最終話 あなたの世界と私の世界

 「せんぱーい、課長とはその後どうなりましたかー?」軽薄な後輩が、隣でPCを操作しながらそう訊いてきた。

 「んー? どうなったってー?」同じく高速でタイプしている私は同じ軽薄さを持って返事をする。

 「そりゃあ、どこまで行ったかって話ですよ。キスはもうしました?」

 「ああ…もう別れちゃったよ」

 「え」

 うそだろ! と後輩は責めるような視線をこちらへよこす。なんだなんだと首を傾げた。

 「…なんか悪かったかしら?」

 「いや、だって、課長ですよ。割と女子、もとい女性社員全員の憧れというか、隙あらばお持ち帰りしたい対象ですよ」

 「うちの女子社員はけっこうがつがつしてんのね」

 「その年で自分のことを女子と言うのはどうかと思います」

 「喧嘩売ってんの?」

 んん、と後輩は咳払いしてから、「あのですね、先輩は知らないかもしれないですけれど、友達が私しかいないから知らないかもしれないですけれど、先輩がお付き合いしていた方は、社内において、だれもが彼の背中を追い、そしてだれもが散って行く、まるで悪魔と聖水の関係のごとく、霊験あらたか、それはそれはありがたいお人なのですよ」

 「自分らのことを悪魔と表現するのはどうなの。あと友達はあんた以外にもたくさんいるけれど」

 「あの人の何がいけなかったんですか? 三平が理想、と皆が強がりをいうなか、彼は絶滅したと思われた三高さまなのですよ。皆の本音のユートピアであるところの課長との逢瀬に、何の不満があったというのですか」

 「あの…興奮しすぎて口調おかしくなっているけれど」

 「私はもともとこんなものです」

 その間にも私たちは手を動かし、ばりばりと仕事をこなしていく。いや、後輩の方の画面は見えないので、もしかしたら彼女の方は案外終わっていないのかもしれないが。

 それは困るな。

 「ん…なんとなく、かなあ」

 「なんとなくで神を足蹴にすると」

 「ついに神になった」

 「…あ、もしかして、性格が激悪だったとか。それなら頷けます。いい大学出た奴はプライド高そうですよね。親が金持ちで塾に行けたってだけのくせに」

 「親が金持ちで塾も行っていたくせに、それに胡坐をかいて勉強しなかったあんたが言っても説得力が屍と化しているね」私は苦笑いで応じてから、「良い人だったんだけどね…なんか違うんだよね」

 「なんかちがう! なんかちがう!」

 「声が大きい、うるさい」

 「私にくださいよ、それだったら!」

 「フリマじゃないんだから」

 でも確かに、私を好きだと言ってくれて、大事にしてくれた相手に対して『なんか違うから』という理由で別れるのは少し不誠実だろうか。

 しかしながら、悲しいことに事実だった。何かが違ったのだ。おそらく彼は優しく、紳士の部類に入るような人物だったのだろうけれど、私は何か違和感があったのだ。

 私の隣はあなたじゃない。

 私が笑いかけるのはあなたじゃない。

 そういう風に感じていた。

 「…先輩、大学時代からそうですよね。何かにつけて男にモテて、何かにつけて振っていた」

 「…どちらも否定しないけれど」

 「男にモテるのは否定しろう!」

 それに、人気があったのは男性からだけではなく、女性からも結構群がられることが多かった。私の何が良いんだか、ただわがままなだけの女に、どんな価値があるのか分からなかったけれど、好いてくれる人は、光栄なことに沢山いた。

 言葉を選ばず言うなら、よりどりみどりだった。

 だから私は、いろんな人と付き合って、いろんな人と別れた。男も女も節操なく、共に笑って、手を重ねた。

 しかし結局、結果は同じ。『何かが違う』。

 酷く自分勝手で、自分本位で、手の施しようのないその言葉は、私自身を簡潔に表しているようだった。

 「あーもー…パワーバランスおかしいでしょ。何でこんな良い子な私がからきしなのに、こんな田舎のネズミの先輩がモテまくるのでしょう」運営どうにかしろ、と彼女はつけたした。

