花冠の姫と氷の王子⑤
◆
ジゼルを介してフローレンスがイスカに求めたお茶会は、すぐに実現した。
その日の午後のうちに時間を取ってくれたのだ。
活けた白薔薇を見せる必要もあって、フローレンスは与えられた奥の私室にイスカを招いた。
「ごめんなさい。急にお呼び立てして」
訪れたイスカはフローレンスの謝罪に微笑という仮面で応じた。
実に王族らしく、表情からは何も読めない。
もっとも、今のフローレンスも同じ仮面を被っているのでお相子だが。
「構いません。貴女とはもっと親しくなりたいし――それに実は、それほど忙しくもないんですよ。兄王子の皆様を見ていらっしゃる姫には驚かれるかもしれませんが」
ラハ・ラドマは国土こそ広いが、そのほとんどが雪と氷に覆われた万年雪の不毛の地で、人の手の入っていない地域の方が圧倒的に多い。
手を入れることすら難しい、というのが本音で、当然のごとく人口も少ない。
環境が厳しいゆえに人々は助け合いの精神を尊び、諍いもあまり起こらないと聞く。
ラハ・ラドマの敵は、人ではなく自然なのだ。
(確かに、セリスお兄様を始め、皆、それぞれ忙しそうではあったわね)
多忙な兄姉たちの中で、自分だけが役立たずの引きこもり――というのがまた、フローレンスに自責の念を抱かせてきた要因でもある。
やるべきことがあり、国を動かすために立ち回り、その上で忙しいのは誇らしいことだろう。 それは自分に役目があり、認められている証だからだ。フローレンスにとって、憧れの姿だったと言っていい。
(でも……)
ここに来て、感じたことがある。
「わたしには、こちらの方が好ましく思えました」
本心だったのだが、お世辞と受けとめたのだろう、イスカは苦笑した。
「ありがとうございます」
「本当ですよ? だってここは時間がゆっくりしていて、皆の顔がとても穏やかですもの」
「……そうですね。エスカ・トロネアとは時間の流れが違う気がします」
良し悪しは明言しなかったが、イスカは同意した。
今フローレンスが感じているのと真逆のことを、イスカもエスカ・トロネアに行ったときに感じたのかもしれない。
エスカ・トロネアはとても豊かだ。
人も多い。娯楽も沢山あり、出来ることは大陸随一だと言える。
勉学、芸術、遊興、何でもだ。
すべてが仕事に繋がるぐらい栄えている。
――何でもあり過ぎて、時間が足りなくなるぐらい。
ラハ・ラドマとはまったく違う。
土地も、物も、――人心も。
今朝話したジゼルの様子を思い出す。
彼女はフローレンスを疑ってかかっていたはずだ。
上役にそう言われていただろうから。
実際、フローレンスが嫁ごうとしている理由が王太子ではないと分かったとき、ジゼルは警戒を露わにした。
なのに彼女は、フローレンスが言った『気候が体に合う』という理由を、信じないまでももしかしたら、とは思ったようだ。
体調を気遣ってさえくれた。
ラハ・ラドマの人間は田舎者で愚かだと、貴族や商人は嘲笑することがある。
だが言葉の妙で人を騙し、法や契約の抜け道を潜るのが得意な輩を『賢い』などと、フローレンスは言いたくない。
――つまり、そういうことなのだろう。
「イスカ殿下。もしかして、何かお困りなのではありませんか?」
「何か……とは?」
突如一歩踏み込んだフローレンスに、イスカは僅かに、表情を硬くした。
(『ある』わね)
その変化はささやかと言うべき程度だったが、腐っても王女であるフローレンスから見れば、露骨すぎる動揺だった。
(何というか、これはこれで心配だわ)
王子がこの調子で、シェイル・コーレスと渡り合えるのだろうか。
(あ、でも渡り合えてるから揉めてるのよね)
どことなく違和感は覚えつつも、事実がそうなのだからと、今はそちらの方を認めておく。
とりあえずイスカの反応は見られたので、不快な話は早々に打ち切るべきだろう。
フローレンスはにっこりと笑って。
「急に変なことを言ってごめんなさい。ただ申し込みが唐突だったものですから、何かご事情でもあったのではと思って」
フローレンスはずっと『そちらに嫁ぎたい!』と強く強く訴えていたが、イスカからの返事は毎回儀礼的なものだった。
そこからの婚約申し込みがいささか唐突だったのは否めない。
冷静になれば、つい、勘繰ってしまう程度には。
「――唐突、とは。貴女がそれを仰るのですか?」
言葉は責める類いのもの。なのに紡ぎ出された響きは甘かった。
ぞくりとフローレンスの背中に何かが走って、頭が意図を読み解こうとするのに邪魔される。
イスカはいつも、穏やかな話し方をする。
国の代表として他国に赴く者は皆そうだろうが――イスカから攻めてくるような声を聞いたのは、初めてだった。
そんな僅かな違いに、フローレンスの胸は大きく脈打った。
感情の乗ったその声は心地良く耳に入り込み、じんと頭を痺れさせる。
「私の背を押したのは、貴女でしょう?」
吐息と被せて、愁いを帯びて囁かれ。
「――っ」
かあぁっ、とフローレンスは一気に顔を赤くした。
鼓膜を打つ声が、こちらを見つめる冷艶で、だからこそ解きほぐしたい青の瞳が。
あまりに完璧に整いすぎていて、頭があらゆる思考を一瞬、放棄した。
次に思い浮かんだのは、直前の話とは何の関係もない彼の噂話。
いわく、イスカの声と瞳には、魔性が宿っているのだと。
(イスカ殿下が表舞台に出るようになってから、あんまりな条約は緩くなることが多くなったと聞いてるわ。遊学中はそれほど接触なかったし、セリスお兄様も『そんな権謀術数に長けた感じじゃない』って不思議がってたけど、分かった!)
