第12話 間違いの方が多いから

 何かの間違いだと思った。でもそれは、純然たる事実に他ならない、誰にも否定されることのないものだった。

 夜のとばりは下りきって、部屋の明かりを点けなければまったくもって暗い。しかし、どこまでも見えないのかと言われればそうでは無い。町の明かりや街灯、それに月明かりなんかが部屋の中に入って、一応、どこに何があるかくらいは解る。

 しかし、それが余計、部屋の黒さを引き立てる。

 「…風香、嘘でしょ」

 今日の朝、担任に知らされたことを反芻して、また希望から遠ざかる。

 転入試験のため、公欠。

 深く追求しなくとも、言葉どおりの意味であることはわかる。

 それ以上でも、それ以下でもなく。

 あるいは別の解釈も無しに。

 風香が転校する。離れていく。

 ただ、それだけの事だ。

 クラスメイトの誰もが無関心だった。

 知りたかったのに知れなかったのは、私だけだった。

 「なんで…なんでよ」

 なんで何も言ってくれないの、と何度も言う。ここにいない風香を問い詰める。

 本当は、答えをあえて訊く必要などない。

 私は風香と、関係ないからだ。


 「…加奈ちゃんなんか、元気ない感じだね」登校中、絵梨が言う。

 本当は一人で歩きたかった。何を考えても始まらないことは解っていたが、今は誰かと一緒にいたい気分ではない。酷い話だけれど、殊に絵梨だからそう感じるのかもしれない。こんなところ、風香に見られたらどう思うだろう。

 どうも思わないだろう。

 それでも私は自己満足的に、今は風香以外の人と会話しているところを見られたくない。

 風香が遠くに行っちゃうかもしれないのに、風香がもっと離れて行くようなことをするのは避けたかった。

 「…そんなことないよ。ちょっと疲れているだけ」

 「嘘だ。元気ないよ。はっきりしないし」

 「はっきりしないってなによ」

 「物言いが、なんかあやふやな気がする」

 「…勝手なこと言わないでもらえる?」

 絵梨は悲しそうな表情になる。少し語気が強かっただろうか、とちょっと後悔した。

 「ご、ごめん」

 そうやって、私に逆らえないところとか。絵梨の事が苦手なところだ。

 しかしそれは、風香もそうだった。私にたいして、何にも言ってくれない。

 何が違うんだろう。確かに風香に対して苛立っていた部分ではあったけれど、決定的に何かが違う。

 …私が当人を好きかどうか、だろう。

 「でも、昨日もちょっと様子おかしかったし、なんかあるなら、本当に…」

 「……わかった」

 気遣ってくれるのは、素直に嬉しい。けれどせっかくなら風香の言葉が欲しかった、とそう思う私はやはり我がままなやつだろう。

 前方に風香の姿は無い。振り返って後ろを確認するが、やはり風香らしき人物は歩いていない。

 じゃあもう学校についているか、あるいは休んでいるか。後者だったら、私は風香とは話せないのか。

 いや、風香の家まで行くという方法もあるのだけれど。

 面と向かって、言葉で拒絶されるのが怖い。恐怖で足がすくんで、風香の家までたどり着ける気がしない。

 「…あの子、前話しかけてた子、風香さん、って言ったっけ」

 「…!」

 絵梨が急にそんなことを言いだした。まさに風香のことを考えているときだったので、かなり驚くが、よく考えたら最近は風香のことを考えていないときの方が少ない気がした。

 「友達?」

 「……」

 「風香さん、がもしかして、加奈ちゃんの好きな人?」

 「…だったらどうだって言うの?」

 「いや…私とタイプが違って、可愛い人だなと思って」

 「あげないわよ…?」

 「いらないよ」

 まあ、もはや私のものではないのでこんな偉そうなことはいえないけれど。

 以前までなら大手を振って言えたのになあ、と少し気落ちする。

 「…でも、女の子だったよね? だ、いじょうぶ?」

 「何が?」

 「偏見とか、ない?」

 「知らない。友達とかには風香が好きだって言ってないし」まあ、美坂に関しては全然大丈夫そうだったけれど。「…別に奇異の目で見られたって、好きなんだからしょうがない、って思ってる」

 「私も加奈ちゃんのこと好きだから、大丈夫だよ…!」

 「訊いてない」

 「知ってたけどね! うん!」

 強がりを言う絵梨を差し置いて、私はまだ風香を探していた。

 

 教室に入ると、果たして、風香は自分の席に座っていた。例によって美坂と話している。試験が終わったからか、もう勉強はしていなかった。

 これならいくらか話しやすい、感じだけれど。

 屋上の一件以来、美坂とも険悪になってしまった。

 いつもお茶を濁す、というよりは棘が出ないように言葉を選んで場を収める美坂が、あの時ばかりは私に怒鳴ったのだ。それこそ、掴み掛らんばかりの剣幕で、風香のために激怒した。