 「田舎のネズミ?」

 「いや、きっと先輩は都会に住まう大多数の人間と価値尺度が合わないのですよ。先輩、九州のほうとか住んだことありますか? 案外しっくりくるかもしれませんよ?」

 「しっくりねえ…いや、多分どこ行っても同じだと思う」

 「そーですかねえ。田舎ってあれでしょ。木登りが上手いとモテるんでしょ」

 「…あんた、九州とかに住んだことは? すっごい礼を欠いた偏見を堂々と言っていて、軽く引いている先輩だけれど、九州に住んだことは?」

 「もちろん。東京生まれ東京育ち、生まれてこの方地元を出たことが無い、地元じゃ負け知らずのどヤンです」

 「……」まあ、解っていたことではあるけれど、完全な想像だった。「…金髪の人がすれ違っただけで地面を凝視するやつが、どヤン」

 「真のどヤンとはみだりに睨みつけたりしないものです」

 「あんたの適当なとこ、割と好きだよ」

 価値尺度がズレている、というのとはきっと違うのだろう。

 私はまだ、高校時代のことを引きづっている。人生で見ても、単純な時間で見ても、ほんの一時、関わり合って愛した彼女のことがまだ私を縛り付けている。

 いや。

 これじゃあ彼女が私の自由を奪っているかのように聞こえるが、決してそんなことはない。結構好き勝手にやっていた。前述の通り、いろんな人と付き合ったし、もっと言えば処女もどっかで落っことしてきた。

 高校を卒業した時点で、もう何にも縛られていないはずだ。

 彼女は私を諦めて、私は彼女を諦めた。

 おそらくそれが成立したのだ。

 「…私も先輩のこと好きです」

 「それはありがとう」

 「まあ、合わなかったもんはしょうがないですよねー。いくら一般的によろしい性格をしていたとしても、高いステータスを誇っていたとしても、当人同士が納得しなければ恋人関係というものは成立しませんもの」

 「…せやね」

 「何ですかその適当な返事は」彼女は言ってから、思いだしたように言う。「あ、そういや先輩。今繁忙期じゃないですか」

 「そうだね。こんな無駄話は基本しちゃいけないよね」

 「そういうことは注意されたら止めればいいのです。そうではなくて、経理部に本社から助っ人が来るらしいですよ」

 「助っ人」

 「はい。なにやら処理が早いのと、お役所の魔の手から都合の悪い情報を隠す能力に長けた方のようです」

 「駄目な能力だ…」

 「だからまあ、本社は本社で忙しいらしいですが、一人くらい呼び寄せても往復してもらえばいいじゃん、ってことで今日から助っ人登場らしいです」

 「ほおー、その人大変だな。往復て」

 「まあ、電車で三駅ですもの。正直なんでこんなところに分社を作ったのか疑問です」

 「まあ、いちおう県跨いでるし」

 「はあ。そういうものですか」後輩は言ってから、「うちにはあまり関係無いですよねー」

 「…どうだろう。分からない。だって目の前に経理部が見えているのだから」

 「それもそうですね。きーきー声のうるさい人だったらどうしましょう。お喋りな人だったら、集中できなくて、仕事になりませんな」

 「…それはボケてるの?」

 「まあ、経理は陰キャ多いですからね。お喋りはないでしょう」

 「それはうちだけだから。快活な人が来ることだってあるでしょうよ」

 「ですか」

 「ですね」

 そこで会話が終わって、お互い自分の仕事に集中する。

 電話の音とか人の声とか紙がすれる音とか、色々な音が鳴っている。これはすべて人の活動によって鳴る音で、決して自然にはならない、言うなら人為的なものだ。音楽、というには雑音すぎるが、そういう点では似たようなものだろう。

 ここにいる人たちと私は関わって、私も雑音のオーケストラの一端を担っているが、さて、私はこれからどんな人物たちと出会い、共に人為を行うことになるのだろう。

 出会って、別れて、出会って、別れて。

 また出会って、手を取りあっても結局別れる。

 きっと私は一生それを繰り返すのだろう。飽きもせず、臆面もなく、堂々とそれを繰り返すのだろう。

 何かが違う。

 その正体は一生解らないままだと思った。あるいは、一生解らなくて良いものだと思った。

 高校時代の一時期でその後の人生が決定してしまうというのも、結構酷な気がするけれど、私に関して言うならそれでも良いと思うのだ。だって、それでも、彼女といた時間は掛け替えがなくて、私にとって一番重要で、どうしようもなく幸せだったのだから。

