第5話 私があなたに殺されるまで
がちゃがちゃ、と何回かやり損ねてから、三回目くらいで鍵がささって開錠する。手元を見ずに鍵をさすのには無理があったかもしれない、と気付いた。それほど疲れていたのだ、少しの惚けは見逃そう。
ドアノブを捻って、自宅の扉を開いた。ただいまは言わない。家具のみの家ではその言葉は意味を持たないからだ。後ろ手に扉を閉めて、しばしの間沓脱で孤独に浸る。その感覚に、今日はなんだか懐かしい印象を受けた。毎日のことであるのにおかしなことだが、今日一日の密度が大きすぎて、なんだかもう何日も経ったように感じた。
こうやって暗がりに一人になってようやく、自分が一人きりであることを実感する。さっきまでが多すぎたのだ。いつも生活しているより三倍の人口で過ごしていて、息の詰まる思いだった。それが嫌というわけでは無いが、やはり疲れるものは疲れる。一人きりに慣れている私としては、日常に戻ったことで少しばかりの安堵があった。しかしまあ、これはこれで別の意味でつまる感じだ。
面白味がない。新鮮味がない。
施錠してから、パチンと照明を点けた。自分が自分のために点けるのはどことなくさもしい。いやまあ、西日が入っているため照明を点ける意味はあまりないけれど、ルーチンワークというやつだ。結果、眩しくなったのでカーテンの方を閉めた。
電気代がもったいないだろうか。まあ、私のお金じゃないし別に良いか。
手を清潔にしてうがいをしてから、やっと寝転んだ。ふう、と一息つく。
昨日と何一つとして変わった気配のない部屋に、静寂が反響した。きーんとどこからともなく鳴っている。耳鳴りでは無い。静寂の音だ。耳が痛いが、気になるほどでは無かった。
そんな部屋の真ん中で寝転ぶ私は、しかし、何一つ変わらないわけにはいかなかった。舌に残る加奈ちゃんの感触を反芻しながら、どうしよう、と考えを巡らす。
なんで加奈ちゃん、いきなりあんな事したのだろう。いやまあ、理由は言っていた。私が友田友子と仲良くしていた、ように見えたから、嫉妬したのだ。だから、なんで嫉妬したのだ? だって、加奈ちゃんが友田友子と私を引き合わせたのに、本人が嫉妬するなんて不条理じゃないか。まあ、人間に、殊に加奈ちゃんに対して理に適った行動を要求するのは酷なことだが。
「……」
加奈ちゃんの行動はよく分からない。ディープキスされて、多分このまま貞操奪われるのだろう、と半ば覚悟したところで結局やめてしまうのだから。せっかく私がやりやすいようにと煽ったのに。友田友子の電話のタイミングが悪すぎたのもあったが、それにしてもあっさりすぎる。
本当はセックスなんかしたくないのでは。それならそれで別に良いのだが、じゃあ押し倒すのも辞めてくれと言いたい。
「…いや、思わせぶりなことをされて怒っているわけでは無く」
私は家具たちに言い訳した。ディープキスをされて、正直言って気持ち悪かった。
しかし手放しで否定できないのは、やっぱり私は加奈ちゃんのことをどこか高位のものだと思っているのかもしれない。壁に耳あり、ではないけれど、軽々しく貶すことは憚られた。
ぶーぶー、と心待ちにしていた携帯電話の着信音が鳴る。すぐに取りだして確認したら、やはり加奈ちゃんだった。
『ごめん。明日埋め合わせする』
「ふう…」
結果的に拒絶した形になってしまったので、今度こそ加奈ちゃんに愛想をつかされると思ったが、どうやらそうでも無かったようだ。帰り際のキスが効いただろうか。まあ、私からする、って言うのが味噌なのだろう。
「……」
加奈ちゃんも、頑張ったのだろう。私は私で疲れたけれど、私に好意を示すのに苦悶していることは、なにをされても感じる。さすがに今日のはやり過ぎだと思うが、その心意気には感じ入るところがあった。私は加奈ちゃんに好意を示しているだろうか。自信を持ってイエスと言えるが、たぶん充分ではないのだろう。だから、今日みたいな時に加奈ちゃんが不安になって押し倒したりするのだ。
これだけみると私が主導権を握っているように見えなくもない。まあ、どちらにせよ、私が加奈ちゃんに強く出られないことに変わりはない。