 『お前、風香に好きでいてもらってんだろうが! なんてこと言うんだよ!』

 あの時、そんな風に言われた。

 風香に好きでいてもらっている。私と風香が恋人になったきっかけを考えれば、返す言葉もない。

 私はあまりにも傲慢だったのだろう。風香が私のことを好きであるのは当たり前で、私が何をしようと、好きでい続けてくれる、と馬鹿みたいに考えていたのかもしれない。

 本当はそんなわけなくて、突き放したら、あっけなく関係が無くなってしまうことに気付いていなかった。

 破たんから始まった関係が、強固なはずないのだ。

 「…よしっ」

 気まずいので近寄りがたかったが、どうにかこうにか、風香に挨拶した。

 「お、おはよう、風香」

 「おはよう、加奈ちゃん」

 風香はふんわり笑って返してくれる。無機質な笑みでもやはり私を喜ばせた。しかし、物足りなさはぬぐえない。

 抱きしめたい。

 キスがしたい。

 上辺じゃなく、本心で会話したい。

 「……」

 美坂は黙ったままだった。こちらを睨んでいるようにも感じる。

 「あの…風香、ちょっと訊きたいことが…」

 「?」

 「えっと、昨日さ、休んだじゃん?」

 「うん」

 なんでもないように頷く風香は、酷く他人だった。

 先日から私が風香のことを風香じゃなくて同級生の女の子と認識しているように、風香もまた、私のことをただのクラスメイトだと考えていることは明白だった。

 何度も考えたことではある。

 何も言わないということは、何も言う必要がないと思っているということだから。

 きっと風香は私と離れたいのかもしれない、なんて、今更なことだったけれど。

 「…?」

 こうやって、風香から直接言われるのとはわけが違う。

 「…転校、するの?」

 絞りだすようにして、私は言う。何とか、そう尋ねた。

 「うん。お母さんと一緒に、引越すんだ」

 嬉しそうにして、風香は答える。

 「……」

 その風香の表情はとても魅力的だった。私が見たこともないような、本当の喜びの表れだと思う。

 お母さん、仕事忙しくなくなったんだ、とか。ちゃんと話せてよかったね、とか。急にどうして、とか。言ってほしかった、とか。

 言いたいことはたくさんあったけれど、まず口を突いたのは酷く傲慢で、独りよがりで。

 私らしい言葉だった。

 「風香は、それでいいの…?」

 私と会えなくなるのに?

 そこまで言った私は、はっと我に返る。

 これは不味いと我に返る。

 「確かに友子ちゃんや加奈ちゃんと離れ離れは寂しいけど、一生会えないわけじゃないし…それに、お母さんといられるのは、嬉しいんだ。ずっとずっと、一緒にいたかったんだもん」

 いっそう破顔する風香に。

 これは、自分の首を絞めるだけだと手遅れの時点で気付いた。

 今の風香にとって私の存在は決して大きいものでは無いと解っていたのに。私は、何をいまさらそんなことを言ってしまったのだ。

 「…そっか」

 私はこんなに苦しいのに。

 風香は何とも思っていない。

 そんなこと、解っていたのに。

 美坂に目を遣ると、やはりすこし寂しそうだった。しかしそれを覆い隠すかのように、微笑んでいる。まるで風香が幸せならそれでいい、とでも言うかのようで、まぎれもない親愛だった。

 私といえば、醜い感情で埋め尽くされて、それを隠すことに躍起になっている。

 例えばお気に入りの玩具を取られた子供のように。

 驚くほど幼く、慄くほど勝手極まりない。

 「…そうだね」

 こんな、風香をものみたいに思っているやつが、風香とまた手をとって良いのだろうか、と考えてみた。

 風香に、私がそばにいて何か得をすることがあるだろうか、と想像してみた。

 「…まあ、だよね」

 ないに決まっている。皆無に決まっている。もともと私の我の強さで持っていたような関係で、風香に付き合ってもらっていた状態だ。解放されるぶん、風香にとっては得こそあれど、損失はないだろう。

 今は美坂がいるから、私が友達でいなくとも、なんら困らない。

 こんなことなら紹介なんてしなきゃよかった、と最低なことを考えてから。

 まあでも、あの時の風香の悩みは解消できたのだから良いだろう、と思い直す。

 「良かった、本当に良かったよ」

 私は歯を見せて笑った。

 「うん。ありがとう」

 風香が頷くのを見届けて、自分の席に戻った。その途中、私は本能的に思う。

 これでたぶん、風香と話すことはもう無いのだろう。

 「…おい、加奈」

 乱暴に呼び止める声がして、一拍遅れで振り返る。

 美坂は相変わらず私を睨みつけるようにしていた。

 「昼休み、屋上で待ってる。絶対来いよ」

 

 これ、私が何もしなければ成立しないよな。鍵は私が持っているのだから、美坂は屋上に入れないし、私を無理やり連れていくこともできない。私が行きたくなければこれはおじゃんになるはずだ。

 だけれどやっぱり、今は美坂のことがちょっと怖かった。いやまあ、従わないと美坂が危害を加えてくるとかそういうことは無いけれど、美坂の言うことは聞いておいた方が良いというような、脅迫観念めいたものが今私の中にはある。