 それを自分の手で終わらせてしまった後悔と、傷つけてしまった後ろめたさと、傷付いた悲しみと、風化していく寂しさは、きっと私がずっと背負っていくことなのだろう。

 でもまあ、とはいえもう歳が歳だし本格的に腰を落ち着けないといけない頃ではある。親を心配させてしまうのも本意ではないし、適当な男性と恋をして、結婚でもしようか。その人をたとえ上手く愛せなかったとしても、そこには目を瞑ろう。

 そう考えると確かに、この子の言う通り、課長を手放したのはもったいなかっただろうか。どっち道結婚しないといけないなら、少しでも安定していたい気もする。

 「……」

 しかしながら。

 自分が人を愛せるような心を持っている人間だ、という前提は、私の中にはあるのだろうか、とふと思った。こんな最低な、とらぬ狸の皮算用みたいなことでひとを値踏みする人間に、誰かを愛することが、果たして可能なのだろうか。

 元からないものならば、誰を選んだって同じだろうという気もしてきた。

 彼女。

 風香との仲が続いていたとしても。

 それだって同じだろう、と。

 「せんぱーい」

 「んー?」

 「今何時ですかー?」

 「八時半くらい…ってあんたのディスプレイにも書いてあるでしょうが」

 「ですけどー。…もうすぐ出社時刻ですか」

 「ですな」

 「ありえねー」

 あり得てしまうのだからしょうがない、と返そうとしたとき、オフィスの扉の開く音がした。

 いつも仕事をしている社員は、あらかた出社している。というか、まずもって帰っていない。だからまあ、入ってくるのはきっと助っ人で来るとか言う人なのだろう。

 足音がして。

 ぼそぼそという形容がぴったり合うような足音だ、と少しおかしくなってから。

 何となく懐かしい気がして。

 何の気なしに顔をあげる。

 「えっと…本社からヘルプできました。白石風香です」

 そうやって丁寧に頭を下げた彼女に、私は釘付けだった。首ったけと言っても良いかもしれない。さっきからかたかた鳴らしていたキーボードの、演奏の手を止める。

 本当いうと、そんな場合ではない。三十分後に行われる会議に向けて、書類を作成し、事細かに説明できるようにしなくてはいけないのだ。なにせ、営業部のやつらは文句ばかり言って代替案を出してくれない。説き伏せるしかないのだ。

 けれども、けれども私にしてみれば、今目の前で、風香に再会できたという奇跡の方がよっぽど重要で、仕事なんて二の次だった。

 「どうぞよろしく…!」

 そうやってはにかむ彼女は、いつか話した、彼女の母親に一層似てきたようだった。高校時代から可愛かったけれど、現在の彼女は大人っぽい色気もある。ヒールのせいか、少し背が伸びたようにも見え、声は少し落ち着いた感じだ。

 経理部長の案内で、用意されたデスクに移動する途中、彼女はきょろきょろとオフィスを見渡して。

 そして、私と目がかち合う。

 「……」

 にこりと微笑んで。

 あとでね、と。

 そう口を動かしたように見えた。


 「かーなちゃん」

 私たちしかいない給湯室で、私はそう迫った。

 厳密に言うならお湯の入っているポットや紙コップやインスタントコーヒーなどが私たちを見守っていたが、そんなものは気にならなかった。

 今の私には加奈ちゃんしか見えていない。

 「…やっぱり風香」

 何とも言えない表情をもって私を出迎える加奈ちゃんが、しかし私には予想通りである。友子ちゃんから聞いていたとおり、加奈ちゃんはあまり変わっていないようだった。

 よかった、と安堵する。

 これが大人になってしまっていでもしたら、私に勝機はない。加奈ちゃんが変わっていないからこそ、まだ私を好きな可能性がある。それに、私の好きな加奈ちゃんが、なにか別のものに変わっていてもらっては困るのだ。

 なにせ、高校を転校してからこっち、ずっと加奈ちゃんを追い続けてきたようなものだから。

 「あはは、本物の加奈ちゃんだ。懐かしいな。いやまあ、昨日のことのように思いだせるから、それほど昔だとは感じないけれど、そっか、もう十年だもんね。振り返ってみれば長いな」

