海蛇姫の急襲⑥
「!」
訪れを告げた兵の声に、フローレンスははっとして正面を見る。
さっきまで意識できなかったラハ・ラドマの冷たい風が頬を撫で、上がりすぎた体温を冷ましてくれた。
重い音を立てて馬車が姿を見せ、庭の中ほどで止まる。
扉が開き、中から出てきた件の海蛇姫は――
(なるほど……結構美人ね)
イスカの破壊力には断然劣るが、美貌を自慢していいぐらいの美女ではある。
クラウディアの年齢は十八。
フローレンスよりも二つ年上だ。
しかし実際に見た彼女は、凛々しい面立ちとメリハリのある体と長身のせいで、もう一つか二つ上に見える。
髪は緩やかにウェーブのかかったブルネット。
瞳は一段濃い焦げ茶色。
白い肌にきゅっと引き結ばれた赤い唇が映え、顔立ちと相まって華やかで――気の強そうな印象を与える。
クラウディアは後ろに侍女を従え、絨毯の上を悠然と歩いてきた。
「はじめまして、フローレンス姫。わたくしはクラウディア・ファル・シェイルコーレス。お会いできて嬉しいわ」
挨拶と共にクラウディアが見据えて礼を取ったのは、フローレンスへと向けて。
(っ)
いきなりの態度に、フローレンスは驚いた。
出迎えに出ているラハ・ラドマ側の人間で一番位が高いのは、第一王子であるイスカだ。
大国エスカ・トロネアの王女とはいえ、今のフローレンスはイスカの婚約者。
ラハ・ラドマの人間と見なすならば、序列はイスカの下になる。
なのにクラウディアは、あっさりイスカを無視してきた。
自国の王子を露骨に軽んじられたラハ・ラドマの人々から不快気な空気が膨れ上がる。
もちろん気付いているだろうが、それすら取るに足らないとでもいうように、クラウディアは眉一つ動かさない。
(さて。どういうことかしら)
ラハ・ラドマに対して威圧的に出てきたのは間違いないが、それ以外の思惑をどう受け取るべきか。
判断がつかないままだったが、応じないわけにもいかない。
「はじめまして、クラウディア姫。わたしもお会いできて嬉しいです。歓迎しますわ。どうぞ
「ええ、もちろん」
クラウディアの表情は、見せつけるように和やかだった。
周囲の空気はますます悪くなる。
妻となるフローレンスまでもがイスカをさしおいて挨拶したのだ。無理もない。
しかし当人はこの手の扱いに慣れているのだろう。
顔色一つ変えなかった。
(きっと、どんな顔していいか分からないから、なんだろうけど)
イスカの美貌で無表情のままだと、嫌味が通じているかどうか読みにくい。
見方によっては丸きり相手にしていないだけのようにも見えてしまう。
クラウディアもそう思ったのだろう。
自分の放った攻撃の効果が見えずに不機嫌になる。
「遠路はるばる、よくお越しくださいました。どうぞ中へ。外は冷えますから」
「ええ、まったくね。街道も満足に整備されていないようで、体が痛いったらないわ。ラハ・ラドマでも、そろそろ主街道を敷いて交通を整えたらいかが?」
――無論、クラウディアが通って来た道が主街道だ。
「考えておきましょう。――姫のご案内を」
「承知いたしました」
やはりそれも対応に困っただけだろうが、イスカはクラウディアの嫌味には無反応で、後をアルフルードに任せてしまう。
「フローレンス姫? せっかくお会いできたのですし、わたくし、ちゃんとした教養を持った方とお話ししたいわ。ご一緒にお茶などいかが? ラハ・ラドマの湿気た茶葉には辟易していらっしゃるでしょうから」
「――ええ。もちろん喜んでご一緒させていただきますわ」
いきなりの誘いだったが、フローレンスは笑って受けた。
ラハ・ラドマへの侮辱の一つ一つは、今は訂正しないでおく。
彼女と全面対決になるかがまだ分からないからだ。
イスカの隣から離れて、クラウディアと並んで歩き出す。
その後ろに彼女の侍女が続いた。
道中の護衛をしてきた兵士たちは、また別所へと案内されていく。
シェイル・コーレスからの客が来ることは以前からそれなりにあったのだろう。
アルフルードから委ねられた侍女の案内は慣れていた。
クラウディアとフローレンスが部屋に落ち着いてすぐ、彼女の侍女たちは茶の準備を始める。
「つまらない、不毛な景色ですこと。貴賓室だというのに、調度品も古臭いし。エスカ・トロネアの壮麗さに慣れたフローレンス姫には、さぞみずぼらしく映るでしょう? 退屈ではなくて?」
「こちらも趣があって、素敵だと思いますわ」
そうですね、とは言わなかったが、全面否定もしない。
あくまでも個人の趣味として聞き流した。