 今の状態から今度は何を失うのだろう、とそんなふうに考えてしまう。

 がちゃ。

 誰もいない屋上の鍵を開いて、私達は中に入る。

 「…で、何でこんなところで話すわけ?」

 扉を潜ってそうそう、振り返らずに訊いた。

 「そりゃあ、人に知られたくない話だからだろうが」

 悪戯っぽくにやりとした美坂の表情は、何だか懐かしいものだった。

 転落防止の柵にもたれかかって、ばらばらと散らばっていく生徒達を眺める。あの中に入ったことはないなあと漠然と思った。

 「…あんた、本当にこのままで良いと思ってるわけ?」美坂は隣について、ゆっくりと切り出した。また鋭い目に戻っている。

 「しょうがないでしょ」

 「は? しょうがないって?」

 「だから、風香が私がいなくてもいいって言ってんだからしょうがないでしょ」言わせんなよ、と口に出さずに言った。

 「馬鹿じゃないの?」

 「…どうだろうね」

 「馬鹿だよ」美坂は断定的に言う。「風香がそんなこと言う羽目になったのは、あんたのせいでしょ」

 「……」

 「…ほんとは、風香はあんたの事まだ好きなんだよ」

 「どうだか」

 「断言できるよ」言って、美坂は軽く俯いた。「あのね、私と話している時だって、風香はいっつも上の空なんだよ。ちゃんと話は聞いてくれてるし、迷惑がってる風もないけど、私に満足してない、というか…」

 言いにくそうにしてそう語る美坂を見て、私はかつての自分を思い出した。

 「…あんたそれ、私とか関係無く、単に嫌われてるだけじゃ」

 「ちがう、と思う。いやまあ、本当のところは、どうかわからないけど…」

 「…なに? 愚痴聞いてほしいの?」それだったら私も風香への愚痴なら結構たまっている。

 「違うわ。だから要するに、私がぬるぬる友達を続けていたって風香は喜んでくれないってこと」

 ぬるぬる友達って。なんかぬめってそうだ。

 「…そんなの、私が恋人やってた時だってそうだったわよ。何を求めていて、何を考えているのか、まったく分からなかった」

 風香はいつだって、私から遠くにいてその心情は解らない。どころか、本当に私のそばにいたのかさえ、今の私では解らない。もしかしたら本当は、私が勝手に恋人だと思っていただけで、風香にしてみれば友達とも思っていなかったのかもしれない。そんな考え方だって、あるいは正解だろう。

 「そうかあ? 外から見てたら分からんけれど」

 「そりゃあ私だってそうよ。普通に仲良さそうに見えるもの、美坂と風香」

 「…未だに友子ちゃん呼びでも?」

 「…なんともいえないけれど」

 うーむうーむと美坂は悩む感じで首をかしげる。

 「……。…。まあさておき。加奈、普通に仲の良い友達って、誰?」

 「え、いやだから、あんたと風香…」

 「そうじゃ無く、加奈にとっての普通に仲の良い友達ってどういう人物が該当するのか、ってこと」

 「そりゃあ…うん。あんたとか、美沙とか…」他に何人か名前を上げて、美坂に向き直る。「それがどうだって?」

 「その子たちとキスしたい?」

 「…えっ」

 「その子たちを抱きしめて、耳元で好きって言いたい?」

 「いや、そんなわけないけれど…」

 例えば、美坂においてみる。美坂とキスしたいか、美坂を抱きしめたいか、美坂の耳元で好きと囁きたいか。ちょっと想像してみたところ、胸やけがするほど嫌だった。

 「あんた…もうちょっとデリカシー持とうよ。胸やけて」

 「えちょまってあんた私とキスしたいわけ?」

 「そんなわけないだろ、毒のない蛇の口に手を突っ込むほうがましだわ」

 「…喩えがえぐいよ」

 こいつのほうがよっぽど酷いじゃないか。私、そんなに美坂に嫌われていたっけ。けっこう仲良かったと思うんだが。

 「で、それがなんなの?」

 「だから普通、ただの友達とキスしたいとか抱き合いたいとか、思わないもんなんだよ」

 「うん」

 「で、風香はどうだった?」

 「キスしてくれたし、抱き付いてくれたし、耳元で好きって言ってくれたけど…それただのご機嫌取りじゃ?」

 私と風香はそんな関係だった。そういう恋人みたいなことをしてくれたとして、それを手放しで風香の本意だと考えることは、土台無理な話だ。

 友達のころからそれは変わらない。

 ずっと風香は私より下の立場だと考えていて、対等になんてなれないのだ。

 「…今私は、風香の唯一の友達なんだわ」

 「いきなりの風香dis…!」

 「ちがう。最後まで聞いて。つまりは、かつてのあんたとだいたい同じ立場なわけだよ。でね、それで、この前出かけたときに、ね…?」

 「…キスしたの?」

 「怖い顔しないでよ。キスはしてない。ただ、手を握ってみた」

 「…チキンだな」

 「キスした方が良かった?」

 「駄目に決まってんでしょ」

 「…振りほどかれたんだよ」美坂は自嘲気味に言った。「手を、振りほどかれた。ごめんね、って言いながら」

 「……」

 振りほどくなんて、風香がそんな強い意思を持ったような行動をするだろうか。下手をすれば嫌われてしまうような、拒絶の表現だ。私だってそんな風にされたのは、風香を押し倒した時くらいだったのに、手を握ったくらいで振りほどくというのは。