 「…どうして?」

 「なにが?」

 「どうして、ここに?」

 「変な事訊くね。今が繁忙期だからでしょ。本社から助太刀しに来ているんだよ。ああ、部署が違うから解んないのかな」

 「…そうじゃなくって。偶然、じゃないんでしょ?」

 加奈ちゃんはどうやら、私たちの再会について質問しているみたいだ。うん、良い兆候だ。せっかくここまで来たのに、『あ、風香だやっほー久しぶり。高校以来じゃーん』みたいな軽いノリで接せられたら立つ瀬がない、と内心ひやひやしていたのだ。それじゃあ、まるで私たちがただの友達だったみたいになってしまう。

 だから、こんな微妙な顔をしてくれたのは、私にとって幸いだ。これぞ昔の恋人との偶然の再会、といった具合である。

 まあ、加奈ちゃんの言った通り偶然ではないのだけれど。

 「うん。友子ちゃんから聞いた。加奈ちゃんがここの会社に受かった、って」

 「…美坂か。っていうか、まだ友子ちゃん呼び?」

 「友子ちゃんは友子ちゃんだよ」

 私が最初に友達になったのは友田友子であって、美坂杏里ではない。だからたぶん、私は一生、友子ちゃんのことを友子ちゃんと呼ぶことになるだろう。

 「…何しにきたの?」

 「今の状況で察せられないほど加奈ちゃんの頭はおそまつじゃないはずだよ?」

 「……」

 …今のは言いすぎだろうか。私らしくない。いや、以前の私らしくない、か。

 「今の状況で察せられないほど、加奈ちゃんの頭はカラ松じゃないはずだよ」

 「…それじゃあ意味が通らないけれど」

 「私は一松が好き」

 「聞いていないけれど」加奈ちゃんは言ってから、「風香、なんかちょっと性格変わった?」

 「まあ、十年も経てばね」

 昔の私はずいぶんとまあ引っ込み思案だったなと思う。今でもその片鱗を見出すときはあるけれど、やっぱり落ち着いて、けっこう喋るようになった。

 友子ちゃんの影響かもしれない。しかし友子ちゃんと一緒にいると、バランスをとるかのように、あるいは昔を思い出すかのように、ぱたりと喋らなくなるのだ。やっぱり、彼女は私のなかでは特別な存在なんだなあ、と感じ入る。

 加奈ちゃんの前ではどうだろう。まあ、昔に戻った感じはない。でも、加奈ちゃんを見て思うことは今も昔も、同じことを感じていた。

 「…好き、加奈ちゃん。キスしよ」

 「…嫌」

 「どうして?」

 「どうしてって…」加奈ちゃんの視線は宙を泳ぐ。「だって…会ったばかりだし」

 「会ったのは十年前だよ」

 「再会したばかりじゃない。それでいきなり、昔みたいにキスしようとか言われても…無理だよ」

 「私のこと嫌いになった?」

 「そういうわけじゃないけど…冷めた、のかもしれない」

 熱が冷めて、目が醒めた。

 加奈ちゃんはそうやってつけたした。

 「私はずっと、今も加奈ちゃんの事好きだよ」

 「だったら、どうして…!」

 「ん…?」

 「どうして、もっと早く連絡くれなかったの? 私だって…ずっと待ってたのに、どうして」

 「そりゃあだって…連絡先知らなかったし」

 「嘘。高校の時、ちゃんと交換しているはずだよ」

 「いやまあそうだけど…加奈ちゃんさ、途中で連絡先変えたでしょ。メールアドレスから電話番号から、何から何まで」

 「…え」

 「結構、転校して間もなく加奈ちゃんに会いたくなって、どうしても会いたくなって、連絡しようとしたんだよ? だけど、何処かけてもつながらない。メールしても英文が帰ってくるだけだし、電話番号は違う人が出るし、住所だって…変わってたでしょ?」

