花冠の姫と氷の王子②



「あぁ……! なんて、なんて素敵な景色なの……!」


 馬車の窓から見渡す景色のすべてが真っ白。地平線の彼方は青みがかって見えるほどの、一面の雪景色。


 雪。雪。雪だ。本当にそれしかない。いっそ眩しいほどである。


 ここにしかない銀世界はこだわりを持たない人間でも美しいと言えるだろうが、フローレンスが感動に打ち震えているのは、もちろん美的感覚ゆえではない。


「姫、風邪を引くといけません。外套をもう一枚羽織ってください」

「大丈夫よ。ありがとう、ミリア。わたし寒さには強い方だから」


 にっこりと笑って、機嫌よくフローレンスは応じる。


 母国エスカ・トロネアから連れて来たのは、側付き侍女のミリアだけだった。

 輿入れの際は大量の持参金が贈られる予定だが、婚約でしかない今の段階でラハ・ラドマに向かうのは、フローレンスとミリアの二人だけ。荷物も質素なものだ。


 正直なところ、フローレンスとしてはさっさとラハ・ラドマ第一王子の正妃として収まってしまいたかったのだが、先方の希望によってこうなった。


 互いの相性を見る期間は必要だろう。

 万一のことがあったらフローレンスに傷が付く、と配慮されてしまったのだ。

 大国の姫は、こういうときにちょっと面倒くさい。


(いいけどね。とりあえずエスカ・トロネアからの脱出は叶ったから)


 様子見の期間は半年間。

 暖季に入った今から数えて、順調にいった場合の結婚式は凍季のただ中になる。

 最も寒さの厳しい時期を経験して、大丈夫ならば――ということだろう。


 婚約とはいえ、ほぼ決まったも同然だ。

 国力差を考えれば、ラハ・ラドマ側からフローレンスを追い出すのはかなりの度胸と覚悟がいる。

 そしてフローレンスはもう故郷に帰るつもりがない。

 だから自分はそれでいい。しかし――


「ごめんね、ミリア。すぐにこの国に慣れるよう努力するから。貴女は暖季のうちに帰してあげるわね」

「ご心配なく。わたしも寒さには強い方ですから」


 フローレンスのものよりも深い緑の瞳を優しく和ませ、ミリアは微笑んでそう言った。

 ついてきてくれるつもりなのだ。ずっと。


 赤味の強い濃いめの金髪と、垂れぎみの目元に泣き黒子(ぼくろ)を備えた、おっとりとした容貌のミリアは、今年で二十歳になる。

 幼い頃からずっと側にいて、彼女とはもう主従というより姉妹感覚に近い。

 迷いなく不毛の土地に付いてきてくれたミリアに、フローレンスは深く感謝をしていた。


 ラハ・ラドマは決して豊かな国ではない。侍女や使用人、高級品を大量に持参して贅沢を見せつけるのは歓迎されないだろう。

 フローレンスとしても、気心の知れたミリアがいてくれるだけで充分だ。

 元々、贅を尽くせるような身ではない。



 ――生まれてからずっと引きこもりっぱなしで役立たずだった姫君は、最後まで役に立たなかった――



 ラハ・ラドマに嫁ぐことが決まったフローレンスを、悪しざまに言う声も少なくなかった。


(分かってるわ)


 王族は国のために存在している。

 今までのフローレンスはエスカ・トロネアに益を何一つもたらさなかった。

 この結婚もそうだ。


(でも、エスカ・トロネアじゃ本当に何もできないんだもの!)


 表になど出ようものなら、花冠の国の鼻水姫ハナミズキ、とか笑われるのがオチだっただろう。


 一瞬、フローレンスの頭に、忘れたいのに忘れられない、苦い思い出が甦る。


 相手の顔はもう覚えていなかった。けれど――


 ぐ、とフローレンスは強く唇を噛み締め、俯きそうになる心を叱咤した。

 当たり前のことに、いちいち傷付いてなんかいられない。それに。


(これからのわたしは違うのよ!)


 ラハ・ラドマの王子妃として、エスカ・トロネアの王女として、やるべきことをやるのだ。

 ついに人前に出られる――何と甘美な響きだろう!


「あ、姫、見えてきましたよ」


 ミリアの声に窓の外を窺えば、はるか前方に白と青の優美な町の姿が見え始めた。


 ラハ・ラドマでは、産出される白色の土を使った土壁に、岩石を砕いて上塗りした建物が一般的だ。

 さらに上から油を混ぜた樹液を塗り、隙間風や水気の侵入を防ぐための造りになっている。


「いろいろ歓迎されるのでしょうけど、早めに室内に入れるといいですわね」

「ええ、そう、ね……」

「姫様?」


 虚ろな相槌を返したフローレンスは、硬い表情で外の景色を凝視している。


「?」


 訝しみ、ミリアも再び外を見て、フローレンスの表情の意味を知った。


 なんと、道に沿って花びらが撒かれている。色とりどりの花びらは、王都スノウフラウへ近付くにつれ量を増し、視界の先では道を埋め尽くすほど。


 フローレンスの訪れる時間を見込んで用意されたのだろう。まだ瑞々しい花びらは雪の上で陽光を受け、輝いている。そしてその先に続くのは、花のアーチ。


「まあ……」

「こ、これは……っ」


 それは、エスカ・トロネア出身の二人には見知った光景だった。

 大切な客人を迎えるときの、エスカ・トロネア流のもてなし――


 フローレンスの中で、何かがぷつっ、と切れた。


「いやあぁぁぁ――っ!!」


「姫! 姫様!! 落ち着いて! 頭を抱えないでくださいまし! 御髪おぐしが乱れます!」


 切迫した悲鳴を上げるフローレンスを、ミリアはどうにかなだめようと声をかけつつ、実力行使でがっしと腕を掴み、美しく飾られた装いを死守する。


「髪ぐらい何よぉっ! このままじゃっ! このままじゃ涙とくしゃみと鼻水で顔面崩壊よ!! 鼻水姫ハナミズキの危機が! そこに! すぐそこに!! なんで!? なんでラハ・ラドマに花があるの!? なんでそっちの流儀で歓迎してくれなかったのおぉぉ――っ!!」


