第11話 久しぶり

 素晴らしく何もない日々が過ぎて行く。可もなく不可もなく、だからと言って、つまらないわけでは無い、そんな何気ない日々に侵される。ちょうど、豪雨の後の浸水被害のような形で、私の生活は日常でびちゃびちゃだった。

 別に加奈ちゃんがそばにいたって、何も変わらないのだ。同じように過ぎて行くはずなのに、どこかが決定的に特別なような気がした。

 友子ちゃんがいるから寂しくない。私はすんなりと加奈ちゃんのことを忘れられる。

 そう思っていたのだが、どうやら簡単なことじゃないようだ。


 「じりりりりり」

 「…友子ちゃんうるさい」

 朝。友子ちゃんはいつも、私が座ると同時に話しかけてくれる。ありがたいことだ。

 ん、いや、友達としてはこんな思想はいけないのか。

 じゃあ、当たり前のことだ。

 いや…これはこれで踏ん反り返ってるみたいで嫌だな。

 ともかく、席に着いて真っ先に私に話しかけてくれるのは助かることだった。自分から話しかける勇気がないので、こんなふうに積極的にしてくれれば、そのまま関係がフェードアウトする心配がない。

 折角できた、唯一の友達がいなくなる心配がない。

 それは確かに嬉しいけれど、別の意味で、結構心配になる。私に話しかけるばっかりに他の友達から省かれたりしないだろうか。感じ悪い印象になっていないだろうか。まあ、友子ちゃんのことだからそんなことにはならないと思うけれど…友達として不安になる。

 私に時間を使ったがために友達を捨てるほど、価値がないのだ。

 「なんか眠そうだったからさー」友子ちゃんはいつもの調子で笑ってくれる。

 「朝は眠いものだと思う」

 「そうかな」

 友子ちゃんはやっぱり優しいな、と最近特に思う。会った時から気さくな人だったけれど、今私と友子ちゃんは何の関係もないのだ。

 加奈ちゃんと恋人でも、友達でもなくなった私と、加奈ちゃんの友達である友子ちゃんが親しくしなければならない理由はどこにもない。

 だけれど、友子ちゃんは変わらず私の友達でいてくれて、私に元気を与えてくれる。

 何気ない会話が嬉しかった。記憶に残り辛いけれど、これは確かに私が理想とした友人関係だ。

 「……」

 「どーした」

 「なんでもないよ」

 それでも満たされない。

 何かが足りない。それが加奈ちゃんだということは考えなくてもわかる。

 でも、なんでかまではわからない。私は加奈ちゃんが好きだったけれど、加奈ちゃんの迷惑になるなら好きじゃなくていいし、私は加奈ちゃんと関係していたかったけれど、友子ちゃんがそばにいてくれる今、友子ちゃんでもいい、はずなのに。

 加奈ちゃんにこだわる理由も、加奈ちゃんを望んでいい資格もないのに、友子ちゃんと話すことで私は嬉しいはずなのに、どうして私はこんなにも満たされないんだろう。

 本気で加奈ちゃんが好きだった。

 だからと言って、特別なわけではないと思う。

 好きだというなら、友子ちゃんのことも、嘘じゃなく好きだからだ。

 「…なんかごめん」

 たまらず口に出して謝った。

 「なんの話…?」

 勝手に自己完結して出た謝罪に友子ちゃんは戸惑って、私はまたも申し訳ない気持ちになる。

 窓の反射を利用して加奈ちゃんの席を盗み見た。

 加奈ちゃんは、どうやら友子ちゃんと話したいみたいで、こちらを凝視している。

 ごめんね、と加奈ちゃんにも、心の中で謝罪した。


 友子ちゃんから放課後どっか行こうと誘われたけれど、夕飯の買い出しに行かないといけなかったのでしぶしぶお断りして、私は帰路の途中にあるスーパーマーケットで食材を適当に入れていた。