 「…あんたほんとに嫌われてんの?」

 「私が思うに、嫌われてない。好かれてないだけで」

 「同じことじゃない」

 「全然違うよ。私は好かれてない。でも嫌われてないから、なんだかんだ一緒にいてくれるけど…それじゃあ風香は喜んでくれないんだ」

 「…風香に喜んでほしいわけ?」

 「そりゃそうでしょ。…聞いたら、加奈が話しかけるまでずっと一人だったって言うじゃない」

 その話、美坂にもしたのか。いやまあ、風香にとって唯一の友達なわけだから、入り込んだ話をするのは当然、のような気はするが。

 私だけが良かった。

 「風香に同情してるわけ?」

 「同情してるわけ。だって、折角好きな人と一緒になれたのに、拒絶されてまた離ればなれになって、結果私みたいなよくわからないやつしか傍にいない、って可哀想にもほどがあるだろう」

 まあお母さんと一緒にいたいってのは叶ったみたいだけれど、と美坂はつけたした。

 「……」

 好きな人と一緒になって、と美坂は言った。しかしそれは、風香から望んだことでは無い。私が風香を好きなのであって、風香が私を好きなわけでは無いのだ。だからそこに同情するのは間違っているのだと思う。

 本当に風香が私のことを好きだと言ったのだとしても、それは本心ではない。

 「…まあ、そういうわけだからあんたが風香を避けてたら、もうずっと、永遠に、金輪際、未来永劫永久的に、このまんまだぞ?」

 「どういうわけよ」

 「だから、風香はあんたが好きだから、風香からは絶対に近付いてこないってこと。…もう一度言うけど、あんたが言ったんだからね、関係無い、つって」

 「……」

 「あのキスしていたやつが誰かは知らないけれど、まあ、あんたは今も風香が好きなんだろうな、って見てて思った。なにか事情があるんだろうな、って。いいたくなけりゃ、言わなくていい。でもな、風香にはちゃんと話した方が良い。ちゃんと話して、分かってもらった方が良い」

 「…うるさいな。無理に決まってんでしょ」

 「なんで?」

 そりゃあ、私は風香とよりを戻す権利なんて無いからだ。半ば自分から振ったようなものじゃないか。

 恋人だと思っていた人がキスをしているところを見たという気持ちは、どんなものだろう。

 その出来事を糾弾して、あんたには関係無いと突き放された悲しみはいかばかりか。

 そんなことを考えると、挨拶することすら罪のように感じてしまう。

 いや。

 違う。

 感じているのは罪の意識じゃなくて、恐怖だ。風香と話して、手痛く仕返しをされたらどうしようとか、罵詈雑言を浴びせられたらどうしようとか、そんなことばかり考えている。

 だからもう、私は風香と前みたいには話せないと思う。

 仮に、風香にちゃんと説明して分かってもらえたとして、しかし、私が言ってしまった言葉を取り消すことはできない。いざとなった時、都合が悪くなった時、関係ない、と突き放したことを無かったことには出来ない。

 風香の記憶にも、私の記憶にも残っているのだ。この先、その事実をないもののように扱って話すことはできない。

 だからきっと、私と風香はこれで終わり。

 だって私は、風香にたいしてそれほど酷いことをしたのだから。

 「あんたさあ…もしかしてそれずっと気にしてたわけ?」

 「…だってそうでしょ。あんただって見てたじゃない。風香が、私に傷つけられるところ」

 「それはそうだけど、加奈、それは今に始まったことじゃないだろ」

 「…どういう意味よ」

 「だから、あんたは友達の頃から風香にたいして、結構酷いことしてたからね、ってこと」

 具体的に言おうか、と美坂はいくつか私が風香にしたことを挙げてみせた。

 「反動形成というのか、でもいくら好きだからって、パシるのは違うんじゃない?」

 「うぐ…だってそれは、風香が距離とってくるから…」

 「風香のせい?」

 「…わたしのせい」

 にこ、と美坂は笑ってから、私に向き直って言った。「風香はそれを承知の上で、あんたと付き合っていたんだと思うよ。…私の前で、いちゃいちゃいちゃいちゃしていたんだと思うよ」