「趣……。そう、姫は芸術家気質なのね。美術品の題材として好む者もいると聞くけれど。……でも、もっと景観の良い場所はいくらでもあるわ」
二人の間に、温かい湯気を立ち昇らせる紅茶と、クリームの乗ったベリータルトが運ばれてくる。
「単刀直入に話しましょう。エスカ・トロネアの見返りは一体何?」
(人払いもしないで本題なんて、本当に直球ね。まあ、わたしが求めれば応じるんでしょうけど……)
ぐだぐだ話し込んでも埒が明かないと思ったのか、それとも隠す必要がないと思っているのか。
フローレンスとしても、絶対に人払いをしなければならない話はないので構わないのだが、クラウディアが何かに追い立てられているような、急いた印象は受けた。
それにやはりクラウディアも、フローレンスの婚約には何か裏があると決めてかかっているようだ。
ラハ・ラドマと同じように。
誰から見ても何かないとおかしいと思うらしい。
心の中でそういうものよね、としみじみしつつ、表面上は華やかに微笑む。
同じぐらいに無理のないだろう返答を、今のフローレンスは用意している。
そしてこれからにも都合がいいだろうものを。
「愛ですわ」
「あ、愛?」
「ええ」
相当予想外だったのだろう。
上擦った声を上げたクラウディアに、即座に肯定してやる。
「冗談でしょう? エスカ・トロネアほどの大国が、王女というカードをそんな理由で切るわけがないでしょう」
(そうね、普通なら……)
実際、上の姉も下の妹も、相手を吟味し値をつり上げている最中だ。
エスカ・トロネアは自給率が高く、他国への依存率が低い。
外交も逼迫していないため、大国の王女に相応しい結婚が用意されるし、その枠に収まっていれば、王女たち自身で伴侶を選ぶことも許される。
「恥ずかしながら、病弱なわたしの身では国の役に立つことは適いません」
フローレンスは幸せだ。
国が豊かだから、何の旨みもない辺境弱小国に嫁ぐことを、なんだかんだで許された。
「実に健康そうに見受けられるけれど」
「こちらの気候がわたしの体調に合うようなのです」
信じてもらえないんだろうなあ、と思いつつ、ラハ・ラドマに来てから何度か繰り返した事実を口にした。
案の定、クラウディアは信じていない顔をする。
「ふざけていらっしゃるの?」
「いいえ、まったく」
フローレンスは嘘は言っていない。
言えないことがあるだけで裏は本当にないのだが、クラウディアは思い込みの裏を作ってしまっているので、納得しない。
「……ええ、いいわ」
しばらくしてから、クラウディアは諦めた様子でうなずいた。
「わたくしはただ、不当に改定された氷の値段を元に戻したいだけなの。エスカ・トロネアの姫には関わりないことよ。口を出さないでいただける?」
「資料、拝見しましたわ。お言葉ですが不当とは言えないと思います。かかる費用や労力を鑑みれば、むしろまだ低すぎるかと」
嫁ぐにあたって、ある限りのラハ・ラドマの資料には目を通してきた。
経費に対して価格が安いというのは、こちらに来る前から感じていたことだ。
値の改定がなされたと聞いたときも、適正価格に近付いたと思っただけだった。
ラハ・ラドマがシェイル・コーレス相手にそれを成し遂げた、ということに驚きはしたけれど。
「その辺の山にいくらでもある、たかが氷よ! ふざけないで!」
「まあ。その辺の海でいくらでも泳いでいる魚で商売をされているシェイル・コーレスの姫のお言葉とも思えませんわ」
語気を強めたクラウディアに対し、フローレンスは扇を広げて口元を隠し、微笑んだ。
氷を切り出し運ぶのも、魚を獲るのもタダではできない。
ラハ・ラドマの主張は当然のものであり、シェイル・コーレスが理解を示すべきなのだ。
自分たちの利益に偏った見方ばかりをしていないで。
「わたしは確かにエスカ・トロネアの出身ですが、本日はラハ・ラドマの王子妃として接遇しております。今後は我が婚約者と第二の母国にも、礼節を持った対応を期待しますわ」
全面対決の構えを見せたフローレンスに、クラウディアは鼻白む。
しかし、何も言わなかった。
(なるほど)
やはりシェイル・コーレスはエスカ・トロネアとの関係を悪化させるつもりは毛頭ないようだ。
クラウディアはおそらく、そちらの交渉は許されていない。
彼女自身にはさほどの権限が与えられていないのだ。
交渉のために切れるカードは、かなり限られていると思ってよさそうだった。
(わたしに何の目的もなくて、残念だったわね!)