 食材。

 カップ麺と、即席めんと、申し訳程度の野菜。

 「…食材じゃないかな」

 独り言が最近多くなってきた。それまでに全くなかったかと言われればそれはもちろんあるけれど、声に出す頻度は増している。

 たまに道行く人に怪訝な顔されるし、直したいとは思うのだけれど。

 「…あ」

 卵がやすい。十個入り百二十円だった。

 そして、そのワゴンの前には加奈ちゃんがいた。

 とっさに私は死角である総菜コーナーに隠れ、様子を窺った。

 そういえばお泊りの時、一緒に買い物に出てその時に加奈ちゃんも、ここへよく買い出しに行かされる、ということを言っていた。

 今頃思いだすとは、なんて油断だろう。

 加奈ちゃんはキョロキョロとあたりを見渡しながら、ゆっくり移動していく。何か目的があって買い物に来たようには見えない。私と同じく制服のままだった。だからまあ、帰る途中になんとなく寄ってみたのだろう。

 「……」

 私と加奈ちゃんはもう、関係の無いただのクラスメイトだ。普通、同級生を見かけたら声をかけるべきなんだろうけれど、引っかかりなく加奈ちゃんと接することは今の私には出来ない。加奈ちゃんの方もそうなのだろうか。学校で話しかけてこないことを思うとそうなのかもしれない。

 加奈ちゃんが私を意識してくれているかもしれないことに、若干の喜びを感じて、少しだけ口角が上がる。

 それでもやっぱり、私は加奈ちゃんの近くにいてはいけない気がした。

 今日はオムライスに挑戦しよう。そう思った。

 「……」

 加奈ちゃんは誰かを発見したようだった。背が高い、私たちと同じ制服を着た女の子だった。ただ、タイの色が一年生のもので、学年は一つ下だとわかった。

 あの子を探していたのだ。ちょっと、本当に少しだけだけれど、私を探していたりしないだろうか、と考えたりしたが、どうやらなかったようだった。買い物かごはその子が持っていて、卵を指して加奈ちゃんは喋りかけている。

 一人一つの卵パックを二つ買うために彼女に付き添っているのか、それとも。

 それとも、一緒に住んでいて、二人で買い出しに来ているのか。

 そう思ったのは、親族特有の親しさがあるような気がしたからだ。

 「…はぁ」

 あんなふうになれたら、関係無い、なんて言われなかったのかもしれない。どうしても考えてしまうのは、あそこにいるのが私だったら、ということだった。家族のように親しい間柄になんて、私には絶対なれないのだろうけれど、羨ましさが拭えない。

 このまま見てると、泣いてしまうな。

 それに、死にたくなるかもしれない。

 せっかく友子ちゃんに繋ぎとめてくれた命なんだから、大事にしよう。

 食べるあてもないアスパラガスの和え物をかごに放って、逃げるようにして別の売り場へ移動した。


 私は何もない人間だ。なんて、構ってくれている友子ちゃんに失礼だけれど、家で一人になり、それを実感した。

 「…予想通りだよ」

 加奈ちゃんがいなくなったら、私は何もかもが嫌になる。まあ、友子ちゃんがそばにいてくれるからそれも軽減されているけれど、日常を無味乾燥に感じているから、きっとこれは無気力になっていることの表れだろう。最近、輪をかけてそうだ。何もしていないという意味じゃなく、何をしても感情が動かないという意味で、無気力。

 私の心は今、活動をしていないのだ。

 友子ちゃんには、本当に不誠実で悪いけれど。

 心が弾まない。

 「…楽しくない」

 ごめん。ごめんね、本当に。

 誰に謝っているのかわからないが、益体もない私の言葉を家具たちは黙って聞いてくれた。

 彼らは何を考えて日々を過ごしているのだろう。何か感情があるとするなら、もしかすると私のこんな発言に腹を立てているのかもしれない。自分でもどっちつかずだと思う。

 加奈ちゃんの喜ぶようなことを何一つしていなかったくせに、いざ離れるとこんな風になる。依存する相手が欲しかったくせに、友子ちゃんじゃ足りない。

 人を馬鹿にしているのか、とそんな風に思っているかもしれない。

 私は誰に何を求めているのだろう。

 私の話にうなずいてくれて、私のことが無条件に好きで、私の好ましい人。

 加奈ちゃんも友子ちゃんも、その条件を満たしているように感じるが、一歩踏み込めず、いまいち不足。

 ハリネズミのジレンマではないけれど。

 それに近いものがあるのかもしれない。

 何がネックなんだろうなあ。

 夕焼けに、本格的に赤みが増してきた。そろそろ場面転換のように夜がやってくる。

 時刻は、午後六時くらいだ。晩にしようか。

 そう思った時だった。

 「…?」

 はじめ、幻覚や幻聴の類かと思った。失恋して、唯一の友人に得体のしれない不満を抱いている自分に嫌気がさしてありもしないものを見ているのかと血の気が引いた。まあでも、さすがに幻を見た経験はないし、ご近所の人が挨拶するのが聞こえたので、実在するとわかる。