でも少しだけ、加奈ちゃんにはお礼をしないといけない。そうして同時に、私は自分の責務を果たさなくてはいけないようだ。
ぐう。
その前に、私は晩ご飯の買い出しに行かなくてはならないようだった。
今日も目覚まし時計は勤勉に働く。むくりと上体を起こし、しばらくの間ぼーっと惚けていた。
…朝ごはん作るの面倒だなあ。今日はいいや。
部屋を見渡しても、家具しかない現状を確認して、今日も始まったと確認した。
母親が帰ってこないのはいつものことだった。と、こんなふうに言うと私をほったらかしにする悪者みたいに聞こえるが、その実、まったくの逆で、私の学費や生活費を稼いでくれているのだ。
要するに、働いてくれている。何年も学生をして働かない私の為に、働いてくれているのだ。それなのに文句の一つも言わずに私の為のお金を工面してくれていることには申し訳なさも極まるが、それを伝える術はほとんどないに等しかった。
父親と離婚してからというもの、何年も口を聞いていない。私が起きる前に家を出て、私が眠った後に帰宅するので、必然的に話せるわけはないのだ。土日さえ家にいずに働いているのだから、私は精神的に一人暮らしに近かった。律儀にも毎日おいてある『晩御飯は自分でお願いします』というメモ書きがなければ、母親の存在自体忘れてしまうところである。
非情も良いところである。しかしながら、姿を見なければ存在を忘れる。これは当たり前のことだと思った。人間はそういうものだと、無機質な自分を納得した。
一度だけ、『いつもありがとう』とメモ書きをして、ケーキを置いておいたことがある。母の日のことだ。
次の日めざめると、そのケーキはなくなり、『おいしかったです、ありがとう』とメモ書きが置いてあった。
ただ、それだけだった。いや、充分な対応であり、何も不足するものは無かった。でも、それだけ、と感じた。
面白くなかったのだ。
じゃあ何を期待していたのだ、と訊かれると、自分でも何かは解らない。何だったのだろう。今もまだわからなかった。
毎年そうやって母の日にはケーキを置くことにしているが、私にとっては感情が動くことがらでは無かった。母親の方はどうか知らないが。
きっと私は頭が悪いのだと思う。感情がどういうものだか、思いだしていないのだ。自分が本当はどう思っているのか、心は動いているのか、それを感じ取るセンサーをどこかのタイミングで壊してしまったのだ。今更修理できるわけもなく、そんな母親に対し、親不孝を続けている。
馬鹿みたいだ。
私なんかのために働く母親を、馬鹿みたいだと思う。
と、そんな言葉が頭をかすめた。
「…加奈ちゃんだってそうだ」
加奈ちゃんだって、私なんかにかまけて取り乱して、らしくない行動をした。必要のない努力をした。本来感じなくていい、罪悪めいたものを生み出した。
そして私には何も残らない。ただただ、加奈ちゃんの行動に見合うことをしなければならない、という責任だけが残った。
面倒くさいとも思わないし、心が弾むこと柄でもない。
しかし、無視はできないのだ。
使命感、義務感、責任感、そんなものとは無縁で、ただの事実としての責任。それを果たして、責任と呼べるのかどうか。
加奈ちゃんに対して、誠実でいたいとは思っている。母親に対してもそうだ。
それでも私は、どうやら身勝手なようで、自分の気持ちを中心にして感情を動かしている。相手との交流なんて関係なく、自分の感覚のみで感情を、受け取り方を決定している。
甚だ不誠実な私は、今日、なにをすれば加奈ちゃんに対して責務を果たせるだろうか。
通学路を歩きながら滔々と考える。頬をかすめる冬の空気は、責め立てるような態度だった。
私は加奈ちゃんに依存しているが、その対象は必ずしも加奈ちゃんである必要はない。しかしながら、私には加奈ちゃんしかいない。
それを示すべきだろう。
それが感情による人間らしい価値観の決め方だ。
と、俯瞰したように言ったが、実際のところその通りだった。私には加奈ちゃんしかいない。一人ぼっちの私が人の暖かみを感じようとすると、加奈ちゃんしか相手がいないのだ。加奈ちゃんに付き合ってもらうしかない。