 「そういえば…」

 そう言って口に手を当てる加奈ちゃんに。

 馬鹿じゃないの、と思った。

 私がこんなに想って、加奈ちゃんも私に会いたかったなら、引っ越す前に、電話番号やメールアドレスを変える前に、私のことを少しでも考えてくれれば良かったのに。

 そうしたら、今はもう、きっと私たちは一緒にいられているはずなのに。

 「…わたしね、その時、加奈ちゃんに愛想つかされたんじゃないかって思った。もう私と会いたくないのかなって。こんなことならあの時、何が何でもつなぎとめとけばよかったな、とか、どうして離れようとか言っちゃったのかな、とか、色々考えて、落ち込んだんだよ?」

 「…そんなに想ってくれていたなら、でも、なんで美坂経由で言ってくれなかったわけ。美坂と疎遠になってないなら、いくらだって方法が…」

 「…怖かったんだ」私は正直に感情を吐露する。「私と会いたくない加奈ちゃんに連絡するのが怖かった。…もう終わったことでしょ、って言われるのが、怖かったんだもん」

 だもん、とか。

 いったい何年ぶりに口にしただろうか。さすがにこの年になって子供っぽい言い回しをするのは恥ずかしい。けれどなんとなく、加奈ちゃんは可愛い私が好きだったように思えたので、恥を、もとい、照れを忍んで言ってみた。

 怖かったのは本当だ。

 そもそも加奈ちゃんは本当に私のことが好きだったのか、分からなかった。いや、当時は解っていたかもしれないけれど、転校してからは自信なんてまるでなく、私が一方的に加奈ちゃんを好いていただけなのでは、とさえ考えてしまっていた。

 たくさん泣いた。

 そうして加奈ちゃんを諦めた。

 けれど諦めきれずにここへ、加奈ちゃんのそばへ戻ってきた。

 甘えるようにして加奈ちゃんを上目遣いで見つめる。少し背が伸びたとはいえ、まだ身長差はあるみたいだった。

 「……」

 「…でも、大学に入ってから、友子ちゃんに聞いちゃった」

 「聞いたって…」

 「加奈ちゃん、あんまり恋愛が上手くいってないって」

 「……」

 「私にもチャンスがあるんじゃないかなーと思ってさー。…もしくは、私のせいでそうなってるのかな、って」私は言ってから、加奈ちゃんの反応を窺う。

 少し目を逸らして、顔が紅潮した。

 可愛い。可愛い反応だ。図星なのだろう。

 私の影響で加奈ちゃんが苦難しているのは、嬉しい。せっかくなら好きな人には喜んでいてほしいものだけれど、でも、その喜びは私に帰ってほしいのだ。

 せっかく喜ぶなら、私と一緒に喜んでよ。

 「だからこうして、同じ会社に就職したわけだけれど」私は言って、少し俯く。「何故か、本社勤務に…」

 「喜ばしい事ではあると思うけどね…」

 「おかしいと思ったんだよ。どこ探しても加奈ちゃんらしき人物を見つけられないし。もしかして自分が加奈ちゃんの顔忘れちゃったのかと思ったけど…社員名簿みたら支社にいるというじゃない…」

 「…社員名簿ってそんな簡単に見れるもん?」

 「こう見えて、私結構重役なんだ」

 「そっか…」

 「加奈ちゃんに見つけてもらうためだよ」

 「……」

 「何度も何度も支社に移させてください、って言ったんだけれど、なかなか上手く行かなくて…こんなに時間経っちゃった」

 待たせてごめん、と続けた。

 加奈ちゃんはなおも黙ったままだった。何を考えているんだろう。何を感じているのだろう。

 私の話なんて別に聞きたくないとか、思っていなかったらいいのだけれど。

 重いとか。

 切り捨てられないといいのだけれど。

 「…加奈ちゃん。いまから、やり直せないかな…?」

 やり直す。自分で言っておいてなんだけれど、それはどこからやり直すのだろう。

 高校時代から?

 それとも、最初からやり直す?