 じゃあ、誰なのだろう。強盗だったら、いやだな。

 何回か開錠に失敗する音が聞こえてから、がちゃ、と扉が開いた。

 「……」

 「……」

 扉を開いた当人も、中にいた住人も、扉と口を開いたままで十数秒停止する。

 豆腐屋の通る音が聞こえたと思うと、扉を開いたほうが後ろ手に閉めて、言う。

 「えっと…ただいま」

 「…おかえりなさい」

 誰かわからなかった。

 でも、この家に帰ってきて『ただいま』という、私以外の人間は、一人しかいないだろう。

 「…お母さん?」

 「うん…久しぶり」

 何年振りかの母親との再会は、なんだか肩透かしのようだった。


 晩はまだだというので、私の料理をふるまうことになった。なんだってこんな時にオムライスにしてしまったのだろう。今のところ百パーセントの確率で失敗する料理を提供する羽目になったことに、少しばかりの残念さを覚えた。

 とりあえずお湯を沸かして、インスタントのお茶を淹れた。もちろん、先日加奈ちゃんに出した時の、母親のための湯吞で、だ。変な話だが、こんな日が来るとは思っていなかったので、なんとなく夢見心地だった。

 「え、っと、お茶…」です、とつけようか迷ったが、一応母親なのでやめておいた。

 ここで敬語を使ってしまったら、何かが終わる気がした。

 「あ、ありがとう…」

 母親をもてなすのはどうなのだろうか。そう思ったが、私にとっては来客に相違ないのだから、ゲスト扱いなのは致し方ない。

 買った卵を何個か割って、かちゃかちゃと撹拌する。牛乳と味の素を入れて、更にかき混ぜる。

 「…手際良いんだね」

 「そう…?」

 語調から謝罪の意図をくみ取って、私は何も言えない。本当だったらここで相手の気を紛らわすための冗談とか言ったほうがいいのだろうけれど、失敗するのが怖かった。気を遣っていると思われるのも不本意だし、黙るしかない。

 じゅわー、と溶き卵が色づいていく。それを見ながら考える。

 なんで今日の帰宅はこんなに早いのだろうか。いつもだったらもっと遅いが、もしかして、実は早い時間に帰れるのだろうか。

 「……」

 でもまあ、それはないか。今日が特別何の日だってこともないから、いつもあえて遅く帰ってるなら、じゃあなんで今日はちゃんと帰ってるのか、という話だ。どうせなら私の誕生日とかにあるだろう。

 …私、誕生日いつだったっけ。

 あれ、ほんとういつだ? 加奈ちゃんに一回訊かれたことがあったような気がするけれど、その時なんて答えたんだっけ。

 私はいつ歳をとるのだろう…?

 「…まあまあ」

 「どうしたの?」

 「え、あ、いや、なんでもない」

 いつもの癖で一人呟いてしまっていた。気を付けよう、と気を引き締める。

 ひとまず置いて、調理を進めながら、んーと頭を悩ませて。

 思い当たる節といえば、この間、加奈ちゃんが泊まった次の日、私は確かいつもと違うことをメモに残したんだった。

 というか、いつも何も書いていないのにその日に限っては何かを伝えたくて、メモに残したのだ。

 確か。

 『もっと一緒にいたいです』とか。

 『話したいこともいっぱいあるのです』とか。

 うわ…恥ずかしい。

 もし仮に、そのせいで早めに切り上げてきたというのなら、申し訳ない気分だ。

 その場のノリで書いたものだから、いやその言葉が嘘だったのかと訊かれると絶対に本当だとはいえるけれど、何かをしてほしくて書いたわけじゃないのだ。ただ、自分の気持ちをぶつけたらどうなるのかな、と思っただけで、早く帰って来いと釘を刺したわけではない。

