海蛇姫の急襲④
「そのような少額でッ!?」
「どこが少額だッ! うちの国では一年の総収入だ!!」
「そんな、だって……! わたし、これでもエスカ・トロネアの姫ですのに……っ」
あまりに低く見積もられている己の輿入れ金額が悲しい。
手で顔を覆って耐えている途中で、気が付いた。
手を外してイスカに目を戻す。
「一年?」
「ああ」
フローレンスにとっても屈辱だったが、国の格差を見せつけられる羽目になったイスカも不機嫌になった。
返事が聞いたこともないぞんざいさだ。
「そのお金でシェイル・コーレスの制裁に抵抗されるおつもりなのですね」
「そうだ。向こうだって結局、延々氷を買わないでいるわけにはいかない。量を減らしても、こっちに他に金の当てがあって痛みが少ないと分かれば、自分たちの流通が滞るだけで、制裁の意味がなくなる」
「だから、わたしに合わせて向こうからもいらっしゃるのね」
「エスカ・トロネアは大陸の権威だ。そこの姫がラハ・ラドマにいるというだけで、シェイル・コーレスには面白くないことだろう」
エスカ・トロネアの西大陸での発言力はかなり強い。
大抵のことはエスカ・トロネアが白と言えば白で通るし、黒と言えば黒になる。
「もちろんエスカ・トロネアに援助を頼むような迷惑をかけるつもりはない。だが
(わたしの心証が悪くなるのも、シェイル・コーレスは避けたがるでしょうね。……これでもエスカ・トロネアの姫だし)
フローレンス自身に力はないが、エスカ・トロネアの名を持っている、それだけで脅威になるのだ。
そしてこちらの胸中がシェイル・コーレス側に分からないというのは、イスカの言う通り。
彼らが不利益な状態を避ける手は一つ。
エスカ・トロネアに介入される前に、条約を戻してしまうこと。
「分かりました。受けて立ちましょう」
ラハ・ラドマにとって不利益な真似をされるのは、フローレンスにとっても害悪だ。
微笑を浮かべ、瞳に闘志を覗かせる。
「なぜそこまで? この縁談の何が貴女の利になるんだ。こっちは全部話したんだから、そちらも目的を話してもいいだろう」
(え?)
聞き間違いかと思った。
フローレンスは目を瞬き、僅かに首を傾げ。
「……ええと、全部、なのですか? 本当に?」
「本当だ。姫を娶るには充分な理由だろう。……その、情けない方の」
「そ、そうかもしれませんが、お金が絡むことは別に珍しくありませんし……」
フローレンスにとって、それは当たり前と言っていいぐらいの理由だった。
そして続けられたイスカの謝罪に、さらに驚く。
「そんな動機で求婚したことは、申し訳なかったと思う」
(申し訳ないって、何が? 打算があることが?)
結婚に欲得が関わることを謝られるなんて、考えたこともなかった。
まさかとは思うのだが、そうとしか聞こえない。
驚いたが――落ち着いてくると、喜びがじんわりと心の奥から湧き出てきた。
ずっと欲しかったものを思いがけない所で見つけた、そんな気持ちだ。
人と人との関係に、打算がなくてはおかしい、なんて。
エスカ・トロネアの王宮でいろいろな思惑を見てきて、当たり前にそう思っていた自分が悲しい。
(気持ちで繋がることを、当然だと言ってくれる人なのね……)
そこに親愛がないことを気に病むほどに、イスカにとっては当然のこと。
そう言ってくれる人が存在することが、フローレンスには嬉しかった。
「どうした? 俺は何かおかしなことを……っ!」
無言になったフローレンスの様子を訝しみ、問いかけようとして――さっきから自分の口調がくだけたものになっていることに気付き、イスカは顔を強張らせた。
「いやっ、ええと、すみません、私は……っ」
「そのままで構いませんわ、殿下」
今更でも取り繕おうとするイスカを、フローレンスは微笑で遮った。
多少言葉遣いがくだけたものになっても、イスカの印象は特に変わらない。
親しみが増すぐらいだ。
(引きこもり生活の娯楽で大衆紙を読みふけってるうちに、俗っぽくなったわたしの素ほどの落差はないわ……)
本当の意味での地はミリアにしか見せられない。
敬愛する兄、セリスであっても無理だ。
敬愛しているからこそとも言える。
婚約者になどますますとんでもない。
「殿下とは、ありのままで話せた方が嬉しく思いますから」
自分の素は断じて出せないが。
「……そう、か?」
「殿下がお気になさるのなら、わたしはどちらでも構いませんが」
「いや。俺も貴女とは率直に話せた方が嬉しい。ただ……いや、何でもない」
イスカは続きを飲み込んだが、やや沈んだ表情から心情は察することができた。
(出すつもりのなかった地をうっかり出しちゃったんだもの。ヘコむわよね……)
同じ状況なら自分も落ち込む。
……いっそ落ち込むだけでは済まないかもしれない。
嫌な想像に寒気が走った。
(わたしの素、か)
フローレンスから見て、イスカはそれでもきちんと王子だったが、花冠の国の王女なのに、全然淑女らしくない自分を見たら、彼はどう思うだろうか。
そんなことを考えて、はっとする。
(ないないっ。無理無理っ!)
エスカ・トロネアの王女らしくないなどと、絶対に思われたくない。
猫の一枚や二枚、被っていた方がいいのだ。
お互いのために。
「しかし言葉遣いを気にしたのではないなら、他には……」
イスカが出した答えは的外れだったが、それぐらい想像もつかないのだろう。
フローレンスが心を揺さぶられた優しさは、彼にとっては当たり前のことでしかないのだ。
「殿下。氷の話をする前、迷っていらっしゃったでしょう?」
「ああ、弱味だからな。まあそんなもの、エスカ・トロネアには関係ないだろうが」
(確かに)
国力の差が絶対的すぎる。
納得すると同時に、なんだ、と拗ねた気分になった。
「だから話してくださったのですね」
「いや」
残念な気持ちになりつつ言ったフローレンスに、イスカは短く否定の言葉を紡いで、首を横に振った。
「貴女は、俺の民を褒めてくれたから」
「……」
「理由にならないと分かってる。というか今言って思った。また甘いって言われるな……」
最後はどんよりとした呟きとなって、イスカの口の中で消えてしまったので、フローレンスの耳には届かなかった。
けれど充分だった。
フローレンスが聞きたい、そして嬉しい理由は、しっかり聞こえていたから。
(貴方はきっと、とても甘い人だわ)
図らずも、ここにいないイスカの侍従と同じ感想を抱いた。
けれど今フローレンスの胸に宿った感情は、驚きや呆れよりも、尊敬に近い。
イスカはフローレンスのラハ・ラドマへの好意に、好意をもって応えてくれたのだ。
内情を知らせることが自分の恥になること、もしかしたら利用され自国を危険に晒すかもしれないと分かっていて、想像してなお現実に見えた気持ちを優先して、応えてくれた。
「……信じて、くれたのですね」
「本気に見えた」
「はい。本気でした」
「ならそれでいい」
瞳を和ませ、イスカは笑う。
自分の大切なものを認められた嬉しさで。
臣民を心から誇りに思っているのだと、百の言葉も行動もなく、その笑みだけで伝わってきた。
(わたし、イスカ殿下のこと好きだわ)
人として、好きだ。
近くで彼のことを知れば、きっと気持ちも先に進ませることができるだろう。
結婚という契約をするのだから、正しく夫婦になれた方が良い。
その覚悟は恋とは呼べないのだろうが――温かな気持ちで少し鼓動を早くした心音を聞きながら、フローレンスは悪くない、と思っていた。
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