 思えば初めから、私たちの関係はおかしかった。崩れていた。どこかが欠落していた。

 どこか。

 いや、信頼か。

 お互いが圧倒的に、お互いを信頼していなかった。

 疑っていたと言っても良い。

 真っ当な関係からやり直すのか、それとも昔みたいに微妙な関係を取り戻すのか。加奈ちゃんはどっちが好みなのだろう。

 私は、私は。

 「最初から、やり直そう…?」

 「…無理だよ」

 加奈ちゃんは目を逸らしながら言った。心臓を掴まれる思いで、私は訊く。

 「…どうして? 時間が経ってるから?」

 「いや、そうじゃない」加奈ちゃんはきっぱり否定してから言う。「…私は、風香に対して誠実じゃないから。潔白じゃないから…知ってると思うけど、いろんな人と付き合ってきた」

 「……」

 「あのね、私は、風香のことが大好きだった。でも、高校を卒業して、そこで風香を諦めた。執着するのをやめた。風香はずっと私のことを想ってくれていたのに、私は勝手に風香を諦めた。…ごめん。ごめんね。記憶の片隅にはあった。でも、忘れていたことも、風香の存在を忘れていたことも、確かにあったの。…そんなやつが、今更風香と付き合う資格なんかない」

 「…私と付き合う資格があるかどうかは、私が決める」

 私は言う。いつかの加奈ちゃんを真似て、少しだけ高圧的に。でもやっぱり、しっくりこなかった。私にはこんな言い方は似合わない。

 だから私は、微笑んで言う。今の私は、加奈ちゃん縋りつくかのように言う。

 「あのね、加奈ちゃん。誤解しているみたいだけれど、私も清廉潔白ってわけじゃあないんだ」

 「…え?」

 「私も加奈ちゃんみたいに、いろんな人と恋人になった。…これでも、転校先とか大学では、人気者だったんだよ。人には不自由しなかった」

 「友達…いっぱいいたんだ」

 「いや、友達はやっぱり、友子ちゃんだけだったよ…人が沢山いただけで、本当に好きな人は出来なかったな。いろんな人と話して、適当に選んで付き合って、加奈ちゃんのことを忘れられると思った」

 「……」

 ショッキングであってほしい話を、加奈ちゃんは黙って聞いている。

 私は加奈ちゃんが沢山の人と恋をしていると聞いて、悲しくなった。

 加奈ちゃんが恋愛に上手く行っていないことを聞いて、嬉しくなった。

 良くも悪くも、加奈ちゃんについて動揺したのだ。

 加奈ちゃんは私のことに動揺しているだろうか。それとも、友子ちゃんから少し聞いていたとするなら、それほどの驚きはないか。

 私の話を聞いたうえで、それでも私と付き合ってくれるのだろうか。

 もう私に興味がなかったらどうしよう。

 もう私に嫌気がさしていたらどうしよう。

 加奈ちゃんは何を思って、何を考えて、私とこうして対峙しているのだろう。

 私は自分のことを語っていても、頭の中は加奈ちゃんのことで埋め尽くされていた。

 「…でも結局、私には加奈ちゃんだけだったよ。誰と話しても、加奈ちゃんのことがちらついて、違和感があった。私の隣にいるのは、居てほしいのはこの人じゃなくて加奈ちゃんだ、ってずっと思ってた」

 私は滔々と言う。自分の思いを垂れ流す。

 加奈ちゃんに突き放されたとき何も言えなかった分、私は今ある私の想いをすべてぶつける。

 できることは全部したいと思った。

 「加奈ちゃん…が良いなら…私は、加奈ちゃんと一緒にいたい。ずっと、ずっと一緒にいたいよ…今度こそ、ずっと、一緒に」

 「……」加奈ちゃんはしばらくの間、考えるように黙っていた。今の私の言葉を聞いて、何を思っただろう。

 客観的に見るなら、十年ぶりにあった元恋人にこんなふうに言われても、反応に困るというか、どう考えたらいいか分からない、といった感じだろう。

 加奈ちゃんの立場だったら、きっと誰もが困惑する。ある種の嫌悪感すら伴うこともあるかもしれない。

 加奈ちゃんはどうだろう。

 私は加奈ちゃんとなら、いつでも一緒にいたい。

 たとえ十年間会っていなくても。

 たとえ喧嘩別れのような別離だったとしても。

 私には加奈ちゃんが必要だった。

 「…私は」加奈ちゃんは重く口を開く。軽く覚悟して、それを聞く。「私は、風香に昔、酷いことした」

 「……」

 「都合が悪くなって、風香を傷つけて、挙句私は風香を好きじゃ無くなって…もし、これからよりを戻しても、またするかもしれない…私は昔から、変わってない」

 「…うん」

 「…私はね、風香。さっき風香と目があったとき、奇跡だと思った。心の底から嬉しかった。それでも、私は風香に合わせる顔がなかった。風香のために何をしたわけでもなく、風香に許してもらえる日をただぼーっと待ってたの。…馬鹿みたいに」