 何も返ってこなかったし、なかったことになったのだとばかり思っていたのだが。

 「…あ」

 そんな風に滔々と考えていると、いつの間にか二人分のオムライスができていた。

 いつもより上手にできている。

 よかった、とひとまずほっとするが、何も考えずにやって成功するのはなんとなく複雑な気分だった。

 「…できたよ」

 皿に乗った黄色い塊を二つ、卓袱台に置いた。

 「美味しそう。ありがとう、風香」母親は緩く微笑んだ。

 「…うん」

 どことなく懐かしい感じがした。久しぶりに会ったわけだからそれは当たり前かもしれないが、本当にこの人と一緒に暮らしていたのだな、と再確認した。まあ、今も同居はしているけれど。

 「いただきます」言ってから母親は、一口食べて続ける。「美味しい。作ってくれてありがとうね」

 「…よかった」

 私は上手く笑えているだろうか。笑顔が苦手なことにこれと言ってコンプレックスを持っていなかったが、今だけは友子ちゃんみたいに魅力的な笑顔が欲しいと思った。

 「「……」」

 お互い無言で箸、もとい、スプーンを進める。

 さて。ここからだ。

 「…テレビつけるね」

 いつもつけているわけでは無いけれど、何か音が欲しかった。

 ニュース番組だった。面白味のかけらもないが、どこかはしゃいだ雰囲気の番組だ。どちらかと言えば好ましいものでは無いが、話の種にはなるだろう。

 「……」

 でもちょっと、無責任だろうか。自分から、話したいことが沢山あると言っておきながら、蓋を開けてみれば無言で、何も話してこないというのは。

 相手も甲斐がないというか。私が甲斐性なしな感じだ。

 でも、何を話したらいいのだろう。私の何を伝えれば、母親は喜んでくれるのだろう。

 何でもいい、はずがない。

 「…学校は楽しい?」

 不意に、母親は口を開いた。相手も話題を探していたのだろう、と察する。

 「あ、うん。楽しいよ」

 「…お友達はいる?」

 神妙な面持ちであるのと、妙に後ろめたそうだったのが気になった。何だか、答えの本を見ながら問いかけているような、そんな感じだ。

 「うん。一人だけ。その子のおかげで毎日楽しい」

 「そう…良かった」

 「うん…」

 またも沈黙が訪れる。どうしよう。何か、話題を。というか、普通の親子はどうしているんだ、こんな時。話すことなんてそう無いだろう。久しぶりに会った私たちでさえそうなのだから、毎日顔を突き合わせている家庭は殊更だろうに。

 んーんーと考えあぐねているうちに、双方ともオムライスを完食していた。

 不味い、ここから勝負だ。どうしよう。

 …最終手段だが、あれを渡してしまおうか。

 そう思っていると、母親は改まった態度で私に言った。

 「いままでずっと一人にしてごめんね、風香」

 テレビ画面に向かって何か話題を探していた私は、虚をつかれたような気分になった。

 「…大丈夫だよ」

 「大丈夫じゃ無いことくらい、知ってるんだから…」

 それはまさに、母親然としていた。

 「風香が寂しかったってことくらい、知っているんだから」

 「……」

 「だから、ごめん。ずっと、ごめんね」

 誠心誠意、という言葉がぴったりと当てはまるように思えた。目を伏せることもせず、私の目を真っ直ぐに見て謝罪する。

 「これからは、もっと一緒にいたいって思ってるんだけど…」

 「…お仕事はいいの?」

 「それは、うん、大丈夫。会社に早く帰りたいって言ったら、楽な部署に移させてくれるって言ってくれたから。…風香がもし、別にいらないなら、このままでもいいんだけれど…私、風香のそばで、ちゃんとお母さんやりたい。もう一度、やり直したい」