この男は本当に妖魔かもしれない、とフローレンスは思った。
いや、分かっている。
妖魔などという生き物は存在しない。
少なくとも確認されていない。
しかしイスカには、妖しく美しく、人を惑わす魔性にたとえられるだけの魅力が、間違いなく備わっていた。
認めた瞬間、目の前の男がどうしようもなく怖くなった。
話が噂以上に広まらないのは、つまり口止め含めて上手くやっている、という証拠だ。
最低でも、それだけの交渉術を持っている、ということだ。
演技だと分かっているのに、それでも彼の声をとても快く感じている。
真っ直ぐ絡んだ瞳を逸らせない。
その瞳と見つめ合うことができるのに、逸らすなんて考えられない。
早鐘を打ち鳴らす自分の心臓が、緊張してなのか高揚してなのか、もうまったく分からなかった。
「フローレンス姫。……あぁ、いや」
形の良い唇が何事かを紡ぎかけて、――ふと思いついたように言葉を切った。
(ま……っ、待って待って待って!)
予想できる振りだった。なのに。
「フローレンス」
「は、はいっ」
艶のある甘い低音で名前を呼ばれて、あまりに従順に応じてしまった。
大きく跳ねた心臓が、それ以外の反応をフローレンスに許してくれない。
持ち主のフローレンスより、イスカの方に従順になってしまったように。
――怖い。
「貴女に応えただけの俺に、真意を問うのか?」
「い、いいえ。とんでもない……っ」
わたわたしながら口が勝手に吐き出したのは、否定の言葉。
「貴女こそ、なぜ俺を選んだ?」
イスカの目が、フローレンスの胸中を探るように眇められる。
あぁやっぱり疑われているんだと、頭の隅に追いやられた思考がなんとか情報を繋ぎとめたが、できたのはそれだけだ。
口は素直に答えを紡ごうとしている。
「わたし――、わたしは、鼻が……っ」
「花?」
正直なことをつい口走りかけて、フローレンスははっとする。
かろうじて姫のプライドが、熱の上がった頭を叩き起こした。
――忘れられない言葉を想起させて。
『汚らわしい。近付かないでくれないか。君はそれでも淑女なのか? よく恥ずかしげもなく外に出られたものだな』
顔はもう、覚えていない。
きっと意識的に忘れたのだ。
でも本当に嫌そうな顔をされたのだけは覚えている。
女性の陰口も辛かったが、直接向けられた異性からの嘲笑と侮蔑は、フローレンスに強い衝撃と、忘れられない羞恥を与えた。
彼の反応は当たり前のものだ。
自分でも、くしゃみを連発し鼻水を垂らす姿など、みっともないと思う。
だから。
(嫌……っ!)
すんでのところで、言葉を飲み込むことができた。
目の前の男があまりに魅惑的なのも幸いした。
こうまで完璧な男相手に、女として、人前に晒すのがはばかられる無様なアレルギー体質だなどと知られたくない。
「ご――、ごめんなさい、わたし、少し具合が……っ」
初日と同じ言い訳になってしまった。
しかしもう冷静になんて考えられず、頭が回らない。
一刻も早く、この場から逃げ出さなくては。
「失礼しますっ」
部屋を飛び出したフローレンスを、イスカは微かに眉を寄せて見送った。
引き止めるだけの時間は、幸いにして与えなくて済んだようだ。
廊下に飛び出たとき、心底ほっとした。
――絶対に知られたくない。あんな屈辱、一度で沢山だ。
具合が悪いと言っているのに、自室から逃げてどうするというのか。
支離滅裂な行動だったが、どうしようもない。
そう気が付いたけれど、イスカのいる部屋に戻ろうとはとても思えなかった。
「姫様!? どうされました!?」
控えの間で待機していたミリアがすぐに追いかけてきて、ただならぬ様子のフローレンスの背を優しく撫でてくれた。
馴染んだ声と体温に、恐慌状態に陥りかけていた心がなだめられる。
「一緒に来て」
ミリアの手を引き、フローレンスが向かったのは、使用人棟にある彼女の部屋だった。
ピタ、と扉をしっかり閉めてからフローレンスは振り返る。
そして力の限りでミリアに抱きついた。
「姫様!?」
「怖いっ! 妖魔怖い! うちの王宮の誰より怖いかもイスカ殿下!!」
「ええっ!?」
「しかもやっぱり何かあるっぽい! わたし来る時期間違えたかも!」
「だ、大丈夫ですわ、姫様!」
幼い頃からずっと一緒だった侍女は、力強く請け負った。
「姫様に――エスカ・トロネアに何かしらの思惑があるのなら、わたしたちはそれを防がなくてはなりません」
「っ!! ええ、そうねっ」
冷静なミリアの声にはっとなって、フローレンスはうなずく。
同時に脳裏に思い浮かんだのは、家族の姿。
フローレンスは、決して自国は好きではなかった。
単純に体が辛かったからだ。
けれどその場所で生きる近しい人たちのことは好きだったし、その人たちと共に過ごしたエスカ・トロネアはやっぱり自分の国で、大切な場所なのだ。
姫たちが他国に嫁ぐのは、友好のため。
だが、それが適わないときは――
(わたしはまだ、エスカ・トロネアの王女)
『何か』の『何』は、まだ分からない。
分からないからこそ用心するべきだった。
あんな形でフローレンスを誤魔化さなければならない『何か』があることだけは知ってしまったのだから。
「ラハ・ラドマを調べましょう」
「はい、姫様」
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