 「…そんなにしてない」

 でも、美坂の言うことはもっともだった。風香は私にずっと怯えながら接していた節があって、それは私が友達の時に風香を脅したりしたからだ。

 怯えながら風香は私に笑いかけて、キスをして、抱きついて、家に誘ってくれて、一緒にお風呂に入って、心情を打ち明けてくれて。

 大好きといってくれて。

 「ねえ、加奈だったら、本当に怖がってる人にそんなことできる?」美坂は私の心情を察したように言う。

 でも、しかしそれじゃあ。

 「どこの時点で、私のことを好きになってくれたのよ」

 「そんなこと私が知るかよ」美坂は犬も喰わないとばかりに投げやりに言ってから、「…最初からかもね、あるいは」

 「……」

 最初から、風香が私を好いていてくれたとして、で、私はそんな人に酷いことを漫然と行っていたのか。

 そう言えばお泊りの時、似たようなことを言っていた気がした。

 ずっと一人だったと。

 私が話しかけて、暖かくなったと。

 失いたくなかったと。

 風香は、もしかすると分かりやすく私と接してくれていたのかもしれない。それを自ら難しくして、その責任を風香に押し付けていただけなのかもしれない。

 「…ごめんね、風香」

 今から間に合うわけはないけれど。

 せめて風香が気負わず旅立てるよう、配慮するのが元恋人としての務めかもしれなかった。

 「まあ、個人的にはよりを戻してほしいけれど…」

 「いや、いきなりは無理だよ」私はきっぱり言ってから、「また友達からやり直して、もう一度告白する。今度はもっと、ロマンチックに」


 風香が行ってしまうまで、あと数日だった。だから私は、すぐに行動に移さないといけないわけだけれど、何をすべきか、何をすれば上手く行くのか、皆目見当が付かなかった。

 だからと言って、委縮して何もしなかったわけじゃない。いろいろやった。なるべく風香に話しかけるようにしてみたり、お泊りの時の話とか、風香のお母さんの話とか振ってみたり。そのあたりから、謝罪の糸口を探してみたのだけれど。

 結局のところ不発で、雲を掴むような感覚が続いた。

 これぞ風香、という感じがしなくもないけれど、受け流す先が美坂というのはなんとなく不満だ。

 「我慢しろ」

 美坂はぴしゃりと言った。

 そんなことわかっているので、めげずにしょげずに、がんこちゃんみたいに頑張ったのだけれど。

 風香は私と、話してくれていなかった。

 曰く美坂とも話していないらしいけれど。

 じゃあ、風香は今誰と会話しているのだろう。

 いやまあ、会話で言うなら私と美坂だ。風香は、じゃあ誰を見ているのだろうか。誰を感じて、誰を思っているのだろう。

 お母さん、とか。

 それとも、まだ見ぬ新天地での新しい人物?

 あるいは、自分自身?

 なんて、考えてもどうしようもないのだけれど、ともかく、風香は私や美坂には依然として振り向いてくれなかったのだ。

 とうとう。

 来てしまうのだった。

 「―――じゃあ、前へ出てきて」

 最後の日、帰りのホームルームの終盤、担任は風香を手招きして教壇上へ上らせた。

 ぼそぼそという形容がふさわしいような歩き方で風香は言われたとおりにする。

 もしかして、転校したくないんじゃ?

 私がいるから。

 そんなわけないことを考える。

 「…えっと」風香は喋り始める。このクラスに何の思い入れもないようで、決まり文句のように挨拶を述べた。頭を一度下げてから、自分の席に戻る。

 それが終わって、何事もなかったかのように、つまりいつものようにホームルームが終了する。

 風香に話しかけないと。なんて言おう。お疲れさま? いや違うか。転校先でも頑張って? ありきたりの言葉じゃ駄目だ。あの時はごめんね? 唐突過ぎるか。

 風香は美坂に挨拶してから、教室を出て行く。

 それを見ながらも、私はまだ考える。

 「…おい意気地なし」美坂は呆れたように声をかける。

 「今考えてる」

 短く言って、私は一生懸命思いだす。

 風香に初めて話しかけたときは、何と言ったんだったっけ。

 うーんうーんと首を傾げて、頭を捻った。

 回転率の悪い頭を働かせる。ぎしぎしと音がしそうなほど鈍い動きで、油を差したいくらいだった。いつもなら気にならない頭のお粗末さが今は憎らしい。

 おはよう、と挨拶した後。

 私は何を言って、風香の気を引いたんだ?

 「…ああ、なんか四月を思い出すな。可愛い子がいるとか言って、こんな状態になっていた気がする」美坂がぽつりとつぶやいた。

 「その時わたしなんて言ってた?」急き込んで私は言う。

 「憶えてないよ。…ああ、でも、加奈にしては可愛いことを言うなーとは思った気がする」

 「それだ!」

 今ので完全に思いだして、私は風香のもとへ駆ける。平凡すぎて思いだせなかったその言葉は、確かに世間ずれした私にしてはかなり純粋で、幼く、可愛らしいものだった。

 今日に限って人が少なく、思いっきり走れるのが幸いだった。風香がいつ発つのかは分からないが、冷静に考えれば、今追いつかなくても風香の家まで出向くとか、メールアドレスを知っているのでメールで呼びだして直接言うとか、方法は色々あったように感じるけれど、これが最後のチャンスなんじゃないかと、何故か思った。