 いいかな、と。

 許可を取るかのような目になった。その言葉を聞いて、私はほっと安心する。

 何に安心したのだろう。全身の力が抜ける感じがした。

 母親が帰ってきてから私の中に渦巻いている何かが込み上げてきて、喉を刺激する。

 「…私だって、そうだよ。ずっとそうだったよ。お母さんとずっと話したかったんだ。いや、話さなくてもいいや。お母さんと一緒にいられればそれで」

 「風香…」

 「…えっと」

 余計なことを考えるせいで、それ以上言葉を繋げなかった。

 上手く伝わらない。込み上げたものをうまく吐きだせていない感じがした。

 どうしたら、ともどかしく思っていたら、眼の端にそれが映る。

 「これ、これ読んで」

 私は衣装箪笥の上に置いてある、それを母親に渡した。

 それは手紙だった。いや、手紙というには、誰に宛てたものでもなく、私があの日、思ったことを勢いに任せて書きなぐったものだ。自分の中で上手く昇華出来ずに変な高揚感が滞留して、堪らずしたためていたのだ。

 誰に渡す当てもなかった。ただ、自分が母親に対してどう思っているのか、再確認しただけのものだ。

 それを母親が読んだら、どう思うのだろう。

 私は口下手だから、こっちの方が伝わるのだろうけれど。

 私の中に渦巻いていたことは、きっとこれに書いてある。

 「……」母親は言われたとおり、黙ってそれを読んだ。

 自分のために書いたようなものだから、あまり読みやすさは重視していない。

 拒絶されたらどうしよう、とかもこの時、考えていなかった。

 「…風香、これ」

 読み終えた母親は、私に説明を求めるかのように視線をよこす。

 何を言おうか、としばし考えたが、何も考えずに口に出してみようと思った。

 勇気を持って、私は母親に誠実であることを決めた。

 「…お金を工面するために働いてくれてたのは、分かってる。それが私への愛の証だってことも、なんとなく分かってたよ。でも、肝心のお母さんの顔が全然見えない。そこにいる筈の、私のお母さんのはずの人の姿が全然見えない。これなら、誰でもいんじゃない、って。そう思っちゃってたこともあった。親不孝だよね…ごめんなさい。でも、でもね? 寂しかったんだもん。私のことを見て、私と一緒に時間を過ごして、私に笑顔をくれるはずの人が、文字とお金だけだなんて、寂しいよ。これは私の問題だけど…友達もいなくて、誰もいなくて…寂しかったんだから…凍えそうだったんだ…辛かったんだから…もっと…もっと、しゃべり、たかったんだから…わたしのこと、もっとみてよぉ…」

 後半は、涙混じりに言ったから、上手く伝わらなかったかもしれない。

 こんな自分本位の苦情を、母親は受け止めてくれるだろうか。ちょっと解らない。母親の人間性をちょっとも理解していない私は、しかし、臆病にならなかった。

 自分では、みっともない、と思っていた。こんなに独りよがりな台詞、子供っぽくて好きじゃない。

 それでもお母さんに聞いてほしかったのだから、不思議だ。

 甘えている、ってことなのかもしれない。

 うえうえと嗚咽に塗れた私の声は、支配されるすんでのところで、こう言った。

 「わたしの事、愛してよ…」


 「少し落ち着いた…?」

 気が付けば、お母さんの腕の中に居た。その暖かさや匂いはやっぱり懐かしい。優しく私を包むその腕は、私の内面まで抱擁しているようだった。

 どのくらいたったのだろう、とテレビ画面に表示されている時計を見ると、十分ちょっと経過していた。

 泣き止むまでそんなにかかったのか…。

 先ほどまでの自分の痴態を思いだして、大いに恥じ入る。かあ、と顔が熱くなった。

 「あ、あの…ごめんなさい、なんか、私、変な事言ってたような…忘れて、忘れて、いいやつなので…」

 「いやー、残念ながらそれは無理かなー。私記憶力良い方なんだよー」お母さんは冗談めかして言ってから、「それに、風香の気持ちは全部受け止めるって決めたから」

 そんな台詞、普段であれば、チープだとか稚拙だとか、そんな風に思うくせに今だけは嫌に私の心に響いた。

 「あ、ありがとう…」また泣きそうになるのをぐっと堪えた。

 「そこはお礼じゃないでしょう」にこりと笑うお母さん。「嬉しかったよ、私に気持ちを教えてくれて」

 「…うう…その、手紙は、勢いで…ごめんなさい…ちょっと勝手だよね…忙しいのなんて、私のため、なのに」

 「そんなことないよ。私も私で、無責任な話だけど、風香から逃げてたかもしれないって、手紙読んでて思った。これからはちゃんと向き合うようにするから…ほんとう、ごめん、ほったらかしにして」

