考えることをやめたくない人たちへ。

 懐疑的な考えで、世の中に蔓延している正しいとされる思考を眺めてみる。科学者であろうが哲学者であろうがそれらに縁のない他の生き方をしている方々であろうが、等しく重要で不可欠な素養であると私は考えます。加えて、時にその行為は勇気を要するということも。しかしこの作品の筆者様は、様々な学問分野で正しいとみなされている知見に独自のメスを入れていきます。
 私にはそれが非常に痛快であり、構想に四十余年かけたという続きが期待に満ちているように思え、しかしまた同時に、現段階では考察や背景知識に甘さが残ると口惜しがらずを得ません。

 第3話読了時点でのレビューです。

 3話すべてを通して、私自身が幼少期から抱いてきた素朴な問いがトレースされていくかのような錯覚を覚えました。「宇宙の開闢と死は人間存在に語れる題材なのか」「次元は概念的なものなのか、あるいは低次元存在は実在するのか」「進化のメカニズムに恣意性を感じるがどう解消したら良いのか」
 私にとってもこれらは懐かしむべき問いであり、また同時に、必死に答えを探し求めた問いでもあります。

 それらを拝見していて抱いた感情は2つ。
❶「見過ごされがち、あるいは反駁するのを躊躇うようなしかし本質的な問いへの、着眼点の鋭さへの感嘆、そして共感(表現が多分に上から目線であることをお詫びします)」
❷「考察が一段階程度で済んでおり、その先は否定的思考への丸投げである。筆者自身が得ている知識や情報の先があるかどうかに思いを巡らせた上での否定ではなく、自分の持ち得ている知識が現状の世界の発展段階の全てだと錯覚したかのような物言いが惜しい(但し筆者様の経歴が不詳なため、長い間専門的な分野の第一線で活躍された方かもしれず、その場合は一般的な感覚を有する人々の目線に合わせてあえて平易な書き方をされているのかもしれません)」

 第1話では「宇宙の始まりや終わりは科学者の半ば妄信的かつ盲目的な信念のもとに描かれた想像の産物にすぎない」旨が記されています。そこに至るまでの科学的観測事実や理論的考察は、僭越ながら私の目から見ると、蔑ろにしながら。
 確かに宇宙の始まりの前は無であったとか、ハッブルの法則を過去すべてにわたって単純に逆算できるのか、それらは言うなれば滑稽な考えではないかなど、抱かれた疑問には全く同感します。しかし実際の科学分野は現状もっと進歩していて、例えば宇宙背景輻射やシミュレーション技術の進歩により、その「荒唐無稽な推論」を支持できる方向に科学は進んでいると思うのです。無論それらの観測事実は、その「荒唐無稽な推論」を支持できはするが唯一絶対に縛るものではないという言質にも、私はまた同意します。しかし筆者様が本文中で書かれた表現では、少なくともそうした譲歩は伝わりません。まるで科学がお遊びの延長上にあり、厳密に組み立てられた学問体系から逸脱しているように見えると小馬鹿にして、終わっているかのように、私の目には映ります。
 
 第2話では「次元」についての考察がなされます。冒頭の疑問については、私も過去にひとしきり悩み、筆者様と同じような結論、すなわち便宜上人間が考えただけの概念に過ぎず、点も線も面も実存在ではないという考えに至ったものです。またその上で、それならば三次元という考えを実在とみなす特別視は気持ちが悪いぞ、それも概念に過ぎないのではないか、という心情も。
 しかしその後、やはり筆者様は四次元・五次元、またはそれ以降の十数次元を語る(あるいは騙る)一部の科学者たちのことを、深い考察もなしに蔑むような態度をとっておられます。蔑む動機は筆者様の個人的な感覚のみに基づいていて、これでは単なる好き嫌いの延長に意味不明な言論を弾劾したようにしか見えません。ここが惜しいなと私が思った所以の一つです。
 また細かいことではありますが、おそらく点と線は同じ次元ではなく、点は零次元ではないかと思われます。まあ次元という概念に疑いを向ける本文の中では大した意味はありませんが。

 第3話では「進化の不可思議性」について考えられていますが、ここに私が今回感じた中で最大の口惜しさが詰まっています。まず進化とは「こうなりたい」と意識してそのような形質を獲得すると言った恣意的な現象ではありません。少なくともダーウィン以降続く純粋な進化論信奉者たちの意見は要約すれば「環境への適応を全く無視してランダムに形質変化は起こり、その中で環境に適応できた個体がゆっくりと生存を続けていく中で、種全体にその形質が保存されていく」というものです。決して首を長くしたいから首が長くなるわけでも、抗体耐性を得たいからウイルスが進化するわけでもありません(ちなみにウイルスの変化は進化で問題ないと思われます。ただ進化のスピードは年単位などではなくて、それこそ秒単位で起こっていると考えられています)。これは「たまたま突然変異によって首が伸びた個体」が「たまたまその時の環境を生きる上で都合が良かった」から生存し、その結果のちの世代へと首が長いという形質が受け継がれて言った、というのが純粋な進化論の解釈です。
 細かいことを言えば近年進化論の中でも様々な主張があり、例えば生命の起源の問題や、進化的淘汰圧はもっと複雑なファクターの積み重ねでできているとかありますが、少なくとも筆者様の猜疑心を満足する解釈はないかと思われます。



 ついつい相当な長文乱文をしたためてしまったご無礼を、心よりお詫び致します。また、筆者様はおそらくこの先のエピソードを展開する中で私が申したようなことへの疑問もお書きになるおつもりだったでしょうから(あるいはそうでなくとも私の申したことなどすでに理解された上で本作をお書きになったのでしょうから)、先走って筆者様へ反論した形になってしまったことも重ねてお詫びいたします。私は決して筆者様の考察を非難したいのではなく、むしろ応援しているのです。ただ自身が理解できないことをただ反対、頭ごなしに皮肉を交えて否定、という文調ではいささか知性に欠けると思われ、それによって文章全体の品位が低下してしまうことを危惧いたしまして、老婆心ながらこのように言葉を綴らせていただいた次第です。



 最後に、レビューですので潜在的な読者の方々に一言。
 
 本作は一読の価値のある作品であると、私は個人的に考えます。それは必ずしも筆者様の意見に同調すべきだ、世の中は欺瞞に満ちている、ということをお伝えしたいからではなく、むしろ「疑うことは決して悪い営みではないこと」「新たな視野を獲得するためのツールであること」を僅かなりとも感じ取っていただきたいからです。必ずしも本文の知識レベルや主張に感銘を受けるべきだというわけではありませんが、しかし重要なのはそのような即物的な話ではなく、「眼を養う」ことの重要さを頭の片隅におけるかどうか、そしてそのきっかけを、どこかから得られるかどうかなのです。