 どたどたどたどた。

 下駄箱には結構いたので少々手間取ったが、昇降口を出ると、校門の前で佇む風香の後姿が見えた。

 やった。

 風香を認識できた。

 あれは紛れもなく風香だ。私の好きな、たった一人の。

 「ふ、風香」

 また歩きだそうとする風香を、そう呼び止める。息も絶え絶え、声が上手く出なかったけれど、風香は立ち止まって振り返った。

 「加奈ちゃん。どしたの?」

 「あの…! あのね…!」ごほごほ、と何度か咳をしてから、落ち着いたところで言った。


 「あの、友達になってほしいの…!」


 「…?」風香は首を傾げた。初めてこれを言った時は無表情でやや怖かった。けれど今は違って、表情が表に出ていた。「…もう友達じゃない」言って、風香は笑う。

 無機質な笑顔だった。

 「…そんなんじゃない」

 「え?」

 「私が、私が好きな風香の笑顔は、そんなんじゃない!」

 「……」

 開き直った、というと聞こえが悪いが、自分の欲望に忠実でいることをここ数日で覚えた。

 風香が、わがままな私を好きになってくれたというのなら。

 私は風香に対してさらけ出してしまおう、と。

 「加奈ちゃん、泣かないで」

 「…! な、泣いてない!」

 「いや、そこを否定するのは…」風香は言いながら、ハンカチで私の涙を拭いてくれた。

 「ふ、風香は、このままで良いの? 私は、私はちゃんと謝って、風香と仲直りしたい。前みたいに風香と話したい」風香に私を見てもらいたい。そう、みっともない台詞をつけたした。それから、もっと醜態をさらす。「あの、あの時は、本当にごめん。ちょっと動揺して、じゃなくて、都合が悪くなったから風香に八つ当たりしちゃって、だから、あんなこと言っちゃって、私は、本当は風香のこと好きなのに、あんな、私たちの今までを否定するようなこと言って、本当に、ごめんね。あの子とは、ただの従妹同士で、いきなりキスされただけで、…それを拒絶しなかった私も悪いんだけど、あの、何とも思ってないから。本当に好きなのは風香だけだから!」

 そう言えば、ここは校門だった。こんなに思いのたけをぶつけて、通り過ぎる人々に見られて、少し恥ずかしい気がした。でもまあ、しょうがない。ここで全部出し切ってしまわないと、後日に先延ばしにしてしまうと、考えていることの半分も言葉にならないだろう。余計なことを考えていられない今だったら、風香に全部伝えられる気がする。

 「…そっか。じゃあ、あの子の言ってたことは本当だったんだ」しばらく黙って、言葉を選んでいた風香は、そう言った。

 「え」

 「いや、さっきさ。背の高い一年生の女の子が話しかけてきて…加奈ちゃんの従妹だって言うから。嘘吐け、って思ってたんだけど、じゃあ本当だったんだ」

 絵梨のやつ、余計なことを。何だろう、あることないこと吹き込んで無いだろうか。私と絵梨がもう付き合っているとか、風香のことなんか何にも思っていないとか、信用が失墜している今、そんなことを言われたら弁明のしようがない。

 「そ、の子、何て?」

 「いや…なんか、自分がどれだけ加奈ちゃんのことを好きかとか、どこまで進んでいるかとか、忠告的なことを言って、去っていった」嵐のようだったなあ、と風香は笑う。

 「そう…」

 判断し辛いが、その話を聞く限りではあまり嘘は言っていないのだろうか。誇大表現はありそうだが。

 でも、風香が誤解してしまったら意味がない。

 「あの、その子の言ってることは、全部…」

 「…それで、大体全部わかったよ、加奈ちゃん」

 「…!」

 「えっと、つまり加奈ちゃんがキスしていたのは男の人じゃなくて女の子で、しかも年下で、従妹だったのね」

 「…男だと思ってたの?」

 「うん。背が高いし」

 「そっか…」

 「…あのね、加奈ちゃん」風香は私の目を見て言う。「あの、屋上で、言われたこと、私にもちょっと責任があるんだ。押し倒したりしてごめん。怖かったよね。…しかたないよ。だって、私も酷いことしたし」

 「……」

 「でもね、それでも、私は結構悲しかったんだ…事情を説明してくれるだけで良かったの。それでどうなろうと、加奈ちゃんの迷惑になるようなことはしたくないな、って思ってたから。だけど、『関係無い』って言われた時、すごく嫌な事思っちゃった。恋人のはずの私が関係無いの? って、加奈ちゃんは私を愛してくれてなかったの? って。本当は、そんなわけないって、加奈ちゃんを信じなきゃいけなかったんだと思う。今はこんな事言っていても、本心は違うはずなんだよ。だって、加奈ちゃんは私の恋人なんだもん」

 にこりと顔をほころばせる風香を見て、久しぶりだと感じた。

 それから、風香は続ける。私は黙ったままだった。

 「…でも、私は加奈ちゃんを信じてなかった。その上、察する力も持って無いから、とうとう誤解しちゃったんだ。加奈ちゃんは私に死んでほしいんじゃないか、って。もういらない子なんだなと思うとなんか、こう、どんどん加奈ちゃんのそばにいちゃいけないと思って…どうして、どうして、こんなことになったのかとか、私のどこが駄目だったのかとか…加奈ちゃんに訊きたかったけど、そんな勇気もなくって…っ」

 風香は途中から、涙ぐみ始めた。必死に我慢しているようだけれど、ぽろ、と一滴、彼女の頬を伝う。それをごまかすようにして紡がれる風香の言葉は、その重みを増していくようだった。

 「…信じられなくて、ごめんね。何も言えなくて、ごめん。あそこで引き下がってごめんね。…恋人が私で、本当に…」

 「もう、もう謝らないでよ」

 言って私は風香を抱きしめる。拒絶されるだろうか、と少し不安だったが、そのまま身を委ねてくれた。

 私は風香の耳元に口を持って行って、いう。

 「私が、私が全部悪いのに…風香のことを好きなはずなのに、他の子とキスして、風香にちゃんと説明もしなかったから…。風香のことが、風香だけが好きなはずだったのに、大事にしてあげられなくごめん。不安にさせてごめん。裏切るようなことして、本当にごめん」