「き、気を遣って歓迎してくださっている証ですわ! 良かったですね、姫様っ」


「有難迷惑うぅぅっ!」


 そうこうしているうちに、馬車は花道を進み、アーチを抜け、町の大通りを民衆の歓声に見送られて通過し、中央にそびえる宮殿へと辿り着いた。着いてしまった。


(あぁっ! 花が! 花が迫って来る!)


「さよなら、わたしの姫の名誉……」

「姫、お気を確かにっ。根性です、根性で乗り切るんです」

「ミリア、根性ってそんな万能じゃないからね」


 しかし、ミリアの言う通りでしかないことも事実だった。

 ここまで来てしまったのだ。乗り切るしかない。


(大丈夫――きっと大丈夫! エスカ・トロネアみたいに、そこらじゅうに花が咲いてるわけじゃないんだから!)


 実際、ここに着くまで鼻は大人しかった。そのおかげで若干冷静にもなれた。

 エスカ・トロネアでは、室内にこもっていてもくしゃみも鼻水も止まってくれなかったのに、だ。


 ラハ・ラドマはフローレンスを歓迎するため、こうして沢山の花を用意してくれたようだが、それでも故郷エスカ・トロネアに毎日何気なくある花々にも及ばない、ということだろう。


「行くわよ、ミリア」

「はい、フローレンス様」


 ――そして、馬車の扉は開かれた。

 外で待っていた侍従の手を取り、フローレンスは優美な所作を意識しつつ馬車を降りる。 

 地面に敷かれた絨毯は、ラハ・ラドマの貴色を表す青に、金糸で刺繍が施されたもの。毛足が長くて柔らかい。


 顔を上げ、悠然と絨毯の上を進む。

 少し鼻がむずむずする気がするが、まだ大丈夫だ。


(良かった、行けそう。根性見せなさい、わたしの鼻!)


 希望を見出し、フローレンスの胸中に光が灯る。


「お久しぶりです、フローレンス姫」


 上品に微笑してそう声をかけてきたのは、婚約相手のイスカ。

 年は十九と、フローレンスとの差も丁度いい。


 すらりと背は高く、艶のある白髪は短く切られた直毛で、降りたての雪のような印象を受ける。

 冷たい海の色だと言われる灰青色の瞳は、怜悧な面立ちによく似合っていた。


「はい。お久しぶりです、イスカ殿下。これからどうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。貴女をつつがなく妻にできる日を、心待ちにしています」


 そこで側にいた黒髪の侍従からイスカへと、白い花束が渡される。


(ひっ……)


 花束の用途など一つしかない。内心でフローレンスは恐れおののく。


「まずは、約束の白薔薇を」

「……っ」


 婚約が成立し、互いが合意であることを示す、約束の白薔薇。

 結婚式のブーケには誓いの黄薔薇。

 そして初夜の後の部屋には、祝福の赤薔薇。


 これもすべて、エスカ・トロネアの慣習だ。


 イスカは真剣にフローレンスを歓待し、きちんと妻として迎えようとしてくれている。

 だからこそ、フローレンスも応えなくてはならない。


 しかし――しかし、白薔薇のなんと瑞々しいこと。それもまた、イスカが手を尽くした誠意が窺える。


 窺える、のだが。


(むずむずする鼻がむずむずしてるっ。もうきてるこれぇっ)


 受け取らなくては。

 受け取ってにっこり笑って、お礼を言わなくては!


 息を止めて花の芳香をできる限り嗅がないようにして、フローレンスは花束を受け取り、即行、後ろに控えていたミリアに押し付ける。


「ありがとうございますあぁでもごめんなさいわたしちょっと具合がっ」


 周囲の空気を新しく吸わないように、肺に溜まっていた分の息で一気にそう喋ったため、最後は掠れていたし空気を絞り出した肺も痛かった。

 演技ではなく胸に手を当て苦しさを訴えると、イスカは慌てた。


「失礼。ご無理をされていたのですね。すぐに姫を部屋へお通ししろ」

「は、はいっ。どうぞフローレンス姫、こちらへ」


 病弱レッテルが功を奏した。イスカの命を受けた侍女が急いで進み出てきて、フローレンスを誘導する。


「ご、ごめんなさい……」


 なるべく呼吸を抑えようとするせいで、声がか細い。


 これも演技ではなく、意識がよそに向いているせいでよろよろとした足取りになる。


 案内の侍女に付いて行くフローレンスとミリアを、その背が見えなくなるまで見送ってから、イスカは隣のアルフルードへと声をかけた。


「なあ、アル」

「はい」

「お前、姫が嬉しそうに見えたか?」

「見えませんでしたね」

「俺にはむしろ嫌そうに見えた」

「……そうですね」


 側近の同意を得て、イスカは震える拳を強く握った。


「間違いない。やはり何か企んでいるに違いない……っ!」


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