第二章

海蛇姫の急襲①




「何も聞けないうちに逃げられた……」


 執務室で頭の痛い手紙を机に置いて向かい合いつつ、イスカは途方に暮れた声で呟いた。


「引きこもりでもさすがエスカ・トロネアの姫、といったところですか。まさか殿下から逃げおおせる女性がいようとは」


 警戒と感嘆と、半々の息をついて呟いたアルフルードに、イスカは納得いかないと言うように顔をしかめた。


「前々から思ってたが、どうもお前と認識の齟齬がある気がしてならないんだが。俺は女性を捕らえたりなんだりと、無体を働いたことは一度もないからな?」

「あぁ、殿下はいいです、それで。その方が良心も痛まないだろうし、もういいかなと私も諦めましたので」

「だから。何度も言うが、俺が女性受けが良かったことはない」


 数年前――まだ社交慣れしていなかった頃のイスカなら、アルフルードの言うようなことを考えなかったわけでもない。

 多くの女性に好意を向けられているのではという想像は、男として心地良いものだ。


 熱に浮かされたようなぼんやりとした瞳。

 ふわふわと心ここにあらずな態度。

 体調が悪いのでないのなら、もしや――と思ったのも、数ヶ月ぐらいだ。


「彼女たちは誰と話していても同じ調子だった。俺が特別なわけじゃない」

「殿下の周りではそうでしょうね!」


 イスカにとって、女性が常に熱っぽい瞳をしているのも、頬を上気させているのも、話をしていて返事が浮ついたものなのもごく普通のことだ。

 周りが常にそうなのだから、異常だと分かれという方が難しい。


 その中で、フローレンスは珍しいタイプの女性だった。


 肖像画と容姿に違いはなかったが、実際の彼女は活き活きとしていてずっと愛らしい。

 だからこそ、本来温かく穏やかな光を湛えるはずの緑の瞳に強い怯えが過ぎったとき、罪悪感を覚えた。

 引き止めるべきだったのだろうが、できなかった。

 どうすればいいかが分からなかったから、逃げる彼女をそのまま見送ってしまった。


(逃げられるほど強く迫ったつもりはなかったんだが……)


 相手は将来の妻だし、そのつもりで話しても問題はないはずだ。

 だがそれとは別に彼女から目的を聞き出そうという気持ちもあった。


(意図が伝わった段階で、怖がられたのかもしれないな)


 何しろ相手は、病弱な深窓の姫君だ。


「しかし『お困りなのでは』ときましたか」

「ああ。驚いてつい、話を逸らして誤魔化そうと」

「それは誤魔化せていませんので。むしろやましいことを隠したのがバレバレです」

「ぐっ……!」


 初めに指摘されたときに反応してしまったのが、どうやっても繕えない失態だった。


「まあ、一欠片でも引き出せただけ上等じゃないですか。ジゼルの話だとこちらの空気が体に合うから、と言っていたそうですが。殿下には『花』がどうのと仰ったんですよね?」

「そうだ」


 アルフルードにうなずきつつ、イスカは胸の内で疼いたものについ顔をしかめそうになり、意識して表情を変えないようにした。


(侍女を使って事情を探るとか、未来の妻にすることじゃないな)


 ジゼルも嫌だっただろうし、疑われたと知ればフローレンスはもっとだろう。

 人を探るなど気持ちのいいことではない。

 フローレンスに付けられる家格の子女の中で、やると言ってくれたのはジゼルだけだった。 命じたイスカ自身とて、やらずに済むならそうしたい。

 だがやりたくないから、で目を瞑っていい立場でもない。


(俺はただでさえ凡庸だ。事実を知ることさえ放棄するのは許されない)


「殿下。貴方はするべきことをしているだけです」

「……ああ」


 気付かれないようにしているつもりだったのに、見透かされてしまった。


「彼女はきっと、嘘をついている。そして俺に追及されて逃げた」


 怪しむには充分な態度だった。


「頭の痛いことは続くものだな」


 呟きながら指先で手紙をなぞり、差出人の名前で止める。


 机の上に広げられた手紙には、これからそちらに行くので準備をしておけ、一月ほど滞在する、と、丁寧ながら有無を言わせない、強制的な要請が書かれていた。


「やはりエスカ・トロネアと繋がりを持つのを黙って見てはいないか。そっちが散々理不尽な真似をしてきたツケだというのに、いざ払うことになったら拒もうとするんだな」

「大抵の人間は、一度力を持てば手放せなくなるものです。権威でも金でも。国ともなれば尚更でしょう」

「……そうだな。奪ったことに違いはないか」

「殿下」


 アルフルードの咎めるような声に、イスカは緩く首を振る。


「分かっている。間違ったとは思っていない」


 だからこそ、抗うためにフローレンスを求めたのだ。


「フローレンス姫は勘付いていらっしゃるんでしょうか」

「分からない。だが、知られていない方が都合がいいのは間違いないな。それに、姫の目的も気にかかる。分かっていて来たのなら、何かしらの要求がありそうなものだが」


 こちらと同じく、様子でも見ているのだろうか。

 ……考えると胃が痛い。


「フローレンス姫のことは引き続き警戒するとして……まずはこっちか」

「シェイル・コーレスの海蛇姫……。我が国では何も呑み込ませはしませんがね。絶対に」



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