 「……」

 「正直、困惑してる。ここに風香がいて、こんなふうにまだ私のこと好きって言ってくれてるの、なんか夢みたいで。どう反応するべきなのか、私は今どう思っているのか、自分でもわからない」

 これは、断られるのか。

 私は恋人の時でさえ、加奈ちゃんの喜ぶ事をしてあげられなくて、だからこんな反応であるのは当たり前かもしれない。

 良い思い出がないなら、恋人同士に戻るのに消極的なのは当然かもしれない。

 けれど。それでも。

 「…加奈ちゃん、私は」

 「風香。私もね、誰といてもなんか違うって思ってた。それがなにかなーって全然わかんなかったんだけど、多分風香じゃないってことが違和感だったんだろうな、って今分かった。…だから」

 加奈ちゃんは言う。

 頷いてくれているのかそうでないのか、いまいちわからない表現だったが、言う。

 

 「あの…また付き合ってくれると、嬉しい」


 と。

 そう言って微笑んだ。

 「…加奈ちゃん」

 私は高校時代に戻ったような感覚を憶えた。

 あの頃と同じ加奈ちゃんの笑顔。

 あの頃と同じ加奈ちゃんの言葉。

 少しだけ変わったお互いの心。

 さっき私は、今の私と過去の私とを切り離して語ったけれど、でも結局私は何も変わっていなくて。

 やっぱり私は、加奈ちゃんのことが好きだなーと嬉し恥かし、照れ笑いで思う。

 「…加奈ちゃん、キスしよう」

 「だめ」

 「なんで…付き合ってくれるんでしょ…!?」

 「だってそりゃ…恥ずかしいし。付き合うとは言ったけど、でもやっぱり何年も会ってなかったのには変わりないから…こう、人見知りじゃあないけれど」

 「…加奈ちゃん、前は学校でしてくれたのに。強引に迫って、キスしてくれたじゃない」

 「…っ! 忘れて…!」

 「むり。あの時の加奈ちゃんちょっと怖かったけど…色っぽかったし、可愛かったし」

 「忘れて!」

 顔を真っ赤にして言う加奈ちゃんを見て、いつかの屋上での出来事を思い出した。

 あの時、加奈ちゃんは確かに私に執着していた。

 私も加奈ちゃんも、お互いに捨てられたくないと思っていた。

 それがたぶん間違いだったんだろうと思う。お互い、見捨てるわけないと確信しているくらいじゃないと駄目だったんだろうなと、お互いを信じていないと駄目だったんだろうなと、今はそう思う。

 明確な根拠がなくても、この人だけはと馬鹿みたいに信じていたい。

 加奈ちゃんだけはとそんな風に。

 「…あそうだ。加奈ちゃん、こうして無事恋人同士になれたことだし、言いたいことがあったんだ」

 「…どうしたの」恋人同士と言われて、ちょっと照れたような加奈ちゃんが可愛い。

 「一緒に住もう…!」

 「…は?」

 「同居しよう、いや、同棲しよう! もう部屋は用意してあるから!」

 「……ん? は!? いやちょっと、急展開すぎるんだけど!? え、なに、同棲?」

 「うん。いやー昔さーお泊りしたじゃん? その時すっごい楽しかったというか…一気に加奈ちゃんを好きになった気がして。十年も会ってなかったんだから、ブランクを取り戻すにはそれくらいしないと…」