 思えば、私も私で風香のことを信じていなかったのかもしれない。他の子とキスしたなんて言ったら風香はきっと怒るだろうとか、何をいっても解ってくれないだろうとか、手前勝手に風香のことを考えて、あんなことを言ったのかもしれない。しょせん風香は私に強要されて恋人になったのだからと、風香のことを疑っていたと言っても良い。

 恋人、いや、友人関係でも良い。人間同士のつながりは、きっと信頼によって形成されるのに、私は風香のことを信じていなかった。

 だから破たんしたのかもしれない。

 ぎゅう、と風香は抱きしめる力を一層強くする。私もそれに呼応するようにして、力を強めた。

 「……」

 しばらくの間は無言が続く。私は泣き続けていた。風香は私に抱き付いているうちに治まった様子だった。少しでも風香の役に立てて良かった、と思う。

 

 「…私たち、どこで間違ったんだろうね」

 

 風香がぽつりと言った。

 私は答えられなかった。

 間違いの方が多いから、数えきれないのだ。

 「…私、もし、風香が許してくれるなら、また前みたいに恋人同士になりたい」

 意を決して、打ち明ける。これに風香は困惑するだろうか。それとも、喜んでくれるか。拒絶されるのも、それはそれで構わない。

 「私もだよ、加奈ちゃん」泣きぬれた笑顔で、風香は言う。私はにわかに喜ぶが、それから、こう付け足した。「…でもたぶん私たちはちょっとの間、距離を置いた方が良いと思うの」

 「…え?」

 「このまま一緒に居続けても、多分私たちはお互いのこと、信じあえないと思う。また今回みたいに、すれ違っちゃうと思う」

 「……」

 「だから、私たちは少し会わずにいた方が良い。丁度私が引っ越すし、良い機会だと思うの」

 「…なんで、そんなこと言うの?」

 折角。折角関係が戻りかけたのに、どうして別れ話みたいなことするの?

 否応なしに心拍数が上がる。過呼吸みたいな息遣いになった。

 「加奈ちゃんだってわかってるはずだよ…私たちの関係は、元から壊れてた。私は加奈ちゃんに依存して、加奈ちゃんは私に執着して。そこから恋人になっても、結局同じだった。いま、前みたいな関係に戻れたところで、壊れてることには変わりなくて、だからまた今回みたいになっちゃうよ」

 「……」

 風香の言っていることは、私にもよくわかった。ずっと私が思っていたこと。風香との関係は決して対等では無く、平等では無く、だから私たちはお互いを信じていなくて、だからお互い傷ついて。

 大事にしているつもりが、自ら壊していて。

 同じ目線に立って、向かい合って、また恋人同士になるには、関係の清算をするべきだということを風香は言いたいのだろう。

 風香の背後にある夕日がやけに眩しい。

 どくどく。脈打つ音を聞いていた。

 「だから少しの間だけ、お別れ」


 風香と次会うのは、いつのことになるのだろう。

 少しの間だけ、と風香は言った。私が加奈ちゃんに純粋な好きって気持ちだけを持てるようになったらまた連絡する、と言った。

 けれど、その時が来るかどうかは定かじゃない。一生来ないかもしれないし、離れてみたら案外執着するほどでもなかったと、完全に繋がりがなくなることだってあるかもしれない。

 しかし風香の言った通り、このままの関係でいたとしてももう、意味がないのだろう。お互いが疑い合っていちゃ、良い関係は築けないし、長くは続かない。

 それは解っているのだけれど。

 私はそれまで、風香が私と会っても良いと思えるまで、私の方は何をしていれば良い?

 「…ふうか」

 やっと誤解が解けたのに。結局私たちは一緒にいちゃいけないなんて。

 そんなの、悲しすぎる。

 扉を軽くたたく音がする。誰だろうな、と思ったが、かなちゃん、と声がして絵梨だと分かった。

 どーぞ。

 おずおずと、絵梨は部屋へ入ってきて、口を開く。「…今日、風香さんと話した」

 「らしいね。聞いた」私は体を起こして言う。

 「ごめん、勝手なことして」

 「いやまあ…絵梨が風香と話すのは自由だし、私はとやかく言えないけれど」

 「…怒ってないの?」

 「…一応、内容は訊いて良い?」

 「えっと…加奈ちゃんのことは、諦めて! みたいなことを言いました…」

 「諦めてって…別に付き合ってるとかそう言うのは言ってなかったでしょ? ただ私が風香を好きだって言っただけじゃん」

 「いや…それは雰囲気でなんとなく分かった」

 「天才かな」

 「…一つ言って良いかな?」絵梨は上目遣いで言う。

 「内容によるけども、どうぞ」

 「…あの子、やめといた方が良いよ!」

 なんだこいつ、と瞬時に嫌悪する。風香を貶めて私に取り入ろうというのだろうか。

 いやまあ、と思い直す。今までの絵梨からしてそれは無いだろう。元々優しい子なのだ、そんなことをするはずがない。

 「…聞こうか」

 「風香さん、加奈ちゃんを諦めて、って言ったらさ、『じゃああなたが私と一緒に死んでくれるの?』って真顔で言ってきたんだよ!」

 「…風香が」

 そうか、風香は私と死ぬつもりだったのか。

 これだけだとなんとなく心中みたいに聞こえるけれど、きっとそうではなくて死ぬまで一緒にいるつもりだったのだろうと思う。

 それにしても、私はやっぱり不誠実だった。私は風香と死ぬつもりは無かった。というか、そこまで考えていなかった。ただ漫然とずっと一緒にいられればいいなと思っていただった。

