

 にわかに静寂が訪れる。いや、部活をやっている生徒の声とか、吹奏楽部の音とか、調子はずれの合唱とか、色々聴こえてくるものはあるように思えたが、耳に入る前に遮断された。何に、と言えばキスから流れ出る雰囲気に、だろうか。

 ふっと、空気がもとに戻る。加奈ちゃんの唇が離れたことが解った。

 「…嫌ならそう言いなよ」

 「嫌じゃないよ…?」

 「嘘だよ」加奈ちゃんは笑顔で言った。少しだけ疲れたような印象だった。

 「…嘘じゃない」

 「嘘だよ。じゃあ訊くけど、嫌って言っても怒らないってなったら、どうする?」

 「…それは」もし仮に嫌だとして、そう言われて、嫌といえる人間はどれくらいいるのだろう。そんなことを思った。「嫌じゃないよ」

 「…風香のそういうところが嫌い」加奈ちゃんは顔を少し歪める。

 面倒になってきたと、早く帰りたいと、現実逃避のように考える。でもたぶん、このままこうしていても帰れないだろうな、と理解した。

 それに、仮に帰れたとしても加奈ちゃんは多分もう話しかけてくれない。

 「えっと」私は少し考えてから、背伸びをして、加奈ちゃんにキスをする。無理な体勢だったけど、ちゃんと出来た。「これで、信じてくれる…?」

 「……」加奈ちゃんは驚いたように、しばらくの間呆然としていた。

 「加奈ちゃん…?」

 「ああ、うん」加奈ちゃんは一つうなずいてから、「帰ろ、風香」と何事も無かったかのように言った。

 それに安心する。うん、と私もいつものように頷いた。

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