 「いやいやいやいや、無理無理無理無理。ちょ、早い早い」

 「でも、加奈ちゃん今、一人暮らしでしょ?」

 「そうですけど…」

 「私と同棲してくれたら、敷金礼金なし、風呂トイレ家具恋人付き、家賃や水道光熱費は折半だから今より安くなると思うんです。これ、結構いい物件じゃない?」

 「……」揺れる加奈ちゃん。可愛い。んーんーと身をよじって悩んでいる。

 そんな可愛い加奈ちゃんを見て、ふと思う。

 これを訊いたら失礼にあたるような気がするので憚られたが、どうしても気になって、口に出した。

 「…そう言えば今更確認だけれど…今付き合ってる人いないよね?」

 「いないよ。こないだ別れた…風香こそいないよね? セカンドはごめんだけれど」

 「やめてよ…いるわけないでしょ」

 「そ…良かった」

 ふんわりと笑う加奈ちゃんに、私はしばしの間見惚れる。魅力的な笑顔だ。

 誰にも渡したくない笑顔は、今度こそ私のものだと確信する。今度こそずっと見ていられると、馬鹿みたいな自信を持って私は予想する。

 「あの、加奈ちゃん…キスじゃなくていいから、抱き付いても、良い…?」私はおずおずと言う。甘えるように。

 「…まあ、それくらいなら」

 どんと来い、と加奈ちゃんを両手を広げ、私を迎えた。

 私を受け入れた。

 しっとりと抱き合う。加奈ちゃんが私の体を抱きしめると、じわじわと加奈ちゃんの温度が私に伝わって、何とも言えない幸福感と浮遊感が私の体の中に充満する。

 暖かい。懐かしい温度と香りによって、私は否応なしに腕の力が強くなる。

 加奈ちゃんの息遣いを聴きながら、私は言う。

 「…私、昔は加奈ちゃんのこと、どこかでお母さん代わりにしていたような気がする。お母さんが仕事でいなくて、一人で寂しかったから、加奈ちゃんで寂しさを埋めていたような、そんな感じで」ごめん、と続けた。

 「……」

 「でも、今はもう大丈夫だよ。お母さんと一緒に住んで、分かった。加奈ちゃんは加奈ちゃんで、お母さんとはまた違う好きがあったなーって。それが恋しくて、その好きをまた感じたくて、こんなに追いかけてたんだ。…今、また再確認したよ。今度こそ、加奈ちゃんのことをちゃんと愛せるような気がする」加奈ちゃんの胸に顔を埋めて、私は加奈ちゃんを全身で感じる。

 「…うん」

 「よろしくね…加奈ちゃん」

 「こちらこそ…」

 どどどど。

 ほとんど間隔をあけずに心臓は動き続けている。こんなに密着していたら加奈ちゃんにこの音が伝わってしまう、と少し恥ずかしくなったが、それはそれでいいと思った。

 きっと加奈ちゃんは、それでも良いと言ってくれると思った。

 「……」

 私はどうして、加奈ちゃんをこんなに好きなんだろう。

 強引に迫られてキスをして、怖がりながら恋人をやって、本当に好きになったところで拒絶され、離ればなれになって。

 それだけ見ると、私が加奈ちゃんを好きなるような要素が全くないように思える。

 私が加奈ちゃんに何もしてあげられなかったように、思えば加奈ちゃんにも何をしてもらったわけでは無い。いや、友子ちゃんなんて素敵な友達を紹介してもらったことはそうだが、重要なファクター足りえるかと言えば、加奈ちゃんと恋人であるうえではそうでもない。

 なのに私はこんなに好きで、人生をかけて加奈ちゃんを追いかけて。

 「…なんでかなあ」

 「え?」

 首をかしげる加奈ちゃんを見て、また顔が緩んだ。

 それから、自分が白々しいことに気付く。

 「…なんでもない」

 何ももらってないなんて。

 そんなわけがないことは、自分が一番よくわかっていた。

 寂しいときにそばにいて、一緒に笑ってくれただけで、私は充分加奈ちゃんを好きなる。

 そしてずっと、その温度が恋しくて恋しくてたまらなかったのだ。

 だからこうして、ここにいて、加奈ちゃんに抱きしめてもらっているわけで。

 しかし。

 加奈ちゃんの方はどうなのだろう。加奈ちゃんは、私の温度が恋しいと思ってくれているのだろうか。

 私を、欲しがってくれるのだろうか。

 「…今日は、今からは無理だけどさ、仕事が落ち着いたら、一緒に引っ越しの準備、してくれる?」

 加奈ちゃんはふいに、私の耳元で囁いた。

 私は突然のことで驚いたが、力強く頷いて。

 「愛してる…ずっとずっと」

 そう呟いた。

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二人の世界 成澤 柊真 @youshi

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