加奈ちゃんに見捨てられて一人になったら、多分何もかも嫌になる。生きる理由、といえば大袈裟ではあるけれど、こんな無為な人生を終わらせたい気分になるに違いない。じゃあ、今は何のために無為な人生を送り続けているのかという話ではある。加奈ちゃんのためではない。母親のためではない。自宅で私の帰りを待つ家具のためでは無い。
自分のためだろう。寒々しさから解放されたいがために、加奈ちゃんに縋って、気を紛らわしている。それが無為でないといえるわけはないが、少なくとも人生に張りは出ている。何もなくただ漫然と過ごす毎日は、やはり寂しいし、つまらないし、価値なんて無い。
加奈ちゃんの後姿が見えて、私は緊張を催した。
いや。
緊張では無く、『ときめき』ということにしておこう。すくなくとも、今日一日は。
「…か、加奈ちゃん、おは、よう」意を決して、私はそう声をかけた。
「あ、風香…」
ばつが悪そうに、加奈ちゃんは私を見た。押し倒したことを悪く思っていることは明白だった。
「あ、あの、風香、ごめ…」
「べたー」私は加奈ちゃんの腕に縋るようにして、寄り添う。
「え、あの…」
「…さむいね」
「え、うん…」
「加奈ちゃん、暖かくてすき…」
「あ、りがとう…?」
「…ふふっ」
加奈ちゃんが狼狽えている。うん。確かに、これはいつもの私の態度ではない。人目の多い場所ではあまり加奈ちゃんと話さないようにしていたから、こんなあからさまことをするのは珍しかった。
「…どうしたの?」
「え…なにが」
「いや、なんか風香、いつもと違う」
「そんなことないよ…さむいね」
「うん。いや、さむいけども」
「加奈ちゃん、暖かくてすき…」
「うん。それはさっき聞いた」
「加奈ちゃんが好き…」
「…うん」
「だから」少し間を取った。「だから…謝らないで」
「で、でも」
「大丈夫だよ。加奈ちゃんが思ってるほど嫌では無かったし、むしろ、嬉しかった、から…」
「…ん」加奈ちゃんは照れたように顔を背けた。
あともうひと押し。そんな言葉が頭をかすめた。「加奈ちゃんが私に嫉妬してくれて、本当に、嬉しかったから」
「風香…」
「私加奈ちゃんが好きだから…何されても、嫌じゃない」
「風香…」加奈ちゃんはぎゅっと目を瞑ってから、「キス、したい」
「…うん」
指を絡めるようにして手を繋いで、少しだけ背伸びをした。
正直に言うなら、人目が気になった。断って良いなら断りたかったが、折角ここまでたどり着いたのだから、もう少し機嫌を直してもらわないと困る。だからまあ、私は応じたけれど、やはり目はあたりを見回していた。
私達に注目している人間は、誰一人としていない。
だけれど何故だか、どこかへ隠れたい衝動に駆られた。それを我慢して、加奈ちゃんがキスをやめるまで、私は加奈ちゃんの唇に吸いつくようにキスをしていた。
「…ごめんね、風香」やっと離れたと思うと、加奈ちゃんはそう言った。「もう絶対、あんな事しないから」
「うん…」
どうでもいいよ、そんなこと。大切なのは、これからも私と一緒にいてくれるのか、というところだった。一緒にいてくれるなら、何をされたって私は構わない。もっといえば、加奈ちゃんになら殺されたって構わない。それで加奈ちゃんが私のことを傍に置いてくれるというなら、私がどうなろうが知ったこっちゃないのだ。
けれどそれが異常であることは解っていたので、加奈ちゃんには何も言わなかった。
「ねえ、私と、一緒にいてくれる…?」加奈ちゃんが私を覗き込むように言った。
当たり前だった。そんな確認をすることが、白々しく感じる。それでも今日の私は、その白々しさが嫌では無かった。むしろそのことは、私に妙な勇気を与える。今日一日、良い日になりそうだった。
「当たり前だよ…ずっと一緒が良いな」
いいよ。いつまでも一緒に居ようよ。
あなたが私に飽きるまで。私があなたに殺されるまで。
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