 いやまあ、それが普通なのかもしれないけれど。

 風香がそこまで考えてくれていたのに、考えなしだった自分が恥ずかしくなる。

 「……」

 次また会えたなら、その時こそ風香に対して誠実でいたい。

 それには、それにはまず。

 絵梨を見据えた。

 「加奈ちゃん、あの子やばいよ…頭おかしいよ…」

 「…会ったばかりの人にそういうこと言うのはどうなの?」

 「いや、まったくの他人に一緒に死んでくれる、って言うのも大概だと思う」

 「…あのね、絵梨、聞いて」私はゆっくりと絵梨に言う。「あのね、私は、絶対に、風香を諦めない。風香のことが、全部好きなんだよ」

 「…どうしてそこまで」

 「可愛いから。私に付き合ってくれるから。私が好きだから」

 「…私じゃ、どうしても駄目なの?」

 「駄目。絵梨じゃ駄目だよ。いや、風香以外じゃ、ダメなんだ」

 「私、絶対あきらめないからね」

 「…今までは、それでいいと思ってた。絵梨が私のことを好きでも、私が好きにならなければそれでいいって、思ってた。でも、それじゃ駄目だって、最近思うの。風香に失礼なことしてんじゃないかな、って。だから、諦めてくれなきゃ困る」

 「無理だよ、そんなこと…もう無理だよ、手遅れだよ。もっと早く言ってくれれば、こんなに好きになる前に、拒絶してくれれば良かったのに…もう無理だから。私はもう、加奈ちゃんを好きじゃなくなることなんて出来ないんだから。ずっと、ずっと好きでいる…ぜったい、だから」

 「……」

 絵梨の意思は固いようだった。目は真っ直ぐ私を見つめて、若干の涙をたたえながら、きっぱりと言う。そこまで好かれると、やはりいい気分ではある。でも、それに甘んじては、もう駄目だ。いつまでもそんなことをしていると、仮に風香が私にまた連絡をくれたとしても、また間違えてしまうことになると思う。

 私は絶対、風香と関係を取り戻したい。だから私は、言う。

 「…そっか、絵梨の気持ちはもう分かった」

 それは風香が離れて行ってしまったことへの八つ当たりで。

 「これは、絵梨に向ける、私自身の最後の言葉」

 いきなりキスされたことへの意趣返しで。

 「…私は、あなたのことなんて」

 絵梨を好きにさせてしまったことへの贖いだった。

 「絵梨のことなんて、大っ嫌いで、好きになることは無くて、もう顔も見たくないくらいに、私たちが付き合うことはありえないから」

 「…!? かな、ちゃん…?」

 今までと明らかに違う私の態度に絵梨は困惑していた。

 ごめんね、絵梨。私はあなたのことを嫌いでいなくちゃいけない。私はあなたに嫌われなくちゃいけない。もうそういう関係になってしまった。もうそういう、無理やりにでも壊してから、作り直さないといけない関係になってしまった。

 だから。

 「…じゃあ、お風呂入ってくるね」私は言って、部屋を出た。

 「あ、ちょ、ちょっとまってよ、加奈ちゃん!」

 「なに?」

 私は首だけで振り返って、笑った。

 無機質な笑顔を、私を好きだと言ってくれた人に向ける。

 「わ、私は何を言われたって…加奈ちゃんの事好きでい続けるから…! そんなこと言われても…なにも、変わらないんだから!」

 「私も、絵梨の事好きだけど」私は言う。従妹として言う。「従姉妹同士なんだから、当然じゃない」

 笑顔は崩さなかった。いよいよ暴力じみてきたそれに、絵梨は明らかに狼狽えていた。そして、堪えていた。

 辛そうに、顔を歪める。

 「…っ」

 絵梨は私に迫ってくる。おおう、と少し驚いた。壁に背中をつけ、絵梨と向き合った。

 「加奈ちゃん…っ!」

 絵梨は顔を寄せてくるが、私はそれをかわして階段を下りる。

 「遊んでないで、宿題やっちゃいなよ?」

 そう言い残して、私は風呂場へ向かった。

 なんで、加奈ちゃん。

 そう呟く絵梨の声が聞こえた。しかし、振り返ってはいけない。言い聞かせて、そのまま足を進める。

 禍根なんて残りまくっているけれど。

 後悔なんてしまくっているけれど。

 それでも私は足を進める。

 「…まってる、からね」

 風香に認めてもらえる日まで、私は足を止めちゃいけなかった。

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