おそらく何らかの利益を求めてフローレンスがラハ・ラドマに嫁いでくるのだと思っていたのだろう。
であれば、交渉次第で懐柔することができるかもしれないと。
ラハ・ラドマに用意できて、シェイル・コーレスに用意できない物などほとんどない。
しかし残念ながら、フローレンスがラハ・ラドマに求めるものは、人間の力では用意できない土地柄そのものなのだ。
「……この国に嫁ぐ見返りは愛だと、先程仰ったわね」
「ええ」
「あの男は外道よ。見目が良いのを最大限利用する、ただの外道。あまり社交界にも出ていらっしゃらない貴女はご存じないと思うけれど」
クラウディアは説得の仕方を変えてきた。
しかもかなりの部分で本音が混ざっていそうな、演技臭さのない苛立ちを滲ませて。
「もし貴女が本当にあの男に、愛などというものを感じて婚約したのなら忠告するわ。すぐに破棄した方がいい。貴女なら他にいい相手がいくらでもいるでしょう」
クラウディアの態度が、どこか真剣さを増した気がした。
邪魔なフローレンスを追い出そうという以上に、イスカに対する敵意が感じられる。
その延長に、フローレンスに対しての心配すら窺える気がする。
「あの、イスカ殿下と何かあったのですか?」
「……初恋であるのなら、より傷付くことになるわね。けれど同時に、わたくしが今この国を訪れたことに感謝もしてくれるはずだわ」
「あ、あの……?」
「あの男はね――わたくしの母をたぶらかしたのよ!」
「ええっ!?」
ただでさえ気の強い心証を与えるクラウディアだが、今は一層迫力を増し、ここにはいないイスカへと憤りを露わにする。
「母は、多くの貴族に根回しをして、あの男のために条約を改定させてしまったわ! それに父が怒って、わたくしが始末をつけにきたのよ。わたくしが条約を正せないと、母は今度こそ王宮を追放されるわ! 不貞がなかったのが不幸中の幸いだけれど……っ。他国の王妃にまで色目を使ってたぶらかし、破滅させるなんて、許さない……ッ!」
(う、うわぁ……っ)
テーブルの上に置かれたクラウディアの両手はいつの間にか拳を作っており、怒りにぶるぶると震えていた。
事情を聞けば、イスカに対しての態度にも納得する。
(やっぱりあれ、交渉に使ってるんだ……ッ!)
狼狽した自分の醜態は、今思い出しても恥ずかしい。
同時に腹立たしさも湧き上がる。
見事にはまってしまった自分にか、交渉術として使っているイスカに対してかは、フローレンス自身にも判断が付かないけれど。
褒められたことではないにしても、イスカの交渉術を否定はしない。
見目の良さで取り入るのなんてよくあることだ。
むしろこのラハ・ラドマにそれ以外の武器はなく、イスカは一線を越えていない。
『たぶらかす』と言われるほどの文句も、おそらく実際には口にしていないのだろう。
イスカがそれを計算でやれる人間であれば、ラハ・ラドマの現状はもっと違うものになっていたはず。
要はシェイル・コーレスの王妃は、単純に彼との駆け引きに負けたのだ。
(でもこれは……どうしよう)
正直、色香に惑わされた王妃も悪い、とフローレンスは思う。
国の妃であれば、もっと自身を律して、慎重な対応を取るべきだ。
だからといって人の破滅を聞いて、いい気はしない。
まして母の身を案じる同年代の女性の怒りを見てしまっては。
しかしラハ・ラドマのためには、条約を戻すことはできない。
値段が今の方が適正である、というのも間違いなく事実なのだから。
(殿下は、どうするのかしら)
いくら人か好くても、明らかに『それ』を政治に使っている以上、相手の破滅も覚悟しているはずだ。
結果、恨まれるのも。
(悪いとまでは言わないわ。でも――……)
胸の内が、理性とは別の部分で否定したがっている。
人を踏み台にする後味の悪い手段。
やられた側には傷しか残らない。
よくある駆け引きだ。
しかし、上手くはない。
「貴女もたぶらかされているんでしょうけど、末路はお母様と同じよ。どうせあいつは、自分と、自国の利益にしか興味はないんだから」
それはむしろ自分だ、とフローレンスは思う。
できれば夫婦として仲睦まじい方が良いに決まっているけれど、叶わなくても構わない。
大切なのはここの気候だ。そう思って来たのに――……
(どうしよう。何か、モヤモヤする)
落胆しているのだ、と気が付いた。
話してみて、イスカを良い人だと思ってしまったから。
そう感じたとき、自分の憧れを形にできたような満足感と同時に、心の中が温かくなった。
なのに自分の期待と違って、がっかりしている。
自分が抱いた気持ちに、フローレンスは戸惑った。
(どうでもいい、はずじゃない)
期待通りじゃなかったから何だというのだろう。
この国に来た目的は何も変わっていないのに。
イスカの柔らかな笑みをどうしても思い出してしまう。
胸がざわつく。
――納得できない自分がいる。
「幸せになりたいのなら、別の相手にするべきよ。よろしければわたくしの兄弟を紹介するわ。ラハ・ラドマよりずっと貴国の役にも立つと思うし、わたくしも、エスカ・トロネアの姫が妹になってくれれば嬉しいわ」
フローレンスとの縁談をまとめられれば、交渉に失敗してもその埋め合わせになるとでも考えたのだろう。
思いついた提案に、クラウディアは積極的だ。
条件だけならフローレンスにも悪くない話だが、シェイル・コーレスには花が咲いているので、その時点で候補外だ。
「そう言っていただけるのは光栄ですが……」
首を横に振ったフローレンスに、クラウディアは息をつく。
「……そう」
たぶらかされている間は何を言っても無駄――と思っているのだろう。
母である王妃がきっと聞く耳を持たなかったのだ。
「でも、覚えておいて。この話は貴女のためにもなることよ」
意外に真摯な眼差しで、そう言われた。
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