 「……謝らないでほしい、です。私も、お母さんの事、見ないようにしてたから…お互いさま、ってことだと思い…思う」

 「やさしいね、ありがとう」私を撫でながら、優しい声で言う。それから、言いにくそうにして、言葉を続ける。「あの…それでね。会社の方に早く帰れる部署に移らせて、って頼んだんだけど…」

 「…うん?」

 「それが、県を跨いじゃうみたいで…今風香が通ってる学校からかなり遠くなるみたい。電車で…三時間くらい」

 「…そっか」

 それはさすがに、今の学校には通えそうにないな。いくら部活動をやっていないとはいえ、毎日六時間電車に乗っているのは、体力的にも精神的にもきついだろう。

 近くに通えそうな学校があるだろうし、じゃあ私はそこに転入するしかないか。

 「もし…あれだったらここから会社に通ってもいいんだけど。また帰り遅くなって、迷惑かけちゃうかもしれない…」

 「…それは…や、です」

 言いながら、友子ちゃんと加奈ちゃんのことが引っかかった。友子ちゃんとは離れたくない。折角できた友達なのに、こんなに早くお別れになるのは嫌だ。まあ、離れていても連絡を取る手段はあるけれど、毎日顔を合わせていなければ、やっぱり関係は途絶えていくような気がした。新天地で友達ができるとは思わないから、多分メールとか電話とかする相手は友子ちゃんしかいないのだろうけれど。

 「……」

 加奈ちゃんは、加奈ちゃんとは、どうなるんだろう。今のままで私が離れると、多分もう、一生関係が戻ることは無くなってしまうのではないか。できることなら、元の恋人同士に戻りたいけれど。

 …でも、加奈ちゃんは私のことをどう思っているのだろう。

 加奈ちゃんは、私と恋人同士でいたいと思ってくれているのだろうか。

 私以外の人とキスしていたのに?

 私に何も言ってくれなかったのに?

 もう既に、まったく関係の無い、それこそ赤の他人のように考えているのではないのだろうか。

 私からもし、加奈ちゃんに喋りかけたとして、それが解決することがあるのだろうか。

 ない、と。

 そんな気がした。

 「…お友達のこともあるだろうし、やっぱり引っ越さなくても、お母さん、頑張るから」

 「いや」私はきっぱりと言う。「私は大丈夫。お母さんと一緒に、引っ越したい。…転入試験くらい、頑張るから」

 「…無理してない?」

 「うん…全然」後ろ髪を引かれるような感じを覚えながらも、それでも頷いた。私の中の友子ちゃんと加奈ちゃんは、決して小さい存在では無かった。殊に、加奈ちゃんに関しては。

 しかし私には、加奈ちゃんと馴れ合えるだけの甲斐性がない。

 友子ちゃんと誠実に接せらるほどの人間性がない。

 逃げると言えば聞こえは悪い気がするが、その通りだと思う。

 私は二人から逃げたい。距離を置きたい。

 そうして私は、どうなるのか。興味もあったし、改善されるのでは、という期待もあった。

 それから、お母さんと一緒にいたい、という欲望も。

 「あの、お母さん、それより…」ややあって、私はおずおずと申し出る。引かれたりしないだろうか、と思いながらも、ないだろうという妙な確信を持ちながら、口に出す。

 「…ん?」

 考えなきゃいけないことはたくさんあった。それは解決しなきゃいけないことだ。けれど今は、今だけはそんなことより。

 「…もっと強く抱きしめてくれると…嬉しい、です」

 「…うん」

 テレビは点けっぱなしだったけれど、優しい静寂が続いた。耳元で、お母さんの息遣いを聴く。

 その腕の力は、やっぱり暖かくて、私を大事に思っていることが伝わって。

 「お母さん、大好きです」

 愛がそこから、染みこんでくるかのようだった。

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